逆にいえば、ある一つの目的に「明快にー解体された世界像が、実は環境だともいえるの である。その意味で、環境とは、ただ単に自然発生的に生じた現象をいうのではなく、 つの機能にしたがって抽象した世界像の現象なのである。 だとすれば、もし、日常的に用いられる環境という現象系を、やや動的に拡大して用いる ならば、おのずからその目的を孕んでくることになる。 キースラーがいいたいのは、こうした目的意識による物の現象の方向づけなのである。そ こにはじめて、主体と客体をむすびつけるモメントとしての環境の意味が明らかになって くるであろう。 かくして、環境はめでたく、 空間と物質が、人間の目的行動によって統一される場として 成立するかにみえる。 しかし、最大の問い、その目的は何だろうか。多くの造形の分野でも、また近代の純粋主 義は、目的のための手段という考えを受け人れていない。したがって、目的のための目 的、環境のための環境という答えが用意されることは充分予想できる。それもいい。人間 ーマニズムのための のためといってもいい。現に私は、ある店舗設計家が、「偉大なヒ デザイン」と文章に書いているのを見たことがある。その実体は一体何か。 ( とかく、近 ごろ、言語という物質はーー客体的組織であることが無視され、語の基本的な質的把握を 全く誤った美辞麗句が、本来、手仕事と技術の意味を知っているはずの造形実作家たちに
157 空間の思想 岡本太郎といえば、ほとんど反射的に、エネルギーとか、生命の燃焼とかいう言葉を、い ささか嗄れた塩辛い声で、ロ角泡をとばしてしゃべりまくっている顔が目に浮かぶ。 エネルギーとか、生の燃焼という態度は、常に日常性のなかに埋没する自分を必死になっ て拒絶する、涯しなき、自己獲得の操作であって、私たちは、容易に、ニーチェのツアラ ッストラの超人思想との類似さえ、そこに思い浮かべることができる。 その際、人は、何物か外から与えられた価値という枠や、習慣から生まれた名誉を目的に することはできない。なぜなら、そうなれば、人は人のつくり出したものにしたがうこと になるからだ。 常に燃焼して超人的であるということは、実は自分のみを目的とし、さらに目的である自 分を常にのりこえてゆこうとする不断の超克の作業を意味しているのである。 岡本太郎が一見自己に執着し、欲望にとらわれ、エゴイスティックに自己主張してゆく姿 には、そのような自分を限りなくのりこえようとする、いわば偏執狂的とでもいうような 生理の空間
すでにい 0 たように、それは、人間の外側にある物質のほうから人間〈伸ばされた触手な のであった。この見方は依然として新鮮さを失わない。 環境は、依然として、空間の装置であるとしても、それは人間が意図したものを常にわず かずつこえている。それは物の領域のものだから、いわば、人間は、環境において実は空 間に出会うのである。その空間の構造こそ、物と意識によ「て成立する世界の劇的な相貌 をあらわにみせるものなのである。劇とは、目的なくして自立し得る世界のただ一つの運 動だともいえるからだ。
77 「とりまくもの」の思想 よって不用意に操られるのを見ると寒心にたえない。 ) 歴史の語るところにしたがえば、少なくとも、二〇世紀の新経済革新以来、社会の暗黙の 目的は、幸福であり、幸福とは居心地良さ、カンファタビリティを意味しているのであ る。 何をかくそう、環境という言葉が、最も自然に求められているのは、この「居心地の良い 環境」ということであり、環境は、ほとんど自然にカンファタビリティを意味してさえい るのである。これは、環境の誤解ではなく、正解といわねばなるまい。もし、そうでない ならべつな目的が示されねばならない。 たとえば戦争遂行のためとか、育児のためとか、生産力の拡大とか。 しかし、環境は遂にそのまま目的とはなり得ないのである。それはほとんど、混乱のため の混乱といったほどの意味しか持ち得ない。かって、「美のための美」が、一つの主張と なり得たのは、「美ーに、一つの絶対的な価値の基準を認めたからである。環境は、もは や、そのような価値の範疇をこえている。目的のない、少なくとも不明確な環境という発 想が、結果的に、小市民のカンファタビリティを期せずして全力をあげて表現したのは当 然といわねばならない。 しかし、実は、この際、見逃されたのは目的ではなく、環境という発想の基礎なのであ る。
158 渇きがうかがわれる。 このような行為は、自己を目的とするために、当然、傍からは目的がないようにみえるも のである。 さて、目的のない熱中の、いちばんよく知られた形は、いうまでもなく、「遊びーもしく は「遊戯」であろう。 岡本太郎の、甚だ自由気ままな仕事が、遊びごとのようにみえる理由はそこにある。 以前、彼は「坐ることを拒絶する椅子」と名づけた、一連の陶製の椅子をつくったことが ある。 お尻の下に、凸凹した人間か鬼か子どもかわからないような顔が目玉をひんむいている。 人の顔の上に尻をおろすということは、心理的にもはばかられるし、尻の穴をのぞかれる ようで気味悪くもある。その上、とがった先が尻を突くので、肉体的にも腰かけるのは苦 痛といった具合である。 私は当時、思わず快哉を叫んだものである。なぜなら、いわゆるグッド・デザインなるも のの流行にいささか業を煮やしていたからだ。良いデザインが悪いという偏屈からではな い。良いということはどういうことかがいいかげんだから嫌なのだ。 いわゆる、モダン・デザインの根本的な発想は、実は、アメリカで大量生産のマーケティ ングから生まれたものなのである。
意識を持った人間の表現意欲によって、空間をはじめて人間化したインテリアの最初の己 念碑として評価されねばならないだろう。そのときインテリアは、すなわち建築は、生ま れたといっていい。屋根がなくても人口がなくても柱がなくても、そのとき、人は、決定 的にインテリアとしての空間を見事に所有したのである。それは極めて素朴な寓話に聞こ えるかもしれない。だが、果たして今日、私たちが、本当に、住空間にせよ、ビルにせ よ、都市にせよ、空間を組織化し、そのなかで自己充足しているか否かを反問してみると き、このアルタミラの洞窟画の意味は逆に私たちの空間の貧困をあざやかに暴露するもの となるであろう。 ところで、人は、いかにして空間を所有できるであろうか。空間の質を決定する要素は何 であるか、つまりインテリアの手段とは何であろうか。いままでみてきたような、少なく とも人間の安楽を目的とする近代インテリア・デザインの手引書にはいくつかの要素があ げられている。いわく、壁、柱、床、家具、カーテン、敷物、配置云々、といった諸要 素、安楽のための特性としては明快、調和、機能、自然という性質。だが、これが、万人 に平均の安楽の目安であるかどうかは、はなはだ疑問である。かりに個々にそれらを認め るとしても、それはたしかに建築の内部の目にふれる物を列挙しているが、内部空間全体 と、どうかかわるかとなると、皆目、見当がっかないのである。ましてや、それによっ て、人間主体が空間に浸透するとは決して考えられないのである。 一三ロ
〈質的空間〉の意味はここにある。この人間の自己主張を認めないところに、インテリア ・デザインはあり得ない。いかに潜水艦の内部空間を合理的かっ能率的に設計しようと も、そしてその結果がはなはだ美しい機械美の感動を人に与えようとも、それが、人間存 在の充足を目的としない限り、人間が自然的生物として処理されている限り、インテリア ・デザインは存在しないといっても差支えあるまい。 禁欲からインテリア・デザインは生まれないものである。 さて現代インテリア・デザインのイメージする人間像はどのようなものであろうか。人間 は常に一つの空間構造のなかにいる。つまり住居空間なり都市空間のなかに置かれた場 合、自然的生物としての人間はたしかに、その空間構造によって規制される。すなわち受 動的に、ある自然的法則にしたがって動くと考えられる。この法則性を抽出し、それにし たがって空間を構成する仕方が、近代建築における住空間に関する私たちの姿勢だった。 それは、いわば無意識な人間の生物的法則を意識化したという意味でまさに革命であった といってもよい。だが、その自然主義的人間観の成功に酔っているうちに、いっしか私た ちは、人間というものが、その一人一人のうちに虚無と想像力を孕んだ能動的存在である ことを忘れてきたのである。情神としての人間の存在とは、この際、禁欲的情神主義を意 味していない。いわば、非合理でデモーニッシな情念を孕んだ人間として、空間に対
123 あそびの思想 揚する点にある。そこには、も 0 ばら禁欲的に相互を抽象対決させるのではなく、相互貫 流する流動的なリズムそのものを人間の本質とみるばかりか、同時に人間の本質は世界の 本質に貫通し、世界は宇宙のリズムに通じているという認識がある。 そこで特徴的なものは、リズムという運動による情念の高揚であり、無形な情熱であると い「ていい。無形なものは形を持たないということではない。概念化されない、いわば宇 宙発生の地点においてとらえられた無形なリズムこそ、実は多様極まりないあくなき物的 表現の源泉となり得るのである。 装飾とは、物質や観念ーー・その函数関係を機能と呼んでも差支えないがーーに付随するも のではなく、いわば無形のエネルギーの自己実現に他ならなか「たのである。それは精神 と物質との未分化の人間領域に花咲いた、まぎれもない人類の本質だ 0 たのである。この 無目的な自己充足に、人間疎外からの脱出を試みようとする思想家の動きに私は興味を持 っている。 たとえば、すでに触れたように、ヨ ( ン・ホイジンガは一八世紀の「ホモ・サピエンスⅡ 理性人」や産業革命が生んだ人間観「ホモ・ファベル」に対して、「遊戯人Ⅱホモ・ルー デンス」という新しい概念を提出した。 彼によれば、この遊戯という概念は不思議なことに、それ以外のあらゆる思考形式とは、 全く領域を異にしているというのである。この際、いわゆる文化社会学的な要素の一部と
138 私は、こう思う。文明は人類の発生とともにあったと。逆にいえば、文明という精神と想 像力による自然の所有、いってみれば、一つの集団に共通の世界観がーーたとえ呪術的で あれ、宗教的であれーー成立したとき、人類と呼んで差支えない集団が成立したと考えた いのである。ことわっておくが、ここで呪術的というのは年少の学生が想像するように通 俗的な流行語としての意味ではなく、近代民俗学のい鄂の研究を前提としての話で ある。 このような一見文化至上主義は俗流マルクス主義者をいらだたせるようである。しかし、 この壁画の力と洗練と様式の語るものは、れつきとした文明の存在であり、それは単なる 描写技術にとどまらず、そのあり方、装飾性、民俗的内容にもかかわっている。これら は、今日的な意味での革新的欲求に迫られて描かれたものでないことは自明であるーー今 日の芸術家の動機というものも、極めて怪しいものだがーーそれには専門家のさまざまな 解釈が行なわれ、いまだ定説はみないのであるが、いずれにせよ極めて装飾的であるとい うことは、それが壁画それ自体を自己目的としているのではなく、 一つのシンポルとし て、劇的空間における行事を予想させる。つまり、その用途は、記録や保存にあったので はなく、むしろ一回限りの、あるいは数回のテン。ホラリーな行事のためにあったのである。 そのことは、それらの壁画がいくたびも繰り返し描かれていることからも明らかである。 それが繁殖の祭りか、狩猟のためかは専門家にまかせるとしても、いずれにせよ必要性以
159 空間の思想 つまり、居心地の良さということが目的に そこでは、生活におけるカンファタビリティ、 な 0 ている。それはそれで結構だ。人間には安楽はいいことだし、休息も必要だろう。し かし、人生の舞台装置である家具のすべてが、人生の休息だけ、安楽だけを目的とするの は、生きるということ〈の怠惰もしくは堕落ではないだろうか、も 0 と能動的で禁欲的な 人生もあるはずである。 安楽を目的とした、二〇世紀のグ〉ド・デザインがしだいに鼻について、遂には腐肉の匂 いさえ発してくるのは、便利と安楽の押しつけのためである。 も 0 と悪いことには、正当な安楽すら与えないくせに、いかにも、「イホームの幻想を与 えて、顧客に媚びるようなグ , ド・デザインの亜流の氾濫である。家具ばかりではない。 建築もマスコミも、都市文明全体が、媚態にみちみちている。 しかし、便利さが求められるのは、烈しい活動と能率の人生のためであり、安楽が必要な のは、強い緊張に溢れた活動のためではなか 0 たか。デザインとはそのようなものを踏ま えていなければなるまい。事実、中世紀の手工芸品のデザインの持っ簡潔さと力強さは、 そうした行動の形態が生み出したものであ 0 て、労働する筋肉のみが知る安らぎを、無骨 な手づくりの、床儿は与えたはずである。 また、ヾ , 台〉クからゴシ , ク ( と装飾にみちたデザインは、便利ではないが、そのため に、かえ「て不便をしのぶ禁欲的な肉体の緊張と、そこから生まれる豪華な精神と官能の