美術 - みる会図書館


検索対象: 社会のなかの美術
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1. 社会のなかの美術

その条件は、たとえば、アメリカにおけるように、美術作品の公共美術館への寄贈に特別の免税 制度を設けるといった処置だけによっては絶対に確立しないだろうと考える。問題は、あくまで も、コレクターその人の見識にある。 われわれの間には、けっして、諸外国に較べて遜色のない大コレクターが多数存在しながら、 クのコレクタ 1 であるというこの偏頗な状態は、なんと そのほとんどが保守性の強いアンティッ しても打破されなければならない。 それにつけても、一国の行政府が、国立美術館に、一館あたり、今日増額してなお、せいぜい 六〇〇〇万から一億五〇〇〇万円程度の、国民をおよそ侮蔑したような作品購入費しか与えてい ないというのでは話にならな、 これは単に金額の問題ではなく、まさしく国家の文化行政の問題であり、これをもっていつま でもよしとしているようでは、民間人の奮起を期待することなどはできる相談ではない。官民と もに、このあたりで、よほど確固とした文化哲学を持つべきではないだろうか。 さて、以上見たように美術蒐集は、なによりも哲学の問題であるが、現実的な技術としては、 恣意的におこなうことはできない。哲学を実現するためには、何人も、社会学的に対処しなけれ ばならない。それは一見、不定形に流動する美術市場に、厳しい客観的な法則があり、価値の決 11 はじめに

2. 社会のなかの美術

凵社会のなかの美術 瀬木慎一 社会のなかの美術 瀬木禛一 著書ー 一九二八年、東京に生まれる。一九五一年、中 亠央大学法学部卒業。ヨーロッパ前衛芸術から日 本美術までの幅広い視野を持った美術評論家と して活躍している。和光大学講師、女子美術大 学講師。美術評論家連盟員。東美研究所所長。 『浮世絵師写楽』〔学藝書林〕、『第一一一の芸術』〔読売〕、『ビカソ 世紀美術の象徴』〔読売新聞社〕、『画狂人北斎』〔講談社現代新書〕、 『真贋の世界』〔新潮社〕などのほか多数。 東京書籍 推薦のことば 瀬木禛一さんは美術、美術史に精通しているばかりでなく、 美術品の流通市場、画商の内情を熟知した 当一流の美術評論家です。 価値と価格の双方に慂するのは、 日本では減多にないことです。 その瀬木さんが実際にお金を出して美術品を買う人の側から、 美術の世界に迫ったのがこの本です。 読んで面白いし、 頭に残った知識は役に立ちます。 ご一読をおすすめ致します。 邱永漢 ( 作家 ) 選書 0 瀬木慎一 890 円 0371 ー 599020 ー 53 ー 3

3. 社会のなかの美術

まれて、充実したコレクションが築きあげられることは事実なのである。いいコレクションの陰 には、 かならず、いい美術商の存在がある。 今、モスコウとレニングラードにある近代フランス美術の大コレクションの元の所有者は、シ / リで、画商カーンワイラ 1 を窓口として、それらの作 チュ 1 キンという実業家だった。彼は、。、 品を入手したのだが、自分が。ハリに行けないときは、モスコウにあって、その都度、たった一本 の電報で購入の返事をしたという。美術商とコレクタ 1 との最善の関係を示すすばらしいェビソ 1 ドである。 今後、日本の美術コレクションが真に豊かになるためには、なによりも、美術商の知的水準の 向上が必要であり、信頼もなにも、すべてはそこから生まれるにちがいない。カ ] ンワイラーの 回想録『わたしの画廊、わたしの画家』を読まれることを、あらゆる美術関係者にわたしはすす めたい。 2 夫術ブームと日本 《驚くべき美術市場の拡大〉 美術ブ】ムということが、しきりに言われているが、ここ数年の市場の盛況はたしかにこれま 173 美術フ・一ムと日本

4. 社会のなかの美術

美術コレクシ ' ンがかってなく活発になった。それだけ、コレクターたちが増えたということ である。 ある調査によると、大企業の部課長クラスの家庭で、一〇人に一人の割合で、絵を持っている ということだから、この程度で、これだけ、美術市場が動くとすると、美術に対する潜在的需要 は相当に大きいと考えられる。 美術コレクションが本格化するのは、これからであろう。 したがって、現状はまだまだ過渡期とおもえるので、断定的な表現は避けなければならないが、 率直に言うならば、現在おこなわれている美術 = レクシ = ンはその活発さにもかかわらず、どこ となしに、層に厚さが足りないという感じを拭うことができない。 どうしてなのだろうか。まず、自分たちの周辺を見まわしてみるといい。美術市場には内外の はじめにーーー美術蒐集の論理 5 はじめに

5. 社会のなかの美術

《蒐集家と投資家》 つい先頃日本の美術界にあの・フームがおこったとき、わたしがひそかに期待したのは、本格的 意味での美術投資家たちが育っことにあった。しかしそ な蒐集家層の拡大であるとともに、いい ばっこ の期待は満たされず、見られたものは、無責任で厚顔無恥な投機家たちの跋扈であ 0 た。 しかし日本の美術界は、経済発展の現段階から言って、当然、大量の美術投資家を生まざるを えない段階へ来ているようにおもわれる。 さきにも述べたように、一般的美術蒐集家と美術投資家との境界は不分明であり、しかも、美 いい意味での美術投資家 術市場の動向を左右するのは、結局はこれらの人々である。それゆえ、 が育っことが、相対的に好ましいことなのである。 本格的な美術蒐集家というものはどこの国にも数少ないし、一挙に育つものではない。美術蒐 コレ 集する人々の大多数は、現実には美術投資家なのであり、彼らがよく作用したときに、 クションが生まれている。 の 近年日本に現れた大蒐集家を見ても、たとえば、岩崎弥太郎、藤田伝三郎、益田孝、安田善次 郎、馬越恭平、川崎正造・芳太郎、根津嘉一郎、原富太郎、小林一三、細川護立、五島慶太、松罕 方幸次郎、石橋正二郎といった人々は、蒐集家だったのだろうか、それとも投資家だったのだろ状 それを明確に言うことはだれにもできない。彼らのなかで、第一級の作品を多く所蔵し、ある

6. 社会のなかの美術

定と永続性が疑わしい美術作品の評価に主要な決定要因があるからである。それらを正確に知り、 つかみえて、はじめて、妥当で意義のある蒐集が可能なのであり、美術蒐集は、あくまでも、哲 学の実現である。このような観点に立って、今日、美術への新しいアプローチが企てられなけれ ばならない。ふりかえってみると、世界的規模での美術市場が第一次大戦後に、ようやく本格的 に成立してからすでに半世紀をへた今日、この間に集積された数多くの資料に基づいて、美術社 会の構造と動きを法則化する試みがなされてきたが、その最新の成果を吸収して、今、ここに、 美術社会学という新しい学問の領域を確立することの必要性が、多くの美術専門家と愛好家によ って強調されている。 それに応えて、この数年間に、著者が書き綴ってきた一連の試論を一書にまとめて刊行する。 貧しい結果ながら、第一に、学問の発展のために多少なりとも寄与し、同時に、美術に携わり、 関心を持つ人々の実際的知識の強化に役立っことがあればと心から念願しつつ、この一書をまと めた。 インター・ディシプリナリー まとめ終えて、改めて美術社会学という新しい学際的学問が、一日も早く、人々に親しい ものとなることを期待せずにはいられない。

7. 社会のなかの美術

戦後、美術機構が改革されながらも、大衆参加の面にはいっこうに手がつけられることなしに、 今日に及んだ。 ところが、他方では、美術を享受する大衆は増加し、先年の美術・フームに示されたように、そ の潜在的需要には目を見張るものがあった。 今日これほど美術の大衆化が進展しているというのに、美術市場は旧態依然であり、そこから、 当然のことのように、矛盾が生じ、現在の反転現象が生まれた、と言うことができる。 結論的に言うならば、オークションを欠いた美術市場は、片肺飛行のようなものである。ヨー ロッパやアメリカの都市のように、オークション・ ( ウスが市場の半分を占めるところまで一挙 にいかないまでも、なんらかの純公開のオークションをわれわれは持つべきであり、それが実現 しない限り、美術経済はいつまでも、適正に明朗になることはないだろう。 題 これまで、オークションの実現を妨げてきたものは法律だと言われてきたが、それがまったく の 無根拠であることが明白になった今日、障害は、あえて一一 = ロえば、美術業界の思想そのものである。本 の 一部の人々が公開オークションの実現によってなによりも恐れるのは、従来のヒエラルキー ( 位 で 野 階制度 ) の崩壊である。今日まで通用してきた価値は無に帰し、生きのびることができるものは 的 ほんの少数だけとなるだろう。 国 しかし、一時的な混乱を避けようとするあまり、依然として旧態を守りつづけるならば、美術 界全体の信用が回復することは、もはやないだろう。と言うよりは、それは、ますます増大する

8. 社会のなかの美術

美術は、株と並んで、経済には敏感なものである。不況はただちに反映するが、ある意味では、 不況に対しては株よりも強く、一九六〇年以降は、つねに株価を上回る伸びを見せてきた。美術 はインフレに強いという神話がそこに生まれた。しかし、その神話も、神話に支えられた美術市 場も、今、目に見えて揺らぎ始めた。最近の美術市場での三大商品は、印象派、後期印象派、現 代絵画の巨匠である。なかでも、モネ、ルノワール、セザンヌは不動の投資物件とみなされてき たのだが、俄然、揺るぎ出したのである。 現在の事態がはたしてどうなっていくのか、恐慌にまで進展していくのかどうかは、にわかに は判断できない。ただ言えることは、美術界を支えてきた従来の理法が、ほとんどすべて無効に なっているということである。 アメリカの美術市場は、きわめて不安定で、将来の見通しのたちに 一九七五年のヨーロソ くい、かってない異常な状態にあったと一一一一口えるようにおもう。 ヘラルド・トリビューン紙一月十一 ~ 十二日号の美術市場欄は「オークションを見るコレクタそ AJ ーの醒めた眼」というへッドラインを掲け、「真の美術市場の危機はあるのか」という問いかけ で記事を書き出している。これは、この一年を予兆するすこぶる象徴的な問いであった。 それというのは、前年の春まで、恐ろしいまでに好調に上昇しつづけてきた美術作品の価格が、 《低迷期の中の光明》

9. 社会のなかの美術

美術への理解が欠如しているのである。 現在、このような観点から、われわれを見舞った・フームをふりかえってみるとき、本格的な美 、意味における美術投資家も、それほど 術蒐集者層が拡大しなかったことは言うまでもなく、いし しっさいが美術になんの責任も持たない投機 は出現しなかったという事実を認めざるをえない。、 家たちに引っ掻きまわされ、それに刺激された軽薄な投資家が多数生まれたにすぎなかった。 考えてみれば、この五年間、日本の美術界はこれまでになかったじつに多くのことがらに接し たはずであるが、この経験から何を得、そして学んだかということになると、はなはだ心もとな いのではあるまいか。 海岸に潮が引いた後、汚らしい廃物だけが残されているように、美術界は今、混乱の収拾に大 わらわであり、この経験によっていささかなりとも前進した、と言うことは困難なようである。 ・フームの最高潮時には、おそらく、年間に最低で二 ~ 三〇〇〇億円の売買があったと推定され る美術界だが、それほど多くの月謝を払いながら、将来のためのなにものも得なかったとしたら、 これほど空しいことはないだろう。 最近一つの反省として、美術作品を投資の対象とするな、という声がしきりに聞かれる。しか し、これは的を外れている、とわたしは考える。この資本主義社会にあって、絵画であれなんで 《美術投資の条件》 210

10. 社会のなかの美術

うべきだろう。 いったんだれかが認めたものを追随するのは、安全な方法かもしれないが、投資的にみてうま みがないし、美術蒐集するよろこびにも欠けることになり、権威追随は、意欲的な蒐集家の最も 嫌うところとなった。 実際問題として、人々にさきんじて新しい価値を発見するということは大変なことであり、単 に経済的視点からのみできることではない。つまり、どれだけ資力があろうとも、芸術的理解が 先行していなければできないことであり、そのために、よき蒐集家は、例外なしに、美術につい てのすぐれた見識の持主となった。そうならざるをえなかったのである。 だから、第一級のコレクションを形成した人を見ると、一般的経済人とは違って、個性豊かな 人物が多く、みずからも美術について研究し、また、たえず専門家の適切な助言を求めている。 美術蒐集を、経済的観点からのみおこなえるとおもうこと自体が、まちがっているのである。 なるほど、毎日の新聞を見れば、美術価格の変動が株と同じように報じられていて、明らかに 美術に市場が形成されているのだが、それに金を投じる人は、株の場合と違って、投資の対象に、 芸術としての最低の理解を持たないではいない。 これらの投資家たちが美術蒐集者層の大半を占める以上、市場の動向は、多かれ少なかれ彼ら によって左右されることになるのだが、一国の美術界の知的水準もまた、そこで決定されること になる。 212