そうなんです。ベルグソンは純粋持続と言いました。少し安易な呼び方ですが、ベルグソンが表 現したかったのは私のいま言ったポケ、〈只今〉のことだろうと思うんです。私のイメージもベル グソンに近いと感じます。彼は通常の線状時間を、空間化され、もう固化された時間、こういう ふうに言いますね。そして生きた〈只今〉、これを〈純粋持続〉と呼んでいるんですね。ですから 私はベルグソンにならったと自分では思っておりますが、あの表現では不十分です。 胸のつかえがとれる 生理学者がやってる記憶細胞、三種類あるそうですが、そういうことからは説明できないです そういう生理学的な長期記憶、短期記憶云々だとか、 あれはタコでやったんですね , ーーああ いうアプローチはぜんぜんラフで私はだめだと思います。しかしもちろん、なにか私の頭の中に 〈只今〉に対応したものがあることはたしかです。しかし問題は脳の機構などではなく、生まの 体験の適確な表現なのです。 先生の頭の中にあってまだ言語化されてない : : というのは何でしようか。映像でもなし : 見ることと聴くこと 22
年代における論理実証主義の・ハイプルとなった。後著では、会話体ないし対話体で日常言語の用法が一見ランダムにとりあ げられ、一九四五年以降の日常言語学派 ( オクスフォード学派 ) の活動の端緒となった。 〔ジェームズ〕 William James 1842 ー 1910 プラグマティズムを代表するアメリカの哲学者・心理学者。『心理学原理』 「宗教経験の諸相』「プラグマティズム』「根本的経験論』などの著作がある。心理学者としてのジェームズは、要素的験経 が他の経験を呼び起こすという連合主義を排して、機能的心理学を提唱した。哲学者としては、同じくプラグマティストで あったバースが、科学的・論理学的な行動の記号学的パターンを強調したのに対し、形而上学的・宗教的であったジェーム ズは、純粋経験は生命の流動であるとした点、むしろベルグソンと内的近親性を持つ。 〔ベルグソン〕 Henri Bergson 1859 ー 1941 生の哲学を代表するフランスの哲学者。著作に、「意識の直接与件について の論文』 ( のちに『時間と自由』と改題 ) 、「物質と記憶』『創造的進化』「道徳と宗教の二源泉』などがある。ベルグソンの哲 学は、方法的には直観主義、立場上は体験主義をとり、内容的には創造的進化つまり ^ 生の躍進élan vital 〉の宇宙進化の 体系であるといえる。 〔純粋持続〕 durée pure 自然科学的な一次元連続体としての時間概念に対置される、ベルグソンの体験的時間概念。そ の定義は、ベルグソン自身の言葉で言えば、「純粋持続とは質的な変化の継続でのみありえよう、その変化は互いに浸透し、 互いに貫入し、明確な輪郭をもたず、相互に外的な関係に立とうとする傾向はなく、数とはわずかの類似も示さない、それ は純粋異質性であると言ってもいいだろう」となる。 〔ランポー〕本文で言う〈色と音とのつながり〉を、ランボーは「母音」という詩に表現している。「は黒、は白、は 赤、は緑、 0 は赤、母音たち、おまえたちの隠密な誕生をいつの日か私は語ろう ( 中原中也訳 ) ではじまり、たとえば、 「、眩ゆいような蠅たちの毛むくじゃらの黒い胸衣は、むごたらしい悪臭の周囲を飛びまわる、暗い入江」と続く。 〔ホワイトノイズ〕白色雑音。連続スペグトルをもち、周波数帯域一ヘルツに含まれる成分の強さが一定である音を言う。 現代音楽に多用されている。なお、本文中、〈ホワイトノイズをフィルターでカット〉で言う〈フィルター〉とは、ある振 動数範囲の音は通過させるが、それ以外の振動数の音には大きな減衰を与える音響フィルター装置のこと。 〔スティーヴ・ライヒ〕 Steve Reich 1936 ーアメリカ現代音楽の作曲家。バルス的なビートを持っ短いフレーズを反 用語解説 2
われわれ自身誰でも持ってるわけです。朝から晩まで持ってるわけです。一生この〈只今〉を生き ているのです。その体験が、比喩でかまわないんですが、ある的確な言葉が見つかると、クリア ーに見えてくるわけですね。 ベルグソンの純粋持続 いままでそういう言葉が使われてなかったというのは、なにか理由があるんでしようか。それ のことと関系する : : : ? 多くの思想家が、誰もその体験持ってるわけですから、およそ時間論に関心を持った人達は、全 部言葉を探したと思いますよ。しかしおそらく私には見つけられないだろうと、ちょっと悲観な んです。 仏教にもないですか ? 仏教学者とも話をしたんですが、仏教学の方面でもだめだろうと思います。たかだか〈刹那〉く らいですね。ただ、道元のある表現があるんですが、それも私は満足できません。 見ることと聴くこと 2 。
では物理的な時間順序は溶解しているのです。この時間の線型の溶解、それをビンポケが暗示す るのです。しかし比喩はいつも危険です。できれば比喩なしの単純簡明な言い方がほしいのです が、見つかりません。またこの比喩では体験時間がスグリー ンという線型の上で描写されている ことも気に入りません。といってベルグソンの純粋持続のような名前付けだけでは何ともなりま せん。まあいまはこういった状態です。 ゼノンの。ハラドックス ただこれに関連してゼノンの矢のパラドッグスのことを考えてみます。飛んでいる矢がある。時 間幅ゼロのある点時刻でのその矢の状態を考えてみる。ところが動くためには、どんなにわずか であっても、ある時間がかかる。だからその時間幅がゼロならば、その矢は動けるはずがない。 だからその点時刻で矢は静止している。しかし、すべての点時刻で静止している矢が、飛べる道 これがゼノンのパラドッグスです。ゼノンの矢のパラドッグスが間違っ 理がないではないか てると私が思うのは、瞬間的なものの在り方ということは、先程、ヨーカンの切り口で申し上げ ましたが、意味がないと思うからです。一つの事例として、あの壁は一瞬だけ赤く染まってまた 元へ戻るとします、しかしそれは赤くもなんでもないだろう。あるいは痛みですね。一瞬だけ激 痛が走る。その持続時間ゼロです。これも意味がない。痛くも痒くもないでしよう。ならば矢も、 く今〉とはどういう時間か刃
そのものが赤い場合と同じだ。だから赤いサングラスをかければ、相当濃い赤の場合ですが、向 こうの壁が赤く見えるんだというのが生理学者のスタンダードな説明の仕方で、これ以外にない と思っています。ところが問題はこの生理学の説明の最終段階、私の脳みそ特に後頭部に何か変 化が起きると私の前方数メートルの壁が赤く見えるという点です。昔から言うプロジェクション ( 投射、脳から外部への ) です。この概念はベルグソンやそれ以前から使われておりましたが、 生理学者の説明ではこの機構をぜんぜん理解できないわけです。脳みそのほうから、なんら向う の壁へ作用が及んでないからです。それが昔から問題たったわけです。 視覚風景の透視構造 それを私の言い方ではこうなります。脳みそがどうかしたから向うの壁が赤く見えるんだと説明 する必要はない。なぜならばそれは論理的関係だからだ。じゃ、どういう意味で論理的関係なの かというと、赤いサングラスをかけて、白い壁が向うにあります。その見えた風景を絵に描こう としていただきたい。そうすると画用紙の上に、画面いつばいに赤いサングラスを描くわけです。 そしてなおかっその向うにそれを透かして見えている向うの壁を白く描けますかと言いたいわけ です。透かして見ているんですから。半透明のサングラスを透かしてです。いま私がサングラス をかければサングラスの赤を視野一杯に見てることになります。その絵を描いたら紙一面赤い ーダ風景を透し視る
てれば、また十分の一秒かかってる。こういうふうになりますね。 つまりこの点でストップウォッチ押して下さいという時には、押す動作はその点の前から始ま っているはずですね。 そうなんです。 この時刻にこれを押すということは、その前、それから押したと、いわば確認まで含めて、そ のへん、このへんと言いますか。だからばくはさっき、ちょっと田 5 ったんですけど、実現とい う行為のあるひと塊と言いますか。それがいわば時間の、先生のおっしやっていた〈今頃〉 : それがあるんです。それから知覚の場合でも、一つの音波を一時刻ですつばり切ったら、空気は、 スビードだけはありますけど、振動数もなにもないわけですね。この「このへん」をはっきり一言 い表わす言葉、なかなかないんですよ。自分で見つけるまでは・ヘルグソンの使わしてもらって、 純粋持続とでも呼ぶのがいちばんわかりがいいんじゃないかとも思います。 最小と言っちゃあだめなんでしようかね。 9 風景を透し視る