言葉 - みる会図書館


検索対象: 例外の理論
54件見つかりました。

1. 例外の理論

決疑論礼讃 ( グラシアン ) 、くルタサール・グラ マキアヴェリとおなじように、しかしはじめからすっと形而上学的に シアン ( 一六〇一年 ~ 一六五八年 ) は、権力の喜劇はレトリックの一領域だと考える。グラシア ンにとって、君主とは「クリティコン ( うるさがた ) 」、つまり醒めきった人間のことだ。そう した批判能力が人間のすがたをとるのは、全世界の仮象性がたどる紆余曲折を理解し、欲しい ものを欲しいときに出現させることのできることばの取り扱いを学んでしまったからである。 イエズス会による〈み言葉〉の理論は、人間的なものと神的なものを区別し、この二通りの 〈言葉〉のあいだに決定的な断絶を導人したところにその本領がある。一方はその虚偽が極限お まで高められた〈言葉〉であり、もう一方はその活力が極限まで高められた〈言葉〉だ。反宗 グ 教改革やバロックが教えてくれるのはそのことにほかならない。形相における神学の反撃。意讃 味を単一の記号に還元しようとする異議申し立てにたいする異議申し立て。善は断じてこの世謝 のものではない。善がこの世のものではないのは、この世では言語が余計なものとなり、その ような言語は過剰をあらわす形象になるしかないからだ。そしてこの形象によって、いわば裏

2. 例外の理論

むモリ ーの独白にくらべてみると、「格下け」されている。「わたしはいつだってイエスと答え ーの合言葉になっているが、これは『ファウスト』に出てく る肉体なの」というせりふがモリ る「わたしは常に否定する霊なのです」というメフィストフェレスの合一言葉を逆転させたもの にほかならない。だが、その限界を越えるようにして、ジョイスは各瞬間に脱ー中心化した発 話のポジションにやって来るし、そうすることによって彼が「乗り越えるーのは、女性。ハラノ ィアの場にほかならないのだ、そう言っておきたい。 女性パラノイアは男性。ハラノイアとおなじものではない。分裂病では男女の性的差異がなく てもすむのだとすれば、。、 ノラノイアのほうは、男女の性的差異を鋭利このうえないかたちで措 定する。そしてジョイスが難しくみえるのは、彼が精神病の中軸からそれた「へり」の部分に 身をおいて文章を書き、その場所では、原則として、言語の特性が言語そのものの欠落にあら われるからである。 ぼくは、ジョイスのテクストがどのようにしてかすかすの名前を芽生えさせるのか、説明を こころみた。ところで、『フィネガンズ・ウェイク』には意味を東ねた薔薇のような名前がい くつも出てくるわけたが、 そのなかで主要なものは何だろうか。 ます、女性のポジンヨンを見ておこう。 ALP—アナ・リヴィア・プルーラベル (Anna Livia PIurabeIIe) 。 〈一〉と〈多〉を兼ねるポジションであると同時に統合の原理。 <<AnnaLunaPul- chrabelle>> ( アナ・月・美しさ ) 。これは ( 川なのだから ) 多様体の流れに相当するけれども、 リ 0

3. 例外の理論

問には間接的にお答えします。〈わたし〉のさまざまな化身を通過してみなければ、まだ存在 すらしていない〈わたし〉に行きつくはすはないのだというところからして、この〈わたし〉 なるものはあとで別のかたちをとってあらわれてくるはすだからです。さて、ジョイスですが、 彼は十七カ国語ほどのことばを使って、きわめて意味深長な操作をはじめたのでした : : : 。外 そしてもちろん、まるで神話のよ 国語が英語のなかできらめきを放つようにするのです : ・ もっともあれを理論と呼ぶことができるかどう うな、ある歴史理論をよりどころにする まあとにかく、ヴィーコの歴史理論をよりどころにして、つぎのよ かわからないけれど うな自明の事実を発見する。つまり、ことばで表現しうることのみならす、現実に起こりうる ことばで表現しないかぎりなにひとっ起こらない ことですら、いや、こう言ったほうがしし ということを裏付ける見地から考えてみると、ことばで表現しうることは、すべて、「はじめ に言葉ありき」と言われているように、万物は〈言葉〉によって、〈言葉〉とともにつくられレ たわけですから、ジョイスは、ヴィーコをよりどころにして、歴史とは永遠の反復だというこ そして永遠の反復はレトリックの円爵 これはニーチェの直観とおなじですけどね 環とディスクール効果のなかに表明されるということに気づいたのです。そして、レトリックき め の円環やディスクール効果は、中世のころとまったくおなじような、といっても中世とはちが った流儀にしたがって、たがいに重ねあわせることができる。中世においては、重層した四つ の意味というすぐれた理論のおかげで重要な鍵が発見され、それをよりどころにすることで、 171

4. 例外の理論

突然変異体モンテーニュ あるひとがプラトンにこう言った。「みんながあなたの悪口を言ってますよ」。するとプラト ンはこう答えた。「言わせておきなさい。わたしのほうでむこうが言葉をひるがえすような生 き方をすればいいのだから。 『随想録』の目次をひらく。この目次をひとつらなりの ( イク ( 俳句 ) として読むことにする。 モンテー = 、を中国にうっしかえてみる。すると、モンテー = = が、禁断の都市の一隅で暮ら すマルコ・ポーロのように見えてくる。 ますは読んでみる。 手段はまちまちでも結果はおなじ哀しみについて。 無為について嘘つきについて。 節制について食人種について。 言葉の空虚さについて古代人の倹約について。 19 突然変異体モンテー

5. 例外の理論

ーヌが描いたというだけで呵責ない画面ができあがるのだから、ほかにどうしようもないのた。 セリーヌはわが身に何かを具現するものすべてに反抗した。自分がひとかどの人物であるとう ぬぼれているものに反抗した。たくみに欺瞞を暴いてみせた。緻密な道化師。臨床医。達人。 無欲の人。華麗なまでの自己欺瞞に徹することにより、気取りのかけに隠れた陰険さを、これ リーヌをおいてほかにいない。あれはカリカチュア たけ的確な一覧表にまとめあけた者は、セ なのだろうか ? たぶんそうだろう。ぼくたち自身、カリカチュア以外の何に見えるたろう。 そしてぼくたちが出会うものは、カリカチュアをおいてほかに何があるだろうか。どうしても、 あの名高い「チック、チック、チック」が思い出されるし、時間をさかのぼって、これと対称 をなすハムレット の「言葉、言葉、言葉ーを連想せすにはいられない。 偉ぶった人間がたくさんいるから、セリーヌの笑いは、これから先も、欺瞞にたいする対抗 リーヌの笑いは、 いまでも舞台の前面に立ちつづ 措置の役割をはたしてくれることだろう。セ け、ビートのきいた合唱のように鳴りひびいている。にぎやかにざわめいたり、断言口調でし ゃべったり、静止したりするものを、セ リーヌの目は絶対に見逃さない。いかなる病も、いか なる病的増殖物も見おとさない。昔話に出てくる龍のように、散文の抗生物質が、詩への人り 口を警護しているのだ。 とんな時代になっても、やはりセリーヌの本は、現代 未来のことは想像もっかない。たが、。 の惨禍をとどめた唯一の深くけわしい刻印としていつまでも残っていることだろう。孤立者セ

6. 例外の理論

言葉が誰かを必要としているのだ。 以上。 一九八一年 ラカン め 7

7. 例外の理論

本日の講演の題目として、最初は「ぼくはな。せ自分が快楽をおぼえるのか知っている」とい うものを予定していました。この題を英語に訳したら、またしても「快楽」 (jouissance) とい う語のむすかしさが露呈するということを、一瞬、わすれてしまっていたのです。事実なんだ から仕方ありませんが、この言葉を、ということはつまりこの物を、英語に置き換えるのに満 足のいく用語は存在しません ( 「エンジョイメントーとか「エクスタシー」というのは乙女チ 、クでいいかもしれませんが、それにはこだわらないことにします ) 。それに、聞くところに よると、ごく単純にフランス語の単語を英語に輸入する習慣が定着しつつあるそうですしね ( フランス語経由で、それもラカンが作ったフランス語経由での、英語におけるフロイトの回 帰とはこのことであり、それ以外のなにものでもないのです ) 。言葉があるから物がある。そ んなわけで、ぼくは、自分の性はフランス語に属すのだ、と言ったのです。マイ・セックス・ イズ・フレンチ。ぼくの性がフランス語に属しているのであって、話をしているぼく自身がフ ランス語に所属するのではありませんよ。ぼくが言いたかったのはね、レイディーズ、ジェン トルメン、自分の性について権利請求をするということではないのです。そんなことをするは すがないじゃないですか。事実はその反対なのです。問題は、この性というやつを放り出すに はどうしたらいいかというところにあるのです。いや、もっと正確な言い方をするなら、どう したら自分を性から脱落させることができるか、つまり自分を死から切り離すにはどうしたら いいのか、それが問題なのです。

8. 例外の理論

チク・タクいう音がすべての言葉を話しているように感じることができるのだ」。 この「声帯」が、死ぬ必要がないことにより、自分が快楽をおぼえるのはどうしてなのか、 ちゃんと知っているわけです。 ニューヨーク、一九八一年四月 ぼくはなぜ自分が快楽をおほ・えるのか知っている 425

9. 例外の理論

し彫りのように張りめぐらされ、根拠なき選択の証となっている、「神から賜った善良な父 . という言葉ではないだろうか。では父親とは何か。父親がひとつの声であることはいうまでも ない。「わたしの声がそこにあり、わたしと一緒にいてくれる、あるいは震えているたけでも そのときのほうが、わたしがひとり静かに探ったときよりも、はるかに多くのものを自 分の精神から引き出すことができる」。ごく自然にしゃべり、自分の声に耳をかたむけるすべ を身につけ、自分自身との共鳴をつくりだすこと。「声は美の花だと述べたゼノンは正しい」。 あらゆるものが流転する。すべては移動と置換なのだ。だが、実験者モンテーニュは言葉に たいして決定的な賭けをしたのだった。その結果できあがったのが、真理についての前代未聞 の立場なのである。そしてこの立場は、今の時代にも当てはまるし、未来永劫にわたって有効 だ。「わたしはとぎどき矛盾したことを言うらしい。だが、真実に反することはけっして言わ ない」「真実に不忠な人は嘘にも不忠である」。すると、忠実な嘘というものが存在することに なるのだろうか。そして、忠実な嘘とは逆に、毒をもっ潔白なるものが存在することになるの だろうか ? きみたちには、ニーチェが「不忠な嘘、青い目の嘘」と呼んだものに出会った経 験はないたろうか。いくら嘘に反論してみたところで、真理のあらわれる可能性がまったくな いような嘘に出会ったことはないだろうか。人間の身体をつうじて続けられる諸現象の夢遊状 態を知らないだろうか。そう、これは催眠磁気なのだ。そして催眠と正反対の位置におかれる 、、 0

10. 例外の理論

ィネガンズ・ウェイク』が ( 感嘆調の ) 句読点を大量に再導人する。間投詞による立体感。「すると、音楽でも、さま ざまなにおいでもなく、動作が万国共通の言葉になるだろうし、ありきたりの意味ではなく第一のエンテレケイア、 つまり基本的リズムが目に見えるようにするために、すべての国語が贈り物として与えられる」 ( 『ュリシーズ』 ) 。 139 ジョイス商会