精神分析家 - みる会図書館


検索対象: 例外の理論
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1. 例外の理論

を結びつけてみたいのだけれど ) 。ともあれ、精神分析のあらわれる以前に精神分析の = 。ヒソ ードを語りつくした本があるとしたら、それはまぎれもなく『ドン・キホーテ』だろう。 物語などとるにたりないものだろうか。いや、物語にまつわりついた嘲弄を度外視して物語 そのものを肯定するならば、物語だってけっこう崇高なものになるのだ。これは精神分析のい 〈否定〉とはちがう。「わかってるよ、でもね : ・ : ・」というのとはちがう。物語の肯定にあ らわれているのは、賛嘆の念をわすれすに遍歴しないような者にはなにもわからないという意 いうまでもなく「騎士、つまり〈不可能 味の否定なのだ。そして、遍歴し、感嘆するのは、 なるもの〉の擁護者なのである。諸君、珍妙で不可思議な騎士になりたまえ。それがいやなら 由 。それだけのことなのだ。 死んでしまうがしし の それにしても不思議なのは、『ベルシーレス』があ「さり無視されたということである。『ペ重 ルシーレス』は、 ( セル、 ( ンテスの二年前に世を去った ) = ル・グレコのパロックの錯乱と紙 る ひとえの作品だからそうなったのだろうか。人間中心主義の物語は『ドン・キホーテ』を思慮あ 分別の書物に仕立てあけてしまった。しかし、『ドン・キホーテ』が思慮分別とはまったく無テ ルバンテスはリズミカルな火の馬 縁な、過剰を正当化する書物であるのはいうまでもない。セ セ にまたがって天にのぼっていく。

2. 例外の理論

く通じていることを明らかにするのである。洗いざらい話してごらんなさい。あなたには一切 を語るなどできないということを悟らせてあけましよう。あなたが知っていることを話してご らんなさい。どの程度まで知っているのか、あなたには知るすべがないということを証明して ご覧にいれましよう。本来なら、これは哲学者の仕事である。じじつ、いまでも熾烈な衝突を くりかえしているのは、哲学と精神分析なのだ。精神分析によれば、〈現実なるもの〉は廃棄 物であり、排除不可能な ( のみならす極言すれば思考不可能な ) 残り滓なのだという。そして、 ここでもまた市場は冷酷た。満員の聴衆を集めるのはラカンであって哲学ではない。金を払っ てもいいから、話を聞かせてもらいたい人物は、ラカンのほうなのである。そこで哲学者とし ては市場の概念そのものを批判するしかない ( しかしこれではひとを説得できない ) 、あるい は利害たけを考えてたちまわるしかない ( しかし、それではジャーナリズムか政治に堕して哲 学が雲散霧消してしまう ) 。芸術家に転身する道なら、まだ残されてはいるだろう。しかし、 それも必然とはいえない。 ところが、哲学が危機に瀕しているならば、社会のほうも少しすっ 危機にちかづき、やがて動きがとれなくなってしまうのである。「世界観」をもたすに、どう して生きていくことができるたろう。どこかに縫合点がなくては生きられないではないか。そ うこうするうちにも、科学は分子や宇宙をさぐりながらわが道を進んでいく。そして精神分析 は、科学に対抗するのではなく、科学とともに歩むことによって、おのれの道を固めていくの 348

3. 例外の理論

りの女と、〈ジョイス〉って奴はいったい何だったのだろうか、と自問するひとりの精神分析 家を足したもの。この図式は、文章にそなわった心的外傷を与える機能の間近に接近するのを 可能にしてくれる。女性の登場人物がいう。「これはわたしのものよ」。精神分析家が答える。 「それが何を意味しているか、わしにはわかっておるそ」。ジョイスのほうはだんまりをきめこ こうして、精神分析家でもないのに精神分析 むか、話をそらすだけで、ほかには何もしない。 家の能力をもっていたために、ジョイスは精神分析家の位置につくことになるのだ。ジョイス は、貨幣の流通と意味の流通のはざまにとらえられていながらも、意味と快楽の過剰によって、 貨幣と意味の流通を越えているのだ。多国語使用による増殖作用としてのエクリチュールは、 ショイスの立場は最大限に父性的だった ただひとつの国語の小切手に帰属するものではない。。 ということは明白だ。だからこそ、「死せる父」という神経症にまつわる謎にたちいる特権者 というたてまえになっている人たち、つまりヒステリー患者と精神分析家にたいして、ジョイ スのエクリチュールが合図を送るようになったのは、ジョイスが死んで不在になったあとの現 ショイスはこの世で生きたことがある 象だとしても、それは当然だといわなければならない。。 のか。ジョイスは生身の人間だったのか。あるいはまた、ジョイスのエクリチュールはほんと うに彼の死後に残されたものなのか。あるいはまた : ヒステリー患者や精神分析家が疑わ なければならず、問いただしてみなければならないのは、こうしたことがらなのである。 シュールレアリスムがジョイスとフロイトをとらえそこない、アングロサクソン系の国々 116

4. 例外の理論

全能やペニス願望がフェミニスムにたいする対抗措置として用いられていると考える向きがあ るが、断じてそうではないのだ ) 。さまざまな倒錯には、ありうべき真理のエチカを対置する。 だから精神分析は、時と場合におうじて、反動的と思われたり、破壊思想とみなされたりする ことになるのた。しかし、精密科学は例外として、あらゆる理論が、精神分析との関係におい て生産されるようになってきた。そして、はじめのうちはいとも容易に反駁していても、やが て、精神分析はあいかわらす悠然とかまえているし、その強情なことといったら精神分析にた いする無理解がしめす強情さにもひけをとらないということがわかってくる。精神分析家がい くら鈍感で強欲でも、凡庸で偏見に満ちみちていても ( どれだけひどいかは神のみそ知る ) そ んなことはものともせす、精神分析の前進がつづく。批判されると、さらに力が強くなる。ド ウルーズ = ガタリの『アンチ・エディ。フス』はラカン理論の卓越性を認めてしまうという逆説 を演じた。。 テリダがラカンに「反駁ーしただけで、デリダ当人の威光が色褪せてしまった。時 代の先端的地平がいつのまにかフロイトに占拠されて以来、サルトルもすっかり古くなった。 メルロ 日ポンティは疑いを抱いたがために消えていく。なにひとっ疑ってみなかったカミュ についてもおなじことがいえる。シュールレアリストたちは、ユング的誤謬にもかかわらす、 当時なにが起きていたのか、その所在をとらえるのに近い位置にいた。プルトンがフロイトに ついて感動的な言葉を残している。しかし、それが完全な誤解の産物であることにかわりはな いのだ。誤解の名は、大文字で書かれた「超自然」と「女」と「愛」である。シュールレアリ 346

5. 例外の理論

目したひとはあまりいないのではないかと思う。たが、 ここに仕組まれているのは「小説より も奇なる一大口マン」なのだし、それがとりわけ文学と精神分析の関係にかかわってくるの だ。じじつ、ジョイスの最初の庇護者たったマコ ーミック夫人は、自分が経費を負担するか ら、ジョイスは絶対にユングの精神分析を受けるべきだと主張していたのである。ところがジ ョイスはこの申し出を拒絶する。そこでマコ ーミック夫人はジョイスに与えていた援助金の支 払いを一時中断する。きみたちも、ここに見られるのは古典的な精神分析状況と正反対のアン チテーゼだということに、うすうす気づいてきたのではないかと思う。精神分析を受けたくな い者には金をやらない、 というのがそれた。だが、これで物語が終わるわけではない。比較的 早い時期から重い精神障害の症状を呈していたジョイスの娘ルチアが、ほかならぬュングの治 療を受けることになる。ところが、このユングという男は、かって、『ュリシーズ』について きわめて批判的な論文を書き、ジョイスは分裂病だといって非難していたのである。 ひとりの女が、ジョイスに文章を書くのに必要な経済的援助を与える。だが女はジョイスに 精神分析を受けてもらいたいと申し出る。ジョイスが拒絶する。罰として、もう金はやらな ジョイスの娘が病気になる。娘が父親に代わって治療を受ける。この娘がジョイスの手紙 のうちの一通だと仮定してみよう。その手紙がユングの手中に落ちる。ということはつまり、 ジョイスの手紙はフロイトの手元には届かないということになるのた。 、。・まノ \ こよ この事件は二〇世紀前半の歴史にとって取るに足りないものたといえるたろう力を

6. 例外の理論

ス」だと分析するしかないのではなかろうか。精神分析全体が、「良い父親、〈母親ーにとっ てー良いー父親〉、つまり去勢された父親を救うための努力になっているのではないだろうか。必 精神分析には、いつも精神病をこけおどしに使って、本来なら〈父ーのー名〉の包摂になるは すのものを、〈父ーのー名〉の排除に格下けしようという面があるのではないか。ところが、 芸術や文学は、名前が命名しなおされて、署名の文脈で署名となるという点で、まさにこの包 の にほかならないのである。したがって、ドストエフスキーにおける賭博癖も、その。 ( ラドキに シカルな神秘主義も、当人の「人格。を説明するどころか、あくまでも浪費的で、ラジカルなも ペシミズムに裏打ちされたエクリチュールの作動形態を示す指標になってしまう。これにたい神 して、精神分析のほうは倹約を旨としなければならないばかりか、「進歩主義」にのっとり、 れ 姦 根源的な悪が発見されたときの傷跡を緩和しなければならない。文学や芸術がこの〈悪〉に通 暁しているとは、よく言われることだ。ほかに何が語られるわけでもない。善とは、悪を語り、に 構成し、書くにあたって、次第にその巧妙さがとぎすまされていったものにすぎないからであ分 精 る。 義 「使徒」になるかわりに「人類の典獄の一人になった」反動家というドストエフスキー像を描主 いた一九二六年の時点で、フロイトは、それから五十年後には自分の論文が ( まさしく『悪〕 マ 霊』の作者としての ) 作家ドストエフスキーを追放するための告訴箇条として利用されるとい う事態を予測していたのたろうか。マルクス主義の官僚支配と強制収容所の地獄を暴露する文

7. 例外の理論

マルクス主義は精神分析に鶏姦され、 精神分析もなにものかに犯されている る て れ の 析 マルクス主義も精神分析も、芸術や文学については、けつきよく何ひとつ一『〔えなかったばか神 りか、言うべきことを持ちあわせていなかったという事実は、もはや誰にとっても秘密ではな れ くなった。な。せそうなったのか、簡単に説明してみよう。 マルクス主義は、権力と警察機構をあやつるテクニックのほかに、興味深い妄想を三つ作りに あけた。ひとつは生物学にかんするもの、もうひとつは言語にかんするもの、そして三つ目が、褪 女流音楽家の息子ジダーノフの名前を冠した、文学と芸術にかんするもの。この三つの妄想は、は たがいに有機的なつながりをもち、有害という点で一致するばかりか、ことばを話す生き物を主 抑圧しようとする点ではおなじ熱病の所在を告ける症候となっている。しかし、今までのとこ マ ろ、その原因がどこにあるのか、きちんと検討したひとがいるとは思えない。スターリンの国 家妄想にも、ルイセン「や「ールやジダーノフの妄想にも、同じひとつの思潮が流れている。弼

8. 例外の理論

れしくも思いました。作家フィリップ・ソレルスにおけるドストエフスキーの回帰は何に由来するので しよ、つ一か 0 ソレルスああ、それがね、なんともおかしな話なんですよ。どうしてそうなったかという とね、ちょうどそのころ、ぼくは苦しんたり、いろんな考えごとをしていたんです : : : 。そう、 毎日のように、考えていたことがありましてね、ぼくたちのマ トリックス ( 子宮 ) について、 つまり、ほくたちがいまここに在るという事実について考えていたのです。そして最終的にはヒ ステリーのことを考えてみようとしたわけですが、そうこうするうちに、ヒステリーというも のは、精神分析家が勝手に信じこんでいるよりも、はるかに注目に値する現象なのだ、そんな ふうにますます強く確信するようになったのです。とはいえ、けっこう頑張って、ヒステリー にかんしてできるだけのことをした精神分析家がひとりいます。フロイトです。フロイトの目 から見て、ヒステリーは神経症的想像妊娠のかたちをとっていたし、精神分析そのものもそこ から生まれたわけです。つまり、言語を極限に押しやることにより、想像上の子供をつくると いう、女性の身体に特有のはたらきがヒステリーだったわけです。余談になりますが、これで、 聖処女と象徴的出産という話は、けっしてばかけたことではないということが証明されると思 います。ぼくたちの起源となる基盤とかさなるわけで : ド・アス『聖母と神秘の子羊』ですね : ・ ソレルスそうそう。はじめに子宮にかかわるヒステリー (hystérie) があった、だから子宮

9. 例外の理論

わたしは以前から、ひとつに調和するものがあると考えていた。至高天に位置するような意見 と、地下深く隠れた習俗とが一体になるのだ」。この文をみると、どうしても、モンテー = 、 の時代には、 ( 精神分析の都 ) ウィーンですら、このポル ドーにあったと思えてくる。無益な 分断をさけるとは、とりもなおさす、〈死の欲動〉を分割する能力を獲得することにほかなら 「たからこそわたしは、しじゅう死のことを口にする習慣を身につけたのである」。最大 限の謙虚は最大限の発展性をもつ。一方からすれば、平凡としかいいようのない意見。だがも う一方では、例の「わたしただひとり」という自負が顔をのそかせる。「こんなにもたくさん の家々が武装したなかで、自分の家の警護をす 0 かり天にまかせてしま「たのは、わたしの知 るかぎり、フランスではわたしただひとりである」。「わたしは、自分の運命が与えてくれるも の以外には、番人も守衛もおかない」。こんな御仁を籠絡して兵士にしたてあけ、道を踏みは すさせて利用するなど、とうていできない相談た。占いにたよ「たり、背教者 = リアヌスのよ うな人物がその「甘言にだまされた」という神託に相談するよりも、さいころをふ「て自分の = 事業の方針をきめるほうがいい そんなことを平気で言ってのけるほどの男である。人間とは、テ 迷信にとらわれた猿のようなものだ。ついこのあいだも、人間は堕天使だと言「た者がいたけ体 れども、それは間違「ている。人間はふさぎの虫にとりつかれたチン。 ( ンジーなのだ。モンテ変 ー = = のいちばん重要な告白は何だろう。ぼくたち現代人から見ても驚異的だし、いかなる時突 代の人にと「ても驚異でありつづけるモンテー = の告白は ? それは『随想録』全体に透か

10. 例外の理論

不安が増大しているということ、しかも科学、政治、宗教、哲学など、どの分野から回答がよ せられても、それが「イド」との関係においてことごとく破産しているということを意味する。 つまり、フロイトの発見はほんとうに時代の転換を画したことになるらしいのだ。この仮説が 正しければ、これからは今世紀の歴史も精神分析を「中心にして」読み解かれるようになるは そして、いま始まろうとしているの すだが、これは文化現象全般にもあてはまることだ : は、まさにそういう事態であるらしいのだ。 精神分析が見過ごしえない威信を誇っているのは、大半の学説や制度とはちがって、過去五 十年のあいだにあらわれた、はなはだしいふたつの退行にまきこまれなかったところに、ます その原因がもとめられる。ふたつの退行とは、ファシズムとスターリ = ズムのことだ。精神分 析はありとあらゆる全体主義から頽廃だとして糾弾される。ナチスからは「ユダきとして、 スターリンのインターナショナルからは「ヒトラー主義」として、同時に告発されているのだ。 古きよき時代のフランス共産党機関紙、『新評論』から例をとってみよう。「精神分析学は方法 面では観念論であり、不合理を基盤としたあらゆるイデオロギーと同列た。そこにはナチスの場 イデオロギーもふくまれる。民族神話と血族神話を育てあげたヒトラーは、本能の不合理性にの ナチス的形態をあたえたという意味で、精神分析となんら変わるところがないのだ ( 一九五一 ドイツでは焚書になるし ( ユダヤ的だとして ) 、科学者の共同体からは憎まれ ( あの法 螺吹きはい 0 たいなんだ ? ) 、カトリック教会にはあ「さり拒絶される ( = ダヤ + 悪魔 ) 。また、