第二次大戦後 - みる会図書館


検索対象: 社会のなかの美術
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1. 社会のなかの美術

ートナーを伴ってただちに = : ーヨークへとんだ。そして遺産管理人に交渉し、その処分を自分 のところでおこなう承諾を取りつけた。 これは第二次大戦後最大の売立てであった。しかも、それを今まで美術品をほとんど扱ってい ないサザビーがおこなうというのだから、センセ 1 ションを引きおこさずにはいな、 ウイルソンは第二次大戦後の猛烈な美術ブームに注目し、いっか自分のところでも美術品を扱 うチャンスをねらっていたのだった。そのときが、今だった。 エリザベス女王、エデイイ ( ラ公、マーガレット王女が参観においでにな 売立ての二日前に、 、人々の関心はいっそう高まった。当日は三〇〇〇人を超える観衆が集まり、午前十一時から、 パリからやってきた画商が占拠していた。 せりが始まった。前の席はロンドン、ニ = ーヨーク、 作品は異常な興奮の中で次々に高値を呼び、嘆息がもれたが、当日の注目の的はなんといって も二点のファン・ゴッホだった。「クリシーの工場」が八万六八〇〇ドル、「天使の顔」がそれに 次ぎ、それにルノワールの「赤い胴衣の少女」が六万一六〇〇ドルという落札値だった。そして 総売上額は九一万四二五六ドルにも達した。 ハウスに転向し、しかも、最大の店となったのは、このとき サザビーが美術のオークション・ からである。

2. 社会のなかの美術

は、四七八万五〇〇〇ポンドにしかならなかった。昨年五月のオークションが八三〇万ドルも売 上げたのを想起すると、大変な落ち込みである。 この総額から推定すると、ほとんどすべての作品は三割前後の値下がりを見せているとおもわ れる。たとえば、モディリアニの作品で、今まで四五万ドルしていたものが三一万ドルにしかな らないと言う。こうした現象は、このところ各地でおこなわれているオークションで軒並みに見 いよいよ本格化し、永続化してきたことが認められるの られる。後退は一時的なものではなく、 である。 , ウスでは、今、売り手に対して、標準価格を この危機を乗りこえるために、オークション・、 はたして、そうした方策で難局は突破でき 引き下げることを懸命に説得しているとのことだが、 バーネットでは、過去二週間に、総額にして標準価格を八〇万ドルも引き るだろうか。。ハ 下げたと言う。これは実質的な値下がりの公認にほかならない。第二次大戦後見られなかったこ とであり、もっと遡って、大恐慌の回復後はたえてなかったことと言っていい。 一九二九年、第一次大戦後の好況に酔っていた美術市場は、突如、不況に見舞われて、すべて 1 セントも落ちこんだ。当時、高騰がめざましかった印象派 の価格が下落し、平均すると六一一バ も例外ではなく、モネが二五パ 1 セント、ゴーギャンが五〇パーセント、セザンヌが八〇。 ( 1 セ ントも値下がりした。今回の現象はそれと同一の。 ( ターンを示しているのではないかと、一部で は憂えている。 200

3. 社会のなかの美術

〈画商とは何か》 画商というのは、新しい職業である。ヨーロッパでは、一八三〇年代に生まれ、十九世紀末に 盛んになった。日本ではずっとおくれて、明治四十三年 ( 一九一〇 ) に、高村光太郎によって、最 初の画廊である琅坪洞が設立されたものの、ある程度の数のものができたのは、ようやく大正末 年から昭和のはじめにかけてである。厳密に言えば、第二次大戦後に、はじめて経済的に成り立 つようになった職業と一 = ロえるだろう ( 古美術商や日本画商は別として ) 。 ョ 1 ロッパとアメリカでは、今世紀に入ってから、印象派や後期印象派の評価の高まりととも に、画商が増加し、一九二〇年代には、株式市場に匹敵する一大市場が形成された。以来、多く の人々がこの市場に注目し、参加し、巨額の金が投じられてきた。 美術市場というものが、経済的に成立したということは、逆に言えば、それは、経済の変動に よって影響を受けやすいということに他ならない。事実、それは、一九二九年に始まる大恐慌に よって、瞬時に潰減し、その後の七年間は、廃虚のような状態だった。そして、一九三〇年代の 中頃から、徐々に回復したとはいえ、まもなく、大戦に遭遇し、低迷がつづき、本当に立ち直っ 1 画商の資格 132

4. 社会のなかの美術

第二次大戦が終了すると、恐慌と戦争によるさしも長かった低迷の時期は去り、市場は旧に復 し、以後徐々に景気は上昇する。しかし、一九二九年から数えて十五年余もたち、この間に、多 くの蒐集家が前途を悲観し、また換金の必要に迫られて、コレクションを処分していた。このと きまで持ちこたえた人間も、戦後の上昇期に、ようやく時機到来とみて、手放した人も少なくな 。事実、それらの人々は、コレクションの売却によって、再出発する資金を得ている。 この段階で、美術市場に出入りする人間の顔ぶれは、ほとんど一新したと見てさしつかえない。 そしてこの新しい上昇期に、意欲的に美術投資をおこなったのは、第二次大戦直前の一時的立ち 展 直りの時期から戦争中にかけて蒐集を始めた人に多かった。 発 エメ・マーグは、戦争中から蒐集を始め、はじめ、ポナールに注目して、一九四七年に彼が死辺 ぬと、アトリエごとそっくり遺品を買い入れ、 ( リに画廊を開いた。このポナールを最初として、 戦 ・フラックを次々と扱い、大成功を収め、たちまちのうちに産をなした。彼の触手はさ らに、シャガール、ドラン、ジャコメッティ、 レジェ、カンディンスキー、カルダー ミロらの 4 戦後市場の発展 新時代の蒐集家エメ・マーグ》

5. 社会のなかの美術

松方幸次郎が、第一次大戦の勃発によって偶然生じた莫大な金銭的余剰をもって、多数の美術作 品を購入したのは、この時期であるが、そのコレクションは、最後に彼がようやく身につけた自 分自身の見識において集めた少数のものを除くと ( それも時代おくれの印象派である ) 、ほとん どすべてが、今日、正当な美術史的評価の対象となりえないものである。 彼は美術蒐集をするに当たって、当時の近代美術の最高権威であったリュクサン・フール美術館 の助言に従ったのであるが、この美術館そのものが、近代美術の専 館長のレオン・ベネディット レノワ 1 ール 門施設でありながら近代美術に対してすこぶる頑迷であり、以前のことではあるが、ノ が故カイユポットの遺品を同館に寄贈しようとしたところ、多数の作品を拒否した。そんな美術 館の長をつとめる人間に選択の指示を受けた結果、あの厖大な松方コレクションは、少なくとも 途中までは、極端に時代遅れのアカデミックな作品でいつばいになってしまい、全体としても、 印象派、後期印象派はごく一部分であり、それ以後のものとなると皆無に等しい、ということに よっこ 0 この同じ時期に、ドイツやアメリカやロシアの意欲的な蒐集家たちは、おもう存分に好きな作 品を買い入れていたのである。 それはさておき、第一次大戦後の好景気によって、印象派および後期印象派の作品は、人々の 注目の的となり、価格が高騰し、売買がすべてにわたって活発となり、世界的規模における美術 市場が成立した。その時点を一九二五年と見るのが、歴史上の常識となっている。美術商は一つ

6. 社会のなかの美術

現代絵画の高騰率 円 45 = IOO% ッキ これら三つのグルー。フの関 ン師 0 4 5 % クンザ ( サ サー 2 ッランプル ン 係をグラフで見ると、一つの ラドゴ一ユ ラ プ、スルリ ル、グ ロ 明瞭な数値が得られる。 5 ソ一一 3 グ カガオ第ン 々 - 0 8 「ー 1 ー レ どのグル 1 プについて見て シ、ルス ア ス イプアヤ 50 0 0 も、一九五五年から一九六〇 4 0 0 0 テ、一リィリラ マルイユダペ ( グデヴ プププ年に至る五年間の上昇が著し プ 2 モロ、ス ロ いが、とくに第一グル 1 。フの 妬グエフ ュ コ 繝鰤 場合は、三〇六から二〇〇九 第レデクリマ第第第 へと急カ 1 プを描いている。 これは、同時期に印象派が七九四から一二〇八、そして後期印象派が五六六から四八三三へと 上昇しているのと比較すると、現代絵画は印象派を凌駕し、後期印象派に接近していることが明 白である。この数値を一九四五年を起点とするものに直すと、次のようになる。 10 8 印象、冫 っ 0 0 っ 1 後期印象派 っ 0 0 現代絵画 これによって、第二次大戦後における現代絵画の価格上昇がいかに著しかったかが、自明とな るだろう。 第一グループ 日 00 第 2 グループ 第 3 グループ 60 ( 年 ) 円 55 306 299 288

7. 社会のなかの美術

^ その来歴〉 ウスに大コレ 「世紀最大のセール」という言葉がしばしば使われる。どこかのオークション・ ( クション、または傑作が現れるときに使われる言葉だ。 しかし、第二次世界大戦後の三十年間を通じて、最大のセールと一一一口えるものは、レン・フラント の「ホメロスの胸像を眺めるアリストテレス」ではなかろうか。 アンナ・エリクソン夫人はアルフレッド・ ・ , リクソンの未亡人である。彼女の夫は、エリ クソンときけばアメリカ人ならばだれでもわかるように、アメリカの広告界の大立物であった。 一八七六年に生まれ、今世紀のはじめ頃に = リクソン広告エージ = ンシーを設立して成功し、 一九三〇年には・・・マッキャーン会社と合併してマッキャ 1 ン・エリクソン会社を作りセ 大 あげ、長年会長におさまってきた。 最 ーン、ホルバイン、ゲインズバラーなど多紀 合併する八年前から美術コレクションを始め、イハ 数の絵画を手中に収めた。 そのなかの最も高価な一点に、レイフラントの傑作があった。 世紀最大のセール 「ホメロスの胸像を眺めるアリストテレス」

8. 社会のなかの美術

いるわけである。 一口に美術市場と言っても、そこにはありとあ らゆる作品が出入りする。なかには価格が見る見 る高騰するものもあれば、無残にも下落し、見捨 てられるものもある。 それらをすべてならして平均値を求めた場合、 どのような結果が現れるかと見てみると、一九二 五年以降の価格の動きは、上のようになる。 ここで、誰しもが気づくのは、美術価格は今日 に至るまで、その途上になんの変化もなく、順調 に上がりつづけたというのではない 、という重大な一事である。 一九二九年に一六五といったん上昇したものが、一九三〇年には一〇〇へと後戻りした後、三 三年にはその半分の五〇へと転落し、第二次大戦中は低迷をつづけ、ようやく終戦時の四五年に ほ・ほ出発点に戻っている。以来上昇がつづき、一九五五年から一九六〇年にかけて急騰するとい う経過をたどっている。 一九三〇年代になぜ価格の大幅な急落があったかと言えば、言うまでもなくそれは、一九二九 年に始まる大恐慌の影響にほかならない。 美術価格の動き ( 年 ) 円 25 円 25 = 0 % 田 0 900 5 円 29 円 30 0 円 33 円 35 円 40 田 2 円 45 150 円 50 200 円 55 290 9 引 20 円 60 5 円 25 30

9. 社会のなかの美術

ーズにとっても象徴的な事件であった。 親引きとなったが、これはクリスティ ・コレクションを扱い、翌年には、ゴール この年、ライヴァルのサザビーが、ワインバーガー ドシ = ミット・コレクションを扱い、美術の領域へとめざましく進出してくる。 〈クリスティーズの再建〉 この情勢にさすがにクリスティ 1 ズも目を覚まし、全面的な改組がおこなわれて、アレック・ チャン マーティンがー 弓退し、十八才のときからこの会社に勤めていたアイヴァン・オスワルド・ スが社長に就任する。 チャンスは自分が責任者の立場に立つや、まず、 = = ーヨ 1 クに人間を置いて、常時、市場の の建物の壁はクリーム・ホワイ 動きをテレックスで知らせてくるようにし、キング・ストリ 1 ト トに塗り変え、コレクタ 1 、美術館員、政治家、ジャ 1 ナリストなどを招いて食事の会を催し、 ザ サ に努めた。 AJ オ 1 クションというものは流行に関係のあるもので、あらゆる階層とズ 彼は考えるーーアート・ テ その流行、そして時代の美を引きつけなければならない。第二次大戦後に始まり、この十年間 ス オークションはマスメディアのトップ・ = = 1 スとなるようになった。新しい世代が市場に入っ ク てきた。自分の判断で、一万ポンドまでならば、家具、銀皿その他のものを買える人々が増加し ( ウスの同一のスペースに住むようになって、社 た。より多くの人々が新しいア。 ( ートメント・

10. 社会のなかの美術

〈美術の価値》 美術の価値は、本質的に、非確定的で、変動的である。その上に築かれている美術市場は、当 然のことながら、不安定で、そこに、経済の状態が反映すると、激しく揺れ動く。好況は好まし いが、その後には、不況が待ちかまえていることを、つねに予期していなければならない。今世 紀初頭の好況は、二十五年つづき、その後に襲 0 た不況は二十五年つづき、第二次大戦後の好況 もまた、二十五年つづき、今、再度の不況に見舞われている。巨視的に見ると、二十五年周期で あるが、その間に、絵の様式、流派、作者による小きざみな変動がたえずあ「た。 誠実な画商ならば、この事実を知「ているし、つねに念頭において、売買しているはずである。 そこで、彼らは、自分たちの責任を明確にするために、有力で、持続性のある少数の画家を選り すぐり、その作品のみを長期に売買する。彼らのうちに人気作家がいれば、それ以上のことはな いが、たとえいなくとも、け 0 して他の人気作家を追うというようなことはせず、かたくななま でに、自己の専門性を主張しつづける。一つの画廊が、新しい画家を加えること、あるいは、古 い画家を切り捨てるということは、大変なことである。 それそれの画廊が一定の専門性を持ち、相互に性格を異にしているが、それだけに、全体とし資 ては、非常なヴァラ = ティに富み、愛好者の側からすれば、選択に幅があるということは、好ま商 しいことなのである。これに対して、フランス語で「マルシャン」と呼ばれる人々は、そのとき どきの流行に応じて、多数の人気作家を無差別に扱 0 ているが、そこには、将来に対する責任が