情念 - みる会図書館


検索対象: 思想としての建築
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1. 思想としての建築

133 あそびの思想 だ。私は、たとえば原始時代の壁画を目の前にすると、人類文化の普遍的な分布、そし て、文化の持続、あるいは人間の情感の不変性にいまさらのように心を打たれる。 もちろん、私は、一切合切歴史的視点を無視してしまおうというのではない。歴史主義の あくなき徹底と普及の結果、フランスやスペインの洞窟美術や、インカ文化、エジプトや 東南アジアの、知られざる人類文化の発見をうながしたことは疑い得ない事実である。そ れも、主として一九世紀に人ってからである。しかし、同時に、これらの歴史的、あるい は考古学的研究がしだいに明らかにしつつあるのは、実は、人類の進歩や発達ということ ではなく、逆に、人類文化の不変性といえるようなものであり、変わり映えのしない、あ るいは、多様性こそあれ優劣のつけがたい、歴史的進歩否定という事実なのかもしれない のである。 むろん、人間のすべての分野が変わらないといったらいいすぎだろう。物質的生産力の驚 くべき拡大、社会組成の複雑さ、コ、、 : ニケーションのスピードなど、人間生存の外的条 件の変化については、いまさら、いうを待たない。しかし、それらの外的な条件のなかに ある人間の存在の、情念的世界は、果たしてそれほど変化し進歩したであろうか。たとえ ば、人間の情念の物質化ともいえる建築を例にとってみれば、必ずしも、建築物と人間生活 といった分離は正しくない。いかに建築を、道具といい、物質といい、技術と呼ぼうと、ぎ りぎりのところでは、あくまでも、それは、人間のための、換言すれば、生物的次元での人

2. 思想としての建築

無署名でつくられている。これを近代主義的な芸術という考え方でとらえることができな いにもかかわらず、私たちはそれをばらばらにして近代芸術という概念のなかに押しこめ ている。中世の特色は、宗教的情念による様式というものが、私たちが今日芸術と呼んで いるのとひとしい分野に属している。さらにさかのぼると、原始時代には呪術がある。そ れを、私たちは非常に単純なものと考えているけれども、その意識とイマジネーションの 内容は非常に高度に完成されているわけである。 非常に低い生産力の段階、たとえば採集から牧畜というような生産力の形態にかかわら ず、そのなかにおける人間の文化水準、生きている情念の世界の高さは、あるいは変わら ないかもしれない。だいたい、キリスト教でも仏教でも、終末思想でも、変わらないのが 普通だったわけである。 どうしてこのことが理解しにくいか。私たちは進歩思想ーーーっまり物質的生産の増大が、 そのまま価値の増大、あるいは精神生活の豊かさと比例している、という考えにとらわれ てしまっているからである。 ダーウインの進化論になるが、人類の富なり意識なりは、原始時代から、残像的にしだい に増え、豊かになってきている、と考えるのが、私たちの習慣なのである。 ところが、文化人類学者によると、そうではないことが明らかになってきた。それは臨界 点説と呼ばれるものだが、ある温度に達すると、水が蒸気や氷に変わるように、ある臨界

3. 思想としての建築

といわれそうな美しい確信を、比類ない造形の力強さで裏打ちしているのである。 詩とは何か。それを定義するのはむずかしい。しかし、ただ、誤解のないように誤った考 えを指摘しておこう。その一つは、たとえば一つの建物なり、絵画なりの美しさといった 〈物の属性〉ではないということである。物の性質と考えるから、建築のそのような一面 のみを強調して取りあげることが、「センチで甘ちょろく」思えるのである。詩とは、何 よりも人間の魂と外界との一致である。魂といって抵抗があるなら、理性も情念も含め、 肉体を所有している全人間の秩序による物質の同化、すなわち創造といってもいい。建築 が詩であるというとき、カスティリオーニの胸のなかには、何よりも人間第一主義があっ た。いかに、さまざまな主義・主張がよそおいをこらそうと、それはそれとして、それを いっきょに把握し結品さす核となるもの、それが、まぎれもない人間主体でなければ、建 築とはいえないことを明一言しているのである。もちろん、ここでいう人間とは、機能や生 理的存在に還元された無色透明の一面的存在ではない。喜びと憤りと憎しみにみち、情念 と意味に生きる生身の人間のことである。 なぜ、このように当たり前な人間中心を強調することから私は考えをすすめねばならない のであろうか。今日の建築の問題点とは、何よりも建築における人間主体の回復の問題に 他ならないからである。そして、人間疎外の抽象化された機能に対応する建築空間の問題 が、それぞれ〈機能的空間〉あるいは〈量的空間〉の問題としてとりあげられるとするな

4. 思想としての建築

85 「とりまくもの」の思想 れが見ても、その部屋に住む少女を想像できるであろう。これを単なる低級な装飾趣味だ と片づけてしまうのは簡単である。しかし、いかに拙劣であっても、自我にふさわしく空 間を飾る、いいかえれば空間を同化し、所有し、自己表現の手段にしようという、異常に 強い欲望をみることができるのではなかろうか。何よりも自己表現欲が他の常識的な社会 的抑制を破って爆発する時期の少女の空間表現欲は、充分観察と研究の対象となっていい だろう。 ここで注目しなければならないのは、この空間構成が必ずしも便利を目的とし、機能的に 整えることを直接の目的としていないことである。素材と能力の限界のため、つまらぬが らくた陳列の形をとっても、それは一つの空間の〈質〉の表現と考えられるべきである。 人間の機能的空間処理の欲望は、自意識の発達とは直接的に関係しないのではないだろう か。それよりも、面白く思えるのは、この思春期に次いで人間が内部空間の質に自己を表 現しようとする第二の時期である。それはいうまでもなく結婚による新しい個体としての 空間所有を行なうときに当たる。 以上みてきたように、こうした空間表現は、人間主体の自己主張、いいかえれば空周所有 の欲望に基づくといえそうである。〈安楽〉という言葉もたしかに物質を手段としている が、それによって得られる満足は情念の世界である。すなわち、インテリア・デザインは 何といっても人間の情念的主体の領域に力点があることは明らかである。先ほど述べた

5. 思想としての建築

間ではなく、さまざまの欲求を孕んだ情念の存在としての人間の組織している世界の表現 に他ならないのである。してみると、物質文明ということの意味は、人類の主観的欲望に 方向づけられた自然だといってもいい。だから、人間の情念の直截な表現たる芸術に変化 がなければ、外的自然がどんな構造を持とうと大した違いはない、といい切ってもそう間 違いはない。こういういい方は、やや過激な反歴史主義に聞こえるかもしれないし、幼稚 な機械的唯物論者や、物質にすがりつく技術論者を刺激するかもしれない。だが、先史的 原始芸術がぞくぞくと発見されたのが、実は二〇世紀に人ってからだということは偶然で はない。キリスト教的歴史観が力を失って以来、国家の抗争と権力の移動が歴史の前面に 出てきたルネサンスから、一九世紀末までが、物質と精神一一元論の時代であり、ヘーゲ ル、マルクスなどの進歩的歴史主義全盛の時代だったのである。つまり、進歩思想とは、 古きものの価値を否定し、新しい価値を創造しつづけるところにその積極的意味があった のである。 たとえば、フ一フンス古典主義からローマン主義へ移行する際の有名な美学的論争、「新旧 論争」なるものは、近代最大の論争といわれ、これによって、近代的進歩主義、くだいて いえば、新しいものが良いという、実に革命的見地がようやく確立したのである。それ は、たとえば、ヴィクトール・ユゴーの『クロンウエル』序文におけるグロテスク礼讃 や、戯曲『エルナニ』上演の際の罵詈雑言の大闘争となったのである。ところが、最近、

6. 思想としての建築

137 あそびの思想 り、逆に、人間が、自然を所有しようとするーーその方法はたとえプリミティヴであろう ともーー強い生存の欲望の情念によって外界をみるなら、それは、世界と人間の間に引か れた緊張したリアリティを描くであろう。そのようなリアリズムを、これらの絵画は積極 的に追求しているとみることもできる。その情念のリアリズムこそ、現代に最も欠けたも のかもしれない。しかも驚くべきことに、これらの線描は決して素人の手になるものでは なく、専門化した習練の結果得られたものなのである。現にアルタミーラやエル・カステ ィーリョ洞窟や、フォン・ドウ・プームでは、下絵となるはずであった下描きのエスキー スが多量に発見されている。リムイユ遺蹟を調べたカピタンは、これを「先史時代のアト リエーと呼んでいる。 この事実は、決して、先史時代の絵画や彫刻群が偶然、だれかの手によって成ったもので はないことを物語っている。その背後には分厚い歴史と複雑な組織を持った濃厚な文化の 存在が充分予測されるのである。ということは、私たちが先史時代と呼ぶ数万年前の旧石 器時代にも、それらの物質的生産力の低さにもかかわらず、高度の文化が全世界に展開し たとえば、ベルーのインカ帝国なども想起されるーーそ ていたことを意味している。 れはどういうことなのか。普通、物質的生産力と比例して文化は「進歩」したといわれて いる。しかし、事実はそうは語っていない。二〇世紀になってようやく日の目をみた、こ れら洞窟文化は全世界に分布して、昔日の偉容を誇っている。

7. 思想としての建築

59 デザインの思想 の濃密化にあるといってよいだろう。 その問いの鋭さだけ、人間の情念をつき動かして行動〈と向かわせる。そして、その行動 〈押しやる充足感に、デザインは美しさを共感させ得ると同時に、はじめて、「。 ーシ , ンを実現し得るはずである。このような分析はやや抽象的すぎるようにみえるかも しれない。しかし、今日のデザイン界の風化作用とは実は、デザインが、いまや大衆社会 に根をおろしたことの証拠であ 0 て、いままでの自然発生的な前衛性が失われた今日、自 らの論理と実践によ「て、ひろい社会的根拠から、自覚的に方向性を探り出さねばならな い時機にさしかかっているのである。

8. 思想としての建築

132 たしかに、先史時代の絵画を目の前にすると、何万年という地球の年月は、私たちがほん の数百年、あるいはせいぜい数十年の芸術や文化の変遷をめぐってケンケンゴウゴウして いることに比べれば、目も眩むような、感動をもって心を揺さぶるものがある。だが、奇 妙なことに、それらの感動を語る人々の語り口にはちょ「とした錯覚がうかがわれる。と いうのは、どこか、そこには、幼稚な子供が随分うまい絵を描きましたねといった、思い あがった現代の優越感がにじんでいるように感じられるからだ。 しかし、本当に、私たちが、この巨大な時間の彼方からの人間の情念の通信を前にして、 心を揺すぶられるのは、逆に、いかに、人類に変化がないかという事実ではあるまいか。 原始時代の人間が、今日のモダーンスタイルに似た絵を描いているから感心するのではな く、今日ほど機械文明のすすんだ人間ですら、原始時代の人間と同じような絵しか描けな いという点にこそ驚嘆すべき事実がある。得てして、批評家というものは、一九世紀以 来、進歩主義的歴史主義の迷妄にとらわれがちなものである。それは本末転倒というもの 原始芸術への遡行

9. 思想としての建築

182 私たちは、芸術作品の創造という。芸術家は、その時代の人びとの心の底に潜む仄暗い情 熱を自分の肉身と官能を通じて形にする。それを社会は受け取り、見失 0 ていた自分自身 をとりもどしてきた。あるいは教養と呼ばれた娯楽となり、深くは魂の高揚をもたらし た。一言にしていえば、情熱の現実化がそこにあった。それはひろく文化と呼ばれるもの の実体に他ならなかった。近代は芸術家にとって、幸運に恵まれた時代といってよか「 私は過去形で語「てきた。しかし一口に創造というが、厳格な意味での創造とは、かって あった形や情念を繰り返すことではない。芸術の創造とは、常に新しいこと、いや絶対的 に新しい現実を追い求める宿命にある。それは当然、一方では古き現実と形との徹底的な 訣別と破壊を意味していたのである。だが、それと同時に、文明は一つの共通の様式を持 0 ている。それが芸術の伝統と呼ばれるものの実体に他ならない。い 0 てみれば、芸術作 品とは、この拒絶と連帯感、破壊と発見の危い均衡の一点で支えられた稀有の奇蹟だとさ 書の空間

10. 思想としての建築

て人間精神を眠らせるというエンターテイメントの機能を果たすものである。デザイン も、また、眠らす必要のあることもあろう。だが、ファッションや、モードが、何ら現実 の本質にふれないで、一つの新しい。 ( ターンの繰り返しによってつくられるものだとする ならば、デザインは、一つ一つが現実の本質に迫り、新しい角度から、すなわちデザイン としての視角から現実を表現し、伝達するはずのものである。 たとえば建築におけるデザインとは、その空間の性質、社会的意味、形、構造と、一つの 独自なひろい意味でも必然的な建築空間をつくり出すことである。もう少し詳しくいえ ば、部分の組み合わせによって一つの統一をつくり出すことである。 しかし、建築におけるファッションやモードとは、一つのフアサードや、屋根の色、キッ チンのムードなど、全体とはかかわりなく時代の部分的な。ハターンを繰り返すことにすぎ ない。 同じことがグラフィック・デザインでもいえるはずだ。かりに自分の文法というべき。ハタ ーンがあっても、それを無意識につみ重ね、組み直すことではなく、迫ってゆく対象を、 その質を、そのものと人間の間の情念にどう切り込み、どう組ませて、一つの固有のリア リティを成立させるかということにつきるはずだ。その対象と、自分との関係、それを私 は思想、あるいは発想と呼びたいのである。 ポスターも作品である。だから純粋に視覚的に楽しんでもらえばそれでいい。テーマが何