物理的 - みる会図書館


検索対象: 音を視る、時を聴く 哲学講義
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1. 音を視る、時を聴く 哲学講義

ところがそういうふうにオッシログラフに表われるようにしたのは人間 : そうです、しかし天然自然の偶然の作用でオッシログラフがあるというふうに考えてもいいわけ ですね。音エネルギーを電気工ネルギーに変形し、それを螢光板で表示する。ですからその関係 は、音ではなしに、厳密に言うならば発音体の物理的震動とオッシログラフの上の螢光の分布、 それとの間の因果関係でしようね。そこに人間がいたらそのとき初めて「カン」という音が聴こ えるわけですね。ですからそれは、人リ Ⅲがいた場合はこれを誰かが叩いて「カン」という音が聴 こえた、という事件であって、オッシログラフ事件にそれが重ね描かれている。その重ね描きの 重ね方が、今言いましたように時間的にはなにかおかしいずれがある。微小な空間領域、微小な 時間領域で原理的にどっかずれたところがある。非常に悪い比喩ですが、物理的自然の方が連続 的で人間の知覚のほうがある意味で量子化されている。これは非常に悪い比喩で、すぐ悪い連想 が働きますが。 そうですね : 人間にとっての物理的世界というものの立ち現われ方も、ある条件、つまり 人間を乗せちゃった物理的世界という : : : 。人間の、いわば感覚、たとえばある感覚能力が、 人間という動物は一種、条件付けられていますね。 143 風景を透し視る

2. 音を視る、時を聴く 哲学講義

ええ、そうです。これはこの場合だけでなしに錯覚と言われるもの一般に、私は全部言えると思 うんです。だまし絵もそうです。錯覚と心理学者が言うものは名のつけ間違いじゃないか。特に それが音の場合こよ、 ~ ーいまのようなクリティカルな場合のたくさんの事例があるのではないでし よ、フ、か、ね 一本の直線にしても、もっと倍率上げれば、これはギザギザの縁をもった長いかたまりですね。 このギザギザの、じゃ、どこが縁です、地ですと、これは言えないでしようね。音でも思うん ですが、どんなにアタックの強い音でも、テープにとりますね、それを四分の一で聴くと、こ れが四倍になりますね。どこを音の始まりかって、ばくは経験的にわからないんです。その速 さで聴くと、「カッ」て聴こえるけれども、その「カッ」っていうのもどこが始まりなのか。 ストップウォッチで特定できない。 できないでしようね。それが大体、われわれが現実に見たり聴いたりする世界と、物理屋さんの 世界を重ね合わせる時に、根本的な齟齬が出てくるところです。結局のところ、人間の目のほと んど見えないあたり、まあ大体ミグロンの単位、音だったらたとえば千分の一秒の単位以下には、 物理的な描像と、そのままパラレルに重ねることはできないんじゃないかと思うんです。そこか ら早とちりの考えがでてきます。これはエディントンという物理学者が言ったことですが、こう 朝く今 > とはどういう時間か

3. 音を視る、時を聴く 哲学講義

言語学のほうでも声音のオッシログラフでいって、最初の十分の一とればまずまず音韻を判別で きると言っています。それであとの九割は冗長だと言う人がいますね。だからそこの冗長部分を 空白にしてもよろしい : : : 最小限度のコミュニケーションには、ですが。それとその話でつなが っていくのは分解能だと思うんです。たとえば顕微鏡の分解能を超えて接近している二本の細い 糸を見ると一本に見えてくる。そうすると、物理学者や心理学者は、いかにもそれが人間の目の 限界で、ほんとは二本なんだ。一本しか見えないのはこれは人間の目のほうが悪いんだと言って いるんですが、私はそうは思わない。物理的には二本であるが、ある距離からそれが一本に見え る、それが真実じゃないか。 まったく同じことを音で言いますとね。ばくが誰か耳の鋭いひとをつれてきて聴かせますね。 この音ちょっと聴いてくれ。いくっ音聴こえた ? 一つ聴こえた。ほんとに一つか ? ほんとに 一つだ。ちょっと待ってくれ。いまテープを倍速にする。回転を遅くする。二分の一の回転速 度にする。そうするとタタッと聴こえる。音は一オグタープ下がりますが、タ、タ、と聴こえ る。これいくつだ。二つだ。ほんとはね、このテープはちゃんと二つこういうふうに音が吹き 込まれている。二つ聴こえたでしよう。ほんとは二つ音があるんだ。だけどこれを元に戻すと、 これは人間の耳には一つこ恵 冫こえちゃう。ほんとは二つあります、って、そういう世界で仕事 してるし、そういうことになっていますけど、これを本当に、じゃ、音が二つあるとはばくは 刃く今〉とはどういう時間か

4. 音を視る、時を聴く 哲学講義

坂本さんみたいな微妙な音の聴覚になりますと、もう少し狭い範囲で挾めると思います。しかし 百分の一秒にはならないと思います。 そうすると二分の一秒から百分の一秒で : それはもう相当でまかせですね。ですがまあ、そんなもんですね。つまりとにかく限度があると いうことですね。一方、物理的な測定のほうは限度がないわけです。原理的に 実際的にはありますね。その実際的な限界までいったときにあるかもしれない混乱に興味あり ますが ええ、それは技術的にはあります。それとやや。ハラレルなのは、繰返しになりますが、私が部屋 のまん中にいて、円型に真っ白い壁が等距離である。私は円の中心にいるわけです。そしてその 壁に小さい黒いシミを作って、一体私の知覚する空間はどこまで小さい範囲まで見えるかを調べ る。私まだよく検討してませんけれども、これも言いにくいですね。前に触れた分解能の話もち よっとおかしいところがあります。その白壁、どこもその白さに穴があいてなくてペッタリ続い ているんですからね。しかもその最小の見え方ということの意味をどう決めていくかということ ー風景を透し視る

5. 音を視る、時を聴く 哲学講義

おっしやるとおりだと思います。少なくともわれわれが人間であるために、たとえば色は七色、 音はある可聴の領域、それらの知覚の言葉で物を描写します。そしてたとえばこの灰皿、こう何 気なく見えてますが、ガリレオやニ = ートンは、これを細かく質点系として描写していったわけ ですね。その時、色や音は落されてしまう。その意味でわれわれの感覚に重ね描かれて作られて きた物理世界ですから、これはたとえばネコが物理学者になっていたら、違う物理的世界を描き 上げていったかもしれません。おそらくその可能性が強いでしようね。そしてその場合、こんど は第二次的に人間の物理的世界とネコの物理的世界がおそらく重ね描きされていくんだろうと思 うんですね。 そういう意味でさっきのオッシログラフというの、ばくは人間の創作という : そういう意味だったらおっしやるとおりだと思います。ネコのオッシログラフ、ネコの測定器械 じゃないんです。 ただ、非常に特殊な偶然というのを考えればそれはできますね。 風景を透し視る一

6. 音を視る、時を聴く 哲学講義

物理的世界像のトリック 大きな世界像の変化は私はないと思います。ただ物理学の記述方法がもっと明確に見えてくると 思うんです。現代の自然科学の最も基礎にあるのは時間の一次元の連続性、ですね。時間変数の ーです。これが逆の意味で省略的な記述法だということが見えてくるでしよう。 とい、フ」とになる ? ・ ええ。その点が私は明確になってくるとは思います。しかしそのことによってわれわれの世界像 が変ったり、そういうことはないと思います。 いまの物理的な表わし方ですね。直線的な時間、いわば点という表わし方、つまり観測の仕方 ですか。そういう見方ですね。それの限界にきているというんでしようか。 ええ、頭の中に幾何学的な一次元連続としての時間がしみ込んでしまっているんです。物理学の。 物理学といえば自然科学全体が、その像の上に乗ってるんですね。それとわれわれの現実の日常 生活とはそのままびったり重なるように思えないんですよ。どこかトリッグがある。そのト 73 く今〉とはどういう時間か

7. 音を視る、時を聴く 哲学講義

五 00 年後の物理学 できます。そしてある意味では、人間の歴史の中でも地動説と天動説は重ね描きができる部分で すね。で、おそらくはかってのエーテルも現代物理学に重ね描きはできるんじゃないかと思うん です。ただ、現代物理学ではエーテルは無意味になりますが、それでもできると思います。それ からもう一つの問題は、たとえばこれから五百年たっ、物理学はまた革命的な変化を二、三度起 こすとなると、われわれが現在信じ込んでいる原子だとか電磁場、全部ウソになるかということ ですが、これはむずかしいんです。私はならないと思うんです。ならないという理由は、やはり これから五百年たっても人間はほば同じ世界に住んでるわけです、今のわれわれと五百年先の人 間は。五百年先の人間が非常に進んだ物理学で五百年前の時代、つまり今のわれわれの時代を描 写できるはずです。その描写と現代の物理学者が描写している現代のわれわれの世界とは、ポキ ャプラリーは違う。彼等は現代のわれわれの見当っかないポキャプラリーでそれをやるでしよう、 しかし五百年先の物理学者はわれわれの世界像に彼等の世界像を重ね描きできるだろうと思うん です。その意味では現代物理学も五百年たっても本当の意味で誤りだとは必ずしも言えないと思 うんです。そうなるとエーテルがあったりフロギストンが右往左往したりするいまから五百年前 の物理学、あるいは二千年前の錬金術師の世界、これは必ずしも誤りだとは私は言えないように 5 風景を透し視る

8. 音を視る、時を聴く 哲学講義

グを見てみたいのです。 物理学のほうではこのやり方でまだ観測、日本ではしていけるし、十分役に立っているんでし ようか。まだ不都合ないんでしようかね。つまりハイゼンベルグの : かって、たとえば湯川先生が、空間も含めて素領域というものを考えたことはありますが、湯川 先生は、いつも黒板にマル描いて始められた。しかし、その後それは発展してない。同じように 時間に素領域があるんじゃないかということを、多くの物理学者がお茶話には言います。しかし それを真剣に追究された試みはないと思います。そっちの方向ではだめだろうと思います。 まだ当分物理学のほうでは、これでやっていけるということですか。 ええ、それは間違っているんじゃないですから、やっていけると思います。しかし世界を描く一 つの近似的方法じゃないかという感じがするんです。近似的方法としてはそれ以外ないんじゃな いか。ですから新しい物理学の描写の仕方が出てくるとは思わないんです。 ばくはこれでいって、つまり観測不能なところまで、それから表わすことが不能なところ、つ く今〉とはどういう時間か川

9. 音を視る、時を聴く 哲学講義

一つ、物理的世界をそこに重ね描きした時に重ね描きを間違えたんですね。 この間のオオカミと狩人の問題と同じですね。 ご指摘のように物理的世界との重ね描きを間違えると、ある場合には命を失ないます。重ねそこ ねたわけですね。 8 ) く今〉とはどういう時間か

10. 音を視る、時を聴く 哲学講義

ね。じゃ、その二人が、一枚の同じ絵から受けとる感じは違うじゃないかとおっしやる。しかし、 これはいつものことで、物を見るときもそうだ。アングルが違う、すると全部違うんです。だけ どこの場合は、われわれ二人がそれそれ別々にこの物のイメージを、持ってるとは誰も言わない ですね、ふつうの状況では。十人十色とはそのことではないでしようか。 すると我々にとっての共通のある一つのものはないっていうことになりますね。 幾何学という死物の世界 非常に潔べきに言えば。われわれは自然科学の中で育 0 てきておりまして、一枚の絵を物体とし て眺めたときには死んだもの、死物として眺めるように自然科学の中で訓練されている。分子・原 子・電磁場として眺める習慣がすでに数百年間続いているわけです。科学的に描写しようとする ならば一枚の絵は、極端に言うと分子・原子・電磁場の集まりだ。そこに醜悪だとか感動的だと かというような形容詞はつけられないんだ。これは非常に強い先入主ですね。ところが、原子・ 分子のある集団に感動的あるいは醜悪だという形容詞をつけちゃいけないという理論構造は、現 在の物理学にもどこにもありません。実際、自然科学ができあがっていくときに、われわれは非 常に狭いポキャプラリーを選択したのです。ガリレオ、デカルトがしたように、醜悪だとか感動 ーイメージは頭蓋骨の中にあるか