言語学的「意味空間」においては、物事の「意味 ( 内容 ) 」は宙に浮いたまんまで、それを考え たり口にしたりする主体がいる具体的Ⅱ歴史的場所に決して降りてこない。 人は「意味」を自 分なりの色で塗り潰すことができない。 一般的で抽象的な「意味」を旋回させて個人的な「表現」 に仕立て上げることができない。結局、「意味 ( 内容 ) ーを生身の自己に関係づけることができない のだ。 Z は五歳の時、姉と兄ともども網走に捨てられたが、そこで姉の明子がある晩に勉強するシーン は、彼らの言語特性を端的に象徴していると言ってい、。 「明子は、セッ、久江と続き、彼女が三代目の使い手となる国語辞典から言葉拾いをしていた。そ れらの言葉は、例えば〈概念多くの事物に共通する内容をとり出しその事物にある偶然的性質を すててできる観念。事物の意味。概念概念概念概念 : : 〉と、二、三行書き綴って覚えたもの の復習である。 〈哀感哀愁哀惜哀切哀史哀訴哀悼哀憐青息吐息赤恥 ( 略 ) ・ z 達の「言語」は実に国語辞典のようにしか機能しない。「概念」という言葉は何が起ころうと 「概念」以外ではなく、「哀感」も何処まで行こうと「哀感」だ。同様に、「世界ーは「世界ーのこ ライターズスタディー 1 2 4
これは「構図のキマった映像」、すなわち「見せ場」以上でも以下でもない。ただ具体的な「動 作」を伝えているんであって、意味を伝えているのではない。また何かをほのめかしてもいない 要約もできない。実に「見た」まんまなんだよ。 ◆「映像」は当然描写とは違うわけだよな。現実の、もしくは架空の風景なり人物なりを再現す るいわゆる技法とは。 : そうした描写は物語の展開とか登場人物の心理状態を暗示したりしてる いど、ら・映 から要するに意味や役割に満ちた観念だよね ( ちなみにつまんないテレビドラマの場合、 像であっても、「動作」や「表情」自体でなく、例えば「彼はここで殴っている」「喜んでいる」と いう意味に重点が置かれていて、そんなのは「映像」じゃなくてやはり観念だ ) 。 でも異なった「描写」ってのも存在する。つまり作品中の対象物の正確な描写をいちいち敷き詰 めていく方向だ。これだとその過剰性が物語や意味にはっきりと対立する。 〇ロプⅡグリエの『嫉妬」 ( 新潮社 ) の類いが典型的にそうだ。「屋根の南西部の角を支えている 柱の影が、、 しま、露台の同位角を二つの等しい部分にわけている。この露台は屋根のある広い回廊 で、家を三方からとり囲んでいる。中央の部分も両翼も広さは変わらないので、 ・ : 」 ( 白井浩司訳 ) とかやって、で結局「対象物自体」とか「言語自体」に行き着くんだろ ? 観念的じゃないのは好 ましいけど、やつば素で読むとつまんないじゃん。「一一一口語の戯れ」とか言われた日には何かむかっ くしさ。大体真面目すぎる。「物語 / 意味」もイヤだけど「言語 / 詩」もイヤだ。もっと下衆なの フィクション・パトロール 0 8 2
に標準をあわせたら最後、もうそれをしつかり捉えて離さないわけだ。 この感覚の動きが素早くて、「いいわけ / 説明」などの世間に向けた「コト。 ハ」かついていくヒ マがない。赤坂真理の小説は、だから彼女の感覚や欲望が物質化したもので、読んでて確かに難解 なんだが、 その難解さは「現代文学」の難解さではなく、あくまで固有の感覚をもった「赤坂。と いう「人間」の難解さなんだと思う。 ◆つまりコトバではあるのだが、所謂「コトバー以上の境域に達した小説ってことだよな。 で、さっきの「感覚の素早さ」の話だけど、『蝶の皮膚の下』 ( 河出文庫 ) でも『ヴァイプレータ』 ( 講談社 ) でも、主人公のセンサーは自分と番いになるべき男をビシッと捉えている。 「食べたい それは声たちだったが音ではなく、強い意味の総体として、あたしの細胞の隅々に伝えられた。 食べたい。あれ、食べたい。 食べたい でも他の誰でもない、あたし自身の意思なのだった、声は声でなくあたしの表面に貼りついてあ たし自身になり、目で男を誘う。声たちはいなくなって身体の中は静まりがらんと空つほで、空洞 の中でふるふる震えている臆病な存在がある。それは言語機能を持たない。」 で、その男と速攻で寝る。何を介在させることなくもう速攻で。 ・ : すなわち赤坂真理はすっと 0 4 7 そのロがすでにいいわけで動いている
「楽しさ / 幸福」は、ます小説の物語・ドラマ的部分と衝突している。達成すべき共通の目的を持 たず、したがって始まりもなければ終わりもなく、成員同士は一緒にいるが別に体当たりのコミュ ニケーションがあるわけでもなく、ただダラダラしていて、何となくワクワクする、恩寵というべ こうしたまさに物語のシステムに外に抜けてるところで成立 き「永遠」の時間、および空間。 したような「共同体」のあり方を一体どうやって物語化しろというのか。 近代に生まれた小説の物語には、やはり近代的な交換の原理が染みとおっている。何かを得るた めには何かを支払わねばならない。幸福ならば大抵「死」が代償だ。もしくは「苦労」とか。だか そうやって手に入れた幸福は、正確にはあの無根拠でそこらへんにある「幸福」ではなくて、人生 の「意味・意義」、または「成功」の類だろう。 もちろん小説は物語に還元されはしない。物語の部分をのぞいても、なお言語が残っている。だ が、それでも小説は「楽しさ」と衝突している、といってよい。角田はサファイヤ著『ブッシュ』 の書評で、その前振りとしてこんな体験を語っている。皆で飲み屋にいて、「どんな音楽にしびれ るかとだらだらしゃべって」おり、ある奴がプルーズが好きだと一一一口うと、側にいた年長者がちょっ かいを出してきた。 ライターズスタディー 1
言語の「意味」とはコンテキストだ、と言われている。一一一一口語は「いいまわし / 肉体」として具体 的Ⅱ歴史的に存在する以上、その「意味」は全面的に当座の状況に依存してしまっている。それは 決して辞書的に固定された同一物ではないし、中性的・非個性的・匿名的なイデアの類ではない。 確かにその通りなんだろう。あくまで、「いいまわし」をそなえたまともな言語に限っては。 Z の所有する「一一一口語」は一一一口語の影だ。この世に存在するための条件、そもそも歴史的なコンテキスト の影響を受けるための条件である「肉体・身体」を欠いている。すなわち「内容 / 意味」そのもの ( 繰り返すがバッタもん ) としての「言語」なのであり、これには、いわゆる言語学が想定するよ うな、永遠で変化を知らない「言語」Ⅱ「意味」を実際に地で行ってしまっている。また、ニーチェ が「言葉ってのはマジ最低だ。そいつはすべてを中性的、一般的、非個性的にしちまうからだ」 ( 『偶像の黄昏とばやく時の「一言葉」も地で行ってしまっている。 とも呼べぬ変態的「抽象物」に過ぎないのだ。 こうして Z は、あらゆるタイプの実質的、現実的な知Ⅱ文化の類から孤絶して、ひたすら茫 洋とした「抽象空間」に生きることになるのである ( もちろん、行き着く果ては「魂」の喪失だ ) 。 1 2 3 「無知」と「涙」
とだろうし、「不平等」は「不平等」のことに相違ないだろう。発展性、柔軟性、リアルさのまる でない 、悪い意味でのトートロジーこそが「肉体 , を失った「言語」Ⅱ「意味 ( 内容 ) 」の宿命的な 本質なのだ。こんな「杓子定規」なガラクタを使って考え、行動する z について、永山則夫は次の よ、つに一一一口っている。 「当時の z 少年は、自分のことしか考えられず、その辺に飼われている利ロな小動物たちよりも劣 った人間であった。反省する勇気も内省する方法も知りえず、努力を向けるべき目的もなく、ただ 『学校』だけがすべてであった。 ( 中略 ) 自分が、社会にとっての、『少年ルンペン・プロレタリア ート』という存在であることも、完全なまでに自覚できない盲動者であった。人生の敗北者であっ z が「自分のことしか考えられない」のは当然だ。「言語の影」によって「認識」した「環境」、 「社会」、「隣人」、「思いやり」などの「意味Ⅱ諸観念」はあくまでもトートロジー的、再帰的な中 性物、固定物でしかなく、それらはそういうものとして自己完結してしまう。つまり、すべてが Z にとっては無関係な「他人事、である。偏平に白けて広がる「抽象空間」では、真にリアルなのは だったら z は、規模はチンケとはいえ、飼い主や縄張りを常に自己 この「自分」だけなのだ。 1 2 5 「無知」と「涙」
〇ど、つよ ? ちっとはラクになったか。 ◆ : おお、ちっとは。でもよ、これってしばらく横になってたおかげで少しラクになっただけ のことじゃないの ? 〇うん。多分そ、つだと田 5 、つ。 ◆じゃあ「レイキ」なんてウソで意味ねーじゃねえか。 〇いや、ウソかもしれないしホントかもしれないけど、意味だけはあるよ。だって近代以降の人 間は、誰もが常に何かに病的に駆り立てられていて、そんな奴がわざわざ昼間に川分でも時間を 割き横になってリラックスするためには、今や「昼寝は健康にいい」程度ののどかな理屈じゃなく、 もっと「強い」動機づけが要るんだ。 ◆ああ。そういうことな。どこへ連れて行かれるのかと思った。 ( 『レイキを活かす』をパラバラめくって読みながら ) : レイキは四世紀の日本の僧侶にルーツ 〇じや横になってみ。 : そんで片手を腹の上、太陽神経叢のチャクラにおく。もう片方はその 0 すぐ下に : さあ、このままの姿勢で眼を閉じて川分ぐらいリラックスしましよ、つ。 ( 川分後 ) 5 股間ヒーリングの癒しのテクニック 0
と現実的に関係づけながら生きている猫やウサギやフェレットにも劣るだろう。 Z が「自分」がプロレタリアートであることに無自覚だった、というのは、プロレタリア階級な るものの存在を知らなかった、同時に、「自分」がまさにそこに属している事実も知らなかった、 という知識の不足を指すのではなく、 z は「プロレタリアート」という抽象的な「意味 ( 内容 ) 」 だけ持っていて、それを具体的なレベルでは決して把握できなかった、「プロレタリアート」と 「自分」をリアルに関係づける作業ができなかった、という彼の「思考」や「理解」の去勢性、抽 象性を指しているのだ。 「自分のことしか考えられない」ほど「利己的」な人間が、現実には少しも自分に利するよう行動 オい。だが自滅とか できず、時には自滅さえしかねないのは全く間抜けなパラドックスという他はよ 馬鹿な行為をしでかすのは、実は「自分」すら抽象的にしか「認識」できていないからで、「思考」 や「内省」のこうした徹底的な去勢性、抽象性こそ永山が発見した「無知」の真の意味である。 Z は所謂「不良」、「ヤンキー」の類では決してない。勤め先に訪ねてきた過去の友人たちについ て、彼は「その三人の話ぶりは柄の悪さを示していた」と言っている。つまり z は「柄の悪い話ぶ ライターズスタディー 1 2 6
ル意識とかも低下しているから、キヨーコは何のこだわりもなく「ありのまま」の事実を事実とし て観察し、ただそういうものと「認識」してるんじゃないかな。ばんやりとした頭でさ。 〇うん。ュウコと彼女の恋人のフジタに体をオモチャにされた後も、キヨーコはフジタにふられ かかっているユウコを心配してるんだよね。「ユウコちゃんは本当は強い子だから、負けたりしな いと思う。私はいまでもユウコちゃんが好きだ。この間あんなことされたから、それまでみたいに 親しくするわナこ、、 ししし力ないけど、本当は心の中で応援している。ュウコちゃん、がんばれ。」 この応援も、キヨーコが愚鈍なほどいい子だからってわけじゃなく、「うわの空」でほんやりな 「精神」にはオモチャにされたことの意味がよくわかっていないからだろう。 で、三作目『春の完成』 ( 河出書房新社 ) だけど、これはある意味『フレア』を再びなぞったと言 えるんじゃないか 確かに『春の完成』の桂子はキヨーコ直系のキャラだ。 ・ : 彼女の「無神経」な観察と意見も また相当なもんだよ。 桂子の義母は片脚がないんだけど、そんな義母と、実母が家を出て幼いころからずっと親戚に引 き取られていた妹の祥子が初めて会う場面の描写を見てくれよ。「祥子が帰って来た。 ( 略 ) 新しい お母さんに対しては多少の興味を抱いて帰ったらしいのだけれど、お母さんの片脚がないのを不服 に田 5 ったよ、つだった。」 ◆ フィクション・パトロール 0 7 6
あって空港に向かう。 ◆薄情な女だよなあ。こいつもう絶対アメリカに戻らないよ。 〇でもこの「薄情」さがいいんだよ。全般的にどいつもこいつも自意識過剰で、自己や他人や世 界の意味にこだわり過ぎなんだ。今、文学が一番必要としてるのはこうした「薄情」さだと思うぜ。 フィクション・パトロール 0 6 2