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検索対象: 思想としての建築
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1. 思想としての建築

184 群がある。 この作者によれば、ことごとく「人間 , を描いたという。しかし、そもそも文字は絵画的 象形を抽象して成立したものなのに、その文字からさらに意味性を取り去り、純粋造形と いう立場 ( と突きすすむ手法は、当然、何らの人間をあらわすような意味ありげな形を取 り得ないわけである。 したが「て、人間を描くとは、この際、外側にある人間を描くということにはならず、自 らの人間としての表現意欲をも「ばら「純粋」に押し出すことに他ならない。それは、い ささか逆説的にいえば、形と意味を避けた自己表白となるであろう。 純粋とはしかし、本当は人間にと 0 て恐ろしい概念である。フランス象徴派詩人の純粋詩 の探究は遂にマラルメ詠嘆の一句に結品した。 * すべての書をわれは読みたり ああ ! されど肉は悲し さわれおおわが心よ きけあの水夫らの歌をー 戦後、伝統 ( の訣別と国際的抽象絵画のプームが書道界に前衛書道なるものを生んだのは 昭和二七、八年ごろといわれている。その間のいきさつを事情通にいわせれば、やはり西 欧絵画の影響下に成立した一種の土産的民芸品として、にわかに時代の脚光を浴びたとい

2. 思想としての建築

「とりまくもの」の思想 105 その自然主義的基盤を失って、建築に合流してくることになる。最も正確にいうなら、今 日のような、自然主義的建築とは無縁に、建築自体も内からあふれるようなスペース・ド ラマとして、人間の意味を充足させるものになってゆかねばならない。不充分で、とかく 軽くあっかわれがちなインテリアの重要性、その本質的な意味は、このような空間意識の 変化の歴史と、造形芸術の未来への見通しに立ってこそ、はじめて明らかとなってゆくの であろう。 すべては光とリズムによる新しい空間芸術を目指している。 このような地点に立ったからこそ、中世ゴシック芸術は、神と人間の象徴的空間の表現を 明白に意図したとき、礼拝の機能的課題を物理的に果たしたばかりでなく、何よりも、生 と死ーー存在と無にかかわる最も深い人間実存の表現と伝達に成功したのである。そこに は、ステンドグラスに象徴される光のシンフォニーが完璧な芸術となり、また、コーラス がそのステンドグラスの眩めく光の渦とともに天井からふりそそぎ、それに向かって信仰 のアーメンの合唱が湧きあがったのであった。 このように、光とリズムによる空間の人間化こそ、芸術の総合の意味するものであり、そ のときもはや空間は、実体でもなければ虚体でもなく、イマージ、として、人間存在を衝 撃し覚醒し解放する磁場となるであろう。

3. 思想としての建築

であろうと問題ではない。純粋な発想は対象にしばられないという反論もまた予想でき る。 もし、そうならそれでいい。古めかしい絵画を描くのと何ら異なることではない。 デザインとは、すでに幾度か、繰り返して書いてきたように、社会的な主題とプロセスと、 表示の間にデザイナーが介在するものである。それは、個人芸術という枠をはみ出すが、 しかし、それだからこそ、大衆社会時代の新しい表現として誕生したともいえるのである。 すなわち、その発想が社会的であるように、デザインの表現と伝達性の何より強力な武器 は、それが見る者に、単なる個人的な感動や情緒のように、うちに集中するのではなく、 連鎖反応を起こして、ひろく見学者の、状況への認識を呼び覚ますところにある。 だから、近代芸術の美が、個体の表現だとしたら、デザインの美とは状況の表現といって もいい。その意味でデザインは本来空間的なのである。 世界と対決する発想 この際、状況とは、単に政治や経済や風俗ばかりを意味しない。むしろ、それら素材より も、体としての文明状況に深く浸透されているからだ。デザインの、ジャーナルな ( と いう意味は、常に時代と不可分だという意味だが ) 性格は、この状況の認識と表現にかか わるものなのである。

4. 思想としての建築

単に物と人間の関係といったような空疎な言葉を意味しない。むしろ、物自体から現象と しての物への変身を意味しているのである。なぜなら、そこで重要なのは、認識の方法で も、物自体の存在でもなく、「現にある現象」としての世界を意味し始めているからであ る。環境とは、その意味では、実は、現象としての物、物の現象学的解体に他ならないの である。 言葉をかえていえば、現象的世界における物と人間の出逢いということしか信じられなく なった、いわば、主体的な世界像喪失の時代をあらわにするものが、環境に他ならないと もいえるのである。 環境とは、だから、世界像のいわば現象学的記述に他ならず、修辞のいかんにかかわら ず、それ以外のものではあり得ない。 今日、建築や都市を論じる際に、美という個人的感動や、調和や様式という名の世界像が 消えつつあるのも、また、労働の目的や、家庭のイメージがなくなるにしたがって、実は 環境という物と人間に対する不信の表明にとってかわられつつあるのも、そのためであ る。 環境では現象だけが問題であり、その背後に横たわる人間と世界にかかわる永遠の問い は、故意に不問に付されている。そういって悪ければ、そのような問いが無用な部分だけ 切り取ったものが環境だといっていい。しかし、その限りで、環境は少なくとも、物から

5. 思想としての建築

33 デザインの思想 独創と模倣 一般にデザインについて、模倣ということは、いわゆる個人芸術ーー絵画や彫刻ーーとは 全く異なった意味を持っているのではないかという疑問が起こる。 もし、模倣を一切認めなければ、デザインというものは消滅するのではないか。 たしかに、芸術においても、模倣ということはある。これは、単に狭い意味で、ピカソが 初期に模写の練習をしたというようなことばかりでなく、だれかが発見した様式なり、ス タイルなりを、受け継ぐのは当然だ。いや文学においても、何らかの過去の遺産をどう受 け止めるか、どう表現するかということはある。文化とはそういう意味では、ことごとく 模倣だといってもいい。 しかし、同じ模倣といっても、いささかデザインと個人芸術とではニアンスが違う。個 人芸術は、あくまでも表現するのは個人の主体を通じてである。いや、もっと正確にいえ ば、かりに品物や図形をうっし描いたとしても、それはむしろ、真の表現対象ではなく、 デザインにおける独創とは何か

6. 思想としての建築

77 「とりまくもの」の思想 よって不用意に操られるのを見ると寒心にたえない。 ) 歴史の語るところにしたがえば、少なくとも、二〇世紀の新経済革新以来、社会の暗黙の 目的は、幸福であり、幸福とは居心地良さ、カンファタビリティを意味しているのであ る。 何をかくそう、環境という言葉が、最も自然に求められているのは、この「居心地の良い 環境」ということであり、環境は、ほとんど自然にカンファタビリティを意味してさえい るのである。これは、環境の誤解ではなく、正解といわねばなるまい。もし、そうでない ならべつな目的が示されねばならない。 たとえば戦争遂行のためとか、育児のためとか、生産力の拡大とか。 しかし、環境は遂にそのまま目的とはなり得ないのである。それはほとんど、混乱のため の混乱といったほどの意味しか持ち得ない。かって、「美のための美」が、一つの主張と なり得たのは、「美ーに、一つの絶対的な価値の基準を認めたからである。環境は、もは や、そのような価値の範疇をこえている。目的のない、少なくとも不明確な環境という発 想が、結果的に、小市民のカンファタビリティを期せずして全力をあげて表現したのは当 然といわねばならない。 しかし、実は、この際、見逃されたのは目的ではなく、環境という発想の基礎なのであ る。

7. 思想としての建築

173 空間の思想 都市圏はさらに重なり合 0 て、一つの文化と産業プ。〉クを形成している。建築は、単な る「物、のかたち、デザインの処理の限界内にとどまる限り、この、連続して同心円的に 重なる人間の環境の形成をとらえることは不可能であろう。 もし、それらを連続的につなげる概念があるとしたら、それは「空間」に他ならない。し かし、空間とい「ても、単に小さい空間と大きい空間とい 0 た物理的な相違が重要なので はない。一人の人間に同時に重なりあ 0 て影響するーー、どころか、まさに一個の存在様式 そのものに他ならない空間の意味が重要なのである。空間の質の相違と、その意味によ 0 て、私たちは建築から都市 ( と類比的に人間化の手段を発言し得るのである。それは単に 空間の意味を発見したということにとどまらない。逆に、実は人間自身が変化し、人間に 関する考え方が根本的変化を受けたことを意味している。 そして、演劇もまた、単なるスターシステムから、演出家による空間表現という途を発見 したのである。それは偶然というよりも、ほとんど同じ文明の産物だと考えてもいい。演 劇において演出家という作業が分離し、一人のスターの名声ではなく、全体のア , サ一プ ルによる空間表現としての途をまさぐり始めたのは、まだ最近とい 0 ていい。特にこの傾 向は、全体性を常に徹底して志向する人びとにおいて深められた。そして特に演劇の場 合、ワグナーによ 0 て不完全ながら暗示された一種の舞台総合芸術の曙光が多くの問題を 投げかけたのである。

8. 思想としての建築

意識を持った人間の表現意欲によって、空間をはじめて人間化したインテリアの最初の己 念碑として評価されねばならないだろう。そのときインテリアは、すなわち建築は、生ま れたといっていい。屋根がなくても人口がなくても柱がなくても、そのとき、人は、決定 的にインテリアとしての空間を見事に所有したのである。それは極めて素朴な寓話に聞こ えるかもしれない。だが、果たして今日、私たちが、本当に、住空間にせよ、ビルにせ よ、都市にせよ、空間を組織化し、そのなかで自己充足しているか否かを反問してみると き、このアルタミラの洞窟画の意味は逆に私たちの空間の貧困をあざやかに暴露するもの となるであろう。 ところで、人は、いかにして空間を所有できるであろうか。空間の質を決定する要素は何 であるか、つまりインテリアの手段とは何であろうか。いままでみてきたような、少なく とも人間の安楽を目的とする近代インテリア・デザインの手引書にはいくつかの要素があ げられている。いわく、壁、柱、床、家具、カーテン、敷物、配置云々、といった諸要 素、安楽のための特性としては明快、調和、機能、自然という性質。だが、これが、万人 に平均の安楽の目安であるかどうかは、はなはだ疑問である。かりに個々にそれらを認め るとしても、それはたしかに建築の内部の目にふれる物を列挙しているが、内部空間全体 と、どうかかわるかとなると、皆目、見当がっかないのである。ましてや、それによっ て、人間主体が空間に浸透するとは決して考えられないのである。 一三ロ

9. 思想としての建築

こういう状況のなかで、依然として、独創とか模倣とかということが可能であろうか。 たしかに、技術や、機械や製品にも、盗用、盗作ということはある。だが、それは、。ハテ ントを侵された、つまり、コマーシャルな意味で利益を侵害されたということであって、 厳密な意味で独創を侵したということにはならない。なぜなら。ハテント料を支払えば、堂 堂と同じものを模倣できるし、それは何ら道徳的に非難されることはないからだ。 デザインについても、どちらかといえば、芸術というより技術の模倣に似ている。 だいたい、絵画なら、盗作とはいわず、偽作、贋作というだろう。それは、先に述べたよ うに素材が人工のものであり、創造の心理的プロセスがコンビネーションにあるからだと いってもいい。素材が人のつくったものだから、当然べつの人間の手を通過する。それこ そデザインに特有の模倣だった。その素材がなまで出てきたとき、盗作ということにな る。どだい、ここでは、個人表現という意味での独創も模倣も通用しないのが原則だ。た だ社会通念というものがあり、。ハテントという利益保護の制度が働いているにすぎない。 しかし、ひるがえって思うに、さらにひろく目を今日の社会に転ずると、第二の問題とし て、一般に、独創ということ自体がすでに影を薄くし始めているのではないだろうか。 今日、求められているのは、もはや、個人が個人に語りかける、個性の対話ではない。自 己がそのなかに組織されている社会の自己表現ではないだろうか。

10. 思想としての建築

と同時に都市内に生きるということは、中世の城内の一部に居を定めるというのではな く、実は、拠点はどこに置くにせよ、この都市という点ばかりでなく、そのコミニケー シ「ンというネットワークすべての上で生活することを意味する。もちろん、人間は同時 に他に遍在することはできない。だから、すべてのネットワークの上にいるということ は、急速に運動しながら、そのネット上の密度をしだいに濃くしてゆくことを意味するで あろう。 だから実は、コ、、 : ニケーシ「ンとは、常に満員の状態こそ理想的状態であり、しかも急 速に移動しなければならないという矛盾を本質的に孕んでいるのである。 それはさておき、都市とは、真に生産の場ではなく、実は巨大組織の空間的自己表現であ る。だとすると、人間が都市内に生きるということは、二重の意味を持ってくる。一つ は、いままで生産と呼ばれていた社会行為の場のなかでの社会的表現であり、もうひとっ は、レジャーと呼ばれる組織外生活のあり方であろう。 私は、この第一の都市内労働の変質についても、サイバネティックス、オートメーション などとともに考えてみたいと思っているが、ここでは、このような都市生活におけるレジ ャーにだけ問題を限って考えることにしよう。 現代レジャーの三大特徴