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検索対象: キリンの首 ダーウィンはどこで間違ったか
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1. キリンの首 ダーウィンはどこで間違ったか

本書は、 Francis Hitching ( 一九八二 ) の The Neck of the Giraffe ーーー Where Darwin Went Wrong の全訳である。 昨年 ( 一九八一 D はダーウインの没後一〇〇年にあたる年で、それを記念して、欧米ではダーウインおよ び進化関係のいろいろな本が出版された。本書も、そうした関連の一冊とみることができる。 一八五九年、ダーウインは、有名な『種の起源』を著わし、その中で二つの重要な考えを述べた。一つは、 生物の種は変わりうる、つまり、生物は進化する、ということである。もう一つは、生物のその進化は、遣 伝される変異に自然淘汰が働くことによって、長い時間をかけて徐々に行われる、ということである。すな わち、進化の事実としくみを明らかにしたわけである。だが、当時は、一般人の間だけでなく科学界でも、 人間を含めてすべての生物は神がお造りになったもの、と考えられていた。したがって、ダーウインのそう した考えは、当初多くの、そしていろいろな形での反感をかった。 しかし結局、進化は事実として認められるようになり、自然淘汰というしくみも、いろいろな分野からの 支持もあって受け人れられるようになった。そして、新しい事実や考えによって補強されたダーウイン学説 は、一九四〇年前後に、現代の進化総合説という形で一応の完成をみることになった。 が、ダーウイン、そして現代の総合説が主張する、突然変異 ( 遣伝的変異 ) と自然淘汰に基づく漸次的進 訳者あとがき 330

2. キリンの首 ダーウィンはどこで間違ったか

言えないずるい論評を簡単に加えている。ダーウインは、自説の独創性を強調することに非常に気を使 0 ていたようだ。この本の中には、「わたしの説」という言い方が四五回もでてくる。 『聖書』、 = = ートンの『。フリンキビア』、ルクスの『資本論』と並んで『種の起源』は、も 0 とも読ま れていない ( 少なくとも完読されていない ) にもかかわらず、いつの時代にもも「とも影響力を持っ本 に数えあげられてきた。『種の起源』によ 0 てダーウイン革命が起きた、と言 0 ても言い過ぎではない。 出版後一〇年もたっとダーウインは、進化論は「今や普遍的信念」と満足しながら書けるようにな 0 ていた。チャールズ・ライ = ルは、当初ためらいはしたが結局説きふせられ、進化論の味方にな 0 てい ・メダ た。一八六四年一一月にダーウインは、イギリスの科学会最高の栄誉である王立学会の「プリ 1 ルを受賞した。こうした中で教会の刊行物までが、当初の敵対関係を改め、読者にダーウィ = ズムを広 め始めるようになった。 「〈ラクレスのゆりかごのかたわらに締め殺されてころが 0 ている〈ビのように、すべての科学のゆ ハックスリーは大 りかごのかたわらに、沈黙を強いられた神学者たちが横たわ 0 ている」と、トマス・ 産 喜びした。 だが、本の売れ行きという点から言うと、『種の起源』は、当時それほど爆発的な成功をおさめたわ ウ けではなか 0 た。一八七二年に最後の第六版が出た時点での総売り上げは一万六千部で、それは『創造 の痕跡』の三分の一以下にすぎなか 0 た。その評判はおもに口からロ〈と広が「たもので、教育のある 階層が集まるクラブやタ食会などで話題になることが多か 0 た。話題とな 0 た理由は、その理論がすば らしく単純であり、しかもそれが、それに対する批判は根拠のないものであるかに見せる巧妙なやり方

3. キリンの首 ダーウィンはどこで間違ったか

ば、より長いあし、よりすぐれた視力といった好ましい新特性は、その動物の子孫に次々に受けつがれ ターウインもその著書の中で暗黙のうちに受け人れていた当時の考え ていかなければならない。だが、・ によれば、両親の特徴は、子供の中で「混ぜ合わされてしまう」はずだった。 ジ = ンキンは、ダーウインが考えるようなことは起こりえないのではないか、また、あっても問題に ならない程度のものだろう、と指摘した。つまり、両親のうちの片方しか長いあしを持っていないとし たら、かれらの間に生まれる子供は両親のあしの長さをたして二で割った長さのあししか持たず、その また子供にしても同じである。そして、わずか数世代のうちにもとの変異は混ぜ合わさり、無意味なも のになってしまうだろう。 老いるにしたがってダ 1 ウインは、自然淘汰だけが進化の答ではないのではないかという疑いを次第 に強めていった。好ましい形質の「固定」にかかわるこの問題は、実は一応すでに解決されていたので あるが、かれはそれを知らないまま一八八二年にこの世を去った。その問題の答は、チェコスロパキャ ( 当時はオーストリア ) は・フリ = インの名もない自然科学者協会の会報の中に眠っていた。ダーウイン は、生前にそれを読んで精神的苦痛からみずからを救うことができたはずであった。当時その町の高等 学校で科学と数学を教えていた司祭、グレゴール・メンデルがその決定的な論文を発表したのは、一八 六六年だったのである。 その論文の中でメンデルは、エンドウのいろいろな品種を交配した実験の結果について述べている。 この実験は第一に、マメの色など個々の形質はある決まった遣伝的単位によって受けつがれること、第 二に、その単位は世代を経ても薄まらないことを示していた。かれはその単位を「因子」と呼んだ。

4. キリンの首 ダーウィンはどこで間違ったか

トマス ・ハックスリーでさえ後になって海いはしたものの、「ばかげたたわごと」とか「とんでもない ばか話」などという表現を用いてしまうほど、「創造の痕跡』の非科学的で不正確な内容に腹を立てた。 ーズの主張が正しいのではないか、つま そうした度を越えたまでの批判の陰にあったのは、チェン。ハ り創造説が打ち破られるのではないかという不安だったに違いない。確かに当時の多くの人々はそう感 じていた。だが、当時はまだ異端であったその考えを、きちんとまとめたかたちで提出した者は一人も いなかった。結局のところ、一般向けに書かれたものでは内容の不正確さばかりが目について、正当に 評価されるにはいたらなかった。一九世紀の生物学は、やはりダーウインを必要としていた。ダーウィ ンの大著をまさに迎えんとしていた当時の雰囲気は、期待と疑念の入り混じったものだった。 少年時代のチャ 1 ルズ・ダーウインは、のちの世まで讃えられるような存在になるなど想像もっかな い子供だった。学校では標準以下の知能と教師に思われていた。かれの父は ( 祖父エラズマスと同じく 医師だった ) 、「狩猟みたいなことはかりに熱を入れていると、おまえ自身にとっても家族の者にとって も不名誉なことになるそ」とかれに注意したことがあった。 産 皮肉にも後になってそれが博物学への興味を開くことになったのだが、かれは狩猟に夢中だったので '@ ン ある。ヤマウズラ猟の解禁は「無上の喜びだ」と、ある友人への手紙に書いているほどである。自伝の ウ 中でもかれは次のように書いている。学校時代もそれ以後も、「わたしが鳥撃ちにかけた以上の情熱を、一 つもわたしは、枕もとに狩猟用プーツを もっとも聖なる理想にかけた人がいるとはとても思えない。い すぐはけるように置いて寝たものである。そうしておけば、朝起きてから一刻も無駄にせず、それをは四

5. キリンの首 ダーウィンはどこで間違ったか

して、そういった現象なり過程を説明するための仮説や理論を考えだすのだった。そのうえでまたさら に観察を重ね、自分が立てた仮説を確証したり否定したりしたのである。」割 ダーウインは、『種の起源』や『人間の由来』など二〇冊あまりの本を出版するかたわら、当時の学術 雑誌や一般雑誌に、合わせて一五〇編以上の論文を書いた。「そういった短めのエッセイやノートにし ても、一冊の本となって出版されたものに劣らぬほど驚くべき内容を含んでいる。それらを見ると、地 質学から植物学、動物学のあらゆる分野にいたるかれの興味の幅のすごさがよくわかる」と、マイヤー ターウインの情熱と飽くことを知らぬ好奇心がよく伝わってくる。」の は述べている。「そこからはまた、・ 尾をひく衝撃 まだ存命のうちからダーウインがあれほどの注目を科学者仲間からあびたのは、そのように根気強く て念入りな研究態度をとったからである。またそのようにして築かれた堅固な名声があったればこそ、 「種の起源』が出版された時、異端的な内容であったにもかかわらず、一般大衆に受け入れられたのであ る。当時、科学者と大衆の両方に、互いの影響のし合いもあってそういうものを受け入れる素地ができ産 ていた。そうした状況にあって両者の欲求を共に満足させることができたのが、ダーウインだったのだ。 '@ かれの本には、確かに批判されるべき点はあったが、それ以上にすぐれた点が多くあった。冗長で記イ 述がくどく、混乱と同語反復を内蔵するものではあったが、それでもなおそれは、まさにかれが常々一「ロ っていた生物に対するそれまでの見方を一変させる本だった。それ以前には、そのような本はなかった。 ダーウインとウオレスがリンネ学会に提出したような短い論文は、まったく無視されていた。一方、チ 317

6. キリンの首 ダーウィンはどこで間違ったか

バネル 3 始祖鳥は中間生物か ダーウインとかかれの理論にとって幸連なことに、『種の起源』を出版して二年もたたない一八六〇年に、ド ィッの・ハヴァリア地方の石灰岩中から始祖鳥 ( アルケオ。フテリクス ) の化石が発見された。このとき発見された のは一枚の羽毛の化石だけで、始祖鳥という名は、この羽毛の化石だけに基づいてつけられた。一年後には、近 くの石切場からほば完全な骨格化石が発見された。この化石には、広げた前肢の間に羽毛の跡がはっきりと印さ れていた。 当時も今も変わらず重要なのは、始祖鳥が恐竜の化石と同じ地層に現われたことと、一見したところ爬虫類に も鳥類にも見えることである。これは、当時提案されたばかりの「ある動物グルー。フは中間的な種類を経て他の 動物グルー。フに発展する」というダーウインの主張にまさに時を合わせた確認であった。生物学者は一般に、始 祖鳥はダーウイン流の進化論の確固たる証拠であるとみなしている。爬虫類と鳥類両方の特徴を備えた動物が現 に存在していたことを「いかなる疑問の余地もなく証明する」とも言われ、「今日でもこれにまさる中間生物の 例はない」とも言われている。けれども、この始祖鳥の例は、これらの主張どおりに明々白々なものなのだろう か。そうでもないようだ。爬虫類の特徴とされるものはどれもみな、さまざまな種類の真の鳥で見ることができ る。 一、始祖鳥の尾には羽が生えていたが、そこには、爬虫類のように長い骨がとおっていた。 爬虫類には骨のある尾があり、鳥類にはなさそうだというのは一般的には正しいのだが、詳しく調べると話は それほど単純ではない。発生初期には、現生の鳥の中にも始祖鳥よりも多くの尾椎をもつものがいる。だがそれ らの骨は、その後ゅ合して尾端骨と呼ばれる直立した骨になってしまうのである。また、現生のハクチョウ類の

7. キリンの首 ダーウィンはどこで間違ったか

飛躍はそんなふうには起こってこなかった、とスティールは言いたいようだ。かれが唱えるネオ・ラマ ルキズム流の変化は、環境ががらっと変わった時に働き出す。つまり、環境変化によって生物個体に加 えられる刺激が、かれの実験の場合のように「強力で持続する」時に働き出すのである。 ターウイニズムにとっては死んだも同然の説に命を吹き込んでしまってい それとなくスティーレよ、・ る。その説とは、とうの昔に研究の場から追放されたはずの「激変説」である。ダーウイニズムは、土 地の浸食や大陸移動といった、きわめてゆっくりと進行する過程を重視する ( 斉一説 ) が、激変説は地 いんせき 球が過去に経験してきた大変動ーー洪水、疫病、地震、宇宙からの隕石の落下などーーを重視する。で は、その正当性はどうなのだろうか。 激変説と斉一説 激変説は、一九世紀に創造説が信用を失ったのとほば同じ時期に、しかもほとんど同じ理由から信用 を失った。教会と科学界との間でかわされた論争で、激変説は創造説と同一視されてしまったのである。 当時の一般大衆にとって激変説と言えば、単にノアの洪水という、地上の様相を一変させた一回きりの 大天変地異を信じることにほかならなかったのだ。だが、当時の科学的創造論者、キュヴィエ、ルイ・ アガシーらが唱えていた激変説とは、そのようなものではなかった。しゅう曲と隆起によってねじ曲げ られた地層や、過去に絶滅が起こった証拠を調べることによって、かれらは、天変地異は何度も地球を 襲ったと考えていた。 それらの研究者の中で、ノアの洪水をまじめに信じていた者は誰一人いなかったし、超自然的なカ 188

8. キリンの首 ダーウィンはどこで間違ったか

た。「明らかにわれわれは、始祖鳥が生息していた時代よりもはるかに早い時代に、飛べる鳥の祖先を探さねば ならないことになった。」 この発見によって、始祖鳥が中間生物であるという可能性はおおいに弱まり、かれらは単にその当時生息して リベルトニルソン教授は、語気を強め いた多くの奇妙な鳥の一種にすぎないという可能性が強まってきた。へ てこう語った。「翼をひれがわりにしている現在のペンギンが魚への移行的種類ではないのと同様に、始祖鳥も 爬虫類と鳥類の間の中間生物ではない。」 それに、たとえ始祖鳥が実際に爬虫類から鳥類へと変わる途中のものであるとしても、それによって進化の過 ターウインが望んだ漸進的な進化過程についての証拠は、それでもなお 程が一挙に明らかになるわけではない。・ かっ欠如しているのである。うろこのようなものから羽毛が徐々にできていく様相や、地上を歩く恐童から空中 を滑空できる軽い骨を持っ鳥が徐々に進化してくる様相は、化石記録の中にいまだに見いだされてないのだ。 43 失われた化石

9. キリンの首 ダーウィンはどこで間違ったか

有胎盤類 有袋類 単孔類 鳥類 ヘビ・トカゲ カメ カエル サンショウウォ ・イモリ 肺魚 シーラカンス 硬骨魚 サメ 百万 年前 50 新世代 100 目亜、紀 - 150 ジュラ紀 三畳紀 ニ畳紀 石炭紀 デポン紀 シルル紀 オルドビス紀 250 300 3 48 4 1978 年に大英自然史博物館から出版された『現代の進化論』にのっている , より慎重な配慮のもとに図式化された系統図。その注記によれば , 「縦の 実線は化石が見つかっているもの。点線は当時そのグループが存在してい たと推定されてはいるが化石が見つかっていない , 化石記録中の " 欠落 " を示している。このような欠落は , 化石として残らなかったためか , 系統 関係を誤認しているためか , 化石を間違って同定しているために生じたも のと考えられるが , 進化論が間違っていることを示す証拠にも利用できる し , 事実利用されてきた。」 49 失われた化石

10. キリンの首 ダーウィンはどこで間違ったか

事の中には、むなしい期待とでっちあげの原人が散在 している。 授ジャワ原人、北京原人、。ヒルトダウン人、ジンジャ ルントロ。フス ( クルミ割り人 ) などはどれも、今日では ケ すでに見捨てられ、仮想系統樹の上にむなしくぶらさ がっている。これは、科学では常に事実が理論に優先 スするとか、科学者は常に事実のあくなき追求者である ン ルと信じている人たちにとっては、耳に入れたくない話 である。 人類の祖先の原寸大模型を復元する仕事は、初めの うちは化石の証拠などほとんどない状態のもとで行わ れた。ダーウイニズムの嵐が学界に吹き荒れていた当時、ドイツを代表する科学者の一人にエルンスト・ よろ・・こ ヘッケルがいた。もしトマス・ ックスリーが、公の論争でその旧友を頑強に擁護したがゆえに「ダー ウインの・フルドック」なるあだ名をちょうだいしたのなら、ヨーロッパ大陸で攻撃的かっ無批判にダー ウイン擁護に努めたヘッケルは、さしづめダーウインのドーベルマンとでもいったところだろう。 明らかにヘッケルという人は、興味深い生物学者であると同時に何か霊感にも似たものを抱く生物学 者でもあった。進化生物学に対するかれの大きな貢献は、かれが提案した反復説である。「偉大な生物 発生原則」とかれが呼んだその説は、一点の疑いもなく進化を証明しているようにかれには思われた。 248