ハリウッド - みる会図書館


検索対象: ポピュラー音楽 入門のための13章
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1. ポピュラー音楽 入門のための13章

ち 4 リウッドに新風をまきおこしたという事実も見のがせな リウッド音楽も、戦争前後からいろいろと刺激をうける・ いことです。戦後三度のアカデミー賞を得て映画音楽のようになりました。 第一人者となったミクロシュ・ローザは元来ハンガリー さらに外部的なもうひとつ大きな条件としてあげなけ うまれですが、同国人のアレギザンー ・コルグのロンればならないのは、アメリカにおける外国映画の上映が ドン・フィルムに呼ばれて渡英し、「鎧なき騎士」「四枚戦前とはくらべものにならないほどさかんになったとい の羽根」等の音楽を書いて注目されていたのですが、ロうことです。映画に限らす、それまでごく進歩的な知識 ンドン空襲がはげしくなり、映画製作が困難になったコ階級をのそいてアメリカ以外の文化や芸術に大した関心 ルグがハリウッドに製作本部を移したときに同行、そのをもたなかったひとたちが、ヨーロッパ・東洋等の芸術 ままハリウッドにのこって映画音楽の仕事を今日までつ文化にひろい理解を示すようになったのは、アメリカの づけています。「サンセット大通り」でオスカーをう文明史上でも一時代を画するものがありました。これは けたフランツ・ワックスマンもドイツで「人生歌」そ戦争で何百万というアメリカ人が外国の土をふみその空 の他の音楽を書いていましたが、ナチ政権樹立と同時に気にふれて、外国の文化に身をもって親しんだというこ ドイツを去りアメリカに渡ってハリウッドで仕事をするとからもきています。 ようになりました。「嘆きの天使」をはじめ多くのドイ そういうわけで、戦後、アメリカでは戦前に見られな ッ映画の主題歌を書いたフレデリック・ホランズーや かったほど夥しい外国映画が上映されるようになり、ハ 「会議は踊る」のウエルナー ・ハイマンもそうですし、 リウッド映画人もお山の大将をきめこんでいるわけに 「リリ」の主題歌クハイ・リリー ハイ・ローなで知らは、、 しやでもゆかなくなって、外国映画 ( 主としてヨー れるプロニスロウ・ケイバーもポーランド人でドイツでロッパ映画、あとで日本映画もたかく評価されるように 活躍していたのですが、やはりナチの手をのがれて渡米なります ) にたいする認識をふかめざるを得なくなった した組です。フランス人ではダリウス・ミョーもフランのです。こういう事情は、おなじ英語でつくられていた スがドイツの制圧下におかれていた最中に渡米し、ハリイギリス映画を別として、ほとんどヨーロッパ映画を間 ウッドで映画音楽の仕事をしています。このように、ハ 題にしていなかったハリウッドが、一九四七年から新た〔

2. ポピュラー音楽 入門のための13章

128 こういう演出上の新しいアイディアとともにハリウッ ・ライターがほとんどすべて映画の仕事をしています。 ド・ミュージカルは多くのスターを生みだしました。モ 一九三〇年において、ハリウッド・ミュージカルはまさ ーリス・シュヴァリエとジャネット・マクドナルドはそに絢爛たる開花期を現出し、そこで扱う素材もまったく の草分けといえるひとでしたが、マクドナルドはあと多彩をきわめたといえます。 で、これもメトロポリタン歌劇場から映画界に入ったネ ルソン・エディと組んで「ローズ・マリー」その他の名そして、一九四〇年代にはいり、映画界も世界的に戦 作をつくっています。歌ってよし踊ってよしのフレッド時態勢を布かれることになりました。この』、 卩ーい ' つ、か ・アステアは一九三三年に「空中レヴュー時代」ではじの新しい試みは見られたわけで、映画音楽についてもそ めてジンジャー ・ロジャ 1 スと組んで名声をあげ ( この ういううごきはないわけではありませんでしたが、大き 映画のクカリオカなはンス・ナノ。 、ハ】の不朽の傑作だ な変化は、戦後にはっきりと現われてきます。とくに、 ったとおもいます ) 「トップ・ 2 、ツト」「艦隊を追って」映画と音楽のむすびつきにおいて、第二次大戦後のさま 「踊らん哉」「カッスル夫妻」等によっていわゆるアスざまな現象は、本質的な問題をはなれて戦前とはまった テア・ロジャース時代を確立しました。 く別個の様相を呈することになるのです。 さらにこの時代にはビング・クロスビー 一アイック・ 。ハウエル、アル・ジョルスン、エディ・キャンター、ア リス・フェイ、シャーリー・テン。フル、ジュディ・ガー ハリウッドとヨーロッパの映画音楽 ランド ( あとのふたりは当時子役 ) などが大きな人気を 集め、オペラ界からはグレース・ムーア、リリー・ポン ス、グラスディ・スウォザートなども映画出演をすると さて、劇映画のいわゆる伴奏映画の方はトーキー以後 ーリン、コ いう勢いでした。そして、アーヴィング・ どうなっていたでしよう。映画音楽の本質からいうと、 ール・ポーター、ジェローム・カーン、ジョージ・ガー ミュージカルや主題歌映画よりもいちばん大きな研究課 シュイン、ヴィンセント・ユーマンス等、一流のソング題は、この部門にあるはずです。 7

3. ポピュラー音楽 入門のための13章

もともと、主題歌映画あるいはミュージカル以外の、 ろたかく評価される傾向がありました。 つまり一般の劇映画や記録映画の音楽は、映画音楽家に アーロン・コープランドというアメリカの現代音楽を とって実は一ばん骨のおれるめんどうな仕事なのです。代表する一流の作曲家がいますが、このひとが一九四一 その本質は、はじめに書いたように、サイレント時代の年頃、短かいけれど興味ふかい映画音楽論を書いたこと 伴奏音楽のゆきかたと大してかわりがなく、これをもっ があります。彼はスタインべックの「二十日鼠と人間」 と複雑で高級にしたものだと考えていいのですが、トー やワイル。ターの「我等の町」が映画化されたときその音 キーになって大きくかわったのは、脚本や演出の意図と楽の仕事をたのまれてハリウッドにいったときの体験に 密接にむすびついた音楽でなければならなくなったとい もとづいた考えを文章にしたというわけです。彼の意見 うことです。ときにはムード音楽のようにつかわれたを要約するとこういうことになります。 り、ときには音響効果のようにつかわれたり、監督の要 求に応じて、その場面にふさわしい音楽を書かなければ 現在の映画音楽は、芸術的には低いものではある が、また新しい、広い可能性ももっている。ハリウッ ならないだけでなく、音楽はその場面の長さに応じてま とめられる必要があるし、ときにはつよくなったりよわ ドというところは実際に音楽を必要としている。必要 くなったり、そのうえ、画面の映画としてのリズムと音 としているというより、音楽がほしくてたまらないの 楽のリズムがびったり合っていなければならない、とい である。私は音楽をつけるまえの長いフィルムを見た ことがあるが、そのスクリーン自身だけではなんとも うようなことにもなります。ですから、うまい映画音楽 を書くということは、音楽だけ独立していいものであれ冷たく親しみにくい存在であった。そして、音楽はそ 楽ばよい、ということとはまたちがった意味の仕事になっ のスクリーンを暖めるささやかな炎のような存在だと ういうわけで、ハリウッドではほとん いう印象をもったものである。 画てくるのです。そ 映どの映画の音楽がこの道の専門家によって書かれるとい しかしまた、この事実が、実は作曲家に傍役同様の うことになってしまったわけです。映画音楽は特殊技能 役目しか与えないという理由にもなっている。結局 9 を必要とし、創造的な音楽家よりも職人的な仕事がむし は、映画音楽というものは映画をたすけるために存在

4. ポピュラー音楽 入門のための13章

1 ア 0 たのちも巨匠カステルスオヴォⅡテデスコから作曲を学 ポール・ホワイトマン ハンドでもプレイヤー クジャズの王様の名称を持ち、シンフォニック・ジび続け、一方ローカル・グンス・ ャズを創始して、今日のムード・ミュージックの草分けとして働く。五一年ハリウッドに招かれて「グレン・ミ 的存在となっている大御所。指揮者、音楽監督のホワイラー物語」ほかの音楽監督補佐を経て、五八年映画 「。ヒーター・ガン」にはじめてモグン・ジャズを使い トマンは、一八九〇年三月二八日コロラド州デンヴァー 一躍知られるようになりました。その後は、映画でも第 生れ。音楽一家に育った彼は、はじめは音楽を好まなか 一の人気作曲家として多くの映画音楽を手がけ、今日ハ ったが、十代でデンヴァー交響楽団の第一ヴァイオリン リウッドを代表する作・編曲者として精力的な活躍を続 奕者になる。十九年に自分のグンス・ゞ、 、ノドを結成して ポ。ヒ = ラーに転向。彼の名を一躍有名にしたことは、二けています。その作風はメロディが美しく、特にジャズ 四年のエオリアン・ホール・コンサートで、ガーシュイの手法をとり入れて、ミステリアスな新鮮な響きで聞く ンの「ラブソディー ・インフノ 。レー」を演奏し、シンフ人を惑します。 ゥーゴ・モンテネグロ オニック・ジャズを創始。その後も有能なジャズメンを 集めてコンサートを開いたり、映画に出演するなど活躍変化にとんだカラーフルな演奏は、ステレオ向き。作 を続け、ポ。ヒュラー音楽界に一時期をきしました。五十編曲指揮者のモンテネグロは、一九二五年ニューヨーク 年代に楽団は解散しましたが、その後も音楽各方面で活のプロンクス生れ。デキシーのドラム奏者だった父の影 躍し続けています。 響で、ドラムとサックスを習得。海軍時代には慰間ショ ヘンリー ウの編曲をしてコステラネッツに認められる。戦後マン 「ムーン・リヴァー」「酒とバラの日々」の二年連続ハッタン音楽院で正式に音楽を学び、レコード製作、自 アカデミー映画主題歌賞受賞で有名な売れっ子作編曲指楽団の演奏でも活躍する一方、映画音楽も手がけていま 揮者。一九二四年四月十六日オハイオ州クリーヴランドす。 ヴィクター・ヤング 生れ。ピッコロの名手として学生時代から活躍を開始。 カーネギー、ジュリアード両音楽院で正式に音楽を修め ロマンティックで美しくメロディを歌わせることのう

5. ポピュラー音楽 入門のための13章

工 24 音楽をむすびつけた、いくつかのオリジナリティに富ん ー化した映画界にスカウトされ、ミュージカルの女王と だ傑作がうまれています。こういう、 映画としてのオリ なったひとです。 ジナリティをもった映画によって、プロードウェイ・ミ 「ラヴ・パレード」の内容は、おそらく「メリー・ウ ュージカルにたいする、ハリウッド・ミュージカルの発 イドウ」にヒントを得て脚本が書かれたにちがいないと 展が実現されていったわけです。筆者はハリウッド・ミおもわれるもので、ストーリーの点では大して新鮮味が ュージカルの基礎を確立したひととして、第一にあげたありませんでした。ヨーロッパの仮空の小王国のパリ駐 いとおもうのは、エルンスト・ルビッチという監督で在武官のシュヴァリエは女にもてることではこの上もな す。ルビッチはドイツうまれでマックス・ラインハルト いという伊達男。ところが帰国命令をうけたうえ、独身 門下の舞台出身ですが、サイレント時代からドイツとアの女王マクドナルドと結婚させられてしまいます。女王 メリカで劇映画にすぐれた演出力を見せておりましたは政務で御多忙、。フレイ・ポーイたるシュヴァリエは味 が、トーキーになるや逸早くミュージカルを手がけ、一気ない結婚生活にうんざりしてしまうけれどやがて、 九三〇年に「ラヴ・パレード」という輝やかしい里程標をかにして女王陛下の愛を獲得するかという秘術をつくす たてました。この映画は、草創期の映画音楽に大きな功という風にお話が展開します。この映画はそのストーリ 績をのこし、のちに監督になった作曲家ヴィクター・シ ーの展開の要素を全部歌と音楽に重点をおいた演出にウ ャーチェンガーの協力も見のがせませんし、同時にまた ェイトをかけたところにきわだった特色があり、同時に 主役を演じたモーリス・シュヴァリエとジャネット・マそれが映画でなければ出せない表現のおもしろさももっ クドナルドのうまかったのも忘れられません。シュヴァていたのが傑作となったゆえんでした。この映画でいま リエはフランスから渡ってハリウッドで成功した世界的でも記憶にのこっているナン。ハーをちょっとあげてみま なヴォードヴィリアンであり歌手、いまなお老いてますす。 ますさかんな活躍をしていることは御存知のとおり。一 シュヴァリエがパリに別れをつげる歌、 ハリよこの 方、マクドナルドは当時メトロポリタンの新進歌手としまま変らないでおくれなでは最後にシ = ヴァリエの歌に て登場したばかりでしたが美貌と美声が買われてトーキ彼の愛犬がフシをつけて吠え、それに従僕のル。ヒノ・レ

6. ポピュラー音楽 入門のための13章

巧 2 ソ連では、「キージ = 中尉」 ( これは映画は日本で公 「夜の空を行く」「美しき争い」のジャック・イベール、 「地の果てを行く」のロラン・「ヌ = ル、「にんじん」開されていませんがレ = ードであまりにも有名です ) 「アレキサンドル・ネフスキー」のセルゲイ・。フロコイ のアレクサンドル・タンスマン、「装える夜」「商船テ エフ、「呼応計画」のドミトリ・ショスタコヴィッチ、 ナシティ」「白き処女地」のジャン・ウィエネ : : : まだ まだ名前をあげることができますが、こうした映画の題「白夜」のデイミトリ・カ。 ( レフスキー、「人生案内」 名を挙げるだけでも、いまもってその音楽の響きが耳にのヤコブ・ストリャール。 これらの名前と仕事は、どれをとっても映画音楽史上 鳴ってくるような気がするほど印象的な映画音楽がすく にのこるものばかりですし、日本で公開された映画に限 なくありません。 ってみてもこんなにあります。 ( 実はもっとあるのですが ドイツでは、「カラマゾフの兄弟」「 O 氏のトラン ク」「熱風」のカロル・ラト ( ウス、「たそがれの維納。あまり題名と人名の羅列にな 0 てしまうのでだいぶ割愛 「モンプしてしまいました。 ) ・こうした作品を通じて戦前のヨ 「郷愁」のウィリ・シュミット・ケントナー ロッパの劇映画の音楽のことを考えてみますと、映画音 ランの嵐」「黒衣の処女」「隊長ブーリバ」のパウル・ デッサウ、「クーレ・ワンべ」「外人部隊」の ( ンス・楽について、さきに引用した = ー。フランドの意見という 」、ハリウッド的なものに限定されての映画 アイスラ ー、「朝やけ」「あかっき」「民族の祭典」のものがいかに 〈化 ( ート・ヴィント、「旅路」「吸血魔」のウォルフ音楽にたいする発言であったかということを改めて思い あたることにもなります。 ガング・ツェラー もちろん、アメリカ国内でも、コープランドのように イタリアでは、「鋼鉄」のフランチェスコ・マリ。ヒ工 ハリウッドの専門映画音楽家以外の作曲家で映画音楽に ロ、「シ。ヒオネ」のイルデブランド・。ヒッェッティ。 タッチして成功した例がないでもなかったのですが、そ イギリスでは、「逃けちゃ嫌よ」「お気に召すまま」 のウィリアム・ウォルトン、「来るべき世界」のアーサの数はごく限られたものでした。それというのも、コー プランドが指摘したようにハリウッドの映画製作者がい ・ブリス、「幽霊西へ行く」「ドン・ファン」のミッ かに映画音楽にたいする保守的な固定観念をもち、サイ シャ・スポリアンスキー

7. ポピュラー音楽 入門のための13章

映画音楽はしがき 岡俊雄映画音楽の発生 サイレント時代 -0 主題歌の誕生 8 トーキー初期 ミ = ージカル映画の出現 8 ハリウッドとヨーロッパ 戦後の新しい傾向 テーマ音楽の隆盛 現代の映画音楽の展望 ムード音楽ムード・ミュージックとはイ 9 鈴木道子ムード・ミュージックの種類 ムード・ミュージックの流れ 6 ムード・ミュージックの主な楽団。 カントリー & ウエスタンはしがきウ 藤井肇西部開拓史 0 & 音楽の特色

8. ポピュラー音楽 入門のための13章

盟た。近年では「昼下りの情事」にフランスのふるい流行ごく一般的に、歌、音楽、踊りなどのミュージカル・ナ 歌ク妹惑のワルツ〃がっかわれてリヴァイヴァルいたしン ' ハーを見せ場の中心にした映画のことと限って考えて ましたが、そ ういう例はトーキー初期にもいくつかありみることにしましよう。 ます。一九三一年にトーキー嫌いのチャールズ・チャッ こうしたミュージカルは、ハリウッドで特に発達しま 。フリンがセリフなしのサウンド版として製作した「街のした。これは、映画をショウの一種として考えているア 灯」でスペイン民謡のクラ・ヴィオレテラみを伴奏につ メリカの映画界にある商業主義的な思想によって大きく かってヒットさせたのなど代表的な例です。 発展したともいえます。それと同時に、第一次大戦以 後、黄金時代を現出したプロードウェイ・ミュージカル が映画界に大きな影響を与えたのも見のがせないことで 6 ミュージカル映画の出現 す。一九二〇年代のプロードウェイ・ミュージカルは、 一九世紀のヨーロッパのオペラに比肩するような、最高 のエンターティシメント ( 娯楽 ) にまでたかめられてし しかし、トーキーの出現以後、音を得た映画の新しい ました。オペラやオペレッタ風のものや、レヴュー、ヴ ジャンルとして確立されたのは、 ミュージカル映画とい アラニティ・ショウ、ヴォードヴィル風なもの、さらに わなくてはなりますまい。 ミュージカルは、すべての点は、それらのスタイルをミックスさせたアメリカン・ス において、トーキーとともに生まれ、あらゆる意味でトタイルを打ち出した独特なものにいたるまで、まことに 1 キー技術の進歩にもっとも大きく貢献をしたといって多種多様のミ、ージカルがプロードウェイの舞台に妍を も過言ではありません。ミュージカル映画の定義をはっ現っており、そのながれは全米にまで及んでいました。 きりきめるには、あまりにも素材と表現のうえでひろい そうした、アメリカ的な新しいショウとしての人気を、 幅をもっております。極端な考えかたをすれば、「巴里音を得た映画製作者が見のがすはずもな・かったわけで の屋根の下」のような映画も広い意味でのミュージカルす。 映画だといえないことはないくらいですが、ここでは、 彼等はハリウッドの強力な資本に物いわせて、プロー

9. ポピュラー音楽 入門のための13章

ドウェイではできないような贅をこらしたミュージカル いうのは、何といっても映画にミュージカルのおもしろ をスクリーン上に展開することによって、映画をさらにさを導入した代表的作品だというこの時点における世論 豊かなものにしようとしたわけです。そのためには、ブの反映がそうさせたものと解すべきでありましよう。 ロードウェイのヒット・ミュージカルの映画化、舞台で トーキー初期のミュージカルはたしかにプロードウェ 輝やかしい脚光を浴びていたスター、有能な音楽家たちイには見られなかった贅をこらした大がかりな規模をス をどんどんハリウッドに招きました。「ショウ・ポート」クリーンに展開させましたが、根本的にはプロードウェ 「砂漠の歌」「サニー」「グッド・ニューズ」「ニュー イの模倣であり内容も貧しかったということは、当時の ・ムーン」「リオ・リタ」「ココナツツ」その他のヒッ トーキー技術の幼稚さと相まって止むを得なかったこと ト・ミュージカルが舞台以上の華やかさをもって映画化 でした。それでも多くの観衆にミュージカルの魅力をひ されましたし、またレヴュー ・スタイルの映画「ハリウろく植えつけたという功績は否定できません。私事にわ ッド・レヴュー」「ムーヴィートン・フォリーズ」「パ たって恐縮ですが、筆者が映画を夢中になって見はじめ ラマウント・オン・パレード」「ショウ・オブ・ショ た中学生時代というのが、ちょうどサイレントからトー ズ」などが各社の大作として製作されました。「プロー キーにうつりかわる頃でした。まだ、日本の音楽それ自 ドウェイ・メロディ」が一九二八 ~ 二九年度のアカデミ体も幼稚だった頃です。ポ。ヒュラー音楽やミュージカル ー作品賞を得たことは、そのようなハリウッドがミュー などがいかにたのしいものであるかということを一ばん ジカル時代に新しい意欲と希望をかけたことをはっきりさきに知ったのは映画を通じてであったといえます。そ と示したものだといえます。 ういう意味で、初期のミュージカル映画が果した役割と いうものが、いかに大きかったかということを改めて痛 楽この年に、アメリカでは芸術的にもっともすぐれた映 感せざるを得ないのです。 画画がずいぶんつくられていますし、「プロードウェイ・ 映 さて、こうした揺監期のミュージカル映画のすべて メロディ」が、そういう作品をしのぐ傑作かどうかとい うことになると、いささか数多くの疑問もあるのですが、プロードウェイの模倣ばかりであったかというとそ 3 が、多くの意見がこの映画をこの年のベストにおしたとうではありません。早くも映画的な独特の自由な表現と

10. ポピュラー音楽 入門のための13章

しての音楽である。この最後の種類の伴奏音楽という 価値があるのであって、いかにそれが優れていてもス クリーンで語られている物語にたいし二次的な重要性のは、日頃印象的であるべき音楽を書こうとしている しかもたない。完全に自己表現をしなければ満足でき作曲家にできるだけ印象のうすい音楽を書けというこ とになるわけで、実にありがたくない仕事なのである。 ないものは自宅にこもって交響曲を作曲した方がいい こういう影の音楽は、観衆が実際きこうとはしていな のであって、そういう音楽家はハリウッドでは幸福感 、またそれが存在していることさえ気のつかない種 を味わうことはできないだろう。 むしろ、映画音楽のよしあしは、充分時間をかけて類の音楽なのであるが、本当は観るものの情緒に無意 しし音楽を書いて識のうちに作用しているものなのである。画面にたい しい仕事ができるかということと、、、 しては中性的色合いをもつが、雰囲気だけをかもし出 やろうとするだけの意欲を燃やさせるかということ、 内容のたかいものかというところに多分にある。とこすような音楽である。つまり、画面には欠けている説 明しがたい暖かさをつくりだす音楽なのである。 ろがそういう条件を満足させるような場合はめったに 映画音楽の仕事はたしかにある程度専門的な知識と ないばかりか、逆に、映画のことはよく知っている、 大衆は何をもとめているかはこの自分にまかせてくれ手練を必要とするいろいろな技術的な制約をもってい る。そのなかに、いわゆるハリウッドの花形作曲家の という自信満々たるプロデューサーにかかって、ハリ 名前をあけることもできる。アルフレッド・ニューマ ウッドの映画は大てい絞切型になってしまうのであ ン、マックス・スタイナー、ヴィクター・ヤングはま る。 さしく映画音楽がつくりあげた作曲家である。映画音 映画にたいする音楽の目的は、映画をより効果的に することにある。音楽が映画をひきたてる要素として楽を軽蔑することはやさしいことだが、かれらの貢献 をまったく無視するというのも賢明とはいえない。た 重要な三つの場合が考えられる。第一はある場面の感 とえば、ニューマンは情緒的なシーンのための背景 情の歸揚、第二は音楽によって切れ切れのフィルムに ( ' ハックグランド ) 音楽として弦楽合奏が効果のある 連結性のイリュージュンを与えること、第三はある種 ことを発見している。フル・オーケストラよりも弦楽 の中性的な伴奏を構成すること、つまり物語の陰影と