単に物と人間の関係といったような空疎な言葉を意味しない。むしろ、物自体から現象と しての物への変身を意味しているのである。なぜなら、そこで重要なのは、認識の方法で も、物自体の存在でもなく、「現にある現象」としての世界を意味し始めているからであ る。環境とは、その意味では、実は、現象としての物、物の現象学的解体に他ならないの である。 言葉をかえていえば、現象的世界における物と人間の出逢いということしか信じられなく なった、いわば、主体的な世界像喪失の時代をあらわにするものが、環境に他ならないと もいえるのである。 環境とは、だから、世界像のいわば現象学的記述に他ならず、修辞のいかんにかかわら ず、それ以外のものではあり得ない。 今日、建築や都市を論じる際に、美という個人的感動や、調和や様式という名の世界像が 消えつつあるのも、また、労働の目的や、家庭のイメージがなくなるにしたがって、実は 環境という物と人間に対する不信の表明にとってかわられつつあるのも、そのためであ る。 環境では現象だけが問題であり、その背後に横たわる人間と世界にかかわる永遠の問い は、故意に不問に付されている。そういって悪ければ、そのような問いが無用な部分だけ 切り取ったものが環境だといっていい。しかし、その限りで、環境は少なくとも、物から
137 あそびの思想 り、逆に、人間が、自然を所有しようとするーーその方法はたとえプリミティヴであろう ともーー強い生存の欲望の情念によって外界をみるなら、それは、世界と人間の間に引か れた緊張したリアリティを描くであろう。そのようなリアリズムを、これらの絵画は積極 的に追求しているとみることもできる。その情念のリアリズムこそ、現代に最も欠けたも のかもしれない。しかも驚くべきことに、これらの線描は決して素人の手になるものでは なく、専門化した習練の結果得られたものなのである。現にアルタミーラやエル・カステ ィーリョ洞窟や、フォン・ドウ・プームでは、下絵となるはずであった下描きのエスキー スが多量に発見されている。リムイユ遺蹟を調べたカピタンは、これを「先史時代のアト リエーと呼んでいる。 この事実は、決して、先史時代の絵画や彫刻群が偶然、だれかの手によって成ったもので はないことを物語っている。その背後には分厚い歴史と複雑な組織を持った濃厚な文化の 存在が充分予測されるのである。ということは、私たちが先史時代と呼ぶ数万年前の旧石 器時代にも、それらの物質的生産力の低さにもかかわらず、高度の文化が全世界に展開し たとえば、ベルーのインカ帝国なども想起されるーーそ ていたことを意味している。 れはどういうことなのか。普通、物質的生産力と比例して文化は「進歩」したといわれて いる。しかし、事実はそうは語っていない。二〇世紀になってようやく日の目をみた、こ れら洞窟文化は全世界に分布して、昔日の偉容を誇っている。
73 「とりまくもの」の思想 ッヒ、物自体と呼ばれたものに、実は他ならないといって差支えない。あるいは、物自体 とカントにいわしめた観念とは、べつの世界への直観だった。そういう意味では、今日、 私たちが、直面している問題は、すでに近代成立のとき以来予想されていたといっていい。 私自身に即していえば、ここ数年来、「空間」について、さまざまな主体のあり方を考え てきたが、「空間」の持つ、多様性、重要性は、しかし、あくまでも、認識のシエマとし ての主観性を脱しきれないところに問題があり、一歩をすすめて存在論の立場に立ったと しても、空間は主体の気分の構造、ハイデッガーのいうシュティンムンクとしての構造性 を世界像にまで及ぼしてゆくことになる。そこでは、どうしても「物自体」といった、確 固たる客体の手触りは稀薄にならざるをえない。 この際、他の道からのアプローチがないだろうかという考えは当然起こる。それは、物と 行動の世界である。すなわち、個別的でその限りでは本来偶発的な、物からの出発である。 もし、環境論なるものが新しい姿で成立するとするならば、それは、まず何よりも物に執 着した、人間の行動から生まれるべきものであって、関係などは二の次である。 環境とは世界像の現象学的記述 ところで、主体的な空間を私は情念の場と呼んだことがあるが、それが、単なる空想的な 主観にとどまらないためには、具体的な物の視点が必要だといった。だが、このことは、
ら、レベルは同じではあるが質的に人れかわるという形で、文明が大きく変質してきてい る。だから進歩向上というより、むしろ変質という形に文明がなってきているのではない だろうか。 アフリカ・バレーを見ても精神内容は非常に豊かだ。ルールは厳格だし : : : 青年と少女が ふとした迷いで密通してしまう。すると森の神さまがあらわれてきて、彼等を罰してしま う。殺されてしまう。それをお化けの話とみれば、知能水準は非常に低いと考えられる。 しかしお化けというものにのりうつってつくっている世界像ーーっまり人間と世界をどう 理解するかというのは文明なのである。そういうものの密度、高さ、濃さは、現代と変わ らないのである。 いま、大きく文化の段階を区別したわけだが、もう一度繰り返すと、最初は呪術的世界、 呪術が組織化されたものが宗教の世界、ここでは造形は主として様式という観念で律する ことができるーーっまり万人に共通である。そのつぎが芸術という考え方である。これは 個人を単位とした文明の表現である。それをつぎにこえるものがくるのではないか。それ を強いていうならば「デザインーではないだろうか。この言葉を宗教、芸術と同じ幅で考 える。デイメンションの違いはあるが、芸術と同じひろさの分野を総称するのではない か。これは一言でいえば集団的であり、組織的であって、手段が生産力を媒介としている 点、芸術と異なっているわけである。
123 あそびの思想 揚する点にある。そこには、も 0 ばら禁欲的に相互を抽象対決させるのではなく、相互貫 流する流動的なリズムそのものを人間の本質とみるばかりか、同時に人間の本質は世界の 本質に貫通し、世界は宇宙のリズムに通じているという認識がある。 そこで特徴的なものは、リズムという運動による情念の高揚であり、無形な情熱であると い「ていい。無形なものは形を持たないということではない。概念化されない、いわば宇 宙発生の地点においてとらえられた無形なリズムこそ、実は多様極まりないあくなき物的 表現の源泉となり得るのである。 装飾とは、物質や観念ーー・その函数関係を機能と呼んでも差支えないがーーに付随するも のではなく、いわば無形のエネルギーの自己実現に他ならなか「たのである。それは精神 と物質との未分化の人間領域に花咲いた、まぎれもない人類の本質だ 0 たのである。この 無目的な自己充足に、人間疎外からの脱出を試みようとする思想家の動きに私は興味を持 っている。 たとえば、すでに触れたように、ヨ ( ン・ホイジンガは一八世紀の「ホモ・サピエンスⅡ 理性人」や産業革命が生んだ人間観「ホモ・ファベル」に対して、「遊戯人Ⅱホモ・ルー デンス」という新しい概念を提出した。 彼によれば、この遊戯という概念は不思議なことに、それ以外のあらゆる思考形式とは、 全く領域を異にしているというのである。この際、いわゆる文化社会学的な要素の一部と
日本のデザインはすぐれている。美しいし、よく整理されているし、技術的にもまとまっ ている。おまけに多様だという。いちいちもっともである。だが、今日のデザイン界に、 ねばっこい、世界に対する感覚の皮膚を感じさせる作品が果たしてどれほどあるか。いか に描くかより前に、いかに世界をみるかということが、忘れられてはいないか。この状況 性ということが、実は、デザインにおける伝達性と衝撃性の問題、あるいは意味伝達のコ ピーと美しさの問題、またイ一フストレーションとレイアウトの問題などについても、分析 的に、べつべつに分けた後の加え算としてではなく、はじめから、デザイン的状況の総体 として解決を求める糸口となるのではないだろうか。 私は、状況という言葉を不本意ながら使った。それは、すでに幾度か私が述べにきた空間 の劇性を発想する地点であり、また、部分と総体性という対立した観念を、もう一度、保 持して立て直す手口でもあり、また社会性ということを、具体的に感じる手段としてでも あった。 このような現象的発想は、体系的思想としては一見単純素朴にみえる。しかし、すでに述 べてきたように、現代社会の多様性、反論理的な現実、そしてそのような世界をかいくぐ って生きながらしだいに形成されつつある官能的人間、感覚的人間像を思うとき、真の意 味での思想性、リアリティとしての思想を担う、冒険的作業としてのデザインの思想は、 極めて大きな責任と未来を持つものというべきなのである。
間ではなく、さまざまの欲求を孕んだ情念の存在としての人間の組織している世界の表現 に他ならないのである。してみると、物質文明ということの意味は、人類の主観的欲望に 方向づけられた自然だといってもいい。だから、人間の情念の直截な表現たる芸術に変化 がなければ、外的自然がどんな構造を持とうと大した違いはない、といい切ってもそう間 違いはない。こういういい方は、やや過激な反歴史主義に聞こえるかもしれないし、幼稚 な機械的唯物論者や、物質にすがりつく技術論者を刺激するかもしれない。だが、先史的 原始芸術がぞくぞくと発見されたのが、実は二〇世紀に人ってからだということは偶然で はない。キリスト教的歴史観が力を失って以来、国家の抗争と権力の移動が歴史の前面に 出てきたルネサンスから、一九世紀末までが、物質と精神一一元論の時代であり、ヘーゲ ル、マルクスなどの進歩的歴史主義全盛の時代だったのである。つまり、進歩思想とは、 古きものの価値を否定し、新しい価値を創造しつづけるところにその積極的意味があった のである。 たとえば、フ一フンス古典主義からローマン主義へ移行する際の有名な美学的論争、「新旧 論争」なるものは、近代最大の論争といわれ、これによって、近代的進歩主義、くだいて いえば、新しいものが良いという、実に革命的見地がようやく確立したのである。それ は、たとえば、ヴィクトール・ユゴーの『クロンウエル』序文におけるグロテスク礼讃 や、戯曲『エルナニ』上演の際の罵詈雑言の大闘争となったのである。ところが、最近、
逆にいえば、ある一つの目的に「明快にー解体された世界像が、実は環境だともいえるの である。その意味で、環境とは、ただ単に自然発生的に生じた現象をいうのではなく、 つの機能にしたがって抽象した世界像の現象なのである。 だとすれば、もし、日常的に用いられる環境という現象系を、やや動的に拡大して用いる ならば、おのずからその目的を孕んでくることになる。 キースラーがいいたいのは、こうした目的意識による物の現象の方向づけなのである。そ こにはじめて、主体と客体をむすびつけるモメントとしての環境の意味が明らかになって くるであろう。 かくして、環境はめでたく、 空間と物質が、人間の目的行動によって統一される場として 成立するかにみえる。 しかし、最大の問い、その目的は何だろうか。多くの造形の分野でも、また近代の純粋主 義は、目的のための手段という考えを受け人れていない。したがって、目的のための目 的、環境のための環境という答えが用意されることは充分予想できる。それもいい。人間 ーマニズムのための のためといってもいい。現に私は、ある店舗設計家が、「偉大なヒ デザイン」と文章に書いているのを見たことがある。その実体は一体何か。 ( とかく、近 ごろ、言語という物質はーー客体的組織であることが無視され、語の基本的な質的把握を 全く誤った美辞麗句が、本来、手仕事と技術の意味を知っているはずの造形実作家たちに
すでにい 0 たように、それは、人間の外側にある物質のほうから人間〈伸ばされた触手な のであった。この見方は依然として新鮮さを失わない。 環境は、依然として、空間の装置であるとしても、それは人間が意図したものを常にわず かずつこえている。それは物の領域のものだから、いわば、人間は、環境において実は空 間に出会うのである。その空間の構造こそ、物と意識によ「て成立する世界の劇的な相貌 をあらわにみせるものなのである。劇とは、目的なくして自立し得る世界のただ一つの運 動だともいえるからだ。
117 あそびの思想 媒介として、べつな全体性の回復への契機としての姿をあらわしてくるのである。日本語 で「あそび」、「あそぶーという最も古い使い方は、「神楽あそび」、すなわち天の岩戸の伝 説にあるように神殿の前での宗教的集合を意味していたという。それは、原始の人間が、 自らの行為を通じて、集団的な世界のトータルイメージを回復する営みであったというこ ともできよう。以来、宗教には常に「あそびーの要素が抜きがたくない合わされているの をみることができる。 ところで、このように一見理屈つぼい「あそびーの特殊だが典型的な例は、私たちの身近 なところにある。それはいうまでもなく、子供の生活である。子供の生活を全部「あそ びーということもできる。いずれにせよ、それが深刻な「何もの」でもないことは明らか 、、こ 0 だからといって、子供の世界だけが本当の世界だというのではない。それどころか、子供 のあそびには常に、どこかに実人生の模倣がみられる。いや、すべての遊戯には、実人生 のある部分の模倣とみられる要素が必ず見出される。こうしてみると「あそび」は、結局 は、実人生の影であって、それがゆえにあそびは実人生より低い現実だという論も成り立 ちそうに思われる。しかしすでにみたように、自我を含めての完結性、具体性ということ では、「あそび」は実人生より遙かに真実にも思われる。いずれに軍配をあげるべきであ ろうか。