一点 - みる会図書館


検索対象: 社会のなかの美術
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1. 社会のなかの美術

三億四九九〇万円 0 第一回東美人札二四六点落札一三二占 三億一二二四〇万円 ・第二回東美入札三四三点落札一五一占 四億三八六〇万円 0 第一回東美オークション四二〇点落札二九一点 ちなみに、クリスティ 1 ズの売上げは、第一回が出来高二五九点で三億九九九九万円、第二回 が規模を縮小して二三〇点で八五一三万三〇〇〇円であった。また、例年の五都展は、四十四年 以来、億台に達し、毎回二〇〇点前後の出品で、一億四一〇〇万円から四億八二〇〇万円の間を 上下している。東美関係のものと同規模である。 部 ^ 時代に応じた自己脱皮へ》 術 美 京 さて、このように性格が歴史的に変化した東京美術供 東 時楽部の戦後であるがー・・・ - ー戦後しばらく、二十五年までは 無配であり、総収入も二七〇万円が最高であったものが、 一第一回の人札会を催した二十五年から、徐々に、資本金 の面でも、建物の面でも拡張し、四十九年現在、資本金 テ 一億三五〇〇万円、総収人金二億一八六八万一〇〇〇円嶽 ス 1 セントおこなっている。 に及び、配当を一二。ハ 美術経済の発展にともなう当然の成長と言っていいが

2. 社会のなかの美術

は、レオナルドの現存する三点の彫刻の一つと折り紙をつけられ、一〇万ポンドと評価されるに 至った。 ノウスが こうしたことはまったく珍しいことなので、滅多にはおこらないが、オ 1 クション・、 品物が持ち込まれたときにその真価を発見する作品は、しばしばある。 一九六一年、一人のフランス人の尼さんがサザビーに一点の小さな木彫を持ち込んだ。それが ゴ 1 ギャンの作品であることが確認されて、三万二二〇〇ポンドで売られた。 一九六四年には、以前一〇〇ポンドで買ったという一点の静物画が、同じくサザビ】に持ち込 まれて、レン・フラントであることが確認されて、一一万ポンドで売られた。 一九六八年には、スイスのコレクションにふくまれていた一点の・フロンズの小像がべンヴ = ヌ ・チェリーニの作品であることが確認されて、三万二二〇〇ポンドで売られた : : : 等々の話は しばしば新聞紙上をにぎわして、とだえることがない。 こういう発見も、オ 1 クション・ハウスがあってはじめて可能なのであり、その大きなメリッ トの一つと言っていいだろう。 100

3. 社会のなかの美術

アメリカでは、七四 一九七三年春以来、不況を嘆く日本の美術市場をしり目に、ヨ 1 ロツ。 ( 、 年に入ってからも依然として、美術品価格が高騰しつづけ、五月には、あらゆる美術作品が空前 の高値を示した。美術はインフレに強いという神話が裏付けられたものとして、各方面の注目を あびたものである。 ところが、それから二か月もたたない七月一日、二日、三日のロンドンにおける二つのオ 1 ク 】セントの作 ションで、事態は急変した。クリスティ】・ スに出品された二〇七点のうち、三六パ 品が売れ残り、サザビ】に出品された六一点のうち、三二点が売れ残った。それも通常の絵では ない。美術市場において、つねに人気の頂点にあった印象派の作品が標準価格 ( リザ 1 ・フ・。フラ イス ) にも達せず、買い戻しとなったという次第だ。 夏休みがあけて、秋のシ 1 ズンに入ってまもない十月二十五日のニュ 1 ョ 1 クのパ 1 ク・・ハー ネット のオ 1 クションでは、引きつづいて、三分の一の作品が売れ残った。このオークションは、 事前に、六〇〇万ドルから七〇〇万ドルの売上げがあるだろうと予想されていたのだが、実際に 《美術神話の崩壊》 4 不況とその影響 199 不況とその影響

4. 社会のなかの美術

〈世紀のオークション》 。ヒ 1 ター ・ウイルソンの敏腕は広く全世界に知れわたった。彼は、一九一三年生まれの若々し い人物だった。 二十四才のときサザビーに入り、二十六才で取締役になり、四十六才で社長となった。非常に 仕事熱心で、一九三八年以来、週末に家に居るときは、家具を材料にしてオ 1 クションの稽古に はげんでおり、大きな売立ての前夜は眠れないということである。 ートナーとなった後は、引退する。ハートナーの持ち株を譲り受け、 一九三八年に、サザビーのパ 経営の実権を握り、ワイン・ ( ーガー・セールの翌年、ついに社長の地位に就いた。 その年には、再びアメリカからジャコ・フ・ゴールドシ、ミット・コレクションを引き出して売 立て、成功を収めている。 マネ三点、セザンヌ三点、ファン・ゴッホ一点、ルノワール一点をはじめとする一七点の作品 は、一九三三年にドイツの銀行家ゴールドシ = ミットがアメリカへ亡命する際に携えたコレクシサ AJ ョンで、数こそ少ないが、印象派・後期印象派の逸品を集めた稀有の個人コレクションとして以ズ 前から高く評価されていた。 テ ス その評価にたがわず人々の間の前評判は高く、売立ての当日は、チャーチル夫人、テイト・ギ ク ート・ランカスタ 1 ら内外の知名人が多数集まり、異常 ャラリー館長ロ 1 ゼンスティン、俳優・ハ な熱気の立ちこめるなかで、せりがおこなわれた。「世紀のオークション」と言われたのも誇張

5. 社会のなかの美術

が掲載されている。モネ三八点、ルドン二九点、マネ八点、数から言えば、モネ以外はけっして 多いとは言えず、また逸品も少ない。現在いちばん求めやすい二十世紀の作品になると、全体と して数はもっと多く、毎日新聞の報ずるところでは、コトリロ、デ、フィ各三〇〇、ルノワール、 ルオー各二〇〇。モネ一〇〇。ポナ】ル、アンリ・ルソー各五〇、セザンス、ファン・ゴッホ、 ゴ 1 ギャン併せて三〇、ミレー ク 1 ルべら。ハルビゾン派八〇見当が日本にあるという。うなず ける数字だが、ミ ューゼアム・。ヒ 1 スということになると寥々たるものだろう。ここには挙げら れていないが、現代でもっとも有名な。ヒカソの作品は、少なくともユトリロ級にあるとおもえる としても、わたしの調べた限りでは、三大コレクション以外には、 ミューゼアム・。ヒ 1 スは、お 。ヒカソ そらく、一〇点前後であり、とうてい、一人の画家の活動を代表させることはできない。 のような、現在入手可能な画家の作品ですらこの通りであるから、凡庸な作品はどれほど数が増 えても、 、つこうに、日本のコレクションの文化水準を高めることにはならない。 ミ = 1 ゼアム・。ヒ 1 スには、二つの種類がある。ひとつは歴史的評価の決定した画家のカ作で あり、これは当然のことながら、価格が高い。 この種の作品を主として手がけている吉井画廊の吉井長三社長の話では、今、日本には億単位 の絵を買う能力のあるコレクタ 1 が数人はいるということであり、千万単位ならばかなりの数に 達するという。したがって、今後、このような作品が増えていく可能性はなくはなく、資力のあ るコレクタ 1 には、質の問題をあらためて考えてもらいたいものである。 170

6. 社会のなかの美術

これに似たケ 1 スを、最近至るところで見かける。 ョ 1 クのメトロポ また、世界最大の施設であるニ = 1 リタン美術館が、経営難から売りに出したが、あまりの 高額のためにイタリ 1 のフィアット自動車の社長が購入 ) 、、、しを ( を断念したという、アンリ・ルソ 1 の「熱帯」が、先年、 、、《、。 / 六億円 ( ? ) という空前の価格で東京の日動画廊によ 0 て 引きとられ、いち早く関西の某実業家の手に渡ったこと 3 があった。 庶民たちは、複製画か、せいぜい安価な油絵を室内に 飾って満足しているというのに、市場の頂点におけるこ の盛況はファンタスティックというほかないが、同時に、 底辺は底辺でそれなりに活発であり、先日、銀座のある がおこなった大衆向けのセ 1 ルでは、用意した 平均価格十余万円の一〇〇〇点の作品が七〇〇点売れ、総額にして一億数千万円の売上げが一時 にあったと言う。 こんなにも多量の絵画が次から次へと出ていくのでは、まもなく市場は飽和点に達するのでは ないかという危惧をよそに、販売する側は、大衆市場もまた本格的にはこれからであり、まだま 176

7. 社会のなかの美術

コンテンボラリー・アートというとき、それは一般的に、第二次大戦後に創造された美術をさ す。そうだとすると、コンテンボラリー・アートは、すでに三十年近い歴史を持ち、この間に、 めまぐるしいほど数多くの様式の交替を経験している。その点から言うと、この約三十年間を、 一つの時代とみなすことは、きわめて困難だという気がする。 わたしの考えでは、一九六〇年あたりを一つの分岐点として、現代は、前後に分かれるべきだ とおもわれる。 一九六〇年代の初頭というと、抽象美術の領域で世界的な流行を引きおこしていたアクション ないしはアンフォルメル様式がようやく定着し、それに代わって、ネオ・ダダやポップ・ア 1 ト がそろそろ抬頭し始め、 1 ト・エッジの抽象が復活し、オッ。フ・ア 1 トが誕生し、それにつづ ミニマル・ア 1 ト、システミック・ペインティングなどと して、プライマリ・ストラクチャ よばれるさまざまの新様式が登場した段階である。 一九七〇年頃になると、さらに、アース・ワーク、エコロジカル・ア 1 ト、エンヴァイロメン ハ 1 ・リアリズム、コンセ。フチュアル・アートなどが次々に生まれた。 この一時期は、現代美術の一段階であるとは言っても、一九六〇年以前とは、決定的に異なる 性格の美術を生んでいる。一口に一言えば、この新しい段階の美術は、「脱美術」的要素を強く持 っている。ちょうど、ここに登場してきているローシェン・ハ 1 グあたりを転換点にして、コンテ 《保守的な日本のコレクター》 196

8. 社会のなかの美術

前者は、十二年五月におこなわれて、五二〇点で総額一四〇万円を売上げ、大正初年に八〇〇 〇余円だった雪舟の「真山水」が一四万五九〇〇円、若冲の「雪中花鳥」が七万六九〇〇円で落 札されて、注目をあび、後者は、六月におこなわれて、百数十点で、二四〇余万円を売上げ、一 点一万円以上の物品が多いことでは、空前であった。二〇万円台のもの一点、一〇万円台のもの 二点、五万円以上のもの一〇点、一万円以上のものが三一点という豪華さであり、これこそが、 好況へ向かう指標とおもわれた矢先に、突如、関東大震災が発生して、一切が潰減する。おもい がけない好運に感謝した右の酒井家では、罹災者救済にと三〇万円の寄付をしている。 多数の名品所蔵家が罹災し、美術倶楽部も全焼し、以後、翌十三年十月まで、東京では、入札 会が中止されたことは、言うまでもない。 東京美術倶楽部は、まもなく、芝区愛宕下町四丁目四番地の服部金太郎邸跡である現在の場所 に移転し、川部利吉を二代目社長に選出して、再建に着手し、意外に早く、一年後には、売立て を再開した。 だが、その後しばらくは、大入札はなく、十三年後半期には、一万円以上の出品物のあった売 いくらか動き出し、十一月の物持では 立ては、二つしかなかった。十四年に入ると、さすがに、 全国で十指中にかそえられる井上侯家人札でようやく、息を吹きかえす。一万円以上の物品が六 六点もあって、総額は二四五万円に達し、第一次大戦後としても、最高の売上げを示した。この 好成績を喜んだ侯は、自分の手取分一九六万円のなかから一〇〇万円を寄付して、育英事業の財 116

9. 社会のなかの美術

円、信実の「栄華物語」が一一万六〇〇〇円にも達すると、熱狂の極度に達して、歓呼の声が大 広間を動かした、という。 次いで、六月におこなわれた赤星家入札も、特筆すべき大事件であった。第一回が三九〇万円、 第二回が三八〇点で八九万円、そして第三回と合わせると、総額五一〇万円にも及び、空前であ ることはもちろん、その後も、昭和初期に至るまで、この半額に達する売立てさえなく、絶後で もある超大の売立てであった。一点ごとの価格も相当であり、最高は、梁階の「雪中山水」で、 じつに、 二一万円という、はじめての二〇万円台のものが現れた。 第二回は、直前の大暴風雨にもかかわらず、前記の売上げがあり、天候がよかったら、もっと 好成績だったろうと言われている。第三回は、ガラクタが多く、一点一万円以上のものは一件し かなかったが、それでも、総額は、記録破りのものとなった。 当時と今日では、貨幣価値が異なるが、一円もあれば、飲食店か小道具屋をやる店を一か月間 立 借りることができ、明治版の錦絵が三枚続で七銭五厘、上等の牛鍋が五銭、職人の手間が一日二 の 部 五銭という時代である。 楽 大正六年におこなわれた入札会三尊と言われるもののもう一つは、十一月の佐竹家のものであ術 京 る。これには、三〇〇点が出品されて、全部が売却され、なかでも信実の「三十六歌仙巻」が一 点平均一万円の三五万三〇〇〇円で落札したのが、驚異的であり、総額は、一一一万余円となっ た。なお、このとき、光琳の「三十六歌仙二枚折屏風」に、六万六一〇〇円という高値がっき、

10. 社会のなかの美術

第三頓挫時期 ( 大正九年 ~ 十二年 ) 第四震災時期 ( 大正十三年 ~ 十五年 ) これは、きわめて妥当な区分で、東京美術供楽部の記録とびったり対応している。発足以来、 一〇パ 1 セントの配当をつづけていたこの会社が、大正五年には、突如、二〇パ 1 セントに増配 し、翌六年には、驚くべきことに、七〇パ 1 セント ( 特配をふくむ ) に増配し、以後、七、八、 九年と二〇。 ( 】セントを保ち、不況時代に突入した十年以後は、一〇パーセントこ 冫いったん戻っ た後、十一年には、上二〇、下一〇。ハ 1 セント、十二年には、上三〇、下六〇。ハーセントと変動 し、十三年には、上六、下一〇パ 1 セントに下落し、十四年は、二〇。 ( 1 セントに戻り、大正十 五年には、もう一度、一〇。ハ】セントとなっている。 大正五年から九年までは、まさしく、成金時期であり、よくも悪くも、全盛期と言える。 その劈頭を飾ったのが、五年の五月と七月の二回にわたっておこなわれた伊達家人札で、五万 円以上で落札したものが三点あって、第一回は三七〇余点で一〇五万円、第二回と合わせると、 五〇〇点で一五〇万円の売上げに達し、大名道具移動の先駆をなした。目録一万二〇〇〇冊を刷 り、入場券を同封して送り、これを持参しないものの入場を認めないとしたところ、発足以来の 大反響だったという。 配当が七〇。 ( 1 セントにも達した翌六年の売立ては、どうであったか。まず、六年五月の秋元 子爵家入札では、二六〇点で一四七万八〇〇〇円の売上げがあり、啓書記の「八景帖」が一四万 112