言葉 - みる会図書館


検索対象: 思想としての建築
35件見つかりました。

1. 思想としての建築

なぜ時間的な歴史学が一九世紀に成立し得たか。それは時間を排除したから事件を順序よ く並べることが可能だったということだろう。時とともに動いているものならば、並べよ うがないわけである。 これが歴史学の秘密だった。だから歴史学というのは、近代でなければ発生し得なかった のである。たしかに、タキッスの歴史学というものはあるけれど、あれは事実の羅列であ って、順序には並べていない。私たちが当面しているのは、もう一度羅列にもどり、羅列 のなかの体系、つまりエレメントの一つ一つが逆に時間をなかに孕んで動いている、その 構造をとることに他ならない。これがいわゆる私の考えている空間論であるし、都市論と いってもいい。ということは、歴史学にとって変わるものが、建築やデザインということ になるだろう。 ディスプレイという言葉も便宜的に使っているけれど、ディスプレイという言葉を、建 築、都市などという言葉と、私がどう異なって使ったかといえば、このジャンルがいいわ けではなくて、ディスプレイという言葉の内包している意味、つまり簡単にいえば瞬間に してでき、瞬間にして取り壊せるものという意味が、建築や都市よりも時間とともに変化 していく方向をいちばんはっきり示しているからなのである。 ディスプレイが面白いのは、時間とともに変化すれば、形がないではないか、ということ である。形がもし時間に対立するものだとするならば、形がなくなった時には、空間の質

2. 思想としての建築

はじめに・・・・・・ーー文明とデザイン デザインという言葉は、よく口にされているが、現在のところデザインのキャラクターと その周辺部が洗い出されている程度で、本質には立ち人っていないというのが実際のよう である。 デザインとは、応用美術、つまり芸術の周辺にあってそれを応用したものである、いいか えれば、芸術の一部分である、といままで考えられてきたが、芸術という言葉でさかのぼ ってみると、原始芸術とか中世芸術とかいわれているにもかかわらず、自覚されたものと しての芸術は実際にはないのである。それが発生したのは、ルネサンス以後の近代社会に おいてで、したがって芸術という概念、つまり個人の独創性を動機として、個人から個人 ( 伝える人間の内面性という考え方、これは近代の文明と切っても切れない関係を持って いるーーーと、一応芸術という言葉を限定してみるといろいろなことがはっきりしてくる。 中世において私たちが芸術と呼んでいるもの、建築や工芸や彫刻や音楽は何だったか。こ れらは集団でつくられた。その動機も集団に共通な宗教的情熱である。何世紀もかかって

3. 思想としての建築

79 「とりまくもの」の思想 インテリア空間のドラマ 「どの国においても、騒々しい建築の職人たちは、建築は〈機能〉であるとか、〈有機〉 であるとか、〈社会的構造〉であるとかい「てみたり、あるいは建築は〈方法〉であるこ とを発見したなどと信じたりしている。かかる簡単な定義が建築に当てはまるとは、奇蹟 という他はない。たしかにそれらは建築の根本にかかわることだが、決してすべてではな 建築とは、その本質において〈詩〉である。 そして詩とは、機能・社会などという属性をい 0 きょに結品し、価値づけるものである。 そして、その価値づけは人間をおいては他にない。 この言葉を読むと、何を甘い話と聞こえるかも知れない。だが、これは現代イタリアの代 表的建築家 , リ「・カスティリオー = の言葉である。彼の、光り輝く硬質の落下傘をひ ろげたようなナポリ新駅計画案や、バラの花びらを三つ背合わせに束ねたような、シラク ーザの〈涙の聖母のための聖堂〉のための計画案は、見事にこの日本では何を甘ちょろい

4. 思想としての建築

178 ザッキンといえば、一九一三年ころからわが国の二科会在外会員として秋の展覧会に毎年 出品していたこともあって、日本では比較的早くから親しまれていた。 彼がロシアのスモレンスクに生まれたのが一八九〇年。そして、一九二〇年代に至って、 彫刻の自画像や、ピカソたちの立体主義やニグロ芸術を消化吸収して、それに、たとえば シャガールにみられるような幻想的デフォルマションの付加されたスタイルを生み出した のであった。そこには素材に対する敏感な反応と情感に溢れた物質感、豊かな形態があっ た。彫刻的という言葉を限られた意味に用いるなら、彼の作品中では最も彫刻的な時代で あったといえるだろう。しかし私たちの興味を惹くのはこのような意味のザッキンではな い。一九三〇年代の凹面があらわれ、折り返す稜と、大胆な線描を取り込んだ作品群であ る。ここには、彫刻という立体的三次元空間から踏み出そうという決意がある。自由な 「言葉」を駆使するために、あらゆる素材の特性を使いつくそうという奔放な造形上の冒 険がある。 負の空間

5. 思想としての建築

単に物と人間の関係といったような空疎な言葉を意味しない。むしろ、物自体から現象と しての物への変身を意味しているのである。なぜなら、そこで重要なのは、認識の方法で も、物自体の存在でもなく、「現にある現象」としての世界を意味し始めているからであ る。環境とは、その意味では、実は、現象としての物、物の現象学的解体に他ならないの である。 言葉をかえていえば、現象的世界における物と人間の出逢いということしか信じられなく なった、いわば、主体的な世界像喪失の時代をあらわにするものが、環境に他ならないと もいえるのである。 環境とは、だから、世界像のいわば現象学的記述に他ならず、修辞のいかんにかかわら ず、それ以外のものではあり得ない。 今日、建築や都市を論じる際に、美という個人的感動や、調和や様式という名の世界像が 消えつつあるのも、また、労働の目的や、家庭のイメージがなくなるにしたがって、実は 環境という物と人間に対する不信の表明にとってかわられつつあるのも、そのためであ る。 環境では現象だけが問題であり、その背後に横たわる人間と世界にかかわる永遠の問い は、故意に不問に付されている。そういって悪ければ、そのような問いが無用な部分だけ 切り取ったものが環境だといっていい。しかし、その限りで、環境は少なくとも、物から

6. 思想としての建築

75 「とりまくもの」の思想 発している。環境は物に「とりかこまれている」という安堵感しか私たちに与えないが、 そのことが逆に無限の虚無から私たちを救ってくれるかに思えるのである。 ちょうど、今日、生活を見失った市民がテレビや洗濯機など、物によって取りかこまれ、 人間喪失をその環境によって忘れている情況をそっくりそのまま表現しているともいえる のである。ただことわっておくが、ここには、激烈なものも、混沌も決してあり得ようは ずはない。一見乱雑に見えても、何ら本質的な対立はないからだ。単純化され、整理され たものだけを現象としてとらえているからだ。 物が、すでにばらばらであり、環境が、意味を失った単なる現象系にすぎないとしたら、 環境からの人間把握への道は閉ざされているといわねばならない。 しかし、「環境そのもの」を対象とする限り、そのようなものとしてあらわれるとしても、 単なる逃避としてではなく、一つの態度として、環境は意味を持ち得ないであろうか。 先に引用したキースラーはいっている。 「それら ( 物と環境 ) を一つにむすびつける唯一の方法は、オプジェクテイプを通して、 生活の目的を邨いかこと , ( 傍点筆者 ) だと。「環境」という言葉を故意に歪曲しない で用いるならば、すぐ連想されるように、環境という言葉は、単独では用いられないこと がわかるだろう。たとえば、生活環境とか、勉強する環境とか、教育の環境などというよ うに、環境は、ある目的を持ってはじめて意識されるのである。

7. 思想としての建築

27 デザインの思想 思想というと、何か教科書に書かれた箇条書のように思われやすい。しかし、フ一フンスで ンサンという言葉がある。いま生きている現在進行形の思想である。思想 は、。ハンセ、。ハ という言葉が重苦しいなら発想といってもいい。 デザインの思想というとき、私は、まず、この発想の時点を考えたい。 すでにみたように、常々不思議に思うのは、デザインが、何らかの伝達と表現であるなら ば、その対象によって、どのようにか変化するはずである。たしかに、文体とでもいうよ うな、。ハーソナルなヴィジアル・。ハターンというものはある。だがしかし、それを、い ついかなる対象にでも適用して疑わないというのは、完全な対象の無視であって、。ハター ンに対する自己陶酔あるいは自己模倣以外の何物でもない。 それは、伝達し表現する対象が何であってもいいという、まさに恐るべき無思想性、いい かえれば、一切の思考停止さえ意味している。しかもそれに気づかずに、技術主義だとう そぶいている。 私は、表現と、表現の内容を、容れ物の箱と中身のように区別するほど、野暮でも無知で もないつもりだ。しかし、最近のイラストレーターからサイン・デザイナーにいたるま で、一つの。 ( ターンを何のデザインにでも流用してはばからないのは、単に、忙しさとマ スプロからくる堕落にすぎないと考える。 だいたい、大衆芸術というものは、何々節というように、ある。ハターンの自己模倣によっ

8. 思想としての建築

ナーのあり方から、さらには社会的地位、職業的独立の話へと、ますます本質から離れ て、現象の後を追いかける末梢的なものに陥らざるを得ない。そして、遂には、インテリ ア・デコレーターとインテリア・デザイナーをまず分類し格づける。いうまでもなく、デ コレーターは低次の職人で、デザイナーは、個性ある作家というわけである。 だが、このインテリア・デザイナーもアーキテクトにはかなわない。そこで、インテリア ・アーキテクトという一「ロ葉がつくり出される。たしかに、ここで、インテリアとアーキテ クトという〈言葉〉はむすびついた。そして外部アーキテクトと内部アーキテクトという 二人のアーキテクトが、壁を隔てて対等に指揮棒をふるということに落着している。たし かに言葉はむすびつけられ、上から下へ内と外へと格づけされ、区別された。しかし、本 当にこの相違と分類は現実的であろうか。いくら造語をしても一種のそらぞらしさを感じ ないわけにはゆくまい。一人のデザイナーの仕事は、デコレーションから構造までを当然 含み、場合場合によって、その仕事の性質は異なってくるはずである。むしろ、およそ、 種々さまざまな千変万化の現実のなかで、あやまたず人間主体と空間のあり方をつかみ取 ることこそ、デザインといえるのではないだろうか。もちろん、インテリア・デザインと いう仕事の範囲を明確化するためには分類も格づけも必要であろう。だが、このように相 違点ばかりを強調して、デザイナーの格づけに専念していては、「インテリア・デザイン とは何か」という問いに対する答えは生まれないのである。

9. 思想としての建築

180 る。つまり、形としては向こう側に突き抜ける空間、たとえば『二人兄弟』のように、虚 の空間が判然とそこにあらわれてくる。それとともに表現はより豊かな複雑さを備えてく る。私の友人はいった。「あの後ろから内部にもぐり込んで内側から物体の世界をなでて 後ろから、内部から、正面から、それは視線を拒むことなく受け人 みたいーと。そうだ、 , れる。しかし受け人れることが空しければそこには何のリアリテイもない。受け人れられ た視線がそこで衝撃を受けるには、強烈な磁場が存在していなければならない。ここで彼 の彫刻は、物としての重量感を振り捨てて、逆に無にひとしい、いわば空間の否定の契機 として働くことによって、ダイナミックなエネルギーを孕んだ空間構造のなかに見る者を 引き人れるに至るのである。私はあまりに比喩的に語りすぎたかもしれない。 『二人兄弟』の腹部はそこにある空間ばかりでなく、それを取り巻く空間、さらに視る者 をさえも取り巻く空間の質を、人間的な彩りに変化させる。ここにはさらに、自然の素材 との和解を予感させる配慮さえ見受けられる。ここに、彼の愛する言葉「森ゆく人ーの調 和への確信が溢れてくるのである。これが、一九五〇年以降、円熟という言葉がにじむよ うな彼の作品となって歌いかけてくるようにみえる。人間的といっても、これは植物的な ものである。彫刻に深く刻印されたエロティシスムが、全くないといっていい。 しかしそれだけに、森が自然の秩序を厳粛に構成するように、空間に示して、というより も空間のなかで自然的空間を人間的宇宙へと変貌させる激しい造形的意志となってあらわ

10. 思想としての建築

162 このファニチャーの遊びは、いってみれば、手すさびのおもむきがあり、私たちの岡本太 郎の、息苦しくダイナミックで熱烈な遊びの姿とは、明らかに隔りがある。これを、老巧 とか円熟とかいう一言葉で飾ることはやさしい。むしろ東洋人の自然といっていい。 しかし、彼、岡本太郎だけは、そのような調和をさらに拒絶しつづけてもらいたい。そう 願うのは私ばかりではあるまい。それほど彼の超人的なイメージは強烈なのである。