それはしてきたんでしようね。 だと思いますよ。肉屋の牛肉の区分け、ロースだとかサーロインだとか、坂本さんはご存じだろ うな。肉屋に行けば牛の画に書いてある。ですから紛れが起こると区切るんです。 その区切り、その線はいいかげんなわけですよね。牛肉ならいいけど、生存に関わることとな るといいかげんでは困りますね。 それには利害がかかっています。肉屋は自分に有利なように区切るでしよう。音楽のほうでも、 特に坂本さんのようなメロディーの場合には、たとえばどこからどこまでが第何小節だというの、 無視されているんじゃないですか ? 場合によってはそうです。唱歌形式だととかありますけども、そうじゃない場合もたく さんありますし、ビートがない音楽、「トントン」これ、区切りだよということを示してない 音楽の場合には、あまり経験のない人が聴いた場合にどうやって聴いたらいいかわかんない。 すごく不安なときもあるでしよ、フ。 3 風景を透し視る
音の鏡像反転 この第二講では、いよいよ大森先生のおっしやる〈只今〉とは何かという問題を伺うことになり ます。 で、まず光の仮現運動のお話になりますが、コルテの条件という範囲の中で、暗室の中でポッ、 ポッ、と閃光を二つ出すとそれが動いて見えるわけですね。テレビの画面での動きもこれです。 それでもう一度伺いますが、音の場合にある時間間隔おいて、ある種の音を二つ出すと音がつな がって、音の運動というのは起こりますか。 起こりますね。そう聴こえます。 その場合に光の場合と同じような何かの条件がありますか。たとえば光の場合は、二つの光の場 所的間隔と時間的間隔、これが決定的な条件になるんですが、音の場合も音源間の距離、時間的 間隔と、あとは立日質があるんじゃないかと思うんですが。 く今〉とはどういう時間か 42
難が起きる。網膜のいちばん外側は不透明体なんです。不透明な膜に包まれています。しかし私 はいま網膜を透かして前方を見ているというんですから、健康な状態では網膜は透明でなければ いけない。それはどういうふうに考えるかというとこう考えます。健康な状態で、顔のあるべき 場所に眼球があり、そしてあるべき場所に網膜がある時は、そのルートに沿って透かしてみる時 は事実問題として網膜は透明である。私の眼球をひっこ抜いて横から眺めたら、もちろん完全に 不透明体です。しかし健康な状態であるべき位置にあれば、そして正常ルート の向きに透視する 場合には網膜は透明である。これは事実が指し示すことである。さて、そこまできましたら、次 は視神経です。視神経は取り出して解剖学的に見るならば土色か灰色か知りませんが、要するに 不透明体です。しかし健康な、あるべき状態でこの視神経があるならば、私はこの部屋の風景を、 視神経を通して、網膜を通して、ガラス体を通して、レンズを通して、そしてサングラスを通し て見ている。そして健康な状態では、その視神経はその視線方向では透明である。こんどは視神 経から脳にきます。脳についても同様である。さてここで、そういうふうに透かして視るという からには、最後になにか小びとみたいなのがいて、それを透かし視してるのか。そうではない。 それを見てる人は一人もいない。私が申し上げてるのは、ただ、見えてるこの部屋の風景ですね。 この部屋の風景がそういうふうな透かし視られているという構造を持っている。それだけなんで す。で、それが終点がないとか、ややこしい話はしばらくおきます。もしこのことがご承認いた だけるならば、生理学の厖大な実験データ、脳みそを突っついたり、視神経に細工したりすると、 リ 3 風景を透し視る
その時に鳴ってる音は実際はさっき言ったように、 二メートル先のスビーカーで鳴ってるんじゃ ないでしようか。伺いたいのは、鼻の後で鳴ってますか ? ということです。たとえばオーケス トラの作曲する時に、「頭の中でオーケストラが鳴ってる」という言い方をなさりたい、と思う んですね。けれども、オーケストラの作曲家が事実考えてる音は、観客席のある場所から聴いた オーケストラの音だと思うんです。つまり音がするのは目の後じゃない。前です。同じように坂 本さんはレコード の場合だから距離が小さいので、そこは、はっきり出ませんけれども、やはり 顔の表面の後側じゃない。前でしよう。頭の中と言いたい理由、私よくわかりますが、しかしど つか誤解がある。 頭の中で鳴ってる。メロディーが聴こえる、鳴っている。と言っていることを先生の言い方に 直すとどう言ったらいいんですか。 ですから二メートル先で鳴ってる。少なくとも自分の頭の中じゃない。体の前で鳴っている。音 源は体の外にある。ただその鳴り方が知覚的ではなく想像的にです。 そうですね。ふつうの言葉で言いますけども、ばくがメロディーを想像しますね。イメージし イメージは頭蓋骨の中にあるか
ます。それを頭の中で鳴ってると想像しますね。でも、そうじゃない。それはわかりますが、 実際にレコードを聴いて聴こえています。その音と区別する場合どう言ったらいいんでしよう それはごく単純で、あまり単純すぎて困るんですが、レコー トの場合は知覚している。一方作曲 家が作曲中にはイマジナティヴに、想像しているわけです。考えているわけです。しつこいよう ですが、もう一つ事例を出したいんです。やはりヴィジ = アルな事例がこの場合はっきりするん ですね。たとえばある女の人が洋服屋に行ってセーターかなんか買おうとする。鏡を見て。こう やって見ますね。ところが鏡がない時に女の人が想像するのは、そのセーターを、自分の肩から 羽織ったところを、鏡があった場合に見える風景を、想像するんじゃないかと思うんですよ。そ うすると明らかにそのセーターは、自分の肩のあたりに考えているんであって、頭の中ではない ですね。いま私が言った、頭の中というのは文字通り頭蓋骨の中ということですが。少なくとも そうとる限りでは間違いである。頭蓋骨の中ではなく想像の中だという言い方がありますね。し かしそれはただ想像してるということを言い直しただけだと思うんです。そして、セーターも音 も、顔の外に想像しているのです。 なるほど。 、 0 9 フィメージは頭蓋骨の中にあるか
考えますと先ほどの絵の場合と同じになるわけです。私の内心の自己臭恐怖というものが仮にあ るとする。ではそこで一体何が恐いのか。もちろん世間、他人の嫌悪が恐ろしい。たとえばこの 場だったら坂本さんのしかめつ面です。それなのにその恐れを坂本さんから引き離して坂本さん とは無関係にできましようか。坂本さんから遮断された自己臭恐怖というのを私には考えられな い。やはり私の自己臭恐怖は、イヤな顔をしてる坂本さんに張り付いてるわけです。離せません、 事実問題として。ですからその自己臭恐怖、あるいは一般的に言って、恥すかしくて穴へ人りた い、逃げ出したい、 というのは結局やつばり私の内心のこととして描写するのは適切ではない。 やはり外部世界がある相貌をとってきて、そして私の肉体がある反応をし、その全体の状況がそ れではあるまいかということですね。 自己嫌悪と虚栄心 それでは自己嫌悪、恥ずかしいと自分が思うというふうに表現されてるような場合はどうなり ますか : 自己嫌悪になると少しむずかしいですね。自己嫌悪の場合、虚栄心の裏返しと見ていいんじゃな いでしようか。つまり虚栄心の場合は何かというと、やはり自分を人前で誇りたいわけですね。 末来が立ち現われる 160
そうです。そしてその考えを進めていきますと、二つのコップの、この音とこの音は、もう、 ふつうに言うならば、時間的にずれているわけですから、音と言いますか、時間の遠近法とい いますか。時間的な遠近の世界にばくはいるような気がしているんです。 そのとおりだと思います。一キロの先から発音体を一列に百個並べてですね。ちょうど同時に耳 に達するように遠いほうから先に鳴らしていくとします。すると一連の過去を一挙に見透かして、 聴き透かして、百個の鐘の音が同時に今聴こえる。百個の場所にです。 そうなんです。つまり時間の前と後という順序を、そのリニアさを承認して、その連続した時 間の厚みを聴いているんですね。 そのとおりだと思います。視覚の場合だと、たとえばわれわれ、太陽見上げる時に、少なくとも 八分半の歴史を見通して、さんさんたる太陽を見ているわけですね。その証拠にお日さまとわれ われとの間になにか、雲でも彗星の尾でも半透明体が出ますね。それを透かして視ることになり ます。彗星が私と太陽の中間点を四分強以前の時刻にサッと通る。すると、八分半前の太陽を四 分前の彗星を透かして視ることになる。 リ 7 風景を透し視る
言葉と立ち現われ 音楽は人の心に様々な情緒をひき起すといわれます。自然の音、嵐の音、雨の音、流れの音、波 の音、これらもまた人の心に情緒を呼びさます、と。それに呼応して言葉の音も人の心に「意 味」を呼びおこす、といわれます。これらを通じての、音を聴くー・・・・ , 心に何かを呼び起す、とい う見方、私はこの見方は中途半端で的確でないと思うのです。まず言葉の場合、たとえば「ライ オンがくるぞ」という叫びを聴くとき、牙をならしてこっちに走ってくるライオンが ( 想像的に ) 立ち現われます。そのライオンが立ち現われる場所はそこから何メートルかのさきであって、心 の中ではありません。また「ライオンがくる」という「意味」をまず心で了解し、それから本物 のライオンのことを了解する、というのでもないでしよう。そんな二度手間なまだるこしいこと ではありません。その叫びは直接にその恐ろしいライオンを立ち現わせるのであって、「意味」 を通したり、「意味の了解」を通してではありません。「意味の了解」というものがあるとすれば、 それは、その叫びでライオンが立ち現われることそのことでしかないでしよう。言葉は直接に何 かを立ち現わせる、つまり、言い現わすのです。それと同様、たとえばごうごうという嵐の音は 人の心にみみっちい情緒を呼びさますのではなく、あらあらしく揺れ騒ぐ野や林や街路を立ち現 わすのではないでしようか。心の情緒といわれるものは実はこの荒れ狂う外部世界の相貌だと思 未来が立ち現われる 150
物理的測定の中では同時ということが決まってますから、それは正しい描写じゃないでしようか。 物理的にはですね。こういう場合に同時という、単位がありますね。その単位ですが、古代か ら人類が生活を通して体得した、感覚のレンジがあるんですね。たとえばばくの経験ですと、 二つの音が、千分の一秒ずれていても、大体プロじゃなくてもなんらかの違いを、判定できて いるような気がする。一秒ずれて鳴ったか、ずれていないで鳴ったか、その場合千分の一秒ず れてないということは、五千分の一秒ずれているということかもしれませんが、ともかくその 判定はどうもできる、数字でいうと。だけどもどっかで判定できなくなる値があると思います ね。それは大まかな値でしようが、それは物理学で決まっているのじゃなくて、むしろ主とし て人間といいますか : だと思います。ただその時に一つ問題が起こります。千分の一秒のタイム・ラグをはさんでの二 つの音と、タイム・ラグなしの二重音が違った音として聴こえるということ。そのことと、だか ら人間は時間の差を、千分の一秒まで識別できるんだ、ということとは違うと思います。これは 一般にレゾリ = ーション、目の場合だったら分解能になるわけです。顕微鏡の分解能に当ると思 います。 見ることと聴くこと 12
ともあります。だから周波数が同じだということもわりと条件になってきます。 ああ、なるほど。それと関連してなんですが、光の場合は鏡像反転がありますね。音の場合もそ ういう鏡像反転に当るものはあるんでしようか。たとえばオーケストラの編成、各楽器の位置を 鏡像的に変えてやるわけです。そうすると聴こえる音は : オーケストラの場合、起こりにくいんですが、ばく達がふだん使っているレコーディングの機 械、それから再生スビーカーを使うとします。音に位相という性質がありますね。自分の目の 前に二つのスビーカーがある。それでレコードかけると、たしかに音はスビーカーから聴こえ てくるはずであるとなってますが、ある操作を加えてやると、自分の後方から音が鳴って聴こ える。前から聴こえるんじゃなくて。ある音は後ろから聴こえる。その聴こえたところにはも ちろんスビーカーはないはず、ということがありますね。 それは音の虚像現象ということになりますか。昔、中学校で習ったんですが、音のレンズという のがありますね。炭酸ガスをレンズの様に用いる。音は屈折するんじゃないですか。 ばくはそれは経験がないですね。ただ、あるガスの中でしゃべると周波数は違って聴こえたり く今 > とはどういう時間か 44