多数の画家の多様な作品でみたされているとはいうものの、そのほとんどが、手頃の大きさの適 度に巧みで快い作品であり、一人の画家の力量を代表するような傑作にはあまりぶつかることは 人気作家というと、どこも門前市をなし、山のような注文をこなしきれずに必死であるけれど、 美術市場へ出ていく絵は、ことごとく、右に述べた手頃の大きさの適度に巧みで快い作品であり、 その画家が全力を注ぎこんで描きあげた傑作は ( もしそのようなものがあれば ) 、多くの場合、 アトリエに残って埃をかぶり、ごくまれに、どこかの美術館がほんの申しわけ程度の些少の金額 で購入することがあるくらいである。 まったく不可解な事態というほかないが、これが美術市場の現実であり、大多数の美術コレク タ 1 の実力なのである。 だからかりに、一人のコレクターのもとに何百という作品があっても、そこに立体的なふくら みが生まれず、一つのまとまりも感じられず、コレクションと呼ぶには多分に躊躇せざるをえな いことが少なくない そんなことを言ったって、これが日本経済の二重構造の実体なのだから仕方がないじゃないか、 という弁明がきかれるだけかもしれない。あるいはまた、絵画は大部分が室内鑑賞用のものであ り、その機能が果たせればそれでもう充分ではないか、という現状満足論もきかれるだろう。 いや、日本の建物は小さくて、いや、企業は大きくても、個人に金がなくて、いや税金が :
《マルシャンとギャルリー》 これらのことができる画商がいい画商なのであり、それこそが、フランス語で言うマルシャン とは異なるギャルリ 1 の独自の役割である、と一一一口えるだろう。要するに、真に、画家に関するあ らゆる知的必要をみたすことができなければならない。この意味でも、画商は、立派な知識的職 業なのである。 画商は、直接的には、画家の制作する作品の売買人であるけれど、熱心な画商になればなるほ ど、よりよい作品を得るために、画家の制作過程にまでタッチする。もとより、それは、彼の創 造の自由を妨げるものであってはならない。しかし、実際には、協力と妨害は、紙一重の差であ り、区別が難しい。とりわけ、画家がスラン。フに陥ったり、その作風が時代の流行と一致しなく なった場合に、画商のとるべき態度は、微妙である。また逆に、その画家の特定の様式が受けた ときに、それをどこまでくりかえし描かせるべきか、容易に判断は下せない。 ヨーロい アメリカでは、画家と画商の間にトラブルが生じることがひんばんで、ときおり、 法律上の争いにまでなっている。多くは金銭上の問題であるが、法廷では解決できない芸術上の係 関 の 葛藤も、じつに多いようにおもわれる。 AJ 画家と画商の関係が、経済と芸術の両面にわたって、円滑に、創造的に営まれるということは、家 まれである。しかし、いし 、画商の背後には、ほとんどかならず、両者のいい関係がある。 美術プ 1 ムが発生し、にわかに、多数の画商が出現するときには、マルシャンが多く混じって
ない。そうした条件のもとで言 0 ても、しかし、美術 = レクシ , ンには、少なくとも二つの種類 があると言わなければならない。確定的な評価を持 0 た古典美術を所蔵する誇りもあろうが、未 知なもの、異質なものを支持していくよろこびを、人はどうして否定することができるのだろうか。 わたしの見るところでは、日本におびただしい数で存在するコレクタ 1 に欠けているのは、第 二のタイ。フであり、とりわけ大コレクタ 1 にそれが顕著である。 ヨーロッパやアメリカの美術専門家がやってきて、いつも首をかしげるのは、近代、現代の美 術のコレクションがこの国に形成されていないことであり、絵画に比べれば問題にならないほど 低廉な版画ですら、ほんの少数のところをのそくと、まとまったコレクションが絶無というわれ われの実情である。 海外との比較で言えば、近頃、海外の美術作品が多数日本に輸入されるようになり、さまざま の波紋を美術市場に生じているが、それらのものも、多くは、手頃の大きさで、適度に巧みで快 い作品であり、はじめから、 = レクターたちの能力を見越して作品が選択されていることが感し られ、あまり愉快ではない。 それらを基準にして、ヨーロッパやアメリカのコレクターを推しはかると、見当が外れる。ョ 1 ロツ。 ( やアメリカだからといって、全部が全部大コレクタ 1 であるわけもないし、売買される のが、すべて傑作だということはない。くだらないものが圧倒的に多いのは、どこでも同じこと である。
なものしか見ないのと変わらないことになる。 それをはっきりと証明できるのは、冒頭に例示した最近の展覧会である。次から次へと開かれ るそれらヨーロッパ美術の展示を巨視すると、そこにいくつかの類型が認められる。 ①古典的大家のそれほど重要でない作品 ②バルビゾン派、および印象派とその周辺の大小画家の種々の作品 ③世紀末から現代初頭におよぶ有名画家の種々の作品 ④現世代の有名、無名の画家の種々の作品 それそれについて、簡単に説明すると、①は、古典期の傑作がもはや容易に入手しがたい現状 では、その質が低く、また、量も少ないのは当然と言っていいだろう。その結果として、もっと も多くもたらされ、人気の集まるのは、②と③であるが、②の場合は、③以上に価格が高く、傑 作は入手難であり、どうしても、有名画家の小品、もしくは二流画家の凡庸な作品に傾きがちと なる。③は価格の点では、②よりもいくらか有利だが、それでも同じ傾向が早くも現れている。 ④の登場は、きわめて最近のことで、数量的には、この種のものが圧倒的に多いが、その質は雑 多であり、もつばら、大衆向きの室内装飾品として扱われている。 そして全般として、フランスの作品が大多数を占め、わずかに、イギリスがそれに次ぐ。ただ し、版画では、他の国の作品が相当数加わっている。美術様式から言うと、自然主義、印象派、 フォ 1 ヴィスムを主軸とした写実および具象傾向がそのすべてと言ってよく、版画に現代の尖鋭 164
《画商と批評》 画家が制作する作品は、画家自身が愛好者の手にわたす場合もあるが、この社会では、画商を 媒介とすることが少なくない。 よく知られた画家になればなるほどそうである。したがって、画 稀薄であることは、言うまでもない。 画商発達史を見れば明白なように、近代画商は、マルシャンからの脱却によって成立した。そ の点に関しては、日本の現状は、ちょうど、過渡期にあると言ってよく、残念ながら、まだ多く の人々がマルシャン的段階にあるのが、実情だろう。しかし、個々の画商の明確な責任分担によ る全体としての豊かさと安定が、雑多なものがかもし出す一見のにぎやかさより望ましいことは、 改めて強調するまでもなかろう。一つ一つの画廊によって厳選されてはいるが、結果としては、 おもいのほか多数の画家が絵画によって生計を立てることができ、うるおってもいる。ハリやニ、 ーヨークの状態に対しては、わが日本では、市場の大部分を、多数のしかし同一の画家が占め、 実質的には恐るべき寡占状態になっている、と一一一口えるようにおもう。徐々にではあるが、現状は 変化しつつあるが。 2 画商のカ 136
現在、日本を除く世界市場は過熱的な美術プームを呈し、かっての大恐慌の直前をおもわせる 状態にあるが、さすがに人々は以前の苦い経験に学んで、基本的には美術独自の法則から外れて よい、ない 第一級品の品不足から凡庸な作品にまで蒐集の対象が広がり、多くのものが値上がりしている ことは事実である。だが、すでに見たように、他方では、実質のない作品は容赦なく見捨てられ、 明瞭な対比をなしている。この対比がある限り、市場の発展は健全につづくことだろう。 アメリカの蒐集家の原則であ なんでも売れるときは傑作を買え ! というのが、ヨ】ロッ る。いくら人気のあるルノワ 1 ルにも、凡庸な作品は多数ある。実際に処分するときになると、 それらのものは、たとえ、いくらルノワ 1 ルであっても力がなく、傑作だけが価値を持つのであ る。 最近、海外から多数の作品が日本に入ってきて、市場はいくらか拡がりはじめているが、ヨー アメリカの市場では、一流の蒐集家からは見向きもされないような有名画家の凡作が、 かなり混じっていることは、否定しがたい。 外国の作品がただ数多く入ってくることが、日本市場を国際化することにはならない。どこの 国の美術であれ、第一級の作品が増えるのでなければ意味はない。 222
美術への理解が欠如しているのである。 現在、このような観点から、われわれを見舞った・フームをふりかえってみるとき、本格的な美 、意味における美術投資家も、それほど 術蒐集者層が拡大しなかったことは言うまでもなく、いし しっさいが美術になんの責任も持たない投機 は出現しなかったという事実を認めざるをえない。、 家たちに引っ掻きまわされ、それに刺激された軽薄な投資家が多数生まれたにすぎなかった。 考えてみれば、この五年間、日本の美術界はこれまでになかったじつに多くのことがらに接し たはずであるが、この経験から何を得、そして学んだかということになると、はなはだ心もとな いのではあるまいか。 海岸に潮が引いた後、汚らしい廃物だけが残されているように、美術界は今、混乱の収拾に大 わらわであり、この経験によっていささかなりとも前進した、と言うことは困難なようである。 ・フームの最高潮時には、おそらく、年間に最低で二 ~ 三〇〇〇億円の売買があったと推定され る美術界だが、それほど多くの月謝を払いながら、将来のためのなにものも得なかったとしたら、 これほど空しいことはないだろう。 最近一つの反省として、美術作品を投資の対象とするな、という声がしきりに聞かれる。しか し、これは的を外れている、とわたしは考える。この資本主義社会にあって、絵画であれなんで 《美術投資の条件》 210
ーズの場合では、月曜日が てを予告している。そしてスケデュ 1 ルも決まっていて、クリスティ 陶器、火曜日が楽器や骨董品、水曜日が銀器と書籍、木曜日が家具、じゅうたん、工芸品、金曜 日が絵画というふうになっている。 売立ての直前には展示会が開かれるので、そこへ行って、実物をカタログと参照して、ゆっく りと見ることができる。 売立ての当日は、あらかじめ入手したい品物を心の中に決めておいて、それが順番に従って現 れるのを待ってせればいいわけである。 せりは、オークショニアが次々に上げていく値段に反応していく仕方でおこなわれ、最後に残 った人がその品物を獲得したことになる。 オークションで買う品物ははたして市価よりも高いか安いか、という論議がつねにある。 多くの人々の人気の的となるようなものは、どうしても激しくせられるために、従来の価格よ りも高くなりがちだが、オークションには専門の業者も多数混じっているので、彼らがそれをさ格 の らに自分の店で再販売することを考えると、必ずしも、高く買わされたことにはならない。 ン さきに挙げた例で言えば、一九二六年にノドラーはロムニ 1 の「ダヴェンポ 1 ト夫人の肖像」 ク 1 ズで落札した後、メロンに対して七万ドルで売っている。ノド を六万九〇〇ドルでクリスティ オ ラーは九一〇〇ドルのコミッションを取ったということになる。 もっとも、こう言うと、画商で買う品物がすべて高いようにきこえるが、必ずしもそうではな
契約は、画家の生活を多かれ少なかれ、安定させるが、同時に、契約の仕方によっては、自由 な創造活動を規制されることにもなる。具体的に言うと、あまりに大量の制作を強いられる場合、 主題や様式や作品の大きさを限定される場合、不当に高い価格を付される場合などである。契約 は、画家を生かしもし、殺しもする。 日本では、画家と画商の契約制度は、ごく新しいことで、今でも、大多数の画家は、①か、せ いぜい、②によって、作品を売っている。それは、画廊と呼ばれているものの大半が、貸画廊で あるという世界に類例のない状態によってわかる。しかし、画商の専門性が確立するためには、 契約制度はどうしても必要であるだろう。 契約が結ばれると、画商は、いわば、画家の代理人 ( = ージ = ント ) になるわけで、その画家を 売り出し、知らしめるために、あらゆる手段で宣伝活動をおこない、かっ、不当な批評や誤解か ら、彼を護らなければならない。ただし、誇大な宣伝やセンセ 1 ショナリズムは、逆効果を生む ので、避けるべきである。理解のある画商は、単に、画家の作品を売買するにとどまらず、彼の おこなういっさいの芸術活動に協力し、しばしば、ビジネスに無関係の事情にまで関与する。作 品目録および写真の作成、整備、文献の蒐集、保存、出版物への資料の提供、各種の展覧会への 作品貸与、芸術運動への協力、等々。 142
とうていおもえない。アメリカにおける美術コレクションに対する免税制度は有利だとも言う。 だが、もしも日本で同じことがおこなわれたとしても、わたしは、このままで良質のコレクショ ンが形成されるとはおもわない。すべては見識の問題なのである。アメリカ人にしても、はじめ から美術館に寄贈するために、作品を買ったのではなく、だれもがそうであるように、欲得を考 えて買ったものが同時に、質を具備していたにすぎない。そして、質を具備することが、美術コ レクションには必須の条件なのである。 ミューゼアム・ビース」と言う。 美術館に陳列できるような逸品を、わたしたちの間では、「 いったいどれだけあ ところで、そのミュ 1 ゼアム・。ヒースが、前記の三大コレクション以外に、 るものだろうかミ = ーゼアム・ビースは、コレクションの頂点である。大多数の人間は、まず実 資カから言って、そこまで手を伸ばすことができないが、しかし、一国全体のコレクションの水術 美 準を考えるときには、その多寡が唯一の尺度となる。美術コレクションは、文化の一要素であり、入 る あるいは文化そのものだからである。 け 一九七一年十月に、兵庫県立近代美術館が開催した「近代ヨーロ : ハの美ーーーロマン派から現に 代まで」は、日本の公私のコレクションから選抜した九一点の絵画と一五点の彫刻による美術史二 展であるが、公立と三大コレクションのものを除くと、全体は半数ほどに減り、展覧会として成九 立しないことが判明する。 国立西洋美術館年報には、これまで三回、日本にあるヨーロッパ絵画を画家別に調査した結果