そのケースは死ななくてはだめ ? つまり生活するためには食われたんじゃ : そこでもう一つの問題点はこうです。猟師が幸い生き延び そうです。利口にならなくちゃ : い理学者のように、自分にはいま正面から聴こえているがあれは錯覚だ て、あとで考える時に、 と、もし言ったら、これは哲学的に間違っている。 そうですね。それを錯覚だと言うと、どれも実際のオオカミがいなくなることなんですね。 そうですね。聴覚的描写といまお描きにな 0 た物理的描写、その二つはノーマルの時は大体重な 0 ている。しかしアプノーマルの時はずれるんですね。実際にそういうアプノーマルがたくさん 起こるケースは、ご存じのように光の場合ですね。 一〇〇 0 分の一秒ずれた音 もう一つ伺いたいんです。いま同時と言いましたが、同時に同じ音が二つの音源から出る、 というふうに表現、一応するんですが、これは正しい言い方なんでしようか ロ見ることと聴くこと
どう違うでしようか。たとえば片方はポリエステルからできています。ところがイメージのほう は何エステルからできていますか。やつばりポリエステル。それならそれはポリエステルのイメ ジですとこうくるわけです。では、ポリエステルの分子構造はこうです。ポリエステルのイメ ジはどういう分子構造ですか。再び分子構造のイメージです。こうくるわけですね。どうして もほんものとほんもののイメージがある。ところがどこまでいっても、ほんものとイメージの違 いを言うことはできない。イメージと言うと非物質的な感じがします。ふわふわ浮いたような。 そのことはどこからきてるかと言うと、さわれないからです。なぜさわれないか、と言うと未米 のものだからです。ポリエステルと材質が違う何ものかであって、アンタッチャプルな材質のも のであるからさわれないんじゃない。単に、いま考えているだけだからさわれないんですね。で すから最小限、このことは納得していただけると思うんです。つまり、いま考えているのはイメ ジだと言う時に、そのイメージというのはじつは余計なことである。実物そのものを考えてい るのである。そこまでは一一「ロえるんじゃないでしようか。 未来に存在する実物 ? 存在の拡張ですね。 そうです。いま考えられてるドレスは物質でしよ、と言いたいわけです。イメージと言いたくな るのは〈まだない〉というところだけなんですね。まだない物質。物質のイメージというのはま イメージは頭蓋骨の中にあるか
形の場合だけ、つまり空間的な形と空間的な位置だけ、なんだか人間はうるさいですね。 それを補完する形で聴覚がありますね。位置ですね。音は位置ですからね。 そうです。音の場合は、坂本さんのような特殊なやり方をやられたから、その問題が尖鋭に出て きたんで、いままで、ただ、機械などを使わないで音を聴いてる人は音色がいいか悪いか位のこ とだけでしごくのん気にやっていたんじゃないですか。坂本さんのようなやり方で初めて、視覚 に似た、物理的なものとの重なり具合い、それが表に出てきたわけですね。 音楽のほうでいきますとね、たとえば数人で、アンサンプルで演奏します。そうすると、ふつ 三、四、というふうに。で、 う音楽は、民族音楽にしても、ビートがあるんですね。一、 まあリーダーが最初の音を出す。ジャンツ、て。まあね。ある最初の音がこのジャン、ジャン、 ジャン、ジャン。これを何人かで共通の一拍目っていうもの、共通理解というかな、のもとに、 ジャン、とやるわけですね。で、ちょっと音が合わない。きみ、ちょっと遅れたよ。もっとみ んなに合わして。もう一回ジャン。うん、こんどは揃ったね。こんど揃ったねって言っても、 それテープにとって、あとこうやってみますと、揃ったって言ってるけども、ダダダダって、 なってるはずなんですね。絶対に同時っていうのはないような気がするんですね。 朝く今〉とはどういう時間か
ええ、そうなんです。おっしやるのはわかるんです。およそ時間間隔ゼロでは運動が起こらない わけですね。といってこの体験自身の中の〈現在只今〉、これには幅があると言ったらだめにな っちゃうんです。まさにそこでは黙ってしまう以外にないので、否定的にしか、もう言えません。 ここは袋小路で、先に進めないんです。ただ、繰り返させていただくと、問題は、遠目に見たな らばほば直線で表象できる時間の経過ですね。これが近くへ寄ってみるとガラリと姿を変える。 それがどう変わるのかということは否定的にしか言えないです。狭い、常識的な意味で狭い、お そらく十分の一秒もない、その中では後先は意味がなくなる。ところがわれわれ、小学校から教 育受けていますから、どうしても時間を直線で表象してしまう。その中でどうしても後先考えて しまうんですね。違う見方ができないんです。違う言葉が出ないんですね。 フィグションと立ち現われ 立ち現われということで、すこし違った事例を二、三考えてみます。ある小説家が小説を書く。 たとえば『細雪』なら『細雪』。その中にある町があるわけです。その町はどこだと言えば、た とえば阪神のある場所、こう設定したんですから、もうそれはすでに地球外のものじゃないんで すね。そこへ登場人物が出てくる。これは日本の戸籍に載ってないでしよう。たとえば雪子なら ー翫未来が立ち現われる
ます。それを頭の中で鳴ってると想像しますね。でも、そうじゃない。それはわかりますが、 実際にレコードを聴いて聴こえています。その音と区別する場合どう言ったらいいんでしよう それはごく単純で、あまり単純すぎて困るんですが、レコー トの場合は知覚している。一方作曲 家が作曲中にはイマジナティヴに、想像しているわけです。考えているわけです。しつこいよう ですが、もう一つ事例を出したいんです。やはりヴィジ = アルな事例がこの場合はっきりするん ですね。たとえばある女の人が洋服屋に行ってセーターかなんか買おうとする。鏡を見て。こう やって見ますね。ところが鏡がない時に女の人が想像するのは、そのセーターを、自分の肩から 羽織ったところを、鏡があった場合に見える風景を、想像するんじゃないかと思うんですよ。そ うすると明らかにそのセーターは、自分の肩のあたりに考えているんであって、頭の中ではない ですね。いま私が言った、頭の中というのは文字通り頭蓋骨の中ということですが。少なくとも そうとる限りでは間違いである。頭蓋骨の中ではなく想像の中だという言い方がありますね。し かしそれはただ想像してるということを言い直しただけだと思うんです。そして、セーターも音 も、顔の外に想像しているのです。 なるほど。 、 0 9 フィメージは頭蓋骨の中にあるか
はばくはびつくりしたんですがね。 それは私はいい例だと思います。よくボグシングの試合でお客は自分がポグサーになったように ンチだと言う、ところがひいきのポグサーがやりそ 手足カみましよう ? その時に、そこだ、パ こねた、そういう場合がそれでしようね。 そうでしようね。ばくはその時、ずいぶん前なんですけれども、覚えているのは、要するに木 来的な立ち現われのばくの和音ですね。この強さというのかな。これにばくはびつくりしたん ですね。 そうでしようね。大いにあり得ることだと思います。 ところがこれはほんとは反対のことも言いたいわけで、たとえば大森先生にこうやって会う以 前に大森先生のご本読んでいますね。そうするとなぜか想像的に、と言いますか。大森先生の 声をばく自身が創作して想像的に聴いているわけですね。聴きながら読んでいるわけです。こ んど実際にお会いします。そうすると聴こえますね。で、初めに会った時の声と、 いま聴いて いる先生の声というのはばくにとってはほとんど同一のわけですけれども、その会う前に想像 未来が立ち現われるウ 4
に会する、と言うときのその三角形を具体的に示すのはここにある三つのコップをつなぐわけで すね。そして中線というのをとれば、このへんである、こう言えるわけです、したがって三次元 のユークリッド 幾何学はわれわれが生活しているこの世界に密着しています。しかし「幅のない 線は見えないじゃないか」、これもかなりあやしい言い方で、たとえばフランスの三色旗の色違 いの部分の境界線は、ある人は幅がないと言いましようね。この紙の端、これだって幅がないと 要するに境界線はある意味では見えてるんですね。 も一言えるわけです。それから街のシルエット、 いや、それは幅のない境界線ではなくて、何となしにポンヤリ移行してるんじゃないかと言う人 に対しては私はこういう答えをするわけです。ポンヤリしてると言う人はポンヤリしてないとい うことをご承知だ。そうでないとポンヤリしてるなんて言えませんよ。そうするとポンヤリして ない、つまりビシッとしたユーグリッドの線が了解されてるからこそポンヤリしたと言える、そ してそ、フい、つューグリッド 直線が問題になる場所はどこだと言ったら、たとえばこのテープルの 上だとかそういうところですね。ですから幾何学の場合はこの世界に非常に密着してる。それか ら算術です。これはもうどこでも、たばこ屋に行って、われわれがやるおつりの計算と数学者が やってる算術と違わない。同じ三であり同じ四であるわけです。ですからこれも生活に近いわけ です。ただ数学者の作っていく群論だとか集合論だとか、これになるとわれわれ素人には追っつ けない、なにか抽象的なものに思われますね。これをどういうふうに眺めるかということにつ ては、私はまだ確信はありません。 末来が立ち現われる一
す。ところがあれもいろんな会社が実験し、研究してるわけですけれども、遅延させる時間が 長くなればなるほど再生能力といいますか、これは落ちてきますね。 なるほど。いま言った光の場合のような運動、起こりますか。起こるとおもしろいですね。 ええ運動が起こります。それもどういう音かによってまたずいぶん違う。たとえば最初に聴こ える音がこうあります。これがまだ消えないうちに次のほとんど同じようなものがあると完全 に運動として流れますね。 そうですか。それ心理学者は知ってるんですか。 これ、さ どうでしようね。ばくはあまりよく心理学を勉強してないからわかりませんが : かんに使ってます。ただ、この場合にほとんど同じと聴こえるふうに作るのがなかなかむずか しいわけですね。そうしないと同じようなエンヴェロープで同じようなアタッグを持っていて も、たとえばオグタープ上のドと、次にオグタープ下のドでは流れると感覚する感じはぜんぜ ん違っちゃ、フ。 巧見ることと聴くこと
望するだけなんです。それが、いちばん基本的なとこなんですが、もう少し補助的手段として、 私がどうして事実誤認と言うか、ということをいくぶん敷衍できる場合もあります。あるものの 言い方をした場合、たとえば度々言ってきたコビーの問題、コピーというものをあなたがお考え になってるとしたならば、こういうことをそれは含みますよと言う。含んたところが明らかな誤 りであれば、私の補助的な手段はある機能を果したわけです。しかしこれは、もちろん、論理学 の論証だとか数学の論証だとか、そういうものではありません。私がかくかくの考え方は誤って いるということを論証することができる場合は非常にわずかです。哲学ではいかにも論証を川い ているかのように、その形に組立てている哲学が多いのですが、実際のところ論証の部分はほと んどないんです。実際は私はこう見る、と言ってるだけですね。たとえばカントが、空間と時間 は経験の直観形式であると言っている時に、なぜそうなのか、ということの論証にはなっており ません。空間が三次元たと主張したい時は、もし三次元でないとしたら、空間が四次元だという ことを想像してみて下さい、できないでしよう。これだけですね。事実の提示と、それから今一一日 いましたように、補助的な手段として、もしとい、つお考えをとっているならばこうい、つことに なりますよ、という言い方しかありません。そしてあとは具体的な事例に当てはめてみたならは、 それはこうなりますよというのが説得の手段で、論証的部分は非常に少ないと思います。 く私 > はいない幻 0
私の作るものが「自由だよ」と言うか、言わないかじゃなくて、つまりもう自由でしかないわ けですよね。キャッチボールできないんだから。 音楽と言葉 もう一つ事例をつけ加えると、役者がそうじゃないですか。自分は意図したことを表現しようと して演技をする、観客のほうはついてきてくれない。そのとき気の小さい人は、オレはまだ修行 が足りないと思うでしようし、自信のある役者は、あんな客だからポロ客だ。しかしやはり人前 で演ずる限りは人々に感動してもらったほうがうれしいわけでしよう。「オレの知ったことか」と い、つこともあり得ますが : まあ、役者の場合には商売は成り立たないですね。音楽の場合には、ばくが強調したいのは、 要するに言葉に置き変えにくし 、、まとんど不可能に近い。音楽を聞いて感じるということはあ りますが、それは言葉では表わせない。表わしたら、その表わした言葉の意味なんて、置き変 えたわけじゃなくて創作だ。その音楽自身で感じたものというのは結局言葉にならない、コミ ュニケーションできない、感じることというか、そういうことだけがあるんだろうと思うんで すね。 い 3 イメージは頭蓋骨の中にあるか