にあるんだという二つの考え、この二つのコントラストを見ていただければいい。メロディーの 場合ははっきりしないかもしれませんので、建築家の話を申します。建築家、あるいはインテリ アの専門家がここへきて、この部屋の壁紙をどう変えようかと考える。インテリアの専門家はこ の部屋を眺めて、たとえば赤い壁紙を貼ろうと思う、その時に思われた赤い壁紙というのは、ま さにこの部屋のあそこへ考えているんですね。要するに頭の中に赤い壁紙があるわけじゃないん です。あの壁の所にあるわけです。たとえば空き地に建築家がものすごいマンション建てようと した時に、あのへんに玄関、あのへんに窓だと考える時、あのへんというのは、いま野っ原にな っている、向うに見えている石ころの、あのあたりに建てようとするわけですね。まさにその場 所はそこなんです。頭の中ではない。ただそれは考えられたものですから、まださわれないし、 写真も撮れない。それだけが違いです。これが文学のほうへいって、たとえば詩人がある詩をう たいあげる。そのうたわれる情景はふつうの言葉でいえば存在しない。非現実です。しかしたと えば海にワインを一滴注ぐ。海はほんのり赤く染った。こう私がヴァレリーのロまねをするとき、 その海はこの部屋にある海じゃない、私の頭の中にあるのではない。ちゃんと地球上にある海だ と思います。少なくとも私の頭の中じゃない。詩人の頭の中じゃありませんね。逆に言うと、過 去のことはいかにも未来にくらべて実在感が強いわけですね。すでにあったんだから。ところが 過去の思い誤りというのはわんさと経験するわけですね。その時に、仮に思い誤ったとします。 坂本さんがおととい三人の方に会われたと思ったらじつは二人であった。すると間違われた一人 イメージは頭蓋骨の中にあるか 94
いよいよ最終講義になりました。前の講義を伺っているとき、誰かの演奏を聴いていてグラッ シ = したという私の経験を言いました。そのときも聴こえてて現実に誰かが弾いているのは現 実の音で、クラッシ = したんだけども、もう一つの不協和音を呼び起こしたのはばくの中にあ るというふうにどうしても思えていた。ところが今は五分五分なんですけど、だいぶ大森先生 の言い方に慣れてきましたから。 ど , つもありがと、つごギ、います。 ( 笑 ) だけど、要するに外に聴こえるものとは違うわけで、その音の場所ですね。 それが知覚的に聴こえていないにせよ、音である限り、どこかから聴こえてくる音として想像さ れている。それがたとえば鼻の付け根の後ろ 5 センチあたりで鳴っているというのは、私には想 像できません。喉の音とか腹の音とかはともかくです。 心の中とはどこか く私〉はいない一
再生音の同一性 いますでに再生音とお 0 しゃ 0 たわけでしよう。その中に含まれる感じは、たとえば録音なす 0 た時の音がもう一度生き返 0 たような感じですね。しかし、おそらく坂本さんご存じのように、 それは同じものではない。そう感じられている。 そうですね。だから正確には再生じゃないはずですね。再生音じゃない。 そうですね。じゃ、何かと言えば、非常に簡単なことですが、似た音である。そして ( イファイ だというのは似方が ( イファイなわけでしようね。これはレコードだけじゃなしに、写真もそう じゃないでしようか。それは結局、同一性の問題ということですね。同一性の問題というのは、 たとえば、よく昔からいわれるのは、きのうの私ときようの私は同じか。酒飲んだ時の私と素面 の時の私は同じか。それは私は言葉の使いようだと思います。同一性という言葉はじつにフレキ シプルな言葉です。たとえば三分の二と六分の四は同じであるか。小学校三年生は同じだといい ますね。しかしあるツムジ曲りがいて、三分の二の分子は二なのに六分の四の分子は四じゃない か。そこが違うじゃないかと言われたら、小学校の先生どう言うか。その質問は正しいので、た く今〉とはどういう時間か 76
そういったことも私は、カントが言うとおり動かないと思います。ある言語学者は、たとえばア メリカインディアンではどうだ、エスキモーではどうだと言いますけれども、調べてみると、私 はそうじゃないと田 5 います。たとえばご存じでしようがホビ ・インディアンでは、一 という数の代わりに、一番目、二番目、三番目という順序数があるんですね。そしてそれを調べ た言語学者カ 。、、だから時間空間概念が違うんだと言ってますけども、私は全く眉つばだと田 5 いま す。あるはずなんですよ、かれらの暮らし方見てれば、あることわかりますね。たとえば、三日 かかる仕事を「三日かかる」と言わないで「三日目に終わる」こういう言い方するらしいんです ね。しかし「三日目に終わる戦争」と「十日目に終わる戦争」と言 0 ても、量の概念、何日かか る戦争という量概念は文句なしにあると思います。あるいはソシ = ールのように言語の網を通し て世界を眺めると いいましても、あんまり文字どおりにはとれませんね。その意味で歴史的に動 く部分もありますが、歴史的に動かない部分もあると思います。歴史的に動かない部分は、それ がもし変化したら一体どう変わるのか、人間には想像がっかない部分です。つまり例で言えば、 四次元の空間というものは、私は想像つきませんし、二次元の時間なんていうのも想像つきませ ん。その意味で動かないんじゃないかと思います。 219 ( 私〉はいない
言葉があったり、意識変革だとか自己変革だとか自己と他者とかそういう問題が沸騰するよう に出てきました。けれども今から考えると、今先生がおっしやったことですが、この今の時代 よりかは、どうも豊かな時代の、つまり食うか食わずではない時代の、すごくうがって言えば 一つのレジャーと、 しいますか余剰といいますか、そんなものとしてあったようにも感じている んです。もっとタイム・スケールを大きくとって、たとえば大森先生がご自分の興味の仕方で、 いま使われている言葉、言語表現、それから道具的な世界といいますか、何か映っているべー シッグな基準みたいなものに疑問を持っていて、ばくはばくなりの形で、違うんじゃないかと いうような疑問を持ったりという、少しタイム・スケールの長い今の時代というものを考える。 何か要請されているというか、自分自身が自分自身の好き勝手な意欲だけでこういうこと問題 にしてるんじゃなくて、何か時代に要請されてるような気もするんですよね。そのへんはどう お感じになりますか ? おっしやるとおり、それは私、全く賛成で、結局、たとえば私は自分自身だけの問題でほとんど 他のことに注意を払わすにずっとやってきましたが、これも、振り返ってみればいまおっしやる ように一つの時代の大きな流れ、それに乗せられてきているということ、私はそう感じますね。 そしてその時代の流れがどういう流れであるか、これは私は的確にはつかめませんけども、まあ それはたくさんの文明評論家が、ああでもない、こうでもないと言ってもめてるんですね。しか く私〉はいない 6
それは全くそのとおりじゃないでしようか。ただ逆の面があるわけですね。やはり音楽も一言葉も 音なんですね。このつながりはまだ残ってますね。まあ、素人で変なこと言うかもしれませんが、 言葉と音楽の一番大きな違いは、意味のわかる言葉、了解できる言葉というのは、ある社会の中 でわれわれが訓練を受けてきている言語です。大といえばふつう、猫は思い出さないわけです。 そういうふうな、非常に強度の条件反射的な訓練を受けた音なんですね。音楽家の音はそうでは したがってそこに大きな違いがある。それは私は音楽家の非常に大きな自山であると思い ます。しかし一方では詩人が持っている力、言葉を使っての表現を音楽で代替することはできな しかし言葉の中でもそういうんでなしに、もう少し自然発生的な言葉、感嘆詞ですね、ある いは悪罵雑言「バカヤロ ー ! 」。これはおそらくアメリカ人が、私が日本語でそう言うのを聞いて も、語調で、悪口言ってると、感じると思います。強いて言えば、そういうのが比較的また音楽 にも近いかもしれない。 そうですね「バカヤロ ー ! 」と聞いて、その「・ハカヤロ 味を考えて反応が起こるわけじゃありませんしね。 坂本さんのレコードでも言葉の持ってるあの効果を、ワグチンでいえば非常に弱毒化して、それ ー ! 」を分節化して、要するにその意 イメージは頭蓋骨の中にあるかい 4
色じゃないですか。たとえば的確に赤い、的確に青い、的確に黄いろいというような音の連なり。 色と音とのつながりはランポーや心理学者も言いますね。しかしあんなばんやりした形じゃなし 、坂本さんが、ある音を十秒ならす。それはだれが聴いても間違いなく赤い、というのでした らおもしろいですね。 ばくはね、ちょっとそれはむずかしい たぶんだめだろう。 音楽のだまし絵 ええ、それでもいいです。東京の人間だけにでもそう思わすのがあったらたいしたものです。そ れからこんど色ではなしに、感情。情緒や、気分。これは音で創り表現するのがもっともらくな んじゃないですか。しかし色はもっと困難でしようね、知覚的センスですから。そこで伺いたい のよ、いまはどっちかというとヴィジ = アルなこと一一一〕いましたが、こんどはたとえば重い軽し あるいは手ざわり、それから温度、熱い冷たいなどはどうでしよう。運動感覚、これもらくなほ うだろうと思います。速い遅い。しかしだんだんヴィジ = アルになるとむずかしくなる。 というのは、たとえばイギリス持ってって聴かせたら 2 フ見ることと聴くこと
くると思います。これはたとえば日常的な一例をとりますと、表情なんていうのは非常に微妙で す。ある時ひょっと、ある人の顔にあるかげがよぎる。それをどう表現していいかわからない。 しばらく表現を探してるうちに、仮に幸運にもある表現に当った。自分でビッタリだというよう な表現が見出せたとしますと、その途端、その表情がじつに生き生きと鋭く現われてくるわけで すね。そうなればいいんですが。哲学、あるいは文学というものは、そういう意味で生き生きと した、その人間にとって的確なものの姿を立ち現わせるということのために表現を探すんだと思 います。その意味で表現と、その表現によって立ち現われてくる事態の姿ですね、これは切って も切れない関係にあるんじゃないかと思います。これは坂本さんのお仕事のほうでもそうで、な にかまた言葉にならないというのは、坂本さんの場合には音楽にならない何ものかがある。そし てその何ものかはご自身でおわかりになっているわけじゃないんです。まだ音楽ができていない。 で、ある音の構成をなさる。しかしそれでもまだ不満。そしてさまざまに試みられて、これだと いうものにぶつかった時に、探し求めた、目的とされたものが最も的確な姿で現われてくるんじ ゃないかと思うんです。つまりその時大切なのは、初めなにかがわかっていて、それにちょうど うまく合う言葉を探すというんじゃないんですね。 そのとおりだと思います。極端に言うと最初のモヤモヤとっくり出したものとが同じか違うか 確かめることさえできない、それほど違うものです。 く私 > はいない 212
坂本さんみたいな微妙な音の聴覚になりますと、もう少し狭い範囲で挾めると思います。しかし 百分の一秒にはならないと思います。 そうすると二分の一秒から百分の一秒で : それはもう相当でまかせですね。ですがまあ、そんなもんですね。つまりとにかく限度があると いうことですね。一方、物理的な測定のほうは限度がないわけです。原理的に 実際的にはありますね。その実際的な限界までいったときにあるかもしれない混乱に興味あり ますが ええ、それは技術的にはあります。それとやや。ハラレルなのは、繰返しになりますが、私が部屋 のまん中にいて、円型に真っ白い壁が等距離である。私は円の中心にいるわけです。そしてその 壁に小さい黒いシミを作って、一体私の知覚する空間はどこまで小さい範囲まで見えるかを調べ る。私まだよく検討してませんけれども、これも言いにくいですね。前に触れた分解能の話もち よっとおかしいところがあります。その白壁、どこもその白さに穴があいてなくてペッタリ続い ているんですからね。しかもその最小の見え方ということの意味をどう決めていくかということ ー風景を透し視る
そうなんですね。しかしそれはすべてそうですよ。たとえば私の場合でもそうです。私が論文書 く、他の人がどう読んでるか、永久にわからない。 しかし坂本さん、今の言い方は二人とも誇張 してるんです。現実にはそうじゃないんですね。私は、他の人が私の言いたいことをある程度了 解してくださる、また了解してくださ 0 た人もいるということを確信してますし、坂本さんはご 自分の感覚とそっくりに、たとえば坂本ファンが聴いてるとは思われないとはしても、レコート の売れ行き、フ , ンの熱狂ぶり、フ , ンレター、その他を通して、あることは感じてくれてるとい うことはや 0 ばり確信してるはすです、日常的な意味で。そして私はその後のほうを、この〈他 我〉の問題の出発点と見るべきだと思うんです。非常に厳しい言い方をすれば、人と人との間に 鉄のカーテンが下りてます。しかし何故そういう厳しい知り方をとらなければ、ナよ、、 。し / ーし、刀レ」し、つ 理由、目的はないんです。知的興味はあります。そしてこれには回答がない。回答は論理的にあ りませんね。むずかしい理屈ではなく端的に論理的にない。そうすると次のやり方は、ゆるやか な日常的なわれわれの確信ですね、確信とまではいきませんが日常的な信念、そこから出発する わけです。そしてあとは日常的な信念をできるだけ的確に描写しなきゃいけない、その的確な描 写はこれまたむずかしいんで、私にうまくできないところなんです。 つまり永久に届かないところ、届けているのは意味ないじゃないかというところまでばく自身 はいきまして、つまり自分は何をやってるかということを考えたときに : 20 ) く私〉はいない