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検索対象: 思想としての建築
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1. 思想としての建築

号化し、文字の代用として少なくとも文字の補助手段としての作用から向上しようと試み た。そして、この段階において、シンポルⅡ記号論 ( シンポルと記号とは、全く違うもの だが ) が横行し、デザイン伝達におけるプロセスにおいて、機能主義的純化が行なわれ始 めたのである。 これは考えてみれば、画期的なことであった。デザインが文字にとってかわって、しかも 大衆社会における、新しい伝達一一口語として発生したのであるから、およそコミュニケーシ ョンから表現Ⅱイクスプレッションに至る、すべての伝達手法として、新しい時代を担う かにみえた。 この過程におけるデザインのカの自覚は強力だった。ほとんどすべての表現は、いや文字 や言語による表現はことごとく不完全で、すべて、図示や図表化されるかのような錯覚さ え生じていなかったとはいえない。その誤れる機能主義、あるいは意味論的偏向について は、すでに述べた。 しかし、これらの一種の抽象的。ハターンの伝達性とは果たしてどのような意味があったろ う。抽象化すればするほど、解釈は無限にある。円を一つ描く。どのような解釈も可能で ある。このような滑稽な伝達論が実はいまも横行している。その誤謬はどこからくるの か。それはデザインは、一つの結論を伝えるという、甚だ初歩的な誤解から生じたのであ る。

2. 思想としての建築

45 デザインの思想 大衆社会におけるアイデア そもそも、一九二〇年代は、機能美、機械美の発見ということがいわれ、機関車や飛行機 の機能的な美が盛んにうたわれた時期であった。未来の美はそれにつきるとさえいわれた ものである。現状は、一方では、個人的な芸術や絵画もまた隆盛を極めて、決して一度発 見された個人芸術が滅びるものではないことを示しはしたが、しかし、それと同時に「機 械美」といわれるものも、また、グッドデザインというような言葉で普及したのも事実で ある。 私がいま考えるに、あれは果たして「機械ーの「美」だったろうか。そう考えると、「機 械の美」とは、機械という物にいわば付着した美の特性だということになる。だがむし ろ、機械の美しさとは、「技術」の美しさではなかったのか。 それはこういうことである。まず、手にする道具や、個人的な熟練を意味する「技術」と いうことではない。そうではなく、生産手段の社会的組織、あるいは、人類的組織全体 を、私は「技術」といいたいのだ。 ( 『現代の空間』参照 ) そうすると、機械の美しさとは、実は、機械を生み出した人類社会の技術的体系の自己表 現の感動、新しい集団的で能動的な美しさを意味するのではないだろうか。 技術の美とは、日本刀や、すぐれた陶器や工芸の美とは違う。技術はマスプロを可能にす る。技術による生産の美を「機械美」というなら、技術による情報、あるいは純粋表現が

3. 思想としての建築

67 「とりまくもの」の思想 すでにみたように、現代生活におけるレジャーは、まず、何よりも生産に対する消費とい うネガテイプな性質を失っている。逆にいえば、いちじるしい積極性を獲得している。そ れは近代的なカンファタビリティとはほど遠いところにある。もっと空間的にいうなら、 実は、住居内、住居外といった区別は、少なくとも、レジャーに関してはなくなってい る。なぜなら、都市の生活空間がすでに、点と線の上にひろがっているのなら、その生活 空間以外にレジャーの空間はあり得ないからである。 そして、この点にとどまらない空間の構造は、当然、急速な運動を前提としている。 では、ただ無目的に人間はレジャーによって行動するのであろうか。自然へもどるとか、 自己疎外の回復とか、さまざまな人間学的な解釈も可能であろう。しかし、少なくとも、 社会的生産という観点を捨象しないで考えれば、それは、生産といわれる行為が社会の表 現に転化したのと同様に、消費はアクテイプな個人的自己表現の運動に他ならないのであ る。 表現とは、行為による外界の消化である。摂取と消化は生命の基本的運動だ。 人間は生産といわれる行為で、社会的表現のなかで機能し、消費といわれる行為で、それ を個人的表現の道具とする。 だから、生産といい、消費といっても、それは人間の自己表現の二つのデイメンションの 相違、社会的次元と、個人的次元の相違に他ならない。

4. 思想としての建築

93 「とりまくもの」の思想 外された自我の自己回復の潜在的希求もとらえず、もつばら、過去の様式の亡霊か、機能 美の邪魔もののようにあっかって、無視するのである。権威ある建築雑誌はインテリア・ デザインを論ずるのを恥とする。しかるに一般人の欲求は強く、現実的である。そこで、 この渇きを婦人雑誌の特集号がもつばらいやすことになる。ここには絶望的な断絶があ る。そしてその責任は主として建築家からデコレーターに至る専門家の側にあるといわね ばなるまい。この空間表現欲を正しく受け止め伸ばすための努力は、飾ることから構成す ることへ造形意識を訓練することから始めなければならない。 女学生の千代紙の部屋飾りから、まさに詩の結品ともいうべきインテリアまで、一貫して つらぬくものとして、私はインテリア・デザインを考えたい。それがっかめれば、受け持 ちや分野は一人一人の才能と訓練の問題にすぎなくなるであろう。そしてその解答は先に 述べた。すなわち、エンリコ・カスティリオーニがいみじくもいっているように、建築そ のものの結品として、質的空間こそインテリア・デザインの意味するものなのである。 建築にインテリアがあるの、ないのというのはむしろ本末転倒であろう。・むしろインテリ アは建築に先行していたのである。空間の所有と人間化が、まず人類の建築空間の最初に あらわれているのである。絵画の先駆としてのみ評価されがちなスペイン・アルタミラの 洞窟の壁画こそ、単なる哺乳類の住む自然の洞窟と空間をいっきょに区別する転換点であ り、穴を人間の棲み家として、つまり住空間に変質させたのである。この絵は、一人の、

5. 思想としての建築

といわれそうな美しい確信を、比類ない造形の力強さで裏打ちしているのである。 詩とは何か。それを定義するのはむずかしい。しかし、ただ、誤解のないように誤った考 えを指摘しておこう。その一つは、たとえば一つの建物なり、絵画なりの美しさといった 〈物の属性〉ではないということである。物の性質と考えるから、建築のそのような一面 のみを強調して取りあげることが、「センチで甘ちょろく」思えるのである。詩とは、何 よりも人間の魂と外界との一致である。魂といって抵抗があるなら、理性も情念も含め、 肉体を所有している全人間の秩序による物質の同化、すなわち創造といってもいい。建築 が詩であるというとき、カスティリオーニの胸のなかには、何よりも人間第一主義があっ た。いかに、さまざまな主義・主張がよそおいをこらそうと、それはそれとして、それを いっきょに把握し結品さす核となるもの、それが、まぎれもない人間主体でなければ、建 築とはいえないことを明一言しているのである。もちろん、ここでいう人間とは、機能や生 理的存在に還元された無色透明の一面的存在ではない。喜びと憤りと憎しみにみち、情念 と意味に生きる生身の人間のことである。 なぜ、このように当たり前な人間中心を強調することから私は考えをすすめねばならない のであろうか。今日の建築の問題点とは、何よりも建築における人間主体の回復の問題に 他ならないからである。そして、人間疎外の抽象化された機能に対応する建築空間の問題 が、それぞれ〈機能的空間〉あるいは〈量的空間〉の問題としてとりあげられるとするな

6. 思想としての建築

79 「とりまくもの」の思想 インテリア空間のドラマ 「どの国においても、騒々しい建築の職人たちは、建築は〈機能〉であるとか、〈有機〉 であるとか、〈社会的構造〉であるとかい「てみたり、あるいは建築は〈方法〉であるこ とを発見したなどと信じたりしている。かかる簡単な定義が建築に当てはまるとは、奇蹟 という他はない。たしかにそれらは建築の根本にかかわることだが、決してすべてではな 建築とは、その本質において〈詩〉である。 そして詩とは、機能・社会などという属性をい 0 きょに結品し、価値づけるものである。 そして、その価値づけは人間をおいては他にない。 この言葉を読むと、何を甘い話と聞こえるかも知れない。だが、これは現代イタリアの代 表的建築家 , リ「・カスティリオー = の言葉である。彼の、光り輝く硬質の落下傘をひ ろげたようなナポリ新駅計画案や、バラの花びらを三つ背合わせに束ねたような、シラク ーザの〈涙の聖母のための聖堂〉のための計画案は、見事にこの日本では何を甘ちょろい

7. 思想としての建築

166 紋章の空間 ートなどでも、日本の紋章をデザインの中心に置いているし、若手のグラフィ 最近、デ。ハ ックデザイナーも大いに、日本の紋章を利用しているようである。それはそれとして、べ つにとりたてていうほどのことではないが、現在、紋章の社会的なデザイン機能について もう一度考え直してみる必要があるのではないだろうか。 およそ室町、桃山、江戸にわたる実に豊かで奔放な紋章を含んだ文明を想像すると、私た ちは今日のデザインがいかに統一した文明像と様式を欠いた思いっきのやせたものとなっ ているかを痛感せざるを得ないからである。しかし、ここでも重要なことは、グ一フフィッ クデザイナーの能力の問題ではなく、そのような個人的あるいは機能的といっても差支え ない次元をこえた地点で現代がいかに退廃しているかということである。紋章は、単なる デザインの原型ではなく、むしろ文明とデザインの意味を明らかにする糸口となるのでは ないだろうか。その結論を先にしるすと、こうなる。 一、紋章は実に、広範囲で豊かな原型と変型、それにコンビネーションを持っている。

8. 思想としての建築

171 空間の思想 建築家にとって、舞台装置というものは、特殊な興味と親近感を呼び起こす。いうまでも なく、建築は人生の舞台装置であるといった発想からも連想されるように、物を建てると いう行為だからである。 もちろん、そればかりではない。演出家が要求する機能をどうスペースの上で解決するか という問題も、また、建築家の創作欲を刺激するのに十分である。しかし、実は建築との 本質的な違いが、建築家にとって最も誘惑的なのである。第一にそれは、彼が装置した空 間が表現と意味を持っということであり、第二には、それがさらに時間的経過にしたがっ てさまざまに、しかも住宅などに比べて急激に変化するという時間的モメントを大きく孕 んでいるからである。 もし、建築が、堅牢な構造体と蒸溜水のような機能主義と、静的な形のみを目的とするな ら、演劇の装置という空間は全く無縁の遊びにすぎない。そして今日まで、事実、舞台装 置などは一種の遊びとしてしか意味がなかったのである。 舞台の空間

9. 思想としての建築

49 デザインの思想 それを、一口に、遂にデザイナーも需要が多く、風化したといってしまえばいえないこと はない。 デザインが商業美術、応用美術などと呼ばれていたころ、デザインは不当な呼び方をされ ていたようにいわれているが、事実、それはそれだけの社会的機能しか果たしていなかっ たともいえる。 デザインは、いってみれば、ある余計なもの、余分なもの、商品なら商品を、あるイデー ならイデーを伝えた後の、つけ足りのサービスとしてしか機能もしなかったし、評価もさ れなかった。 商品の流通は、必要性に応じて行なわれ、今日のマスプロにともなうマスセールの根本理 念をなす〈欲望の喚起〉などということは、産業構造それ自体が必要性を認めなかった。 だから、わずかに、巨大な組織力を必要とする軍事行動が、まず産業界よりも、プロ。ハガ ンダの手段として、デザイナーを起用したといわれるのは、その意味で極めて興味深い。 では、第二次大戦後の産業構造はどう変化したか。それは経済史の本でも読んでもらうと して、少なくとも、文化現象としてあらわになった世界的な現象は、〈大衆社会〉の発生 ということにあったといっていい。大衆とか、民衆とかいうものは、いつでもあったとい うかもしれない。しかし、厳密にいえば、大衆は、文化対象として存在してはいなかっ

10. 思想としての建築

間となるであろう。それはお話で、建築空間の範囲をこえているかもしれない。しかし、 事実これは皆が日々行なっていることなのである。来客を迎えるためといっては部屋の模 様変えをする。気分転換に家具の置き換えをするのは誰しも身におぼえのあるところだ。 それはデザイナーの仕事ではない、というかもしれないが、待ちたまえ、インテリア空間 が生きたものである限り、人間主体の表現であり、生きた一人の個人による空間の所有で ある限り、これが現実なのである。この現実をどうとらえるかがデザイナーの仕事である はずである。 ここで、強調したのは、空間は一人の個人の目的によってはじめて存在するということ、 そして、その空間の濃淡、明暗は、限りない変化を含んで一つの生活を表現するものであ るということである。この変化する部分、あるいは変化のデザインこそ、インテリア・デ ザインの特徴的な分野なのである。 量的空間、機能的空間は不変でも、その空間の質は無限に変化し得るはずである。逆から いえばこの変化の方向と質を豊かに充実させるよう、予想して、空間の機能と量は定めら れてきたはずである。いずれにしても、空間の可変な部分、変化する質がインテリアの中 心課題となることは明らかであろう。この空間全体の変化には、さらに深い意味がある。 それは、変化とは当然時間を要素として孕んでいなければならないからである。この時間 的要素は、主体の移動や存在感の変化を反映したごく短時間におけるものと、さらに長期