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検索対象: 思想としての建築
56件見つかりました。

1. 思想としての建築

彼らは、絵の好きな人が画集を買い、また服飾のスタイル・ブックを買うのと同じよう な、日常に密着した熱情で、自己の生きる〈空間〉のデザインを考えているのである。た とえそのデザインが洗練されず、あるいは模倣にすぎないとしても、自己を空間に表現し ようという欲望は過小評価されるべきではない。この空間の自己所有欲こそ現代の空間像 を支えるものだからである。絵を描く欲望は誰にでもある。自己表現の意志である。服飾 を少しでもデザインしようとするのは、何も専門の服飾デザイナー ( この飾りとデザイン という語の矛盾をみよ ) ばかりではない。もちろん、程度の差は質的差にまでおよぶであ ろう。だが、この空間をデザインしようとする人間の欲望こそ、これからの現代建築を支 え、特徴づけるものなのである。専門の職業的インテリア・デザイナーは、この、半ば無 意識的な欲望を明確化し、きたえ、方向づけて、彼らにかわって的確に表現するのであ る。彼らにかわってということは、その大衆の一人一人になるということではない。デザ イナーが自己を純化し、自己の独創を追いつめる途こそ、他の人々の無意識の欲望を代弁 することを可能ならしめるただ一つの途なのである。それを独創と呼んでもいい。 本来、デザインとはそのようなものであったはずだ。 ところが、今日、わが国の近代建築家には、異様なストイシスムがうかがわれるのであ る。一般人の装飾欲という最も現代的な欲望を自己表現へと高めもしないし、あるいは疎

2. 思想としての建築

124 して遊戯ということを指しているのではない。人間の文化の本質は遊戯に他ならない、遊 戯そのものであるという大胆な仮説を提出している点が重要なのである。 「遊戯には、とかく美のあらゆる種類の要素と結合しようとする傾きはある。たとえば、 比較的素朴な形式の遊戯には、初めから歓楽の気分と快適さが結びついている。運動する 人体の美は遊戯のうちにその最高の表現を見出している。一方比較的複雑な形式の遊戯に は、およそ人間に与えられた美的認識能力のうち、最も高貴な天性であるリズムとハーモ ニイが織りこまれている。このように、遊戯は幾本もの堅いきずなによって美と結ばれて いるのである。」 いささか、保留と控え目な口調の、しかし、有無をいわさぬこの視点は、私には不思議に インドの造形美の謎を鮮かに解いているかに思われる。 たとえば、俗に「官能的」といわれるインド壁画の裸体の男女交合の像は、善悪、理性、 生殖などという、功利的視点から離れれば「生の歓喜をうたったもの」などという卑俗な ものではなく、人間の「真ーの遊戯的リズムの具体化に他ならないのである。インド教シ ヴァー女神はセックスの神であると同時に、死と破壊の神であり、エロスと同時に殺戮の 神でもある。このように矛盾した概念を同時に貫通した存在をもはや「象徴」という言葉 でとらえることは不可能であろう。そこには全く新しい角度からの情念的、あるいは体験 的把握が必要とされるであろう。たしかに裸像はあらわに性のリズムを強調している。し

3. 思想としての建築

57 デザインの思想 言葉をかえれば、グラフィックなコヾ : ニケーションは、実体的ではなく空間的である。 だから、逆に、大衆社会の、一貫性のない大衆にも浸透してゆくことができる。 もし、一一一口語の論理的な帰納的論理を不特定の人間に投げかけてみよう。「のどが渇いたら 人は何かを飲む」という命題に、すでに一貫性のない大衆は〈いや飲まなくても、じっと している方がいい〉とか〈飲むとしても、水でなくてもいい、ビールはいやだ〉というよ うに、帰納的論理の前提がすでに、無数に分解してしまうであろう。なぜ、いままで論理 的文法が、一般性を保っていたかといえば、いわば論理的訓練が、人間の幼児期から行な われ、教養Ⅱカルチュアとして、人格の本質をなしているから論理は普遍的な一致をみた のである。それが社会構造の安定に裏打ちされていたことはいうまでもない。 しかし、今日、質的な文明の変革期に当たって、実は言語も、裸の論理としてではなく、 その肉声の発せられる状況やコミュニケートされる条件を含めての構造といったように、 意味論ではなく、いわば存在論的な考察が加えられ始めているのである。 それはべつの機会に述べるとして、だからデザインのイメージ・コミュニケーションは、 その空間的性格により、いわば存在論的指向を持っているといっていい。 しかし、それは、あくまでも、原理的なデザインのコミュニケーションの特質であって、 今日、その純度に達するデザインは極めて少なく、その本質に対する無自覚から単なるき れいごとの技術主義にあぐらをかいている現状が生まれるのである。しかし、だからデザ

4. 思想としての建築

ち、物理的時間空間に、映画固有の新しい種類の時間空間性の連続性を置き換えた。これ を可能にしたのはイマ 1 ジが取りあっかわれるからであり、その映像の特質とは、ある 条件下では、言語と同様に自由に集めたり分離したりすることができるからである。一 方、建築というと、確固不動の現実のように思われている。だが果たしてそうだろうか。 建築を物体としてその素材を取りあげれば、たしかに動かしがたい物質性がある。しかし その空間は、まさに人間が勝手につくり出したものであり、実は、はなはだイマジネール なものかもしれないのである。建築の空間とは、普通考えるほど物質的実体的ではなく、 空想的なのである。それはともかくとして、もう一度映画にもどってみよう。 映画がさらに決定的な自由を示したのは、場面転換の導人、換言すれば、ひとつの連続し た行為の間においてさえ視点を変えられるということだった。こうなると撮影された出来 事は客観的に再構成されたことにはならない。不動の現実は分析され、さまざまに主観的 に再生されるのである。そこには人間的要素が介人し、美的作用が加えられる。真の映画 的現実を創造したのは、この対象の物理的現実に対して加えられた大胆な破壊である。 こういうといささか大袈裟に聞こえるかもしれない。私たちはすでに映画的思考になれて いるからである。しかし、当初は、物理的順序を自由に変えても事実が理解されるとは思 われていなかった。物事を認識する方法は、外から没個性的にみる方法しかなかった。思 考の変革とは、恐ろしいものである。

5. 思想としての建築

83 「とりまくもの」の思想 楽さⅡコンフォートという考えが生まれ、この個人中心である個性の表現としての質的空 間のデザインが始まった。だから日本の建築に、インテリア・デザインの歴史がないの は、日本建築は平面の間取りから発想するためであるとか、家具もなく、柱や天井がどう のこうのといった類いの、建築の内部空間構造の問題とはそもそも次元が違うのである。 また、家具のない習慣のところへ、近代西洋建築がはいってきたため、現代においても、 なおインテリア・デザインがないといった、一見うがった見方も通用しているが、もし、 その次一兀で論ずるなら、日本には「飾るーという要素が極めて強く、テンボラリイな空間 装飾の歴史があるし、嫁人道具という制度などもあるくらいだという、同じ程度の説得力 を持った分析もまた可能である。 しかし、何よりも近代的自我、個性的意識の発生との対応関係においてインテリア・デザ インの空間問題を考えるのが、今日の私たちの課題に対する積極的な姿勢ではないだろう か。古代以来、人間と世界との関係が変化するにつれて、空間概念も変化してきた。建築 の歴史は、構造の変化の歴史であり、様式の変遷の歴史であるとともに、何よりもまず、 この人間の空間意識と内部空間との対応関係の歴史であったというべきである。 日本最初の独創的美学者、中井正一氏の空間論にしたがえば、エジプトの造形意識は〈空 間への畏れ〉であると指摘している。砂漠に取りかこまれた峡谷に生きるには、数百万の 人々はただ一人の帝王にしたがわねば生きられず、巨大なる国家奴隷の集団として屈服さ

6. 思想としての建築

120 日本王朝文化爛熟期にも、室町桃山の「はで」の文化にも、日光東照宮そのものにシンポ ライズされる江戸文化にも、インドがそのまま生きているのをまざまざと実感していると いう意味である。もちろん造形の様式をスタティックに分析比較しようというのではな い。動いている様式の変化を貫くと同時に、造形のエネルギーの極致に働いている汎神論 的創造カこそ日本の文化に他ならないのである。そればかりではない。混沌と総合という のは現代文明の課題であり、実は、創造的姿勢の常に変わらぬ課題であった人間創造の神 秘を鮮かに形としてとらえたものこそインド美術に他ならなかったのである。しかし、イ ンド美術といういい方には誤解を生む恐れがある。およそ造形建築は文明の表現であると いうのは私の平凡な持論であるが、それが、しかしいかなるクッションや保留もなく直截 に断言できるのはインド芸術をおいて他にはない。多くの記念建築が宗教や王権にむすび ついているのは驚くに足りないが、インドの芸術は、宗教ばかりでなく思想そのものと不 可分に一体をなしている点で空前絶後といっていい。だから、その思想宗教体験を無視し て、いたずらに、一九世紀的近代歴史主義を適用して、装飾過剰だとか、官能性だとか機 能だとかいってみても、それは蠅の抜けがらを論ずるにひとしい。では、ことごとくイン ド教理を修めねば理解を絶するのであろうか。それはもちろん極論というものである。芸 術は、そして特に造形芸術は、一一一口語や観念にさえもり切れない人間の情念の普遍的な伝達 を目的としていたはずである。いたずらな半可通な西欧的分析をやめようというのであ