性、ユーティリティ、というより無駄をきらう傾向があらわれる。無駄とは本来刺激的な 要素だからである。 これが、当然のことながら、生活空間の固定を前提にしていることは明らかであろう。 しかし、生産に対するネガテイプな場としての個人生活は、現代大きく変質しようとして いる。 その何よりの根本的要因は、もとより人類生産力の爆発的増大にあるが、それが世界的規 模であらわれつつある。巨大都市の発生、都市への人口集中、それとともに都市間をむす ぶコミュニケーションの発展である。 たしかに都市は古代ギリシャ以来存在したが、現代はギリシャに次ぐ、特殊な都市時代と して、把握されねばならない。一口でいえば、巨大組織化された生産力の集団的コントロ ールの必要から起こっているのが、現代の都市時代なのであり、同じ理由で驚くべきコ、、 ュニケーションの発展がみられるのである。 コミュニケーションは、単に物質や人間の移動、情報の交換ではなく、コントロールとい う都市の機能そのものの外延に他ならないのである。現代の都市とは、だから点状に存在 するのではなく、いわば網のむすび目として存在している。 現代の個人生産が、何よりも、都市内空間として規定されねばならない理由は、そこにあ る。
165 空間の思想 性だとするなら、それにともなう一種の具象的デザイ、あるいは感覚的デザイ一の芽ば えがすでに始まったということもできる。 「クルー ( ンによれば、現代は、電子工学の時代だという。彼は、ここで、線文化から点 の文化に移行することを証明しようとしている。もし、それをかりるなら、グ〉ド・デザ インはまさに線的デザインだといえるし、新しい傾向を点的だと称することも不可能では ない。さらに、グ , ド・デザイン運動が一種の視覚偏重文化の産物だとしたら、新しい動 きは、「クルー ( ン流にいえば、触覚的とも全感覚的ともいうことができるだろう。そう 思 0 てみると、二〇世紀初頭にもどるかにみえる今日のデザインの動きは、本当は二〇世 紀の本質、あるいは今後も形づく 0 てゆく感覚の解放の正当なる継承者といえるかもしれ ないのである。 一般に近代社会は、古代ギリシ ~ ・ロー「の古典主義の復活を理想として出発したことは 衆知のとおりだが、ようやく、呪術時代から中世をとお 0 て、現代 ( つながる感覚的文明 が、その姿を明らかにしつつあるとも考えられる。このことは、単に、デザインが、抽象 的であるとか具象的であるとい 0 たような技法の問題より遙かに巨大な歴史の運動に根ざ テザインに固有の文明史的な問題意識というのはそのことであ すものであろう。私が、。 る。
ヨーロい ル・コルビュジェ の住宅 tn ・カンタク・一ーノ く都市 ⑩デサインと心理学穐山貞登⑩輝 山下和正訳 坂兪準三訳建築 選書目録四六判 アントニン・ 清水馨八郎 ⑩私と日本建築 3 アルヴァ・アアルト武藤章⑨都市の魅力 レーモンド 服郎銈二郎 宮大河直躬 ①現代デサイン入門勝見勝⑩現代建築を創る人々神代雄一郎編①幻想の建築坂崎乙郎①東照 カーン、ジョンソン他 カテドラルを建てジャン・ジベル ②現代建築貶章 ⑩芸術空間の系譜高階秀爾⑩ ⑩茶匠と建築中村昌生 山本学治訳編 飯田喜四郎訳 3 た人ひと ③都市とデザイン栗田勇⑩日本美の特質吉村貞司①日本建築の空間井上充夫住居空間の人類学石毛直道 空間の生命ーー・・人 坂崎乙郎 ④江戸と江戸城内藤昌 @建築をめざして 吉阪隆藤訳⑩環境開発論浅田孝① 間と建築 ・ゴットマン ⑤日本デサイン論伊藤てい」 ) @メガロポリス木内信蔵訳⑩都市と娯楽加藤秀俊①環境とデサイン久保貞扎 石水照雄 ⑥ギリシア神話と壺絵澤柳大五郎⑩日本の庭園田中正大⑩郊外都市論田・カーヴァー ①日本美の意匠水尾比呂志 ・イールズ フランク・ロイド・ 都市文明の源流と 藤岡謙二郎新しい都市の人間像 o ・ワルトン編 ⑦ 谷川正己明日の演劇空間尾崎宏次⑨ 一フ・イ—L ー 系譜 木内信蔵監訳 ン 島村昇 ⑧きもの文化史河鰭実英 3 都市形成の歴史 ⑩道具考栄久施憲司⑩京の町家 星野芳久訳 鈴鹿幸雄他 < ・オサンファン ⑨素材と造形の歴史山本学治⑩近代絵画・ジャンヌレ⑩ヨーロノ ハの造園岡崎文彬⑩都市問題とは何か片桐達夫 吉川逸治訳 ・プラント ・ヘルマン ⑩未来の交通 @住まいの原型—泉靖一編 岡寿麿訳 ⑩今日の装飾芸術扣・川男訳イタリアの美中森義宗訳 コミュニティ計画 コミュニ一丁イとプ・ンヤマイエフ 工ベネサ ! ( ワード 佐々木宏 ・アレキサンダー明日の田園都市長素連訳 ⑩古代技術平田ル訳 の系譜 ライバシイ 岡田新一訳 間ム間 川添登⑩キュビスムへの道 ⑩新桂離宮論内藤昌 3 移動空 千足伸行⑩近代建築長尾重応訳 ⑩日本のエ匠伊藤てい」」⑩日本の近世住宅平井聖⑩近代建築再考藤井正一郎朝海外建築情報—岡田新一編 ・リチャーズ ⑩現代絵画の解剖木村重信⑩新しい都市交通曽根幸一訳⑩古代科学 平田塢訳海外建築情報Ⅱ岡田新一編 森岡侑十 ・・・イ占ォルド編 ル・コルビュジェ ニスム 論篠原一男天上の館・サマーソン ⑩ュ ⑩人間環境の未来像磯村英一訳⑩住 樋口清訳 星野郁美
原始時代は情熱的だったという、たとえば岡本太郎の「繩文的なるもの」という戦後ひろ まった発想は、嘘だと私は思う。むしろ原始時代から文明の密度は変わらないと考えなけ ればならないだろう。原始的だから情熱的で、しだいにそれがリファインされてくるとい う考え方ではないわけである。古代から文化はそのままリファインされているという考え 方である。素朴な文化とか、粗雑な文化とかはあり得ない。文化はいかに古くても洗練さ れていたし、いまでも、素朴といわれている密度の粗いものは文化ではない。。ハイタリス ムというのは非常に危険なロマンティスムだ。ロマンティスムは、主観的には考えられる が、共通の客体がない。それはムードにすぎないから、証拠になるものがない。 たとえば火焔土器をバイタリスムというのは非常に滑稽だ。あれだけの具体的な有効性の ない形態を、どうやってイマジネーションの上でバランスをとって発想したかというのは 大変なことである。空中にイマジネーションでものを形づくる、いわゆる無から有を生じ ョ常に緻密な、頭脳のカであ る強烈な造形力、それは生命力でも。ハイタリティでもない。ド る。 弥生土器は、素朴ですがすがしいというけれど、やはり自然主義的で、具体的なのであ る。 現代は・ハルバールな時代だ。つまり個人を基礎とした近代社会は、第一次世界大戦後あた りから崩れてきて、第二次大戦後は相当画期的に変わった。それから経済といわれている
から、スペースのデザインを探していかなければならなくなったのが現実なのである。 人生とは一つの演劇ではないだろうか。 洋服を変えるように、室内も変わるし、都市も変わる。サイクルが違うだけで、複合的な 個人生活のなかでは、呪術的なもの、宗教的なもの、個人生活、それらがすべて生きてい る。しかし、新しく出てきている現実はもっとソーシャルなメカニズムである。 だから現代の文明を一言でいえば、都市国家時代であるといえる。ギリシャ文明は奴隷労 働を基礎として都市国家をつくった。つまり必要労働から解放された。現代は機械の組織 的開発をオートメーションによって、だいたいギリシャ奴隷時代にひとしいほど、労働か ら解放される方向に向かいつつある。 デザインの特色は、工業生産品を素材として使うということと、組織としての技術を媒介 とするということであるから、直接の手の技術は必要ではない。どういう質をコンビネー トするか、ということによってキャラクターを打ち出して行くのがデザインのあり方なの である。 現代というのは、オーガナイズされた世界だから、素材もマスプロダクトによって成立す る。グラフィックデザインだって印刷を媒介としているわけであるし、素材だって印刷で きるインクであるわけで、。ハレット の上で自分ひとりでこねてつくったカラーではない。
根本衝動は自己表現欲ととらえることができる。そして文明とはその表現の総体であり、 文化とはその洗練度に他ならないのである。 だとすると、現代のレジャーは、カンファタビリティに対して、ド一フマタイジングが求め られているといえよう。あるいは演出性といってもいい。 自己を多様に演出すること、自己を演ずることで世界をさまざまに理解すること、現代の 人間は、固定した自我を失ったかもしれないが、しかし、多様な自己演出性を無限に拡大 しつつあるともいえる。それは人間像自体の変質を意味しているのである。 スポーツマンの刻々のフォームが違っているからといって、スポーツマンの個性の存在を 疑うものはあるまい。多様の役柄をこなすことが役者の価値を下げるものでもない。 こう考えると、現代のレジャーは、演劇の持っ特性にしたがって考えられる。 すなわち、まずそれは、テンボラリーである。常に永続する空間ではなく、舞台も変わ り、舞台装置も衣裳も変わる。そのためには移動も必要であろう。一貫しているというこ とは決してスタティックに固定しないということだ。 第二に、演劇には、目的はなくてもすじがきが必要であり、それはいわゆる日常性から離 れた空想を刺激するものでなければならない。すじがきとは想像力のうちにあるものだか らだ。 そこで、一人でできる芝居もあるが、ときに助演者、協力者が必要である。それはレジャ
彼らは、絵の好きな人が画集を買い、また服飾のスタイル・ブックを買うのと同じよう な、日常に密着した熱情で、自己の生きる〈空間〉のデザインを考えているのである。た とえそのデザインが洗練されず、あるいは模倣にすぎないとしても、自己を空間に表現し ようという欲望は過小評価されるべきではない。この空間の自己所有欲こそ現代の空間像 を支えるものだからである。絵を描く欲望は誰にでもある。自己表現の意志である。服飾 を少しでもデザインしようとするのは、何も専門の服飾デザイナー ( この飾りとデザイン という語の矛盾をみよ ) ばかりではない。もちろん、程度の差は質的差にまでおよぶであ ろう。だが、この空間をデザインしようとする人間の欲望こそ、これからの現代建築を支 え、特徴づけるものなのである。専門の職業的インテリア・デザイナーは、この、半ば無 意識的な欲望を明確化し、きたえ、方向づけて、彼らにかわって的確に表現するのであ る。彼らにかわってということは、その大衆の一人一人になるということではない。デザ イナーが自己を純化し、自己の独創を追いつめる途こそ、他の人々の無意識の欲望を代弁 することを可能ならしめるただ一つの途なのである。それを独創と呼んでもいい。 本来、デザインとはそのようなものであったはずだ。 ところが、今日、わが国の近代建築家には、異様なストイシスムがうかがわれるのであ る。一般人の装飾欲という最も現代的な欲望を自己表現へと高めもしないし、あるいは疎
83 「とりまくもの」の思想 楽さⅡコンフォートという考えが生まれ、この個人中心である個性の表現としての質的空 間のデザインが始まった。だから日本の建築に、インテリア・デザインの歴史がないの は、日本建築は平面の間取りから発想するためであるとか、家具もなく、柱や天井がどう のこうのといった類いの、建築の内部空間構造の問題とはそもそも次元が違うのである。 また、家具のない習慣のところへ、近代西洋建築がはいってきたため、現代においても、 なおインテリア・デザインがないといった、一見うがった見方も通用しているが、もし、 その次一兀で論ずるなら、日本には「飾るーという要素が極めて強く、テンボラリイな空間 装飾の歴史があるし、嫁人道具という制度などもあるくらいだという、同じ程度の説得力 を持った分析もまた可能である。 しかし、何よりも近代的自我、個性的意識の発生との対応関係においてインテリア・デザ インの空間問題を考えるのが、今日の私たちの課題に対する積極的な姿勢ではないだろう か。古代以来、人間と世界との関係が変化するにつれて、空間概念も変化してきた。建築 の歴史は、構造の変化の歴史であり、様式の変遷の歴史であるとともに、何よりもまず、 この人間の空間意識と内部空間との対応関係の歴史であったというべきである。 日本最初の独創的美学者、中井正一氏の空間論にしたがえば、エジプトの造形意識は〈空 間への畏れ〉であると指摘している。砂漠に取りかこまれた峡谷に生きるには、数百万の 人々はただ一人の帝王にしたがわねば生きられず、巨大なる国家奴隷の集団として屈服さ
149 空間の思想 を持っことが示されている。この主客の観念の変遷にしたがって、その媒介としての芸術 の性格も変わるのである。 奴隷制の崩壊より封建制にかけての主・客の媒介概念は「本体と現象という如き形而上学 の媒体的媒介であって : : : かかる芸術の性格づけを『形而上学的媒介』と名をつける。」 くだいていおう。これが近代を代表するカントになると、知情意というように知と意の媒 介として情があらわれ「ここでは芸術は認識能力として『認識範疇的媒介』の位置を占め たのである。」いいかえれば主観と客観の自律的高次の媒介者となったのであるが、やが て資本主義社会の高度化に伴い急激な個人の崩壊と人間の集団化が起こり現代に至るので ある。ここでは主観と客観は数学的に抽象された函数関係となり、客観的素材は徴分的極 小として扱われ「芸術の原理はいまや非連続ともいうべき高度な課題を課せられるに至っ ・現代において、それは『存在範疇の媒介的性格』を帯びさせられた。」これは、 ベルグソンの影響下にプルーストが実証した自我の回帰や、ハイデッガーが晩年、詩人へ ノカ月説『嘔吐』を書くことで ルダーリン研究にすすんでいったこと、また哲学者サルトレく、 実存への手がかりを示したことなどを思えば明らかである。 現代の、複雑で高次な世界と人間を解く鍵は、心理といい、実存といい、歴史的主体とい い、いずれにしても時間と空間の交錯する感情をおいて他にはない。その意味で美学が現 代ほど重要な意味を持ったことはなかった。美意識は、すでに一つの世界観を前提とし、
発想は、時間をはかっているのではなくて、どうやれば時間のエレメントを抜きさること ができるか、ということに賭けられていた。たとえば、ひところ流行ったメタポリスムと いうのは、実は、どうやれば同じ形をたもちつづけられるかということであって、一見、 時間をエレメントに人れているようではあるが、その逆の方向なのであった。 私は、演劇的要素というものを考えるけれども、むしろ積極的に時間系を取り人れなけれ ばならないのではないかと思う。それが現代の建築なり、デザインなりが当面している問 題なのである。だいたい、ものをスタティックに考え、時間に抵抗しようというのは、近 代主義的な発想だ。ゴシックなどは、「つくる」のではなく、 werden 「成る」もの である。あたかも成るが如くでき、その間に崩れてゆく。ゅうゆうと時間とともにあるわ けである。日本の中世までの住宅も改造、建てかえはすごい。ほとんど原形をいつつくっ たかわからないくらい、時とともに動いている。 近代思想は、個人を一つのグリンピースのように考えたと、ジャンⅡポール・サルトルは いっているが、それと同時にスタティックに考えて、どうやって時間をとりさるかを考え た。それが近代建築の発想なのである。だから、これから先、私たちは歴史の動きが早い から一緒に時間を変えなければならないというのではなくて、本来、近代の四万五千年以 前の人類が時間のエレメントを人れて考えていた、そこにもどらなければならない特殊な 状況、それが現代で、時間のエレメントを建築、都市において、もう一度再発見しなけれ