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検索対象: 思想としての建築
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1. 思想としての建築

41 デザインの思想 タルな全体をつくり出すことができる。 では、すべての部分がそうだろうか、必ずしもそうとはいえない。明らかにオーダーを異 にする異質な部分というものがある。 では、いかにして、デザイナーは、その、共通のトータルイメージを含む部分を選ぶの か。デザイナー自身が、部分的にではなく、最初、一つのトータルなイメージを持ってい るからである。それが人間の特権ともいうべき想像力の真の意味であり、今日いうところ の「アイデア」であり、かってプラトンがいった、あらゆる現象の理想的原型ともいうべ き「イデヤ」に他ならない。 デザイナーは、だから、はじめ、あるイデヤをイメ 1 ジとして持つ。彼は社会組織のなか の部分にすぎないが、しかし、文明全体を予感することのできる部分である ( なぜなら、 特に感性Ⅱ感覚というものは、個人的なものではなく、個人をこえた文明に共通の質を持 っているからだ ) 。 次に、デザイナーには、そのイメージのなかの全体像が含まれている部分を、社会的生産 品のなかから探り、そのおのおのの部分、グ一フフィックでいうなら、色彩、線、型、面、 ポリュームなどの一つ一つが主張する部分的要求を受け入れる。そして、そのおのおのが 重なり合いぶつかり合う地点に、しだいに全体を支配する骨格ができあがってゆく。それ が完結したとき、部分のなかの全体は、部分よりも強く表面に浮かびあがるのである。

2. 思想としての建築

はじめに・・・・・・ーー文明とデザイン デザインという言葉は、よく口にされているが、現在のところデザインのキャラクターと その周辺部が洗い出されている程度で、本質には立ち人っていないというのが実際のよう である。 デザインとは、応用美術、つまり芸術の周辺にあってそれを応用したものである、いいか えれば、芸術の一部分である、といままで考えられてきたが、芸術という言葉でさかのぼ ってみると、原始芸術とか中世芸術とかいわれているにもかかわらず、自覚されたものと しての芸術は実際にはないのである。それが発生したのは、ルネサンス以後の近代社会に おいてで、したがって芸術という概念、つまり個人の独創性を動機として、個人から個人 ( 伝える人間の内面性という考え方、これは近代の文明と切っても切れない関係を持って いるーーーと、一応芸術という言葉を限定してみるといろいろなことがはっきりしてくる。 中世において私たちが芸術と呼んでいるもの、建築や工芸や彫刻や音楽は何だったか。こ れらは集団でつくられた。その動機も集団に共通な宗教的情熱である。何世紀もかかって

3. 思想としての建築

112 い。この一見漠然とした「何ものでもない。という性格が、「あそび」の概念を曖昧にし ているのである。しかしそのことが「あそび . の特質なら、いたし方ない。むしろ、それ はどういうことであるかを問う他はあるまい。 ところで、「何ものでもない」ということは、ここで気づくように、ある物や、事柄の、 文字通りの純粋な否定ではない。むしろ、「あそび」はその他にある。そのものの外にあ る。 いいかえれば余分なものとして、無意味なものとして疎外されているということを意味し ているのである。だとしたら、「あそび」とは、まず初歩的な段階では、「疎外」だという ことができる。ここに「あそび」の否定的な面があることは自明のとおりだ。あそび人、 恋愛遊戯、芸術における部分的なあそび、あそび女、賭けごとなど、いわゆる末梢的な気 晴らし、たわむれ、娯楽などは、明らかに人生というものからの疎外状況に他ならないの である。これが、特に物質的生産と実益を目的としたプルジ , ワ社会で排斥されたのは当 然であろう。 しかし、ときに、この人間の「何ものか」である価値体系が変化するときに形骸だけが残 0 て、意味を失うことが、しばしば起こる。たとえば日本では古代国家が崩壊して、いわ ゆる中世に人ろうとする時期があった。 このような場合に、人は、体系的な世界を根本から疑おうとして、一見、空しい「あそ

4. 思想としての建築

115 あそびの思想 と同時に、それが、ある体系的世界のあくまでも、一つの部分であるということである。 たとえば、ある人間が、有能な官吏であるとか職人であるとか、あるいは武士であると か、技師であるという「何ものか」は、まさに、その「何」が何にせよ名づけられるもの であるがゆえに、その体系世界の構成要素にすぎないのである。 しかし、「あそび」は、遊戯にせよ、すごろくにせよ、要するにそれは、野球や相撲であ る前に「あそび。なのである。あそびは、体系から疎外されているがゆえに、体系をつく り得ない。その限りでは、たしかに部分よりも悪い破片か断片にすぎないかも知れない。 だが、あくまでも部分ではない。ここで、最も重要なのは、「あそび」が、かりに体系世 界からみて破片にみえるにせよ、それがそれとしては決して断片ではなく、まさに一つの 自律的な秩序を持 0 ているということなのだ。あそびは一つの行為であるが単なる行為の 部分ではない。 「あそび」の行為は、実にそれで完結した一つの宇宙を、形づく「ているのである。さま ざまなあそびはあるが、そのどのようなあそびも、それぞれ一つ一つが、総体をなしてい るのである。 この総体性、完結性、自律性ということが、「あそび」の不思議な特性の一つといえる。 しかも驚くべきことに、このような総体性はとかく抽象的観念の場において成立するもの であるにもかかわらず、常に「あそぶ」という具体性においてはじめて実現されているこ

5. 思想としての建築

23 はじめに つまりエ業生産品のインクを使って工場でできた紙を使って、プロセスとしては印刷とい う機械工業にかけて、それがある集団の集まりをェクスプレスするという経過がデザイン なのである。 デザインと美術の違いは、二つの美術品というのは組み合わせることができないが、デザ インの場合は、ある一つの非常に完成されたデザインと、もう一つのデザインとが噛み合 うわけである。またそれをコンビネートすることができる。なぜかといえば、美術品を与 えているのは、ひとりひとりの個人なのである。個体と個体はつながらないわけだ。デザ インは、いかに個性的なものであろうと、いまいったように、よくデザインされたもの は、共通の社会の生んだ素材を、共通の社会の生んだ技術を媒介としているから、つまり 素材とそのプロセスというものは、共通なわけである。だからよくデザインされたもの同 士は、本質的部分が共通だから、あたかも同じ人間がつくった二つの美術品と同じわけに なるのである。 建築もそうだが、だいたい建築に設計者がサインするなどとは、とんでもないことであ る。よくデザインされたものは、デザイナーの個人のキャ一フクターがいくら違ってもよい デザインとして、タウン・デザインを形成するエレメントとなり得るわけだ。 よりよくデザインされたということは、よりよく文明を生かしたことなのである。作者は 同じ文明なのである。ひとりひとりの個性を・ハネとして、文明が充分自己表現しているデ

6. 思想としての建築

い効果を相乗的に生み出しはしない。あくまでも、一つ一つの作品にとどまっている。も し、それらの組み合わせがさらに効果をあげたとしたら、それは美術品を、室内デザイン の素材として使っているにすぎない。 では、どんな組み合わせがデザインなのか。 それもここで一口でいうのはむずかしい。ただいえるのは、機械のコンビネーションが、 もつばら、ある実利的な有効性、物をつくる能力のためにあるとしたら、デザインのコン ビネーションはもちろんそうではないし、ただ、つり合いとか、見た目がきれいとかいっ た、断片的なくすぐりと心地良ささえすませばいいというわけのものでもない ( それだけ の作品も多いが ) 。またある意味を、文字のように伝達すればいいのでもない ( そういう コミュニケーション的デザイン論も盛んだが ) 。そうではなく、視覚的体験からだけ得ら れるある認識、それをつくり出すような組み合わせこそ、デザインに固有のものでなけれ ばならない。いまわざわざ、「ある認識」といった。それが、実は問題の中核である。 そもそも組み合わせとは何か。部分を寄せ集めて全体をつくることである。それがびった りするということは、寄せ集められたものが完全に一つの全体をなしていなければならな い。それが可能であるのは、もともと部分のなかに全体のイメージが潜在的に含まれてい るからである。それが組み合わされたとき顕在化して、そこに一つのトータルなイメージ が生まれる。またその全体が、より高次な部分として集められても、また、より高いトー

7. 思想としての建築

デザインにおけるコンビネーションとは、部分のなかからトータルイメージを取り出すこ このトータルイメージこそ、部分である人間に、自分が置かれている全体としての社会や 組織との関係を見透させる力を持っており、それが、開かれた安らぎと感動を生み出すの そしてデザインが人間的でなければならないという意味もまたそこにある。それは人類の 全体をイメージさせるものでなければならない。 はじめにふれた模倣の問題は、だから、単に、盗用という一言葉を単純にすべてに当てはめ て、大仰に騒ぎ立てるほどのことでもない。そのような事大主義は、ジャーナリズムの材 料になるかもしれないが、何ら根本的な解決の方向を見出さないからである。 デザインの素材は社会的現実 デザインを、個人芸術のように考える古めかしい独創礼讃主義、署名人りに執着するデザ イナーや、それをありがたがる発注者の考え方の古さをまず排除しておく必要がある ( も っとも、逆に大衆社会だからこそ、署名がコマーシャルな効果をもっ場合もある。だが、 それは、かって、独創的な天才が個性の表現を確認する意味で作品に記した署名とは異な ( ! ) が、人気を保証するための品質 る。それは、社会の求めているスターや、タレント

8. 思想としての建築

て人間精神を眠らせるというエンターテイメントの機能を果たすものである。デザイン も、また、眠らす必要のあることもあろう。だが、ファッションや、モードが、何ら現実 の本質にふれないで、一つの新しい。 ( ターンの繰り返しによってつくられるものだとする ならば、デザインは、一つ一つが現実の本質に迫り、新しい角度から、すなわちデザイン としての視角から現実を表現し、伝達するはずのものである。 たとえば建築におけるデザインとは、その空間の性質、社会的意味、形、構造と、一つの 独自なひろい意味でも必然的な建築空間をつくり出すことである。もう少し詳しくいえ ば、部分の組み合わせによって一つの統一をつくり出すことである。 しかし、建築におけるファッションやモードとは、一つのフアサードや、屋根の色、キッ チンのムードなど、全体とはかかわりなく時代の部分的な。ハターンを繰り返すことにすぎ ない。 同じことがグラフィック・デザインでもいえるはずだ。かりに自分の文法というべき。ハタ ーンがあっても、それを無意識につみ重ね、組み直すことではなく、迫ってゆく対象を、 その質を、そのものと人間の間の情念にどう切り込み、どう組ませて、一つの固有のリア リティを成立させるかということにつきるはずだ。その対象と、自分との関係、それを私 は思想、あるいは発想と呼びたいのである。 ポスターも作品である。だから純粋に視覚的に楽しんでもらえばそれでいい。テーマが何

9. 思想としての建築

間となるであろう。それはお話で、建築空間の範囲をこえているかもしれない。しかし、 事実これは皆が日々行なっていることなのである。来客を迎えるためといっては部屋の模 様変えをする。気分転換に家具の置き換えをするのは誰しも身におぼえのあるところだ。 それはデザイナーの仕事ではない、というかもしれないが、待ちたまえ、インテリア空間 が生きたものである限り、人間主体の表現であり、生きた一人の個人による空間の所有で ある限り、これが現実なのである。この現実をどうとらえるかがデザイナーの仕事である はずである。 ここで、強調したのは、空間は一人の個人の目的によってはじめて存在するということ、 そして、その空間の濃淡、明暗は、限りない変化を含んで一つの生活を表現するものであ るということである。この変化する部分、あるいは変化のデザインこそ、インテリア・デ ザインの特徴的な分野なのである。 量的空間、機能的空間は不変でも、その空間の質は無限に変化し得るはずである。逆から いえばこの変化の方向と質を豊かに充実させるよう、予想して、空間の機能と量は定めら れてきたはずである。いずれにしても、空間の可変な部分、変化する質がインテリアの中 心課題となることは明らかであろう。この空間全体の変化には、さらに深い意味がある。 それは、変化とは当然時間を要素として孕んでいなければならないからである。この時間 的要素は、主体の移動や存在感の変化を反映したごく短時間におけるものと、さらに長期

10. 思想としての建築

188 部分的かっ現象的にのみ追求されているからである。 だれしも語らないが、今、建築家の心は、実は、最も原理的なものを渇望している。 原理とは何か。それは、広くいえば、人間と建築という視点を回復することである。人間 と建築のかかわりを最も根源的な、いくつかの角度からメスを加えることによって、全体 としての建築の進むべき方向が予知される。そのためには、 形なき心を形にして捉えるデザインの思想。 形と形が組み合わされて、一つの空間を形成する展示と演出と環境の問題。 形と空間が、いかなるストーリーをもって、人間に語りかけるか、という象徴と意味 の構造。そのトータルである歴史と文明の関連についての考察が緊急に求められなけれ ばならない。それを知るためには、 川建築の狭い領域にとどまらず、建築をとりまく文明や環境、及び、その周辺のさまざ まな現代芸術の現実と行方などには目を配る必要がある。そして、 同その結果として、いわば、「思想としての建築」をもって、現代の文明にアクチュア ルな問いかけを行なうことによって、現在の混迷から脱し、新しい都市と自然と人間の 間に、一つのモニュメントたりうる作品活動を行なうことが可能となるであろう。 本書は、今までの建築にかかわる論文が、結局は現象的な空理空論にとどまっていたその 盲点を明らかにするため、人間の建築という最も深い部分にメスを人れ、久しく待望され