ち 9 映画音楽 同じ時代に、各国で楽としてリードはウィーンのカフェやレストランで人気、 それぞれつくられてを集めていた民俗楽器チターの奏者アントン・カラスの いることはひじよう 演奏を採用しました。カラスはこの映画のためにク第 = = に興味ぶかいことだの男りとクカフェ・モーツアルトんというふたつのテー。 闘といえましよう。そマの旋律を書き、前者を中心にしてまとめています。チ の各国の代表作をひターは、、 ノープとギターと琴をあわせたようなひなびた 昼とつずつ年代順にあなかに鋭い音色をもった楽器ですが、リードはカラスの げて、それがどんな演奏するチター以外の一切の楽器をつかっておりませ 音楽であったかをふん。その独特の響きとウィーン風の旋律のノスタルジッ りかえってみましょ クな気分がこの映画の背景の雰囲気をひじように色濃く , もりあけたのでした。しかも、ひじように強いサスペン 第一にくるのは、 スを出す場面ではチターのシャー。フな音色を抽象的な音 一九四九年にイギリ のうごきとして画面の緊迫感に大きなプラスを与えると スのキャロル・リー いう計算もされていたのです。この映画のスリラーとし び ドのつくった「第三てのユニークな出来ばえは、リードの演出もさりなが たの男」です。この映ら、チターの伴奏効果に負うところが大きかったわけで ら画は、監督の意志がす。ですから、ここではチターという楽器そのものがテ ーマ的な要素にまでたかめられていたのです。 れ・ト禁映画音楽にはたらい た典型的な一例で そのつぎに、一九五二年にフランスのルネ・クレマン す。戦後のウィーンのつくった「禁じられた遊び」があげられます。大戦中、 を舞台にして展開すの悲劇を子供の眼をとおして描いたこの傑作の音楽は、 るこのスリラーの音ギターの名手ナルシソ・イエベスの演奏だけで全篇を押 ,
3 ー 0 それまで少しずつ注目されてきていた″カンツオー ネみは、六四年第十四回のサン・レモ・カンツオーネ・ フェスティヴァルをきっかけに、爆発的な・フームを呼び おこしています。今ではもうカンツオーネを口ずさんだ 2 カンツオーネとは ことのない方はいないでしようし、ラジオやテレビか ら、カンツオーネが流れない日はないといってよいでし よう。みなさんが漠然とたのしんできた「夢みる思い」 クカンツオーネみ なんと明かるい親しみやすい響 や「君に涙とほほえみを」について、そろそろ何か知りきをもった言葉ではありませんか。会 Canzone の意味 は、辞書でひいてみればわかるとおり、日本語でク歌み たくなった頃ではありませんか ? 今までは、その明る さ、美しさにとびついてただたのしんできましたが、実そしてこれをフランス語にしてみるとクシャンソンな は、それがイタリアの大衆の歌が日本に輸入されてきたのです。 のだ、ということさえ知らない方がいるのではないでし イタリアは噂にたがわぬ歌の国。どの民族にも民謡は あり、どの民族もうたうことをたのしんで今日まできて カンツオーネについては、実をいうとあまり理屈つぼ いますが、イタリアっ子ほど声を張りあげてうたうこと いことをいいたくないというのが・ほくの本音なのです。 の好きな人種はないのではないでしようか。下町で洗濯 カンツオーネの魅力というのが実はそこにあるからなのをしながらすばらしい声でオペラのアリアをうたうおか です。ごてごてした肩書きは無用、理屈ぬきでたのしめみさん、甘いテノールでナポリ民謡を節まわしよろしく 1 はじめに るのがカンツオーネのよさだからです。 しかし、それにもかかわらず裏はらにカンツオーネほ ど大きな歴史に支えられ、国際的な規模のフェスティヴ アルでドラマティックに新曲や新人が生れていき、リズ ムや歌詞に特徴があるーーというように、話題の豊富な ものも少ないのではないでしようか。
印象をのこしているのは当然だし、そういう監督と仕事 その劇的中心なる劇的状況に合うような音楽的なモティ ーフ ( 動機 ) をいくつかきめており、その人物が登場しをする作曲家はめぐまれているわけです。 ) たり、そ ういう劇的状況になったときに、それらの動機話をテーマ音楽のことにもどします。テーマ音楽らし いテーマ音楽のつかいかたできわだっていた映画といし・ にもとづく音楽をつけるという手法が一ばんよく用いら れておりました。これは、ワグナーが彼の楽劇のなかでますと、ふるいところでは、何といっても、「駅馬車」 この映画はほとんどひと つかったライトモティーフ ( 主導動機 ) の手法を模倣しをあげなければなりますまい たものです。音楽的には手のこんだ高級なっかいかたでつのテーマ音楽に限定して、場面の変化に応じて、その すが、案外印象にのこらないどころか、何人かの人物が同旋律を巧みに変奏するというやりかたをとっておりまし 時に出てきたり、その動機をあてはめて書かれている状た。その主題になった旋律が西部民謡のク俺を淋しい草 況が平行的にカット・只ックしてスクリーンに展開され原に葬らないでくれ々であることはいまではひろく知れ るような場面になると、かえって音楽の方から混乱が生わたっております。この映画がわが国で公開された昭和 一五年には、日本でほとんどこれが民謡から借りたテー ずるということもしばしばありました。こういう風に、 映画音楽というものは、作品の構想全体の責任者であるマだということを知っているひとはおりませんでした 監督 ( またはプロデュサー ) が作曲家とよほど呼吸があが、映画がおわったとき、そのフシをお・ほえてしまうほ っていないとうまくゆかないということになります。どふかい印象を与え、そのフシを口にすると「駅馬車」 ( 話は横道にそれますが、「巴里祭」におけるクレエルの数々の名場面が自然に眼の前にうかんでくるほどでし のような考えをもっている監督がいないでもありませた。音楽監督のリチャード・ヘージマンも立派な仕事を 楽ん。筆者のよく知っている市川崑監督などは、作品の構したといえますが、ジョン・フォードの音楽の好みが映 画想をたてるとき、全体にながれる音楽の基本的なテーマ画で大きくものを言ったのだともいえます。 映をいつも頭においているひとですし、黒沢明監督などジョン・フォードは彼の一体に映画の素材の性格にも ・ソングの使用が好き も、音楽が画面にうたいかけるイメージを大へん重要によるのですが、民謡やポピュラー で、それをテーマ音楽としていかに効果的につかうべき 考えているひとです。これらの監督の作品の音楽がいい
・ラブソディー」など、今日私たちがルンパと呼んす。 たとえば「『南京豆売り』はルンパである」という場 でいるものは、その大部分が社交ダンスのルンバであ ( のオリジナルなルイ ( ではないのです。そ合には、「社交ダンスのルンパで踊る音楽」という意味 り、キュ ぶ音楽のリズム ・ルンパ」とであり、これをソンとするのは、キュ うそう、日本でも大ヒットした「コーヒー いう曲がありましたね。これは原題を、「コーヒーをひ名 ( 及びキ、ーバ本国におけるそのンス ) を指してい ベネズエラのホセ・マンソという人るわけです。又、その歌詞の内容から、。フレゴン ( 物売 きながら」といし ー・リズムの形で作曲したもり歌 ) とする分類の仕方もあります。もちろん、同じ曲 が、オルキデアというニュ であっても、場合によっていろんな形にアレンジして演 のなのですが、ちょうどうまいぐあいにシンキージョが 使われており、日本ではルンバの方が通りがよいので、奏されますから、時には「南京豆売り」がチャチャチャ ・ルンともなり、マンボともなる・ーーそこが、ポピ = ラー音楽 レコード会社の方と相談して、これを「コーヒー バ」と名づけました。その結果、日本ではルンバとしての面白いところですね。このように音楽が生き物である 知られたわけですが、欧米ではルンパよりもむしろパイことを理解しないで、杓子定規の三段論法をあてはめる と、かえってその本質を見失う結果になりがちです。 ョンとして踊られる場合が多いようです。 さらに、注意しなければならないのは、ルン。 ( にして社交ンスのルンバがアメリカで大流行したのは、い も、ポレロやマンポそのほかの舞曲にしても、この言葉うまでもなく「南京豆売り」のヒットがきっかけで、こ は音楽の形を指す場合と、踊りのスタイルを指す場合との曲は、一九三〇年にアメリカで初演され、そのレコー があるということです。本来はこの両者は不即不離の関ドがミリオン・セラーを記録しました。翌三一年にはイ 音係にあるので、さして間題はないのですが、広い地域にギリスのロンドンで上演されたコクランのレビ = ーの主 テ流行するようになると、各地でそれそれのズンス・ステ題歌として挿入され、ヨーロッパにもひろまったそうで ラ ツ。フが考案されたり、踊りやすいように音楽のリズムがす。この 0 ・・コクランという人は、一九世紀の末か 変えられたりします。ですから、時に応じてその舞曲名ら今世紀にかけて活躍した英国ショウ・ビジネス界の大 ちがどんな意味で使われているかを見分ける必要がありま立物で、大がかりなミ = 1 ジカルからストリツ。フやロデ
に音楽をよく知っており、音楽が好きだといっても専門、 かという術を心憎いほど知りつくしている監督だといえ るでしよう。「怒りの葡萄」ではクレッド・リヴァー 家ではありません。そのためにかえって本職の作曲家の ヴァレー ー、『コレヒドール作戦」ではク錨を上げてみ ように玄人好みの小細工を弄したりしないで、ずばりと・ 「荒野の決闘」ではク いとしのクレメンタインみ 「黄作品の内容に適切な音楽がえらべるということにもなる といえましよう。 色いリポン」の同名の軍歌、「静かなる男」でのアイル ( このことはあとでふれるつもりです ランド民謡クギャラウェイ・べイなというように、彼の が、既成の音楽だ けあっかって映画 重要な作品ではよく知られた歌をテーマにかりていま 音楽の役割りを果 す。こういうふうに耳なれた旋律を映画音楽につかうこ たさせるという映 とは、まえに書いたコープランドの意見でもうかがわれ イ画が多くなった理 るように、一九三〇年代の映画音楽では画面の主体性を ム由とも考えられま 損うものだと考えられていたのをフォードは逆用して大 イす。 ) こうなって きな効果をあげたのです。 くると、映画作家 こういう考えかたは、チャールズ・チャツ。フリン ( 彼 と作曲家の関係は はいつも自分の映画の音楽を自分で書いています ) にも ひじように密接に 見られます。「街の灯」のことは前にも書きましたが、 なり、作曲家はそ、 「ライムライト」では、自作のひじように単純な旋律の ワルツ風のテーマをくりかえしつかって大きな成功を収の専門家としての知識と技術をもって、できるだけいい めていました。 結果をもたらすように協力するという方向がつよまって こうしてみると、よい映画音楽というものは、単に作くることになります。そういう考えかたが、実際にすぐ 曲家だけの所産ではなく、音楽に理解をもち、その効果れた作品をうみだし、現代の映画音楽がテーマ主義を指 を積極的にとりいれようと考えている監督の存在という向するに至ったのだと解釈してみてよいでしよう。 このようにテーマ音楽のお手本のような作品が、ほ・ほ一 ことを無視できないということになります。監督がいカ
フォーク・ソング、フォーク・ソングといっても、自 ートなどで、自分の歌う曲を説明するときにその説明が 分たちの国の民謡ではないアメリカの民謡です。日本の間違っているというような例にもしばしば出くわしま 民謡だってなかなかわけがわからないんですが、ましてす。内容がよくわからずに歌ってるなんて、まさに「フ オーク・ソング歌いのフォーク・ソング知らず」の最た や外国語で歌われる外国の民謡です。われわれジャケッ トの解説を書くものは、できるだけその歌のバックグラるものですが、ヒット・ソングの歌詞を片カナで書いて ーみたいな真似しない ウンド、内容、由来などをお知らせするよう努力してる丸暗記しているイカレたミー・ つもりですが、やはり歌われる一語一語のニュアンスでくださいよね。 を歌詞を見ながら自分でよく味わっていただきたいので フォーク・ソングで生き抜こう す。こういっちゃあナンですが、これまでアメリカのポ ロやかましく小言をいうような歳でもないんですが、 ピュラー・ヴォーカル、ジャズ・ヴォーカルのはほ とんどには歌詞もついておらず、解説も歌の内容の紹介ついお説教めいたことを書いてしまいました。 フォーク・ソングというものが日本に浸透してきてま をおろそかにしたものが多かったのは事実です。そこに 行くとフォーク・ソングの解説執者は、レコード会社だ日が浅いのですもの、フォークのファンもこれから本 に歌詞を必ずつけるように要求し、解説も念を入れて書当に深く、フォーク・ソングというものを知るようにな いており、レコードを買う熱心なファンの立場になってって行ってくれるでしよう。 ぼくのやっている放送番組やレコード・コンサートな ノかなり一生懸命にやってるつもりです。別に自己宣伝を どを通じて、いろんなファンのかたから聞く話、頂くお ソするわけではありませんが クですから、レコードを買われたかたも、歌詞などよく手紙をみても、本当に熱心なファンがどんどんふえてい オ読んでいただきたいのです。フォーク・ソングのファンるので心強く思っています。放送局の人なども、フォー フになってから英語の勉強が好きになったーーーという学生ク・ソングの番組に来るハガキはみんな大変に建設的な さんもときどきお目にかかりますが、ほんとうにうれし意見が書いてあるので驚いたり感心したりしています。 いことですね。それと反対に、学生のフォークのコンサ一度、おハガキをくたさったかたの中から抽選でキング
そういう新しい映画音楽のイメージという点で、戦前 劇映画のテーマ主義の発達、レコード・ 放送等による 映画音楽の普及は、・ へつな観点から考えてみると、映画の映画に見られなかった特筆に値いする音楽のつかいか 音楽がもはやスクリーン上で映写されている間の映画のたが、すくなくとも三つはあげられるといえましよう。 ために奉仕しているのではない というような考えか第一は、モグン・ジャズの採用です。ャズはむかし から映画と密接な関係をもっておりました。しかし、そ たが導きだされないでもありません。これは考えかたに よっては映画音楽の本来の目的から外れているといわなれは音楽映画あるいは劇中でジャズの演奏を必要とする くてはならないような場合も生じてきます。しかし、そような場面にだけ限られており、いわゆる伴奏という考 えのうえでは、ジャズのようにリズムの強烈な音楽は、 ういってしまうことはあまりにも保守的な考えであっ て、映画音楽はもっと自由でのびのびと成長してゆくべむしろ使ってはならないとされていたものです。つま きでしようし、映画それ自体のもっマス・メディアとしり、画面の主体性が音楽に奪われてしまうという考えが ての性格からいっても、そうなるのは当然だといえるのあったからでした。 これを大胆に打ちこわしたのはフランスの新しい映画 したがって、映画音楽は時代を敏感に反映します。ロ作家たち、つまりヌーヴェル・ヴァーグの連中でした。 ックン・ロールがはやればそのリズムはたちまち映画にその先駆的な作品となったのは、ルイ・マル監督の「死 コーゴ刑台のエレベーター」であり、ロジェ・ヴァデイム監督 とりいれられますし、ツイストからサーフィン、 ' 1 に至るまで、映画音楽家の手にあまる流行のリズムはの「大運河ーです。この二作品はいずれも、一九五七年 なにひとつないのです。そうして積極的にとりいれられに、おのおのがまったく別個の考えから同時に完成され た結果、「太陽はひとり・ほっち」のようにツイストをとていること、両者ともっかった音楽がモグン・ジャズで りいれたすぐれた映画音楽が生まれるということになれあったという結果は実におもしろいこととおもいます。 「死刑台のエレベーター」は、マルがその頃フランスに ば、また大いにたのしいことではありませんか。つまり、 ・クラークたち それだけ、映画作家が音楽にたいするイメージをひろげ滞在中のマイルス・デヴィスや、ケニー てきたということになります。 を集め、撮影したフィルムを見せて、その画面をみて感
112 この文章を書くにあたって、筆者がつねに念頭におい ていたのは、映画音楽の本質的なありかたというものは どういうものであるかということです。映画音楽はその 名の示すように映画あっての音楽として生まれ、そう う制約を背負って発達したものです。ところが、映画の 映画音楽が好きだ、興味をもっている、という人が最内容そのものがあらゆる素材をとりあげるように、それ につけられている音楽というものもきわめて多様です。 近とくにふえてきたようです。しかし、その関心のあり かたは、おそらく、ひとによってさまざまだと思います。そのうえ、映画それ自体が進歩すると同時に、時代の反 映画のイメージをもとめて音楽をきくひともあれば、逆映にも敏感です。ですから、ひとくちに映画音楽という に映画と無関係に音楽の方が気にいってレコードだけでもののありかた、スタイル、表現などをわかりやすくま たのしんでいるというひともいるでしよう。さらに、映とめるということは大へんな仕事なのです。この文章で そういう目的のすべてを満足させることができたとはも 画勉強の一端として音楽のことも知っておきたいという 映画ファンのかた、あるいは映画音楽と本気でとり組みとより考えておりませんが、映画音楽がどのように発達 たいという奇特な心がけのかたもいら 0 しやるかとおもし現在に及んでいるかということだけは、ひととおり書 いたつもりです。これで、皆さんが、すこしでも映画音 います。 そういう、 映画音楽についてのさまざまの考えをもっ楽の知識がふえたと思って下されば、これに過ぎたこと はありません。 すべてのひとたちに一様に御満足ゆくようなことを書く なお、専門的な作曲や録音上の技術的なことは、この ことはひじようにむずかしいことです。というより不可 能だとい 0 てもよいかもしれません。しかし、映画音楽文章の目的からは外れていますし、スペースもありませ というものはどういうものであるかということを知ってんので、ほとんどふれておりません。 、このようなかたちの映画音楽読本 いただけたらと思い をまとめたわけです。 1 はしがき
で、本当のジャズをやっていない店はたくさんありまトン ( べース ) といった百年に一人出るかどうかという 天才が、ミューズの神の申し子のようにジャズの歩むべ す。 一九六五年ニューポート・ジャズ・フェスティヴァルき道を示し、早々と天国に召されたのであります。 に出るまでの弘田三枝子は、私たちの分類ではジャズ歌弘田嬢も、事の意外に驚ろき、はじめて入門的な手ほ 手ではなく、ポツ。フ歌手でした。ところがマスコミもマどきをうけて帰国しましたので、今後どのようにその卓 ネージャーも、当のご当人も、ジャズ歌手であると信じ抜な才能をジャズの世界に生かしてゆくかが楽しみにな りましたが、残念なことは、「日本ではポップ歌手をジ て疑わなかったようであります。ともかく弘田三枝子が ャズ歌手として認めているのか」とアチラさんに誤解さ アイドルと仰ぐ。フレン・リーさえ出演したことのない フェスティヴァルに、日本の代表的ジャズ歌手として出れたこと、三十歳を越して十数年もジャズひとすじに打 ちこんできた本格的な日本のジャズ歌手が、依然として 演したのですから、好意的な批評もあったでしようが ? アメリカの有力新聞に「ジャズ歌手としての素質はほと陽のあたらぬ場所で歌いつづけていることであります。 アメリカでも、「有力な新人」として認められるのは んどない」と酷評されるに至ったわけであります。 私の知る限り、英語を国語としている本場のアメリカ大体二十五歳をすぎてからで、三十歳をすぎないと成熟 でさえ、十代でジャズ歌手として大成していた人は一人度を感じさせないのです。 ジャズとは、オウムのように教えられた通りに歌った もいないのでありまして、わずかに不世出の歌手ビリー ・ホリディ唯一人が十代で将米を期待されていたにすぎり演奏するものではなく、自分の思想や人生観を基礎と ません。ホリディにしても大成したのは三十歳に近づい しての自己表現だからであります。思想も人生観も人生 てからであります。それほどジャズというのはナメてか経験もなしにジャズを演奏しても、ファンの心を深くと らえることはできません。ジャズ・ファンがジャズメン かれないオトナの芸術なのであります。 マイルス・デヴィスのような偉大なジャズメンですの年令や経歴に興味をもつのは、人間そのものが、音楽 ら、十代ではヒョッコのようなものでした。わずかにチになっているからであって、映画ファンがスターの住所 ハー心理によるのではないので ャーリー・クリスチャン ( ギター ) とかジミー・ ブランや経歴を知りたがるミー
8 のないようなものもあった。例えば先にあげたク 愛の言 もちろんここでシャンソンの歴史を述べるとしても、 葉をみなどは一九三〇年の作品でありながら、筋などとごく簡単なものにならざるを得ない。紙数に制限がある いうものはなく物語になっていないものである。しか からである。したがって重点的に語ることになる。 し、これはむしろ例外的なものであった。 最初の頃はシャンソンというものはなく、重々しく、 この物語性を失ってきているということに対して、大メランコリックなシャン chant というものがあった。 きな不満を持っている連中も少なくない。例えば今あげシャンソンという名称は、相当あとになって、即ち中世 たエディット・ピアフに対してであるが、。ヒアフでさえ紀になってフランスに現われたものと考えられる。それ 物語になっていない、戦後には筋のないシャンソンを数がはじめて用いられたものは、おそらく韻文で書かれた 々歌っているが、それに対してビアフともあろうものが騎士道物語をクシャンソン・ド・ジェストみ Chanson 筋のないものを歌うとは何事であるかと正面から不満を de geste とよんだ時からであろう。 述べた批評家があるほどである。 クシャンソン・ド・ジェストみは通常ク武勲詩みと訳 それではここでシャンソンの変遷史、歴史について語されているが、この武勲詩は早くて十一世紀、おそく ることにしよう。シャンソンとはどんなものであるかて、十二世紀の頃に生れたものと考えられる。これらの が、一応わかったからである。シャンソンは生きもので武勲詩の主題は、騎士あるいは忠誠な主人公の勝利を歌 ある。それは時代と共に変ってきた。そうしてそのいろったものである。平均して一つのシャンソンは、書物に いろの姿を知らなければ、真にシャンソンを理解したとなってみると八千行から一万行におよぶ長いものであ いえないのである。 る。これらのものが一種の朗詠として、三絃琴の伴奏で 歌われた。・このうち最もすぐれており、有名なのはクシ ャンソン・ド・ローランみといって、シャルマーニュの 騎士ローランの悲壮な最期を歌ったものであるこれは岩 波文庫から翻訳がでているから、読むことができる。 中世の文字は、いわばロ誦文字であった。民衆の大部 3 シャンソンの歴史