二十世紀 - みる会図書館


検索対象: 私の西欧美術ガイド
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1. 私の西欧美術ガイド

一九二五年に、ビカソの「新古典時代」は終ったといわれている。 以来半世紀近く、「。ヒカソ的変貌ーと世間から呼ばれる画風の急激 な発展を示しながら、ビカソは旺盛な活動を行い続けて、一九七三 年九十一歳で「二十世紀芸術そのものであった」といわれるその 「世紀の天才」の生涯を終えている。 わたしもまたビカソの画業のほとんどすべてをたいへん尊敬する。 油 を館凄い画家であったと、つくづく思う。そしてまた、わたしは二十世 ス 紀芸術のファンでもある。 近 にもかかわらず、「新古典時代」の終って以後のビカソの作品にカ 肥一少しの畏怖も覚えない。したがって、激しい感動にゆすぶられるこ 、一とがない。あまりにも作品に地上性が強くなりまさっているからで 一 = ある。そこからはもう「世界認識」の変革を与えられることがない だが、なぜ、こうなのであろうか。 ゲ のあまりにも。ヒカソのデッサンカがすぐれていたためなのである。 、ム示そもそもデッサンカとは何であったろうか。ここで、わたしはこ 一〔「の文章の冒頭に近いところへ舞い戻ることにする。「三次元の実在 工を二次元の仮象として平面の上に移しかえる技倆のことである」。 つまり、似て非なるものを、そうでないもののように、なそって映 気し出す力である。これには習練がいる。「比喩を使えば、まず実在 の前に一面の鏡をおいて仮に三次元を二次元化すること」が必要で 127

2. 私の西欧美術ガイド

モジリアー墨 この新しい「受胎告知」において、二十世紀絵画の奇蹟ともいうべき「受胎告知」において、 モジリアーニの果した真の役割は、ステンドグラス職人のものなのであった。 ある伝記作家は次のように記している。 「一九二〇年一月二十四日午後八時五〇分、ふたたび愛する故国イタリヤに帰る夢を果さず、モ の六階の窓から身を ジリアーニ、死去。翌二十五日早朝、みごもっていたジャンヌは、アパート 投げて後を追う」。 しかし、芸術の事実からいえば、逆である。ステンドグラスを嵌めおわったモジリアーニは、 疲労の極、聖堂の高みの足場から転落して、死去。ジャンヌ・エビュテルヌ聖堂、そびえ続けて 倒れることなし : ただし、せつかくの伝記作家の努力に対して、一つだけ応えておくことにする。そのステンド グラスの色は、「愛する故国イタリヤ」の空の色にほかならなかった。 169

3. 私の西欧美術ガイド

があったにせよ、翼のはえた人体を容認できたはずはない。すなわち、それは悪夢である たとえばまた、文字通りの宮廷画家であったゴヤは命令によって、王家の一族を描かねばなら ない、かれらのもちうるはずもない尊厳と荘重をそこに与えて。すなわち、王家の肖像は悪夢で ある。 ただし、これらのすぐれた作家たちは、悪夢を描きながら、悪夢を超える作業を行うことがで きた。ダ・ヴィンチは人間と超人間 ( ⅱ宿命 ) との対決の劇 ( “美 ) を、ゴヤは人間と人間以前 ( 動物性 ) の共存の劇 ( 日真実 ) を、描き出すことができた。 見方によっては、一切の具象絵画は権力の強要によるものであるとともに、権力の顔であると もいえる。そのことが画家の意識のなかで明確でありうる限り、画家は、具象を借りて逆手にと って、権力の支配をあばくこともできれば、それのとどかない世界を戦慄とともに啓示すること もできる。だが、二つの大戦を経験した二十世紀中期の、高度成長工業社会のなかに生きる画家 にとって、事情はどうなのであろうか。 きびしくいえば、おかかえ作家であることに変りはないであろう。ただ、おかかえ主は多層化 し分岐し重複して、画家と複雑なかかわりあいかたをしている。もはや権力の顔はさだかでない。 すなわち、世間はこそって二言めには「敵が見えない」という。 だが、作家にとって、この物思わしげな大合唱ほど堪えがたい楽天の歌はない。なるほど、敵 は見えないかもしれない。だが、にもかかわらず、見えない敵が、奇態な具象 ( という名の生き ポもの ) を作家の内側に出現せしめている、つまり否応なく見せているのである。それでは、敵は 作家のなかに生きているのではなかろうか。 悪夢とは、まさにこのことである。どう悪夢を描いてみても、悪夢を生じさせている元兇の顔 ジ があらわれない。それならばもう、描くことを一切やめること、画家としての自己解体をするこ 233

4. 私の西欧美術ガイド

ある。のちに、。ヒカソはこの鏡を二面にしたり三面に したり、あるいは合せ鏡にしてみたり、さらにはすべ ての鏡にひびを入れて乱反射させたりした。そのため、 、、一それまで未知な世界がそこに映りでることもあ 0 た。 ただし、鏡に映り出るものを、眺める目はあくまで 本 肉眼であり、鏡と肉眼との距離は美術用語でいう鑑賞 ス 距離をこえることはなかった。また、鏡に映り出るも のを描く筆、それを握るのはあくまで肉手 ( ? ) であ り、筆のさきと肉手 ( ? ) の距離および肉眠の距離は 落 墜 いつも一定していて二メートルを越えなかった。つま の ス り、。ヒカソは十九世紀までの画家と同じく、いつもア トリエでしか仕事をしなかった。すなわち、一種の自 閉症にかかる危険なしとしなかった。そこで、アトリ 工から出てゆく。すると、外部には二十世紀のさまざ まに新奇な美術思考が立ちはだかって大自然の前に塀 をつくっていた。すなわち、一種の他閉症にかかる危険なしとしなかった。たまに、立ちはだか っている美術思考を吹きとばす事件が起らないわけはなかった。すなわち、ナチス空軍による母 国スペインの僻村の無差別爆撃。たちまち『ゲルニカ』が製作された。そこには引きさかれおし つぶされた人間と牛の姿がおどろおどろしくもまた暢達に描き出された。被害の悲惨、そして激 怒、それは、映し ( あるいは移し ) 出されたかもしれない。だが、加害の残忍、そして元兇の非 情の力学、それは、映し ( あるいは移し ) 出されえなかった。むかし「遠くのものからの光」を 128

5. 私の西欧美術ガイド

ちにそこから延長する情景 ( 実際には描かれない情景 ) をもつものとならなければならない。作 者の恣意と独断のなかにだけ存在する想像的世界にすぎぬものであってはならない : ここでまた、小さな注釈をほどこしておく必要にせまられる。現代の前衛美術に関心の深いか たがたは、一九六〇年代のはじめにアメリカでおこったポップアートをご存じであろう。その作 家のあるものは、たとえば浴室をそっくり石膏で、あるいは人間のいる居間をそのまま合成樹脂 で、再現する。材質は実物と異るが、そこにあるのは実物そのものである。そして、実際の世界 のなかにある一部分そのものである。作者の恣意と独断のなかの想像的世界では断じてない。 もうお断りするまでもなく、セザンヌはポツ。ファートの先蹤である。いや、大雑把にいって、 セザンヌこそが二十世紀芸術の開祖なのである : だが、美術史 ( ひいては視覚の世界把握の歴史 ) のなかにおけるセザンヌの位置、その革命的 な功績、これらについてここでは一切ふれないことにする。大切なのは、作品の与えてくれる感 動であって、作品のもっている意義ではない。 作品が現実の一部。描かれている画面のなかの情景と、描かれていないその外に延長する情景 が連続して一体化している。そうであらしめるためには、どうであらねばならないか。 どうであっても、これまた可能なことではない。辛うじて考えられるのは、画面の外にある情 景をつくっているのと同じ構成を、画面にもたせることである。したがって、セザンヌのカメラ が酒場の片隅のトランプ遊びをする二人にむけられる前に、セザンヌのカメラはまず酒場の内部 の ( ひょっとしたら外部までふくめての ) 全体を撮影しなければならない。あるいは、セザンヌ のカメラは複数が用意されているので、その幾つかは酒場の内部の全体に、そして残りの幾つか ザは二人に、同時に向けられていなくてはならない。 しかし、そういう多方向を撮影するカメラの伝える映像を同一時間内で画面という一つの情景

6. 私の西欧美術ガイド

それほど、「。ヒカソ美術館」にある作品のすべてに幼児性の痕跡がない。画家ビカソは卵生では なくて胎生なのである。むろん、母胎は古典絵画なのであって、肉親の画家であった父親などは、 この際無関係である。 ある日目覚めてみたら、少年ビカソはまぎれもない古典画家の巨匠であった、というほかはな 。幼児の絵の常識も世間の絵の常識もともにはるかに突きぬけていた。いわば完成しすぎてい た。だから、その完成を破壊することが、残された。ヒカソの仕事であるほかはなかった。つまり、 さきほどの比喩に戻るならば、一面の鏡を打ち破ることが、それ以後のビカソの画業であるより ほかはなかった。そして、セザンヌ、立体派、アフリカ黒人芸術、シュールレアリスムなどなど、 二十世紀は一面の鏡を打ち破る方法と手段の手助けにおいて事欠かなかったのである。 だが、これは。ヒカソにとって幸福だったのだろうか、それとも不幸だったのだろうか。 はじめてわたしがビカソに出会ったのは、たぶん昭和十五年の秋のことである。「アトリエ か何かの美術雑誌のカラー版の作品であった。『泉』または『泉のほとり』という題名であった と覚えている。大きな水瓶をかたわらにおいて、ギリシャ風の寛衣をまとった若い女が横顔を見 せ、大地に腰をおろし、片足を立てて坐っている。肉体は茶褐色で、空は青色。構図も配色も取 りたてて特色はない。だが、その若い女の肉体の各部分が、顔を別にして肩と腕と胸と足とが、 じつに見事に巨きいのである。そのことに、二十一歳のわたしは激しい衝撃を受けた。 芸もなく繰りかえすよりほかはないのだが、若い女の肉体がいかにも巨きいのである。大きい と書いてはその肉体のもっている量感 ( ヴォリューム ) が出ない。まことに、おおどかで、しか も充実している。ぶよぶよしていない。握れば、したたかな肉の手応えがありそうである。 誰はばかることなく、思い切って、野放図に、でかい。そのくせ、ひどく均衡がとれている。 さながら、おおらかな楽器である。 おお

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争にも、おかしいくらい関心がなかった。そして、自分は戦争中の若者なのだから、どうせ二十 五歳までで死ぬのだろうと、信じていた。別に悲壮感ももたず、そう信じていた。 当然のことながら文学の先達の作品を、自分勝手に勉強した。このあたりからが、思えばおか しなこととなる。その文学の先達というのは、スタンダール、バルザック、ランポー、マラルメ、 ヴァレリー ジイド、。フルースト、リルケ、ホフマンスタール、ゲォルゲ、トーマス・マン、ド ストエーフスキー、などなど、ぜんぶといっていいくらい十九世紀から二十世紀にかけての、俗 に近代といわれる時代を生きた西欧の詩人や小説家なのである。そういう先達の作品を、字引片 手に原語で読む。飽きもせず毎日毎日それを繰りかえす。日本語の作品は、自分で書きはするも ののほとんど読まない。さすがに古典は多少眺めることはした。だが、外国の文学者の作品ほど わたしのこころをとらえることはなかった。やがて昭和十八年二月、わたしは奈良の陸軍兵舎に 入営することになる。そのとき所持していった本は、岩波文庫の万葉集の上下二冊であった。そ れだけは許可されるだろうと思ったから、であるにすぎない。本当はランポーとヴァレリ ーの詩 集をもっていきたかった。それを抱いて死ぬのなら、まあいいや、そう思っていた : こんなわたしま、、 をしったい何なのであろうか。民族からいっても国籍からいっても確かに日本 人である。だが、その内容は ? 日本人でなくはないはずである。ただし、単なる日本人でない ものとなろうとしている存在であった。それ 館なら、何に、どういうものになろうとしてい 美たのか ? 小さな西欧人になりたくはなかっ 板派 扉象た。といってまた、大きな西欧人である先達 ~ ~ 刻 . リ の文学者の真似はできるわけもなく、したい とも思わなかった。一口にいえば、日本人で 107

8. 私の西欧美術ガイド

ある。敵が見えなくなってきているうえに、牙までなくしてきているとわたしには映った。せめ て牙さえ残っていれば、前衛芸術は自分自身を噛むことができるであろう。敵が見えなくなって きているとは、敵が作家自身のなかにもぐりこんでしまっているということである。牙があれば、 その自分のなかの敵を噛むこともできるというものではなかろうか、たとえそのために自分自身 のいのちをほろぼすことになろうとも : おおむねの前衛芸術の牙は義歯であった。さもなくば理論の金冠をかぶせた虫歯であった。何 よりも「パリ青年芸術ビエンナーレ」が語ってくれたのはそのことにほかならなかった。 だが、それなら、前衛芸術がかって否定したはずの古典芸術に新しく何かのよりどころを期待 できるのか。当然、期待できた。というより、わたしがパリで出あう古典芸術、たとえばルーヴ ル美術館や印象派美術館や国立近代美術館にならんでいる作品のむれは、わたしにはひどく新鮮 であった。ほとんどから強烈な衝撃をうけた。つまり、それまでわたしは前衛芸術にいかれてい たに近かったのだが、その前衛芸術が打ち破って出てきたはずの肝腎の古典芸術そのものとはま るで対決しあっていなかったにひとしかった。そういうわたしが、わたし自身どうにもやりきれ なかった。わたしが嫌悪していたのは、現代において生産されている古典 ( の見方にしたがって いるにすぎない ) 芸術であるにすぎなかったのである : それなら、カンジンスキーはわたしにとって何であったのか。二十世紀芸術のパイオニヤの一 人であると、わたしは受けとっていた。ただし、書籍や雑誌のカラー版の複製の作品を通して、 そして美術評論家たちの文章を通して、であるにすぎない。そして、カラー版の複製と文章だけ では一番感動しにくいのが、べラスケスとカンジンスキーの作品なのであった。 十一月七日、マーグ画廊を訪れたわたしはカンジンスキーの作品からのあまりにも強烈な照射 をあびて、全身が熱く火照り出すのを覚えた。なんと素晴らしい世界なのだ、とわくわくし、 カ 184

9. 私の西欧美術ガイド

相互変換を行うものなのである。新しい宇宙創造神話の舞台である。わたしのようなカトリック に無縁の人間も、ここに合理的にして超合理的な、すなわち爽朗な創世記を感受してひどく明る い恍惚を、そして悪寒のない悪寒を感じる。これほど地上的でいて超地上的な作品が二十世紀に またとあるだろうか。ダリは地球そのもの、人類そのもの、そして大宇宙のなかの生きものとし ての地球 ( 地球もまた生きているはずである ) そのものと人類そのもの、これを対象化しようと したのである。まさにプレ二十一世紀といわねばならない。そして、この壮挙はルネッサンス期 におけるミケランジェロの描いたシスティナ教会の創世記の天井画と最後の審判の壁画に匹敵す るといわねばならない。 たたし、にもかかわらずダリには依然として、「うさん臭さ」と「いかがわしさーが感じられ る。それはあまりにも現代の物質文明を知悉して、それを自家薬籠中のものとしすぎているから である。神が万物を創りたもうたものであるとするならば、そして現代の文明のうんだものにも 神性が宿っているのに現代人が気付いていないとするならば、その文明に少しだけ変容を与えれ ば神の存在がきらめき出すであろうと信じる楽天性が匂いでている。つまり、グラフィック・デ ザイナーの知恵に通じる狡猾さがある。 まことに現代の媒体の偉力を十二分に心得ぬいている。写真と印刷の効果を知りぬいている。 だから、その作品は実物よりカラー版の複製のほうが、むしろ魅力を発揮するところがある。そ もそも鑑賞距離を失効させてのダマシ絵的なその手法からいって、考えればこれは当然のことか もしれぬ。わたしは一九七四年一月のストックホルムでの「ダリ大回顧展」および一九七八年の 東京での「シャガール、ビカソ、ダリ展」において、しみじみ痛感した。この画家の絵肌には浅 はかなところがある。材質そのものとの戦いが簡略なのである。またデッサンカにおいて。ヒカン の神業にずいぶん見劣りがする。だが、そういう弱点は、カラー版の複製になると一挙に消える 222

10. 私の西欧美術ガイド

び『ジャコメッティの絵画』という二つの論文によって、 それまでの日本の美術雑誌にほとんど紹介されたことのな いこの美術家の存在をはじめてわたしは知った。深い興味 」作をいだいたわたしはフランスとアメリカの美術雑誌をさが 一 0 して、その作品のカラー版と、ノク 0 版の復製に接した。 ひどく感動した。これこそ実存だなあ、と叫んだ。そして 八枚ほどの文章を記して「美術手帖」に掲載された。それ がわたしの生れて以来二度目の美術評論となった : ・ このくだりを書き進めながら、やはりわたしは羞恥を圧えることができないでいる。サルトル の「実存」という観念の影響を洗い清めることができないままに文章を書いたからである。すな わち、ジャコメッティの作品を文学として ( 必ずしもサルトルがそう書いたわけではないのに ) 受けとるところが多かったのである ( わたしの書いたものが結果としてわたしの文学となること、 これとは別のことである ) 昭和三十三年ごろから数年にわたって、同人雑誌「同時代 , の仲間の矢内原伊作がジャコメッ ティのモデルになるという事件 ( ? ) がわたしの身近に起った。この矢内原さんのおかげでわた しはジャコメッティの人柄と思想のいくぶんかを知り、また日本に始めて招来されたジャコメッ ティの実作の数十点にふれることができた。周囲にこの作家への讃嘆の声の環がひろがってきた。作 当然であろうと、わたしは思った。しかし、浮かぬ思いがした。月の冴えた夜道を歩いていると圓 き、連れが「いい月だなあ , というのを聞くのと、あまり変らない心情であった。 ズ リの近代美術館の、当時は地下室に二十世紀を代表す 昭和四十年 ( 一九六五年 ) 九月初旬、。、 ・フ る彫刻家の作品が百数十点、押しあいへしあいという感じで展示されていた。その雑多とその数 198