のことば、母国のことばにおける意味とは何か。それは、子供のことばを私有財産化すること であり、そのせいで大人の集団が子供のままで宙に吊られてしまうのである。だが、このほか にも、主体がみすからの身体的マ トリックスに向けておこなう指向作用と、無意識にたいして 前意識がきすきあけた防波堤も、やはり母国語のなかでは意味をになう。ジョイスはいう。 『フィネガンズ・ウイク』とは、夢のなかで垣間見られた夜の言語、夜の = クリチ = ールだ、 と。国語・母語というものは夢に見られるものではない。主体の夢のなかで、主体に夢を見さ せるのが国語なのである。どが、 ナ一国語の夢が他の国語の覚醒であってもかまわないし、ある 緯度のもとで夜だったとしても、別の緯度のもとでは昼間だということもありうる。だからジ ョイスは、夢とその解釈が渾然一体となったような、そして限りなく国境を越えていく一冊の ウェイク 書物を夢見ているのだ。そして、まさにこれこそが、〈目覚め〉なのである。 ジョイスは政治に関しをもったことがない、 という素朴な信仰がある。ジョイスが政治問題 について死語を使って話したり、書いたりしたことが一度もないからである。ぼくたち現代人 は、一方に芸術があり、もう一方、それとは別なところに政治があるという程度の考えに、 会 まもってとどまっているのだ。まるで政治のために特別の場所があり、さらにどんなものにで商 も特別な場所がもうけられているかのように。だが、出てくる言表がいくら微細なものであっ ても、死語による言表にわが身をゆだねるのをジ「イスが拒絶したということは、まさに政治 的行為にほかならないのである。この行為はレトリックがまもる都市国家の心臓部で炸裂する。
のものを転覆させ裏返し、内在的に批判するという操作を書いた当人が理解できないというこ とが文章に書かれるようになるからです。相手が。ハスカルであろうと、ヴォーヴナルグであろ うと、あるいはラ・ロシュフコーであろうとおなじことです。ここで発見された法則は無限に 拡張・適応できるからです・ : ・ : 。だから、電話帳に載っている名前をひとっ取り出して比べて みても、〈イジドール・デュカス〉がほかの名前より重要だということはなくなったのであり、 こうして〈イジド ール・デュカス〉は、事情をじゅうぶん承知のうえで、ということはつまり 自分が配置を定めたエクリチュールの論理にしたがって、かってなにかを語った人の名前はす べて、たしかにわたしのことなのだと断言できるわけです : ・ ド・アス先ほどお使いになった表現をとりあけます。「歴史をディスクールに定式化した」とおっし ゃいましたね。それとよく似た、しかもきわめて強力な操作が、『天国』でおこなわれている。『天国』ア レ には、たたみかけるような系列的操作というか、一連のカッティングや組織採取やレントゲン撮影のよ うな面があります : : : 。何のレントゲン写真かというと、さまざまな言語を写したレントゲン写真だと いえるでしよう。わたしたち人間を補強してくれるさまざまな言語、そして、きちんと消化されたとは いいがたいキリスト教二千年の歴史を土台にしてわたしたちの承諾を強いてくる複数の言語があるわけし ですからね。『天国』を読み、その流れに身をまかせてみると、「文学的」言語や「哲学的」一一一口語がいろか いろ聞こえてくるし、「サイコ」の言語が繁殖している、さらに「政治的」言語や「ポルノ」の言語、「宗 教的 , 言語や「科学的」言語などもたくさん出てくる。そしてこれらの言語を聞きなおすことになる。
ことはおわかりいたたけると思います。 もっとも人類の枷が一度でも開かれたことがあ ればの話ですけどね ( まあ変てこな幻想にはちがいありません ) 。 とにかく、その枷がと じられ、冒険の単一性をしめつけようとしている。で、結局のところ、文学がこのことについ て語るのでないとしたら、文学なんて何の役にたつでしようか。 ド・アスいままでに話していただいたこと全体に関係する質問があります。『天国』を読んでいて感 銘をうけるのは これだけは言っておかなければならないと思いますがーー・ああしたことを実行し、 あのような文章を書くために必要な勇気と、傍若無人ともいえるかろやかさです。ほかの人たちは日々 あなたのことを葬りさろうとしているように思われますが、いくつかの場所に出入りしていて気づくの は、あの人たちの望みはたたひとつ、つまりあなたがあれをやめて、もうソレルスやソレルスの変節に ついては何も一言わないでほしい、まったくあん畜生め、ということなのです。そして、とりあえす、彼 モ らはあなたを剽窃しています。「読めるという事実は動かしがたい」ということに対抗して、彼らは「読レ むにたえない」ものをつくりつづけているわけです。で、あなたのほうは、ご自分でも書いておられる一 ように、「あんなことを書くおじさん」「ざわめきにのぼせあがり罠にかかった男」の立場から、あなた 自身のテクストがひきおこす論評や反応を、ひとっ残らすテクストのなかにとりいれつづけておられる 強い不安を感じることもあるのではないかと思うのですが。 ソレルスそりやどうしてもね : : 。ぼくがやったように国語や言語活動の次元、ディスク ールやエクリチュールの次元をつくりだし、言語活動やエクリチュールのなかに運動を導人し いかめしき伯爵 ( ロ
あわせになっているところからすれば、フィネガンは復活させなければならない死せる先祖に 相当するたろうし、そこにはあの特異な神の記述をつくるもとになった原初の父の記憶が埋も れていることにもなる。抑圧されたものの回帰。死せる父親が回帰して、さまざまな国語のな かで、おい茂る雑草さながらに、あちこちにふたたび芽をふくのである。 ジョイスはアンチ・シュレ しハーである。 ( 一九〇三年という意味深長な年に出版された ) 『神経病患者の回想』をとりあけてみると、フロイトとラカンが分析したこの男性パラノイア にかんする偉大な記録は、きわめて古典的な書かれ方をしていることがわかるだろうと思う。 シュレ いかにも法律家らしく、言語内の幻想以外のもの ーバーは法の臣下主体なのであり、 なら、どんなことでも文章に書く。シュレー ーの場合、幻想はいわば現実のなかで起こるか ヾ、 ーの文章は「読みやすい。 ( だがそれは理解しやす ら、書く必要がないのである。シュレー いという意味ではない ) 。ェクリチュールの荒れ狂う場所が自分の内部にあっても、外部にあ ーバーはこのエクリチュールを主題にして、官僚的な文章を書く ってもおなじことだ。シュレ のである。男性。ハラノイアとは何か。すべての男の妻になる ( そしてすべての男の妻という座 についてあらたに男を生みだす ) という、男ともあろう者が考えるとは思われない、常軌を逸商 したこころみである。シュレー ーの場合には、期待し、待ち望むと同時に恐れてもいた男性 ットがあるがために、彼自身が現実のなかで行 トを形成し、一」のリミ 器除去がひとつのリ 動することができないのだ。シュレ ー。ハーは、裏工作がおこなわれ、根本的言語からは複数の
ランス人と、取るに足りないながらも去勢への暗示によってそれなりの重みをもっその著作、 『月桂樹は伐られた』から影響を受けたふりをするのをためらわなかったということだ。いす ( 6 ) れにしても、〈モリ 非難 = 単一言語〉のラインをいったん乗り越えてしまえば、国語は多 ング 重跳躍言語 (l'élangues) に変換される。『フィネガンズ・ウェイク』からはたえまなく叫び声 が響いてくる。この叫び声が勝利の凱歌に聞こえないなどということがありうるだろうか。そ して、『フィネガンズ・ウェイク』でもやはり、しめくくりは女の声にまかせられている。た だ、女といっても、ここに登場するのは、水中を流れ、宙を飛び、けつきよくは父親の胸に帰 っていく娘なのだ。アナ・リヴィアは、何百年、何千年という長い時間を遍歴したはてに、運 んできた沖積土と木の葉のようにざわめく音を着物の裾のようにひきすりながら、母として、 また娘として、〈息子夫父〉のラインがつらなる大河の河口かなたに開けた水平線、つま り大海原に、狂おしく帰っていく。 それから、再統合や充足や完結性や全体性を越えたところ で、すべてがふたたび始まり、〈一〉と〈多〉がぶつかりあってたてる、いままでとはちがっ た音によってすべてが包まれるわけだが、この音をとらえるには、あらたに文章を書きなおす しかない。そして多形的・多声的・多文字的・多国語的に分岐した性欲のさまざまなかたちが 飽和状態になり、性欲からの離脱が起こる、つまり内臓のいちばん深いところで反復されるき みたちの欲望を憔悴させるためのアイロニーがあらわれる。こうした事情があるからこそ 白状したまえーーきみたちはジョイスを前にして当惑するしかないのだ。フロイトとジョイ 136
ろうか。 ュングは、精神分析家の常にもれすセックスにかんしてひどく純情だったので、モリ ーの独 白のようなものを書いた人間は「悪魔の婆さん」にちがいない 、とジョイス宛ての手紙に書い た。それにノーラが反発する。「どうしてそうおっしやるのかわかりません。ジムは女のこと は何も知りませんのよ」。相いれない極端な見地がふたつある、とさきほど指摘しておいたけ れども、ユングとモリ ーの見解は、そうした両極端に位置するものだといえる。誇張されてい ることにかけては甲乙つけがたいし、その点で両者はたがいに接し合っているから、自分たち のあいだに何があるのかわからないかわりに、自分たちとは別のところにあることなら理解で きるのだ。ジョイスはこれを一個の単語に要約した。「ユングフラオ」 (Jun au ュング十女Ⅱ 淑女 ) 、と。 ジョイスはあきらめるということを知らない。ジョイスは ( ラカンのいう意味での ) 「ララ ング」で書くのではなく、多重跳躍言語 (l'élangues) で書くのた。飛びあがりもするし、断ち 切ることもある、そして単数と複数の両方の性質をそなえたことば。 表面にとらわれているかぎり、単語と文がならんでいるように見えるが、じっさいにはたく さんの文字やたくさんの音がぶつかりあっているのだ。複数の声と複数の名前。ジョイスが自 分で『フィネガンズ・ウェイク』の一節を朗読したときの録音を聞いてみたまえ。あれはオペ ラだ。マ ドリガルだ。声に屈折と強弱と抑揚がつけられている。そしてテノールからアルト 124
いう問題もからんできます。さらに、フランス語ではこの路線でどのようなものが書かれたの かという問題。たとえば、フランス文学の主要作品集をひらいて、「詩的言語に神学的次元を あたえる試み」という項目をながめてみるなら、やはり、どうしてもヴィクトル・ユゴーの名 前にぶつかります。そこで『神』や『サタンの最期』、あるいは『諸世紀の伝説』といった作 品に目をとおしてみるわけですが、諸宗教の歴史を凝縮してみせようという大仰な十二音節詩 、ようがない。まあ、細かなことはさておき、身を 句がならんでいるばかりで、退屈としかいし もって「天国」をつくる試みを生きたとおぼしき形跡がまったく見当たらないわけです。つぎ に問題になるのは、いわば西欧の枠からはすれた意味がはたらいていて、それが結局はカバラ の伝統に対応するということです。「天国」 ( を d 色というのはカバラの「。 ( ルデス、 ( を「 déし とおなじですからね。つまり、》文〉文〉文》の四文字に注目すればわかるように、 解釈のレベルが四つあって、それが中世の注釈学でいうところの四つの意味レベルに対応する わけです。字義どおりの歴史的意味から「予見」 ( アナゴジア ) にいたる四つの意味を読みと る立場ですね。これを念頭においてみれば、『天国』という題名は言語の特定の状態をあらわ し、言語にしかるべき処置をくわえれば、言語そのものが、リズムからみても、意味の流れかポ らみても、「天国的な」状態におかれるということがわかるのです。以上、『天国』という題名 がもっふたつの局面を説明してみましたが、 <pa 「 adis>> の《 dis> の部分に強勢アクセントをお いて、「言「てしまいなよ、それが述べられる近くには何があるのか教えてくれよ、と読むこ
人を殺すためにおお。せいのひとが団結するということを意味します : ・ ですから、この厄介 な問題については、は「きりつぎのことを言っておかなければなりませんよね。そう、無意識 は私刑のように構造化されている、つまり、無意識のなかを動いている言語には、ことばを話 している人間にとっては名前の転覆とみえるかもしれないようなものを祓いのける必要性がし みついているということです。いまぼくの言っていることは、なんだか複雑で難解なことに聞 こえるかもしれませんけれども、けっして難しくなんかないのです。いま説明したようなこと があるからこそ、人間が混ざりあい、変質していくわけですからね : 。で、たまたま突出し た人間があらわれて、しかも自分の名前のなかに突破口をつくるということもあるものですが、 この場合、問題となる名前はぜったいに自分の名前でなくてはならない : そして、ジョイ スはまさにそれを実行するのです。ジ「イスが自分の名前を通過するということは確かだし、 モ それが人間にはとても実行できるとは思えないような操作になっているわけですが、こうした」 事情があるからこそ、文学と呼ばれるもののなかでは、こうした問題がもたらす結果や効果が一 特異なものになるし、そこにきわた 0 た特異性がすがたをみせることにもなるのです : ・ : ・。自爵 分の名前を通りぬけると同時に、なんていうのかな : : : ありとあらゆる国語のなかにほうりき め こんでみても、やはりおなじひとつのことを言いつづけるような〈なにものか〉を使う支度が できていなければならない。そして、ひとがなんと言おうともーーーっまり、原初の私刑をく りかえし反芻するためにぼくたちが身にまとう〈でたらめ〉とちょうど反対にな 0 ているわけ 175
ジョイスが文章を書くときは、ラジカルな言語の否定がそこに横たわっているのだと思う。ジ ョイスが書き、語るときの場所は、もはや語るものも、書くものも存在してはならないような、 この不可能性の場なのた。そしてジョイスはこの不可能性の場を、念人りに練りあけられた昇 華へとみちびいていく。それはとりもなおさす、自分は快楽をおぼえてはならないという方針 をもっ〈なにものか〉にはたらぎかけて、快楽を感じさせることに成功するということだ。ジ ョイスが、同時代人からも、後世の人たちからも、熾烈な否定をつきつけられたのはどうして なのか考えてみると、その原因はどうやらこのあたりにあるらしい。こうして『フィネガン ズ・ウェイク』は投機や闘争や強い抑圧の対象になるわけだが、そんなことは誰にでもわかっ ているはすだ。誰もが知っていようと、誰もが知らなかろうと、とにかく知識を保管するっと めを負った者なら、そのことを知っている。 ジョイスにかんして、母親殺しのエクリチュールという表現が使われたことがある。しかし、 この表現に眩惑されることによって、『ュリシーズ』のモリーが明らかにした母親を相手にし ( 5 ) た近親相姦の言説のポジションが隠蔽されるようなことがあってはならない。そして母親との 会 近親相姦がからんでいるからこそ、モリーの独白を前にしたとき、批評家諸氏は茫然として手商 をこまねくしかないのだろうと思う。国語としての母親を毀損するあのモニュメントを前にし て、膨大な注釈がなされ、なかでもアングロサクソン系の注釈は石のようにこわばっている。 この点にかんして究極のアイロニ ーになっているのは、、ンヨイスが、デュジャルダンというフ
ともできます。 0 という接頭辞にはふたつの意味があ「て、「 : : に沿って」と読んでも しいし、「 = = = に反して」と読んでもいいわけたし ( これが化学でも使われていることは御存 じでしよう ? ) 、 0 0 にふくまれた》の文字は、ぼくにと「て命令の色合いをおびて いるからです。 2 ぼく自身愛着を感じている本の題名を年代順にならべると、ます『ドラこがあ「て、 つぎが『数』、それから『法』と『』、そして『天国』。だから、『天国』のすぐまえにくる題 は『』の一文字だということになるわけですが、これは神の名からと「た文字なのです。よ うするに『』は『天国』の下書きなのです。『』という本は不思議な運命をたどりました。 リズムの風景を揺り動かしたのは確かだと思いますが、どうしても強調しておきたいのは、ぼ くが集積韻律法を完成させた最初の本が『』だ 0 たということです。つまり句読点の体系的 な排除をおこなうことによ 0 て、 ( これ以上の比喩が見つからないのでこんな言い方をします が ) 「ン。ヒ、ータづくりの作業で言われるのとおなじような意味で、「イク 0 ・プ 0 セ ' サの 構築に着手したわけです。そして『天国』では、いちおうフランス語と特定できる体系言語を 対象にして、精密な「イク 0 ・プ 0 セ ' サとしては最初のもののひとつをつくろうとしている。 そうすることによ 0 て、文化や人間言語の歴史のみならす、言語の意味作用の歴史まで射程に いれた、広大な記憶領域のデータ処理ができる「ンビ = ータをつくるのが可能たということを 明らかにしたいわけです。なぜなら、いま、ぼくがや「ている作業は、アヴ , ンギャルドの伝