77 「とりまくもの」の思想 よって不用意に操られるのを見ると寒心にたえない。 ) 歴史の語るところにしたがえば、少なくとも、二〇世紀の新経済革新以来、社会の暗黙の 目的は、幸福であり、幸福とは居心地良さ、カンファタビリティを意味しているのであ る。 何をかくそう、環境という言葉が、最も自然に求められているのは、この「居心地の良い 環境」ということであり、環境は、ほとんど自然にカンファタビリティを意味してさえい るのである。これは、環境の誤解ではなく、正解といわねばなるまい。もし、そうでない ならべつな目的が示されねばならない。 たとえば戦争遂行のためとか、育児のためとか、生産力の拡大とか。 しかし、環境は遂にそのまま目的とはなり得ないのである。それはほとんど、混乱のため の混乱といったほどの意味しか持ち得ない。かって、「美のための美」が、一つの主張と なり得たのは、「美ーに、一つの絶対的な価値の基準を認めたからである。環境は、もは や、そのような価値の範疇をこえている。目的のない、少なくとも不明確な環境という発 想が、結果的に、小市民のカンファタビリティを期せずして全力をあげて表現したのは当 然といわねばならない。 しかし、実は、この際、見逃されたのは目的ではなく、環境という発想の基礎なのであ る。
63 「とりまくもの」の思想 さて、個人のカンファタビリティの足し算として、夫婦があり、家族があり、サロンがあ っこ。 ところで居心地良さを生む原理とは何であろうか。注意しなければならないのは、このプ チプルジョワのカンファタビリティには、決して、刺激的な快楽は含まれていないという ことだ。心を驚かすもの、情神や肉体を刺激し、たとえ労働でなくとも、その活動をうな がすものは、決して、安楽とはいえない。 したがって、安楽さとは、遂には肉体も精神も休止する状態、極端にいえば、死そのもの に等しい無活動状態に人間を置くことが理想だった。 なぜなら、近代社会とは、生産の社会であり、個人的休息とは何よりも消費を避けること であって、人間をネガテイプなすべての休止状態に置くことが必要であったからだ。 したがって、カンファタブルな空間とは、刺激的でないことは無論だが、それを具体的に いえば、家具調度が変化しないこと、すなわち、スタビリティが求められる。刺激しない ためには、すべてがあるべきようにある必要があった。それが一九世紀末頃の、住宅や家 具における様式主義の復活の真の原因だったともいえる。古典的なスタイルは、固定して いるからである。そして第二に、精神を刺激し、イマジネーションを起こさないように、 現実的なスタイルが要求される。それが夫婦家族という、空間の性格づけの固定と理解に あらわれる。そして、第三に、第一の不変性、第二の現実性を決定するものとして、有効
カンファタブルな空間 近代建築、つまりほぼ第二次大戦前までの ( 前衛的な建築は別として ) 一般的な住居空間 の理想は、実は「安楽」 =comfortability ということだった。これは案外見すごされてい るが、合理的な暮らしといい、機能的な住まいといわれても、つまるところそれは、個人 的「安楽さ」の追求のことに他ならなかった。建築の外観は美術品のように心地良く、内 部は、休息、すなわちレジャータイムを、カンファタブルに過ごすために、プラスになる ような配置が行なわれた。 プ一フィバシー ・ルームとサロンという基本的な発想も、実はこの安楽という理想にしたが っている。なぜなら、カンファタビリティという、居心地良さは、あくまでも個人のしか もネガテイプな快感をもとにしているのであって、その基本的空間が、プライ。ハシーにあ ったのも不思議はない。ついでにつけ加えておくと、住居空間にプライバシーが意識され たのも、実は近代以後のことなのである。 生活空間の演出
根本衝動は自己表現欲ととらえることができる。そして文明とはその表現の総体であり、 文化とはその洗練度に他ならないのである。 だとすると、現代のレジャーは、カンファタビリティに対して、ド一フマタイジングが求め られているといえよう。あるいは演出性といってもいい。 自己を多様に演出すること、自己を演ずることで世界をさまざまに理解すること、現代の 人間は、固定した自我を失ったかもしれないが、しかし、多様な自己演出性を無限に拡大 しつつあるともいえる。それは人間像自体の変質を意味しているのである。 スポーツマンの刻々のフォームが違っているからといって、スポーツマンの個性の存在を 疑うものはあるまい。多様の役柄をこなすことが役者の価値を下げるものでもない。 こう考えると、現代のレジャーは、演劇の持っ特性にしたがって考えられる。 すなわち、まずそれは、テンボラリーである。常に永続する空間ではなく、舞台も変わ り、舞台装置も衣裳も変わる。そのためには移動も必要であろう。一貫しているというこ とは決してスタティックに固定しないということだ。 第二に、演劇には、目的はなくてもすじがきが必要であり、それはいわゆる日常性から離 れた空想を刺激するものでなければならない。すじがきとは想像力のうちにあるものだか らだ。 そこで、一人でできる芝居もあるが、ときに助演者、協力者が必要である。それはレジャ
67 「とりまくもの」の思想 すでにみたように、現代生活におけるレジャーは、まず、何よりも生産に対する消費とい うネガテイプな性質を失っている。逆にいえば、いちじるしい積極性を獲得している。そ れは近代的なカンファタビリティとはほど遠いところにある。もっと空間的にいうなら、 実は、住居内、住居外といった区別は、少なくとも、レジャーに関してはなくなってい る。なぜなら、都市の生活空間がすでに、点と線の上にひろがっているのなら、その生活 空間以外にレジャーの空間はあり得ないからである。 そして、この点にとどまらない空間の構造は、当然、急速な運動を前提としている。 では、ただ無目的に人間はレジャーによって行動するのであろうか。自然へもどるとか、 自己疎外の回復とか、さまざまな人間学的な解釈も可能であろう。しかし、少なくとも、 社会的生産という観点を捨象しないで考えれば、それは、生産といわれる行為が社会の表 現に転化したのと同様に、消費はアクテイプな個人的自己表現の運動に他ならないのであ る。 表現とは、行為による外界の消化である。摂取と消化は生命の基本的運動だ。 人間は生産といわれる行為で、社会的表現のなかで機能し、消費といわれる行為で、それ を個人的表現の道具とする。 だから、生産といい、消費といっても、それは人間の自己表現の二つのデイメンションの 相違、社会的次元と、個人的次元の相違に他ならない。
159 空間の思想 つまり、居心地の良さということが目的に そこでは、生活におけるカンファタビリティ、 な 0 ている。それはそれで結構だ。人間には安楽はいいことだし、休息も必要だろう。し かし、人生の舞台装置である家具のすべてが、人生の休息だけ、安楽だけを目的とするの は、生きるということ〈の怠惰もしくは堕落ではないだろうか、も 0 と能動的で禁欲的な 人生もあるはずである。 安楽を目的とした、二〇世紀のグ〉ド・デザインがしだいに鼻について、遂には腐肉の匂 いさえ発してくるのは、便利と安楽の押しつけのためである。 も 0 と悪いことには、正当な安楽すら与えないくせに、いかにも、「イホームの幻想を与 えて、顧客に媚びるようなグ , ド・デザインの亜流の氾濫である。家具ばかりではない。 建築もマスコミも、都市文明全体が、媚態にみちみちている。 しかし、便利さが求められるのは、烈しい活動と能率の人生のためであり、安楽が必要な のは、強い緊張に溢れた活動のためではなか 0 たか。デザインとはそのようなものを踏ま えていなければなるまい。事実、中世紀の手工芸品のデザインの持っ簡潔さと力強さは、 そうした行動の形態が生み出したものであ 0 て、労働する筋肉のみが知る安らぎを、無骨 な手づくりの、床儿は与えたはずである。 また、ヾ , 台〉クからゴシ , ク ( と装飾にみちたデザインは、便利ではないが、そのため に、かえ「て不便をしのぶ禁欲的な肉体の緊張と、そこから生まれる豪華な精神と官能の