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検索対象: 私の西欧美術ガイド
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1. 私の西欧美術ガイド

戦後はじめての大きな「西欧美術展」が読売新聞社の主催によって東京都美術館で催されたの は、昭和二十三年か二十四年かのどちらかである。その年月日は調べればすぐ判ることである。 それをしないのは、一つにはわたしの物ぐさのためである。もう一つには、その前後のわたしの 生活の荒涼をまだ思い出したくないためである。 戦争は終った。しかし、わたしにおいて戦後はなかなか始まらなかったのである : わたしは一つの観念に取りつかれていた。逃げようはない。逆に取りひしぐよりほかに手はな い。だが、取りひしぐとは、わたしにあっては、言葉を使って追究しぬくことである。ところが、 それができにくかった。一口にいえば、生活が ( お金のことも含めて ) 貧しかったのである。足 が地につかなかった。たとえば、当時のわたしの暮していた現場を、ありありとわたしは記憶し ている。しかし、自然の風景となると、ひどく曖味となってくる。そのころだって、タ焼けが幾 ア 日もあったに違いない。だが、奇妙なことに、今でもわたしのなかで燃えているタ焼けは、昭和 ジ二十年以前と昭和三十年以後のもの、なのである。 そういう貧しさのなかでのわたしが、さきほど書いた「西欧美術展」に足を運んた。これまた モジリアーニ なぜ青い瞳か modig 0 157

2. 私の西欧美術ガイド

スペインに内乱が起り人民戦線の政府が敗退するのは、一九三六年 ( 昭和十一年 ) である。わ たしは旧制中学の五年生になっていて、いつばしの大人のつもりで、その年の芥川賞作品の石川 淳『普賢』を読み、そのニヒリズムが文体の気流の渦に捲きこまれて、見る見るわたしのこころ を「美」の「九天の高み」に連れさる妖しさにしびれることを知ったが、しかし、その気流の渦 を噴き出さざるをえない作者の痛苦と悲哀がどんなふうに社会と時代につながっているのか、そ れについては鈍感な子供であるにすぎなかった。すでにマルクシズムは国禁であり、シ = ールレ アリスムは危険思想なのであった。昭和二十年の終戦まで、このことに少しの変りもない。 しかし、芸術とは不思議な教育力をもつものである。また、外国の文物とは異様な感化力をも つものである。昭和十四年から二十年にかけて高校と大学の学生であったわたしは、おもにフラ ンスで刊行された出版物 ( それは戦時下の古本屋の片隅に司直の閲検の目を遁れて売られてい た ) によって、国禁と危険思想のいくぶんかを、そしてその理論よりもむしろ芸術を、つまりそ の味を、知ってしまうことになった。 マルクス文献のフランス語訳の数冊については、あまり語ることがない。わたしの読みかたは ダ リー・奇術のアートとアートの奇術 dali 210

3. 私の西欧美術ガイド

わたしせいおうびじゅっ 私の西欧美術ガイドく新潮選書 > ◎ Sakon Sö. Printed in Japan, 1981 昭和五十六年八月十五日印刷 昭和五十六年八月二十日発行 定価八五〇円 そう 著者宗 左近 発行者佐藤亮一 印刷三晃印刷株式会社 製本株式会社大進堂 東京都新宿区矢来町七一 新潮社 発行所猷 郵便番号 業務部 ( ) 一一六六ー五一一一 電話 編集部 ( ) 一一六六ー五四一一 振替東京四ー八〇八番 乱丁・落丁本は、御面倒ですが小社通信係宛御付 ) こん

4. 私の西欧美術ガイド

ただいまは、昭和五十四年六月である。敗戦以後、たっぷり三十三年がたっている。この期間 をふりかえることが、当然ゆるされている。 しかし、ここで「戦後美術とは何であったか」などという大議論を展開しようとは思わない。 ただ、戦後美術の重大な事件 ( ひいては、特質 ) は、昭和三十一年からほぼ十年間の「非具象絵 画の氾濫」であった、ということだけはいっておかなければならない。 明治の中期から現在まで、日本の洋画は、洋画という名前そのものがすでに示しているように、 西欧の絵画と美術思考に学ぶことによって成長してきた。事情は戦後においてもっと悩ましくな る。西欧の前衛の導入を行うものが ( 美術家が、そして美術評論家が ) 、そのまま日本の前衛と なるのである。 これは、一面では奇妙な事態である。たとえ外国からであろうと、できあいの美術の思考と技 術を借りうけるのは、前衛ではなくて、もはや後衛である。しかし、他面では当然な事態である。 戦後の日本の文明、ひいては文化は、全世界のなかで開かれていて、全世界と相関関係にある。 否応なく、そうであらざるをえない。すなわち、美術もまた、国際性と同時代性をもたざるをえ ジャクソン・ポロック アクション・ペインティングの未来 pollock 224

5. 私の西欧美術ガイド

明るい花に花蕊がないとは、造花の感じがするということではない。 一つの生命が花となるの 5 だろうが、その生命の中心がうまく感じとれないということである。さらにいえば、その生命の 中心には、たとえば明と暗というような対立する二つか三つの力が闘いあったのちに、青臭い当 時のわたしの言葉を使えば、弁証法的な発展をして、そこで花となるはずなのに、それらのカの 作 年 闘いあいが見るものに伝わってこないということである。 過大な要求を芸術に対してわたしは抱いていたのであろうか。それともわたしは、当時のわた しがのめりこんでいたランポーとドスト = ーフスキーの文学から与えられていたのと同じものを、油 ス まったくジャンルの違う美術に期待していたのであろうか。ともかくわたしは無いものねだりの 好きな青年であった。つまり、ひどく観念的な若者であった。 そういうわたしを戦争と戦後の動乱が少しは突きのめしてくれることができたであろうか。 戦後も六年た 0 た昭和二十六年になってやっと判ったことは、マチスに対するわたしのむかい あいかたに、ともかくもいくぶんかの変りかたがあったということであった。 その昭和二十六年のたぶん初夏に、国立東京 、博物館でマチスの大展覧会が行われた。画家の 各時期にわたる代表作の多くが集められてあり、 一終りに八十歳をすぎてからの画家が自在に鋏を 使っての切り絵の大作が数点ならんでいた。 大回顧展というにふさわしかった。 鉢わたしは二度見にいった。 ー、、金一度目は、会場の入り口で、わたしが前にフ 》室ランス語を教えたことのある若い娘に出会い 133

6. 私の西欧美術ガイド

までのわたしの意識によみがえってこないままに ) 焼きつけられていた洞海湾でなければならな かったのであろうか。 それは、何ともわたしにはいえない。おそらく作者がおのれ自身のふるさと、こころのふるさ とを『烏のいる麦畑』に ( 意識しないままに ) 描きとめたからであろう、などというもっともら しいことを考えるのをわたしは好まない。それは文学的短絡というものであるにすぎない。夢の なかに洞海湾が出てきたのは、半分は『烏のいる麦畑』のせいであろうが、半分はわたし自身の 生きてきた歴史のせいである。自分についてさえ、わたしのわからないことがずいぶんあるので はなかろうか。 ただ、いくぶんこじつけに類すると思われるにしても書いておきたいことがある。 洞海湾の沿岸には八幡鉄製所をはじめとする数多くの大小の工場があって、絶えずさまざまな 種類の煤煙を吐き出していて、あたりの天空を暗くしていた。もっとも、こういう観察は、昭和 八年の中学二年生の春にわたしが空気のひどく澄んでいる宮崎市の生活のなかから戸畑市に舞い 戻ってからのものであって、幼年期より小学生であった時期の間のものではない。たぶん大気の 汚れなど意識しないで、それまでのわたしは過していた。ただ、畳を拭かされるとき、洗ったば かりの雑巾がすぐさま煤で真黒になるのを、そのたびごとにたいへんやりきれなく感じていた。 そのくせ空の暗さを呪ったおぼえがないのは、それは幼年から少年へなろうとする成長期のわた しのこころと身体のたくましすぎる明るさのためだったのであろうか。 それはともかく、事実としては暗い天空に閉じこめられてわたしは育った。十八歳の昭和十二 年以後東京の渋谷区と目黒区で暮すこととなって、はじめて青く晴れわたった大空を知って、た いへんわたしは驚いた。 このことと、わたしが夢で外洋を見たこととは決して関係のないことではない :

7. 私の西欧美術ガイド

に似せた姿をカイハスの上に置くことが、どうして芸術 ( 日創造 ) なのか、当時のわたしには ( そして現在のわたしにも ) 少しも納得いかなかった。 。ヒカソの別現実の若い女は、そっくりに描かれた場合の現実の若い女が決して及びもっかない 感動をわたしに与えた。だが、どうしてそういう別現実の若い女を、。ヒカソは思いついたのであ ろうか。 わたしは自分の抱いたこの問題を、。ヒカソの先輩や同輩たちの美術作品や美術思考を索引とし て理解しようとは努めなかった。美術史家の解説などにも頼ろうと試みなかった。自分だけのカ ス で考えることを好んだ。しかし、そのため、この問題のどんな解答をもわたしはみちびき出すこ とができなかった : 。そのまま一年たった。 昭和十六年十二月八日、戦争が起った。その十二月のなかば、わたしがフランス語の家庭教師 に通っている女子大生の家で、フランスの雑誌にのっている。ヒカソのカラー版の作品を見せられ て、はっとした。 昭和十五年の秋のわたしに感動を与えた作品は、 現在のわたしの身近にある数冊の画集のなかに発見 美できない。やむをえず、『母と子』 ( カイ ( ス、汕彩。 ・六センチ。シ 三近一九二一年作。一四三・六 x 一六二 の り一カゴ美術研究所蔵 ) および『泉のほとりの三人の 一女』などにひどく似ている一連のものであって、 泉 『 = わゆる。ヒカソの「新古典時代」の作品の一つ、とだ け記しておく。 一年たってわたしが目を見はった作品は、これは 3

8. 私の西欧美術ガイド

まで、小島さんの話に耳を傾けた。傾けながら、しかし、わたしはわたしでマチスの絵のほうに 心をうばわれていた。 そのころ、わたしはフランスの最も戦後的な作家のサルトルとカミュを熱読していた。カミュ の『異邦人』はむろん、サルトルの「異邦人」論も読んで感銘をうけている。「異邦人」論のな かで、この小説の主人公ムールソーの生きている時間は、永遠の現在である、そして永遠の現在 しくぶんム とサルトルは書いている。マチスの作品の時間は、、 とは白痴の時間にほかならない、 ールソーの「永遠の現在」に同じようなところがなくはないが、しかし、はっきり異る。作品か ら一切の時間性が排除されている。過去から動き出て未来につながる因果関係はもとより運動性 も殺されている。無時間である。永遠もなく、また現在もない。そういう存在がありうるだろう か。ないであろう。だからこそ、作品でそれを創り出そうとするのである。そして、その結果う まれ出た作品は、宝石に似る。しかも三次元ではなくて二次元の、平たい宝石に : 魔術である。 だが、マチスの行使した魔術に驚嘆するとともに、わたしはマチスに魔術を行使させる存在、 いわば魔術師の親方である大魔術使のほうに、これは驚嘆するのではなくて、畏怖を覚える。 わたしがマチスならば、自分に魔術を行使させる存在のほうをふりかえって、その顔をこそ描 こうとするのではなかろうか。いや、わたしだけではあるまい。戦後の美術のもっとも中心の課 題は、じつにそこにあったのではなかろうか。だが、現在から眺めかえしてみれば、わたしはや はりまだ、無いものねだりの青年であるにすぎなかった : 昭和二十六年の日本でのマチス展から十四年たった昭和四十年の九月、わたしはパリの近代美 術館を訪れた。 ここは、印象の自己修整の場である。重要な作家の主だった作品のほとんどは、その複製を日 136

9. 私の西欧美術ガイド

したがって、夢には夢の独自の光学がある。そしてこの『本通りとわき道』は、その光学の典 型を示すヴェクトルなのである。すなわち、この作品において、色層は自立している。つまり、 光は色層の自家発電なのである。そのとき、光は外からくるのでなく、また内からあらわれると もいい難い。色層がそのまま光なのだから。 しかし、このとき、もう一つ徴妙な事柄がある。わたしたちが夢を見ているとき、その夢を照 らしているのは、どんな光なのであろうか。 むろん、これは現実に生きて動いているときのわたしたちを照らしている外光ではない。これ こそは、内光といわなければならないものである。おそらくは、人間の意識の暗闇を通って射し てくる光である。しかし、その光はどこから出てきて、意識の闇を通るのであろうか。 どうにも悩ましい問題に突き当ってしまった、という思いがする。やはりこの内光の源は外光 であるに違いな、。 人間は目をはじめとして身体中の皮膚から外光を体内に汲みいれて生きてい る。人類発生以来二百万年もの間、親から子、子から孫へと、その体内に汲みいれた古い外光を 伝えつぎながら、また新しく外光を吸いいれて、生きてきている。いわば人間の血管を流れる血 と化したそういう外光が、夢を照らす光の源となっているのだと、わたしは考えたい。 だが、大切なことはこれからあとである。この『本通りとわき道』は作者の夢のなかに現れる 光のヴェクトル ( 線型運動 ) 空間なのだが、ということはまた、日頃作者の見るさまざまな夢を 照らす外光 ( いわば人間の血管を流れる血と化したもの ) の運動そのものの移し絵にほかならな ということで亠める : このことを、しかし何が証明しうるであろうか。そう考えて、昭和二十九年のわたしは、はた と当惑した ( 昭和五十四年のわたしもまた、当惑していないわけではない ) 。 当惑しながら、しかし、証明などがなぜ必要であろう、このわたしがそう信じるからにはそれ げ 4

10. 私の西欧美術ガイド

び『ジャコメッティの絵画』という二つの論文によって、 それまでの日本の美術雑誌にほとんど紹介されたことのな いこの美術家の存在をはじめてわたしは知った。深い興味 」作をいだいたわたしはフランスとアメリカの美術雑誌をさが 一 0 して、その作品のカラー版と、ノク 0 版の復製に接した。 ひどく感動した。これこそ実存だなあ、と叫んだ。そして 八枚ほどの文章を記して「美術手帖」に掲載された。それ がわたしの生れて以来二度目の美術評論となった : ・ このくだりを書き進めながら、やはりわたしは羞恥を圧えることができないでいる。サルトル の「実存」という観念の影響を洗い清めることができないままに文章を書いたからである。すな わち、ジャコメッティの作品を文学として ( 必ずしもサルトルがそう書いたわけではないのに ) 受けとるところが多かったのである ( わたしの書いたものが結果としてわたしの文学となること、 これとは別のことである ) 昭和三十三年ごろから数年にわたって、同人雑誌「同時代 , の仲間の矢内原伊作がジャコメッ ティのモデルになるという事件 ( ? ) がわたしの身近に起った。この矢内原さんのおかげでわた しはジャコメッティの人柄と思想のいくぶんかを知り、また日本に始めて招来されたジャコメッ ティの実作の数十点にふれることができた。周囲にこの作家への讃嘆の声の環がひろがってきた。作 当然であろうと、わたしは思った。しかし、浮かぬ思いがした。月の冴えた夜道を歩いていると圓 き、連れが「いい月だなあ , というのを聞くのと、あまり変らない心情であった。 ズ リの近代美術館の、当時は地下室に二十世紀を代表す 昭和四十年 ( 一九六五年 ) 九月初旬、。、 ・フ る彫刻家の作品が百数十点、押しあいへしあいという感じで展示されていた。その雑多とその数 198