になっている。そこでよくクシャンソンは三幕物 ( あるとはいわず、語るという。浪花節を歌うのでなく、浪花 いは四幕物 ) の芝居〃であるといわれる。 節を語るのである。それはどういうことであるかといえ ただある感情を歌ったとか、ある情景を歌ったとかでば、筋のあるもの、物語になっているものを歌う場合に なく、詩でなく、筋を持った物語を歌ったところにシャ は、それを歌うといわず、語るというのである。ちょう・ ンソンの特徴があり、親しみやすいわけがあるのであどそれにあたると考えていい。 る。物語であり、ドラマであるから、全体の劇的表現と よく知られたシャンソン歌手で、不世出の大歌手とい いうものが必要である。言葉の一つ一つに意味をもたわれた、今は亡きエディット・ピアフが一九五一年の せ、それを要求されているように表現しなければならな春、マルセル・アシャールの二幕八景のシャンソン入り 。しかしその前にまず大切なのは主題である。主題がの芝居に主演したことがある。その時、新聞記者が楽屋 何を扱っているか、歌手の表現を決定するものは、そのを訪ねて、お芝居は勝手がちがってやりにくいでしよう ミアフは 主題である。その主題の要求するところにしたがって、 ねと聞いたものた。。ヒ しいえとすぐ否定し 生き生きと歌い、語り、表現しなければならない。 た。大体、シャンソンは三幕物のお芝居であるから、少 別のところで説明されると思うが、シャンソン歌手にしも違ったところはない、わたしは何時も三幕物の芝居 ばかりやっているのだから、同じことだ、と答えてし はいろいろの型がある。そのうちにクディズールみ di- seur とかり一アイズーズ〃 diseuse とかいうのがある。 る。これを見ても、シャンソンが歌われる一篇の詩であ これは直訳すれば〃男性の語り手ん″女性の語り手とるよりも、歌われるドラマであるということが了解され いうことになるが、シャンソンをシャンテ ( 歌う ) するると思う。 しかし、ここにも時代の変遷がある。戦後になってシ ソというより、特にディール ( 語る ) するというように表 現する歌手のことをいう。シャンソンは一篇の物語であャンソンにも筋のないもの、物語になっていないものが 疆ふえてきた。これもアメリカのポ。ヒュラー・ソングの影 り、ドラマであるから、それはク歌うみというよりク るみというにふさわしいものであろう。わが国で常磐津響であろうと思われるが、こうしてシャンソンは本来の 9 や清元や義太夫、さては浪花節などの場合、それを歌う特徴を失いつつあるとも言える。もっとも戦前にも、筋・
312 曲者のドメニコ・モドウーニョ ? クラウディオ・ビル ラ ? 若い新人歌手 ? : : : それらが一つ一ついかに違っ ているかにお気づきだと思います。またクラウディオ・ ビルラがうたった「マンマ」をお聴きになりましたか。 あの力強い迫力と母への暖かい愛にあふれた「マンマ」 に比べて、先日来日のルチアーノ・タヨーリの同じ曲を 思い出してみてください。聴き手が思わず涙せずにいら れないようなせつなく悲しい母への思いは、これが同じ 「マンマ」かと疑うほどの相異でした。 ミュージカルの世界では、過去に大歌手が活躍してい た頃には、歌手がステージを左石していましたが、次第 ません。そのタイプの千差万別なこともちょっとした見に作曲がすべてを握るようになり、現在それは演出家の もので、最近はさらにその傾向がいちじるしくなってき手に移されてきているといわれています。けれどもイタ ました。依然として伝統的なナポリ調を聴かせているリアのカンツオーネと、それから伝統的なオペラばかり ともいうべき大御所たち、若いは古い昔のまま、依然として現在に至るも歌手が主役で クナポレターノうたいな 世代のロック調歌手たち、そのほかのポ。ヒ = ラー歌手たす。同じ曲が歌手の個性のままに、どんな風にも変えら ち。しかし無理に分類することは意味がないほどに彼られてしまい大衆の心に結びつくか否かの鍵を握っている は一人一人が個性的で、歌に関する限り決してほかの者のが歌手なのです。 イタリアのカンツオーネ界には、だから実にすぐれた に影響されることなく、自分のものをたいへん大切にし 歌手が多く、それは文字どおり歌の国にふさわしいとい ています。 えるものです。歌の心を知りつくしている本物のカンツ 「ヴォラーレ」を聴いたことのない方はいないと思い ますが、誰がうたったのをお聴きになりましたか ? 作オーネうたいたちのうまさは、やはり世界一といわざる クラウディオ・ビルラ
で、本当のジャズをやっていない店はたくさんありまトン ( べース ) といった百年に一人出るかどうかという 天才が、ミューズの神の申し子のようにジャズの歩むべ す。 一九六五年ニューポート・ジャズ・フェスティヴァルき道を示し、早々と天国に召されたのであります。 に出るまでの弘田三枝子は、私たちの分類ではジャズ歌弘田嬢も、事の意外に驚ろき、はじめて入門的な手ほ 手ではなく、ポツ。フ歌手でした。ところがマスコミもマどきをうけて帰国しましたので、今後どのようにその卓 ネージャーも、当のご当人も、ジャズ歌手であると信じ抜な才能をジャズの世界に生かしてゆくかが楽しみにな りましたが、残念なことは、「日本ではポップ歌手をジ て疑わなかったようであります。ともかく弘田三枝子が ャズ歌手として認めているのか」とアチラさんに誤解さ アイドルと仰ぐ。フレン・リーさえ出演したことのない フェスティヴァルに、日本の代表的ジャズ歌手として出れたこと、三十歳を越して十数年もジャズひとすじに打 ちこんできた本格的な日本のジャズ歌手が、依然として 演したのですから、好意的な批評もあったでしようが ? アメリカの有力新聞に「ジャズ歌手としての素質はほと陽のあたらぬ場所で歌いつづけていることであります。 アメリカでも、「有力な新人」として認められるのは んどない」と酷評されるに至ったわけであります。 私の知る限り、英語を国語としている本場のアメリカ大体二十五歳をすぎてからで、三十歳をすぎないと成熟 でさえ、十代でジャズ歌手として大成していた人は一人度を感じさせないのです。 ジャズとは、オウムのように教えられた通りに歌った もいないのでありまして、わずかに不世出の歌手ビリー ・ホリディ唯一人が十代で将米を期待されていたにすぎり演奏するものではなく、自分の思想や人生観を基礎と ません。ホリディにしても大成したのは三十歳に近づい しての自己表現だからであります。思想も人生観も人生 てからであります。それほどジャズというのはナメてか経験もなしにジャズを演奏しても、ファンの心を深くと らえることはできません。ジャズ・ファンがジャズメン かれないオトナの芸術なのであります。 マイルス・デヴィスのような偉大なジャズメンですの年令や経歴に興味をもつのは、人間そのものが、音楽 ら、十代ではヒョッコのようなものでした。わずかにチになっているからであって、映画ファンがスターの住所 ハー心理によるのではないので ャーリー・クリスチャン ( ギター ) とかジミー・ ブランや経歴を知りたがるミー
た。各レコード会社も竸ってナッシ、ヴィルに録音スタ . 数は年と共に増加、しかも前売券は数週間前からすでに ジオを建設、人気歌手と長期吹込契約を結び、私どもに 売切れの盛況で、文字通り、ナッシ = ヴィル市は「アメ リカ合衆国の音楽の都」となりました。前にも申し上けも親しまれている数多くのレコードが発売されました。 たように一九三九年以降、歌うスター歌手中心のはなば最近流行のナッシ = ヴィル・サウンドも元来は「グラン サウンド」から発展したもの ド・オール・オーフリー・ なしいショウに変貌して以来、個性をもった新人歌手が 次から次〈と登場して得意の持ち歌をご披露し、ファンです。なお、グランド・オール・オー。フリー・シ = ウは一 九五八年からテレビでも放映されるようになりました。 の大喝采を博しました。つまりグランド・オール・オー スター歌手の誕生、そして彼等の活躍がそのままカント 。フリーは新人歌手にとって、あこがれの登電門であり、 このステージで歌うことが一生最大の感激とな 0 たのでリー・アンド・ウ = スタン史に通ずるという理由をなっ とくされたことと思います。 す。ロイ・エイカフを始めとし、エディ・アーノルド、 レッド・フォリー、アーネスト・タブなどの大ヴェテラ ンから、ハンク・ス / ウ、ウェブ・。ヒアース、さらには 世紀の大歌手、故 ( ンク・ウィリアムスから、「ーティ 6 スター誕生 、くック・オーエン ・ロビンス、ポーター・ワゴナー ズ、またコメディアンのロッド・ブレスフィールド、ミ グランド・オール・オー。フリーの隆盛に刺激されて、 ・。、ール、器楽陣のチェット・アトキンス、フロイド ・クレーー等々、このシ = ウに出演しなければ一人前に各地で色々のウ = スタン・シ = ウが開催され、続々と人 なれぬという考えは、他のポ。ヒ、ラー部門ではとうてい気歌手が登場するようになりました。これにはラジオ、 考えられぬ現象です。必然的に新らしい歌が数多く紹介テレビの普及が大きく貢献したことはいうまでもありま せんが、特にレコードの重要性は、スター誕生に拍車を され、局の電波を通じて全米に普及すると共に、 カントリー系の歌が、ポ。ヒ = ラー歌手によ「て取り上げかけました。メイジャー会社は申すに及ばず、同系統、 られるようになり、黄金時代を現出するようになりましあるいは独立した o アンド専門のマイナー・レ = ード
リカのブル ・ヨーデラー」「歌う制動手」 ( 鉄道従業・ 会社の活躍もめざましく、またディスク・ジョッキーの 、ジ、ーク・ポックスの効用によって従・米のローカル員をつとめておりました ) 彼は一八九七年にミシシッ。ヒ 州に生れ、一九三三年結核のため三十六歳の若い生涯 ・ミュージックから次第に、都会にまで進出するように なりました。レーベルもキャ。ヒトル、コロムビア、デッをとじましたが、今日の 0 アンド音楽の基礎をつくり ユナイテ上げた偉大な先覚者です。グランド・オール・オープリ 力、、 O < ビクター、マーキュリー ッド・アーチスツ、リバティ、ケイデンス、スターデとは関係ありませんが、独自の立場で数多くのトレイン・ ム ソング、ブレ ・ヨーデルの曲を作り、自からギター イ、ヒッコリ フォア・スター、サン、オーケー ジコーレ、 ノインペリアル、ルーレット、ワーナー・ブラを弾きながら歌い、独特の唱法で人気を博し、後年のス ザース、キング、エ。ヒック、キャツ。フ、コーラル、エレター歌手たちに大きな影響を与えました。若いファンの クトラ等々多彩にわたり、しかもこれらのレコードが、方もビクターから発売されているアルバムを、一度はぜ 今日、日本でも各社から発売されていることはこの上なひきいて下さ、、 ( 和三十八年来日した若手人気歌手、 ・ロジャースとは関係がありません ) 同名のジミー い喜こびです。 さて話を元に戻して、スター誕生はどの芸能界にも見グランド・オール・オー。フリーに初めて登場したスタ ー歌手第一号としてロイ・エイカフはそれまでの器楽演 . ンられる共通現象ですが、特にグランド・オール・オー。フ ーを中心に発展してきた情勢は他には見られぬ特殊性奏主義を、歌手中心に変えた功績者です ( 昭和三十九年 ス がうかがえるのです。新らしいスターが次から次へと生来日した時、五十八歳にもかかわらず、明るい美声を堪・ ウ ヒヒさせてくれました。これをみてもウエスタン歌手の生 & れる一方、ヴェテラン歌手が依然はなばなしい活躍をつ育 命がポピュラー畑のシンガーといかにちがう耐久力をも づけている根強さが、 0 アンド界の特徴と申せましょ っているかがお分りでしよう ) カ 一九四〇年代に入るや歌う人気スターは目白押しの大 グランド・オール・オープリーの花形歌手にふれる前 盛況。今も健在でナッシュヴィル・サウンドの開拓者と に、まづ第一にあげなくてはならないのは「カントリー もいうべきエディ・アーノルド、泥臭い節廻しが魅力的 ・ミュージックの父」ジミー・ ロジャースです。「アメ
リース・ゴ ョゼフィーン・べーカー、マリ 叫コンセールとかキャフェ・シャンタンとかよばれるよう ・ロッシ、シャルル・トレネたちが ー一アイ、一アイノ になった。 それが普通のキャフ = とちがうところは、コーヒーをそれそれの華を咲かせた。この中には第二次大戦後もま のみながら、音楽やシャンソンが聞かれるということでだ歌 0 ている人もいる。そしてこの時代の歌手が、はじ あった。それに入場料がなく、何時いって、何時出てきめて日本にシャンソン歌手として紹介されたのである。 てもいいというところが、劇場とちがっていた。普通の即ち、昭和八年にリ = シェンヌ・ボワイエが、はじめて シャンソン歌手としてわれわれにその可愛いい声を聞か キャフェより、コーヒー代が高いというだけであった。 そこでキャフ = ・コンセールとかキャフ = ・シャンタンせてくれたのである。それから第二次大戦がおこるまで といわれるものは一九世紀の後半には非常な隆盛を見せに、熱烈なシャンソン・ファンがどんどんふえていっ たものである。 そしてそこはシャンソン歌手のよき働き場所であり、 シャンソンの源泉地でもあった。 これらのキャフ = ・シャンタンと、それから先に説い 4 現代のシャンソン たキャパレ・アルチスチックから盛んにシャンソンが生 れ、そこで多くのシャンソン歌手が活躍した。 戦後になって真先きに紹介されたのは、エディット・ 一九世紀の終りから二〇世紀の初頭にかけては、アリ ヒアフは戦前にモーム・。ヒアフという スチード・。フ = リーアン、イヴ = ット・ギルべール、ポ。ヒアフであった。。 ール・デルメたちが大いに活躍した。それから第一次大名前で歌 0 ていたが、日本には紹介されなか 0 た。彼女 の ! ハラ色の人生みやク愛の讃歌が紹介されて、どれ 戦までにはミスタンゲット、モーリス・シ = ヴァリエ、 = ステル・ルキャン、「イ「ールたちが活躍した。第一だけシャンソン・ファンがふえたことだろう。終戦直後 から約一〇年間は、まことにシャンソン時代といってい 次大戦から第二次大戦までの間には、グミア、フレエル、 いほどで、ほんとうにシャンソンが流行した。その拍車 イヴォンヌ・ジョルジ、、リシェンヌ・飛ワイエ、ジ
フランク・プウルセル 刀ン生れのギリシャ系イギリス人。父からヴァイオリンを ンド フランスきってのムード・オーケストラ。作編曲指揮 学び、十八歳でヴァイオリニストとしてグンス・ に参加し、各種楽器も研究。後トリニティー音楽院卒業者のプウルセルは、一九一三年マルセイユ生れ。海軍々 ハンドを結成して楽隊長だった父の影響で音楽に親しみ、幼少よりヴァイ 後は、三九年に自分のズンス・ にも登場。ムード・ミュージックも充分検討した末、独オリンを始めて同市の音楽院を経てパリ音楽院に入学。 自のスタイルを確立。メラクリーノ・ストリングスで名卒業後故郷の歌劇場オーケストラの指揮をする中に、ル 声を高めて今日の地位を獲得。渋好みのオーソドックス シェンヌ・ボワイエに認められて伴奏楽団の指揮者とな な演奏は定評があったが、惜しくも六五年六月十八日ロ り、訪米してジャズにもふれ、五一年グランド・オーケ ンドンで他界しました。 ストラを結成。クラシカル音楽の名手も加えた楽団は美 しい気品にあふれ、シックな味わい深い演奏で定評があ フランス ります。 カラヴェリ ミシェル・ルグラン 最近日本でもクローズ・アツ。フされてきた現代のフラ ムードを演奏しても変化に富み、多方面で活躍する多 ンスを代表する若々しさのあふれた楽団。ピアニストの才な人。。ヒアニスト、作編曲指揮者のルグランは、一九 イタリア人の父と、フランス人の母を持っ彼は、本名ク三二年二月二四日パリ生れ。バンド・リーグーの父の意 ロードヴァゾーリ、 一九三〇年イタリアのヴェニス生志でパリ音楽院で作曲、。ヒアノを専攻。卒業後すぐに頭 れの作編曲指揮者、。ヒアニスト。クラシカル音楽の歌手角をあらわし、シュヴァリエからマイルス・ディヴィス の伴奏者だった父について各国を歴訪。父より。ヒアノとにまで編曲を提供。映画音楽も好評で、ジャズからムー ドまで野心的な活躍を続けています。 和声を学び、四八年パリ音楽院入学。卒業と同時にシャ ンソン歌手の伴奏者として活躍を開始。五九年マジック ドイツ ・ヴァイオリンズを結成。若々しい新鮮な感覚のダンサ ベルト・ケンプフェルト ブルなムード音楽は、特に若い人たちに人気があります。
としてレファナニ・佐竹、ティーナ・早川といった女性 で、これに続く若手グループとして後藤澄哉とサーフラ イース、山下洋治とムーディ・サウンズ、白石信とナもいる。概して踊りは従属的な出演の場合が多いので、 レオ・ハワイアンズがあげられるが、若手の抬頭と活躍とくにここにとりあげた。テレビや公演ではおなじみの 八たちではあるが はさらに強く望まれている大きな問題でもある。 独立した歌手としては圧倒的に女性が多く、復帰した 工セル・中田、南かおる、浜レイ子、影山ひろ子、夏木 奈美、それに一般的な名は持たないが、古典フラ専門に 歌っていて貴重な存在である衛藤かおりという人がい る。いちおう日野てる子も含めておこう。男性の場合の ( 前記の人た 独立した歌手というのはほとんどいない ちはすべて演奏者兼歌手である ) この点は極めて寂し いがリヴァイヴァル・プームにのって灰田勝彦が依然と してがんばっているのはたのもしい 日本でのポリネシア系の舞踊グループは、その特殊な 需要性によるものは数が少ない。 Z ・・のように踊 りの一部として踊る人たちを除いてポリネシアン専門で 踊っているグルー。フには、草分け的な存在でフラ、タム アレ、マオリ・ズンスなど豊富なレバートリイをもってい る島公映と。フア・ローゼス、昨年結成されたティアレ・ ナナとフラ・クイーンズ、これに東 ~ 泉フラワーズ、カル ア・シスターズ等が挙げられるが、数も人数もはっきり この他にソ・ンサー 9 いって少ないことは否めない
320 濃いものですが、どちらにせよ カンツオーネの美しいメロディ を溢れさせる泉の役目をしてい たことはたしかであります。競がを一 って作曲家たちは耽美的な作品 を生み、歌手はその酔いしれるノ ような甘い声でメロディをかせ ました。 一九六〇年にはいると、この 甘さと美しさだけではさすがに物足りなくなり、異色のりません。ただ美しさに陶酔していたカンツオーネから 作曲家や歌手が次第に現れてきました。そのトップをき内容に一歩ふみこんだモドゥニョの実力は偉大なもので ったのがドメニコ・モドゥニョです。美声とはいえないす。 彼の声にはギョッとするような人間臭さがあり、声をの このあたりからウンベルト・ビンディ Umberto Bin- df ピノ・ドナッジョ Pino Donaggio など本格派とで ばしてメロディをうたうという従来のカンツオーネの常 識を破ったブツリブツリと断ち切るようなくせの強いうもいいたくなるような作曲家兼歌手が次々に現れ、カン たい方が独特のな力で大衆をとりこにしました。同時にツオーネの地図を急速に変えてきています。中でも変り 彼は作曲でも大活躍をし、 - 「ヴォラーレ Nel bludipin- 種はジノ・パオリ G ぎ 0 paoli で、彼の作風はこれま to di blu 」をサンレモで自作自演して優勝してからは、 でのカンツオーネのスタイルをまったく変えてしまって 「チャオ・チャオ・バンビーナ Piove 」「アディオ・ア います。歌詞に重点をおいてその言葉を前に押し出すよ ディオ」と続けてヒットを出しています。モドゥニョの うな、決してはでな作風ではないながら、その言葉の一 作品はそれまでとちがって内容を深く彫りさげてあり、 つ一つが、きらびやかに光り輝ゃいているようなカンツ それだけ人を魅きつける力が大きいことはいうまでもあオーネばかりなのです。彼のうたいまわしもこれに準し
, ラグイス」などのヒットを世に送った。このでハウナニ・カ ( レワイである。前者は六年前、人気最 ィアン・。、 人は、アメリカの人名録に実業家として名を連ねている高の時に心臓マヒでたおれたが、今もってアバカを慕う 変り種の作曲家 ( ート・アレキサンー・アンダーソ人は多く、疑似ステレオが続々登場していることでも判 ン ( マリヒ = ・メレ、可愛いいフラの手等 ) と並んで決るし、 ( ワイ・コールズの新アルバムにもしばしば収録 して名を落すことの出来ない作曲家である。一九二〇年されている。 ( ウナニは音感の鋭いことは最高で、堂々 に「フラ・フノ 。レース」のヒットを放ってより、数百にのたる押し出しとともに最高に列せられる歌手であろう。 クラシックなヴォーカルを身上とする人にはマヒ・ビ ノーブル ( 古 ・ほる作品を書いたジョニー・アヴェリー・ ーマー、女性で戦前派のレナ・マッシャード、ジェノア・ きハワイの歌、レイをあなたに等 ) も、性格的、そのや り方 ( 版権を知らぬハワイ人から安く曲を買いあげて自ケアヴェ、イリマ・べーカー、戦後派のマーレネ ( マリー 分の曲にしてしまう等 ) にとかくの批判があるが、この ン ) ・サイ、レイナアラ・ハイリ、ワイナネ・カーネア 人の名もまた落すことはできない。 リイ等が挙げられる。ただし、こうした歌手たちは地味 戦後、日本に紹介された人々では、演奏家 ( ハワイアな唱法となるので、ハワイアンを深く追及する人たちに ンの場合、同時に歌手、作曲、編曲者であることが多は人気があっても一般的な人気をなかなか勝ち得ること い ) としてハル・アロマが紹介レコードの多いことと共が難かしいためにマヒ、マーレネを除いて日本プレスの に第一に挙げられよう。日本では純ハワイアン奏者とみ登場は皆無である。 なされないゆえだろうか、あまり評判にはならないよう ューモラスな会話とちょっぴり白人に対する諷刺をチ ・こがジェリ ・パイアードは米本土でかなり根強いファクリとやってのけて、またそれが人気の因となっている のが、スターリング・モスマン ( 男 ) 、および今も第一線 アン層をもっている。楽器を宣伝してハワイへのイメージ イ ハティ ( 女 ) であろう。プア・ でがんばっているヒロ・ を結びつけている人たちには、アーサー・ゴッドフリー ワ やロイ・スメックがいるが、この人たちは同じく「ハワアルメイグも二度の来日で人気がある人だ。 ィアン」としては人気がない。 別な方向からハワイをア。ヒールさせた功労者としては 歌手ではなんといってもアルフレッド・アバカ、女性エド・ケニーが挙げられる。彼は一九五八年、プロード