と一人で事実を集積して理論を組み立てる以上の幸福感がある」ことを早く自分に教えて欲しい、とい うものだった。 ターウインはエンマに対してもほかのだれに対しても、生物学が必要としてい ここまでの段階では、・ る突破口を開けそうだなどとは言っていない。おそらくかれ自身もまだ、そのことに気づいていなかっ たのだろう。 ところで、イギリスに帰国してから家族のもとにほんのしばらく滞在した後に、ダーウインが最初に 行った仕事は、かれが採集してきた岩石標本の整理と『ビーグル号航海記』出版の準備だった。その年 の冬はケン・フリッジでその仕事をして過ごし、その後一八三七年春にロンドンの中心部のグレート・マ ールポロー街にある下宿屋に移りすんだ。結婚するまでの二年間、かれはそこでかれの一生のうちでも っとも実り豊かな年月を過ごした。 最初のころは、航海の途中に立ち寄った先で目にした動植物の種類の豊富さに、頭を悩まし続けた。 当時かれはまだ、それらはみな神によって創造されたというキリスト教の教えを信じていた。だが『ビ ーグル号航海記』を執筆しているうちに、そのような信念とはそぐわないやっかいな疑問がかれの心を産 とらえて放さないようになった。種間の境目がどうにも不明瞭な種がいるのはなぜなのか。無用の長物 'G としか思えない器官を持ったまま創造された生物がいるのはなぜなのか。ある種が絶滅したのに、それ ウ に近い別の種が生き残っているのはなぜなのか。
邸力いかようなものかを教えてくれる、われらがニ、ートンはまだいません。あるいはもしかした 0 ら、われわれはわれわれが知っている物理学、化学、数学の一般法則を、生物学にうまくあてはめ る理論をまだ手にしていないのかもしれません。 その理論は、電子論的なものであるかもしれないし、。フリゴジーヌが信じているような散逸構造 論かもしれません。あるいは、物理学者の〈ルベルト・フロ 1 リ ' ヒが提唱したようなま「たく別 の過程に従うものかもしれません。かれの言う過程とは、原子や分子段階での配列のしかたによっ て全体的なレベルで一貫した行動が起こることで、レーザーのように射程の長い力が発揮される現 象です。あるいはまた、わたしが研究を続けてきた発生をめぐる場の理論が力を発揮するかもしれ ません ( 。 ( ネル ) 。それともあるいは、それらすべてのア。フローチが関係することになるかもし れません。 けれどもわたしは、比較的少数の創造則なり法則で生物の多様性、あるいは少なくともその基本 特性が説明できはしないかと願 0 ています。最初から、どのようにしてクマとクジラは分かれたか という謎にとりかかるのは早急すぎるでしよう。まず基本となる形態を作り出す法則を知る必要が あります。 どうやら、 6 章の初めで提起した疑問に立ち帰る時がきたようである。われわれは、納得のいく答を もたらしてくれないからという理由でネオ・ダーウイニズムを拒否し、議論の場にものせられないから という理由で創造説を拒否したが、ではそれらにかわる理論とはどのようなものかというのがその疑問
とれもごくわずかずつ、 とも高等な生物が誕生することになったのだ。それぞれの段階で起こる向上は、・ すなわち種から種へというものだった。そのため、単純であまりたいしたことのない形質の変化が起こ るのが常だった。」⑥ 地質学と生物学は、ついに斉一説のわく内で統一されたのである。 力なり読み込まれたらしい跡が残っている。そしてその余白 ダーウイン所蔵の『創造の痕跡』には、、 には、ほとんど判読しがたいかれの字で多くの書き込みがなされている。だが、それを読んでダーウィ ンがいかなる刺激を受けたにせよ、それは、その本をきっかけに一般大衆が進化についておおいに関心 を持ったことがのちにダーウインに幸いしたという事実と切り離して考えるべきことである。ともかく ダーウインにとってこの本は、敵意に満ちた批判の稲妻を一身に受ける避雷針にも等しい存在となった。 たとえばケンブリッジ大学の地質学の教授でダーウインのかっての師でもあるアダム・セジウィック は、後に『種の起源』を批判することになるのだが、それも『創造の痕跡』に向けて放ったかんしやく に比べれば取るに足らないものだった。 ・ : 善を為させんとするならば、朱にまじわらせるべきではない。汚れを知らぬ娘たちゃ婦人た ちも、解剖学者のきたないメスで汚されなければ、かような著作の誘惑に耳を傾けたり、喜びあふ れる思考と慎ましい感情の泉を台なしにしたりすることもあるまいに。かの著者は婦人たちの前に 現われて、とぐろ巻くへビの姿にも似た偽りの哲学を示し、手を仲ばして汚れた果実をもぎとるよ う誘うのだ。そして、人間は神の姿に似せて造られたと語る聖書のことばをたわごとだと教え込み、 おまえたちはサルの子であり、怪物の育種家だと教える : 290
は全然浮かびません。」 それから二年たってオーストラリアを訪れた時にも、かれは依然として創造の謎に悩まされていた。 「わたしは、日当たりのいい土手に寝ころがって、ほかの国の動物に比べると実に不思議な特徴を持っこ の国の動物のことを考えていました。自己の理性がおよばないことは何も信じようとしない人でも″こ の国の動物をお造りになったのは、まったく別の創造主に違いない〃 と言うのではないでしようか。」 また、途中に立ち寄った、あの有名なダーウインフィンチが小進化をとげているガラ。ハゴス諸島でも ( 島ごとに隔離されて別種に分かれたと考えられてい そ化イ 。進ウ る ) 、ダーウインはそれらがみな同じ種類の鳥である チしダ ことにさえ気づいていなかった。それに加えてどれが 物第「 ' ) ン応る イ適す どの島のものかについても、多くの場合書き留めてい フに関た ン性につ イ習源な ウ食起と 一採のけ ダの種か 病魔 むそがっ 産 すはとき 一方、ビーグル号での五年間は、ダーウインの性格 '@ にしこす ン 島ばの出 をがらりと変えてしまった。社交的な情熱家が病弱な ′諸ちこみ ウ , 生 思索家に変わってしまったのである。一八三一年一二 ゴのりを パれお説 ラぞての月にイギリスの岸を離れた時のかれは、長時間思考を ガれしン 集中させ、ついには大著をものにするなどということ幻
はじめに・ 第一部袋小路 1 章失われた化石 : 2 章自然の制約 : 3 章形勢不利 : 4 章不思議な器官や生物 : 第一一部代替理論 5 章創造対進化 : 6 章天変地異と絶滅 : 7 章生物の規則性 : 101 73 53 212 165 132
トマス ・ハックスリーでさえ後になって海いはしたものの、「ばかげたたわごと」とか「とんでもない ばか話」などという表現を用いてしまうほど、「創造の痕跡』の非科学的で不正確な内容に腹を立てた。 ーズの主張が正しいのではないか、つま そうした度を越えたまでの批判の陰にあったのは、チェン。ハ り創造説が打ち破られるのではないかという不安だったに違いない。確かに当時の多くの人々はそう感 じていた。だが、当時はまだ異端であったその考えを、きちんとまとめたかたちで提出した者は一人も いなかった。結局のところ、一般向けに書かれたものでは内容の不正確さばかりが目について、正当に 評価されるにはいたらなかった。一九世紀の生物学は、やはりダーウインを必要としていた。ダーウィ ンの大著をまさに迎えんとしていた当時の雰囲気は、期待と疑念の入り混じったものだった。 少年時代のチャ 1 ルズ・ダーウインは、のちの世まで讃えられるような存在になるなど想像もっかな い子供だった。学校では標準以下の知能と教師に思われていた。かれの父は ( 祖父エラズマスと同じく 医師だった ) 、「狩猟みたいなことはかりに熱を入れていると、おまえ自身にとっても家族の者にとって も不名誉なことになるそ」とかれに注意したことがあった。 産 皮肉にも後になってそれが博物学への興味を開くことになったのだが、かれは狩猟に夢中だったので '@ ン ある。ヤマウズラ猟の解禁は「無上の喜びだ」と、ある友人への手紙に書いているほどである。自伝の ウ 中でもかれは次のように書いている。学校時代もそれ以後も、「わたしが鳥撃ちにかけた以上の情熱を、一 つもわたしは、枕もとに狩猟用プーツを もっとも聖なる理想にかけた人がいるとはとても思えない。い すぐはけるように置いて寝たものである。そうしておけば、朝起きてから一刻も無駄にせず、それをは四
ーズの『創造の痕跡』のようなものは、科学的素養のある人たちからは軽んじられていた。 「種の起源』は、長さから言ってもその内容の濃さから言っても、突破口を開くに十分だった。当時 の状況がいかにダーウインに有利に働いたにせよ、科学が一つの飛躍をとげ、大衆がそれを理解するよ ターウインのそうした業績 うになるためには、それだけのものが必要だったのだ。讃えられるべきは、。 なのである。 ハックスリーは、かってこう述べた。「ダーウイニ トマス・ ックスリーの孫にあたるジュリアン・ ズムは、良識ある議論の場から神が生物の創造者であるという考えを完全に取り払った。アーサー ケストラーはこう書いている。不十分なものであるにもかかわらす、「かれの説は基本的な真実を含ん ーフォースは でいた。すなわち化石の記録によって、進化は事実であり、ダーウインが正しくウイルく 間違っていることがわかったのである。その結果、ダーウイニズムは進歩的でものわかりのよい人々に とって信条のようなものになる一方、その理論の詳細は、専門家の手にゆだねられることになった。」割 『種の起源』がなした貢献のうちでとりわけ重要なのは、一世紀以上にもわたって生物学の研究が進 められることになった外わくを与えたということだった。その外わくは、絶対統合原理とでも呼ぶこと のできるものである。それは一般に、ダーウインが証明したように、生物はつくり出された時から現状 の通りだったわけではなく、絶えず変わってきた、すなわち進化してきたのだということを指す。ダー ウインはまた、全生物が共通の祖先に由来することも信じていた。すべての哺乳類は一つの祖先から進 化してきた。それは、鳥でも爬虫類でも魚でも同じことである。結局、全生物の祖先はただ一つであり、 そこから進化による分岐が繰り返されて生物の多様性が生み出されてきたのである。新しい種は、地球 318
プープフォッシル教授は進化を信じ ( います。彼はス々にこうります。广ガつ てわたしは、と ( もちつにけなアメー / にを、つ。それガらしつばをしまいこんで カエルになつこともある。そして今わしは、気ちがい教師である。 神さまを知らないス仗「と同じ」と書にはあります ( 詩編 49 、 2 の。 進化を信じるスたちのの内もまさにそれと同し、す。 わたしらは、謇 進化を信じる′ わたしらは 神の存在を . 第 信じない′ 創造対進化 155
きさがあります。そうなると話は簡単です。すべての動物をいちばん下の階に入れて、二階はノアとその家 2 族が使っても、三階には休養と娯楽のために使える空間がまだまだたくさんあることになります。あるいは 三階は、恐童のように今の時代にはいない、絶減してしまった動物を人れるために使ってもいいわけです。 糞尿処理はどうしたのだろうか。創造論者の本や論文では何も論じられていない。 ノアの箱舟の建造を描いた 15 世 紀フランスのミニアチュール
一八八二年四月、チャ↓ルズ・ダーウインは、英国ケントの自宅で心臟発作により安らか な眠りについた。現代生物学のあらゆる教えの基礎となったかれの偉大な理論は、そのとき には崇拝とさえ言えるほどの受け人れられ方をされていた。科学の歴史の中でダーウインの 名は、コペルニクス、ガリレオ、ニュートン、アインシュタインといった人たちと同等の位 置を占めるようになった。 だが、かれの没後百年にあたる一九八二年が近づくにつれ、いささか風向きが変わってき た。進化の理論をめぐる争いが、堅実、穏健であるはずの科学雑誌の中に激しく噴き出して きた。賛成、反対を唱える陣営がそれぞれ高い場所にとりでを築き、まるで迫撃砲の砲弾で ファンダメンタリスト も撃ち込むかのように激しい攻撃を加え合った。一方、はるか以前に根本主義者のもとに送 り返してしまったと多くの科学者たちが信じ込んでいた創造説が、アメリカの学校の教室の 中に激しい勢いで戻ってきた。 はじめに