歴史 - みる会図書館


検索対象: 例外の理論
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1. 例外の理論

る ) が「ふ・ん・め・ によっておおいつくされることによって、この問題をテーマにすれ ばっくりあけることのできる強がりやたわけ話やむだ話がますます制限されるようになるとい う事実があげられます : : : 。だから円環が環状になると、その範囲はひろがっていても、逆に 円環がせばめられるという事態がなんとなく出てきてしまうわけで、だからこそ、このちっぽ けな地球が丸いものであり、地球上でぼくたちの目にとまらないものは一個もないという事実 をぼくたちがはつぎりと意識し、それにおびえるようになるのは明らかなのです。ぼくが話を している今この瞬間にも、ありとあらゆる情報が四方八方にとびかっているし、しかもそのた めに通信衛星などあらゆる手段がっかわれているわけたけれども、そうした情報がおおう範囲 は有史以前の歴史の奥底から、もはや一個の歴史ですらなくなったにもかかわらすいまたに 「歴史」の名で呼びつづけられているものにまでおよんでいるのです。歴史ですらなくなった のに歴史という名で呼びつづけられている、と言ったのは、なにか物事が起こるときに、ぼく たち自身はいわゆる歴史のなかではどの地点に位置しているのかを知るのが至難のわざになっ てきているからです : : : 。だから最後の抵抗も出てくるわけです。ひとりひとりの単一者や個 々の小家族、あるいはひとつひとつの小氏族やささやかな集団などを考えてみると、たれもが、 自分はひとつの歴史をたどっているのだと信じようとっとめているし、〈なにものか〉が進歩 をつづけ、〈なにものか〉が起こりつつあると考えるための努力がつづけられていることがわ かります。とはいっても、人類をとらえた枷がペンチのようにとじられようとしているという 180

2. 例外の理論

ューモアの波長。文章が書かれるときには、なにかが果てしない笑いをひびかせているという ことを示さなければならないからです。 じっさい、ぼくが考えていることは、ここ三百年間の歴史よりも、一二世紀から一四世紀に かけて起こったことに近いと思う。当時のイスラム的要素もふくめてね。そこで、な。せフィク ションが必要なのか、なぜフィクションは哲学よりも先を行くのかというと、表出される主体 が一人称におかれ、しかもそれがほんとうに肉体的な体験になっていなければならないからで す。現在時のコン。ヒュータをあやつるにはこれ以外の手段では駄目なのだから、当然そうなり ますよね。主体は、自分の身体、自分の性欲、自分の無意識、わが身の偏流のなかに身を投じ なければならない。 こうして、できるかぎり雑多な体験に身を投じたときはじめて、主体は一 人称のかたちをとることができる。その場合の一人称が当の主体の人称と一致する必要はあり ません。主体によっていままさに生きられつつある小説を、当の主体が自分に語って聞かせる。 そんな主体的体験のなかでは、すべての言表を一人称にとりもどすことができる。そう考えな ければならないのです。それに、これが歴史の正しいかたちなのです。つまり、すでに生起し た出来事が死減して、地層のようにおりかさなっている。そうした地層から、どうしたら歴史ポ が浮きあがってくるものなのか、歴史自身が予測しなければならないわけです。したがって、 『神曲』のような作品は、いま述べたような主体のかたちをとらないかぎり、思考の対象になり えない。マイクロ・プロセッサとしての『天国』も、ぼくにとって絶対に欠かすことのできな

3. 例外の理論

一、アッシジの聖フランチェスコ生誕八百年を迎えるにあたり、「欧州フランチェスコ図書館」の創設 を推進し、フランシスコ会の活動がとりあけた多種多様の局面につき過去諸世紀をとおして各国語にて 公刊された著作を子細漏らさす収集すること。 二、上記図書館は、アッシジに現存する歴史的建造物のいすれかに置かれるものとする。上記建造物 が修復を要する場合も、決議に変更なし。適宜改修を施し、建造物の歴史的性格、建築的美観を損なわ ぬよう善処すること。 三、上記図書館は「欧州フランチェスコ学歴史研究センター」の任にあたること、さらに同図書館を 欧州各国の大学所属歴史研究所と連動させるべく規定および規約を定めることを提案し、 四、関係委員会はイタリア文化財省およびウンプリア州当局との緊密な協力のもとに懸案を検討する ことを勧告する。 五、当該委員長は当決議を委員会および閣議に伝える任をおうものとする。 リュシー・ナル。ハス ( イズミル出身の一族 ) は、ア ( 1 ) アントワーヌ・ロワ・アルトーとユーフラジー ントナンを産んだあと、さらに八人の子供をもうけた。そのうち生き残ったのは二人たけである。 9 聖母被昇天

4. 例外の理論

兼ねるという体裁をととのえてしまったわけですからね : 「この恒久的刊行物には定価が この行為がもとで死ぬまえに ほかに死因は考えられないと思いますよ とにかく、死を目前にひかえたデュカスは、さまざまなディスクールや印刷されたテクストの 流通、そしてディスクールやテクストが社会・歴史両面の軸にそって配置される時のやり方が、 途方もない変造をこうむっているということをはっきりと見すえるわけです。そこにはこのう えなく奇怪な、いわば芝居のようなものがあって、当然のことながら著者は墓に結びつけられ ている、つまり、別の言い方をするなら、書物とか作品に結びつけられているということを見 きわめ、さらにディスクールやテクストの流通は権力の命運がかかったところを経由しておこ なわれるし、権力の命運を切りわけ分配する際の駆け引きはけっして罪がないとはいえないも のたということに気づいた。ロートレアモンはこうした事態をひっくりかえそうとこころみる わけですが、そこにいたるまでには、文章を書くにあたって、西欧的明晰性が一度も経験した ことがないほど深刻な危機をくぐりぬけたのだろうと思います。というのも、ロートレアモン が狂人だったと思わせる材料はひとっとして見当たらないからです。そうでしよう ? 『ポエ ジー』のなかで、歴史上の全人名ではなく、歴史をディスクールに定式化したうえで歴史上の 全人名を同化しなおして、それに連署し、再ー署名するというロートレアモンの手続ぎは突飛 さのきわだった操作だし、これは定価のない恒久的刊行物を創刊するという操作とおなし次元 に属するものなのですが、こちらのほうも、さまざまな点からみてまったく途方もない操作に

5. 例外の理論

察に支配されているのだ。そしてこの警察の内情をのそいてみると、そこは陰謀のうすまく坩 堝と化して煮えたぎっている。歴史だ、歴史があるじゃないか、きみたちはそう言うかもしれ ないが、歴史など存在しないのだ。ただ慢性。 ( ラノイアが蔓延しているだけなのだ。そうした 。 ( ラノイア患者と呼ばれるひとたちですら、真実に遠く手の届 ハラノイアにくらべてみると、 かないところにいることになるし、彼らは一時的に蛆虫に変身した無気力人間にすぎす、盛り のついた大いなる幻影にささやかな膿瘍ができたくらいの意味しかないということがわかる。 あまりにも多くのことが錯綜している。だから、もつれた糸を解きほぐし、整理して編みな おさなければならないわけだが、そのために最善の策をもとめるとなれば、どうしても、従属 節をつみかさねるところにおちつくのではないだろうか。「そこで彼はわたしに、 : である、と告け、それでも自分は : : : である、だが : : : である、と語った。 : である、 : であるが、しかし : : : である、と答えた」。サンシモンは怒 わたしは彼に : : : であり、 りをこめて、荒々しく句読点をつみかさねる。この途方もない運命の車輪が動くところを見て いただきたい。 この車輪は車責めの刑に値するほど狡猾な連中をぎりきり舞いさせるために設 けられているのだ。端役の人物なら、いくつかの面を切りとって、その断面に光をあてる。 「その女性は機知に恵まれていたし、うまくひとに取り人るすべをこころえてもいたが、滑稽 なほど法律にかぶれていたし身持ちも悪い、とはいっても根は悪人ではなかったし、会食の席 ではそれなりに魅力的だった」。記憶には、いろいろな境遇に溝を掘り、それを刈り取る、そ : である、

6. 例外の理論

はっきり言ってむしろおとなしいくらいなのです。 ド・アス ・しかし、「ニーチェ氏のことはそれぐらいにしておぎましよう気といいますから : ソレルス ニーチェがニーチェ氏のことはそれぐらいにしておこうと言ったとしても、 嬉しくてそうしたわけではないだろうと思うけどね。現に意気消沈したニーチェ、最後にはた った二つの人名にこだわらざるをえなかったニーチ工というものがあったわけだし : の人名というのは、「ディオニュソス [ と「受難のキリスト」です。ニーチェは焦点がふたっ ある楕円の中を堂々めぐりしたように見えるけれども、それよりも、歴史上のあらゆる人名は 自分だと考えていたにもかかわらす、たしかにそれでは数が多すぎるから、けつきよく、ディ オニュソスとキリストというふたつの名前の周囲をめぐらざるをえなくなったのを見るほうが はるかに面白い。歴史上のすべての人名が自分だという考え方は妄想に属することがらだと思 います。「妄想」だ、といっても、べつにけなしているわけではありませんよ。妄想は、あるレ 面からすると、常に真実をついているくらいですからね。歴史上のすべての人名は自分だと信一 じてしまうと、中心になる名前の焦点を制限する、たとえばふたつだけに限ってしまうことに爵 なるわけで、一方から見ると数が多すぎるのに、もう一方では数が足りないという事態に行きき め つくのです。さて、話をロートレアモンにもどしましよう。ロートレアモンは、『ポエジー』 、ようのない行為を創始した人物です。『ポエジ によって、どんな点からみても奇怪としかいし ー』をごくおとなしく「恒久的刊行物」と呼び、自分ひとりでその書き手も発行者も販売人も

7. 例外の理論

問には間接的にお答えします。〈わたし〉のさまざまな化身を通過してみなければ、まだ存在 すらしていない〈わたし〉に行きつくはすはないのだというところからして、この〈わたし〉 なるものはあとで別のかたちをとってあらわれてくるはすだからです。さて、ジョイスですが、 彼は十七カ国語ほどのことばを使って、きわめて意味深長な操作をはじめたのでした : : : 。外 そしてもちろん、まるで神話のよ 国語が英語のなかできらめきを放つようにするのです : ・ もっともあれを理論と呼ぶことができるかどう うな、ある歴史理論をよりどころにする まあとにかく、ヴィーコの歴史理論をよりどころにして、つぎのよ かわからないけれど うな自明の事実を発見する。つまり、ことばで表現しうることのみならす、現実に起こりうる ことばで表現しないかぎりなにひとっ起こらない ことですら、いや、こう言ったほうがしし ということを裏付ける見地から考えてみると、ことばで表現しうることは、すべて、「はじめ に言葉ありき」と言われているように、万物は〈言葉〉によって、〈言葉〉とともにつくられレ たわけですから、ジョイスは、ヴィーコをよりどころにして、歴史とは永遠の反復だというこ そして永遠の反復はレトリックの円爵 これはニーチェの直観とおなじですけどね 環とディスクール効果のなかに表明されるということに気づいたのです。そして、レトリックき め の円環やディスクール効果は、中世のころとまったくおなじような、といっても中世とはちが った流儀にしたがって、たがいに重ねあわせることができる。中世においては、重層した四つ の意味というすぐれた理論のおかげで重要な鍵が発見され、それをよりどころにすることで、 171

8. 例外の理論

りに「章」としておきますが、この章というのが音節のころがる音のなかにあっさり取り込ま れていく。そして音節は詩句のなかに取り込まれ、詩句は段落のなかに取り込まれるかと思え ば、段落も段落のなかに取り込まれてしまう。だから改行の指示ができないのです。改行があ るとしても、そこには、あらゆるレベルを同時に表現し、もちまえの平面に取り込むはすの機 械が変調をきたしたくらいの意味しかない。内在的にみれば強い句切りがあるにもかかわらす、 大文字もなければ句読点もない。そして膨大な数の固有名が盛りこまれ、しかもそれが歴史上 の人名になっている。日常生活で生起すること、それもべッ ドの情景や私生活の情景からなる 日常に生起することについては、ファーストネームを書きこんである。歴史的状况は、場合に おうじて辞書と首っ引きで書かれているし、日付や数字もたくさん出てきます。たとえば、一 六一〇年、一〇四〇年、八四〇年、あるいは一二四〇年、一九七九年、一九八〇年といった具 合にね。やってくるのかどうかもわからない三四八〇年なんて日付もある。もう一度いってお きますが、数字が書きこんであるのは、なにかがべアリングのようにころがりつづけていると いうことを明らかにしたいからにほかなりません。つまり、われわれはいま、裏返しの黙示録 が可能となった時代にさしかかっているということをあらわしたいわけです。ようするに、こ れから先も時間は持続していくだろうし、歴史だって展開をつづけるにはちがいないけれども、 そんなことはすべて終わっているのだということを感じとってもらわなければならないのです。 したがって、成長とは純粋に論理のうえでの成長であり、すべてはどこに到達するわけでもな

9. 例外の理論

ぼくの考えでは、万人の認める不動の名声も、長きにわたって持続したその天才も、また度を こした知名度も、その力を見極めるための手掛かりになるのだ。ぼくたちが比較的くわしく。ヒ カソの生涯を知っているという事実がかえって。ヒカソ自身の生涯を隠しているとでも一一一一口えそう ど : : : 。衆目にさらされているがためにかえって暗い雲に包まれてしまう : : : 。充足の意味す 。ヒカソの場合をみると、すぐに無条件の共感をおぼえるのはいうま るものは空白なのだ : ・ でもないが、ほかにもまだ感じられることがある。しかもそれが歴史の謎をすつ。ほりおおうだ けの射程をもっと思われるのだ。歴史の悲劇を見ても歴史の喜劇を見ても、そして喜劇として の悲劇を見ても、そこにあらわれている謎というのは、けつきよく、ファロスが認知され誤認 とうしてそうなるのか。ししカ されるという同時的なふたつの行為以外のなにものでもない。、 減なやり方ではだめだ。「どうして」という問いを変形させるすべを作りたさなければならなて いからである。これがフォルムの革命というやつだ。ありとあらゆる必然性に反駁し、〈現実 6 性 なるもの〉のなかにおける父性の自立権が、突如、宣告される。これはたぐいまれなことだ。 の ぼくが言いたいのは、この一件には、何人もの女がかかわっているし、子供や金が出てくるかた み と思えば、イメージと反ーイメージ、それに絵画と彫刻もからんでいて、そうすることによりて 二番めの次元と三番めの次元が掛けあわされ、すくなくとも六つの次元があらわれるというこ とだ。天地創造の六日間とおなじように。そして七番めの次元では休息する。署名をするのだ。 とにかく読みやすいように、ブッサン (Poussin) やマチ 垂直に署名する。上でも下でもいい、

10. 例外の理論

ともできます。 0 という接頭辞にはふたつの意味があ「て、「 : : に沿って」と読んでも しいし、「 = = = に反して」と読んでもいいわけたし ( これが化学でも使われていることは御存 じでしよう ? ) 、 0 0 にふくまれた》の文字は、ぼくにと「て命令の色合いをおびて いるからです。 2 ぼく自身愛着を感じている本の題名を年代順にならべると、ます『ドラこがあ「て、 つぎが『数』、それから『法』と『』、そして『天国』。だから、『天国』のすぐまえにくる題 は『』の一文字だということになるわけですが、これは神の名からと「た文字なのです。よ うするに『』は『天国』の下書きなのです。『』という本は不思議な運命をたどりました。 リズムの風景を揺り動かしたのは確かだと思いますが、どうしても強調しておきたいのは、ぼ くが集積韻律法を完成させた最初の本が『』だ 0 たということです。つまり句読点の体系的 な排除をおこなうことによ 0 て、 ( これ以上の比喩が見つからないのでこんな言い方をします が ) 「ン。ヒ、ータづくりの作業で言われるのとおなじような意味で、「イク 0 ・プ 0 セ ' サの 構築に着手したわけです。そして『天国』では、いちおうフランス語と特定できる体系言語を 対象にして、精密な「イク 0 ・プ 0 セ ' サとしては最初のもののひとつをつくろうとしている。 そうすることによ 0 て、文化や人間言語の歴史のみならす、言語の意味作用の歴史まで射程に いれた、広大な記憶領域のデータ処理ができる「ンビ = ータをつくるのが可能たということを 明らかにしたいわけです。なぜなら、いま、ぼくがや「ている作業は、アヴ , ンギャルドの伝