現実 - みる会図書館


検索対象: 文学再生計画
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1. 文学再生計画

象的Ⅱ観念的人間であって、三人は大いに盛 り上がり、この奇蹟的な一体感に具体的で永 遠のかたちを与えるため、家族や恋人同士や 友人同士とも違った新たな共同生活を速攻で 開始するのである。 三人はさらに「抽象や架空こそ生きる力だ」 と宣言し、味気ない現実に対して、上映され ン・ジャッ ている映画を妨害する " スクリー ク ~ や銀行強盗の逆の " 銀行強与 ~ など架空 めいて浮ついた攻撃をくり返しては高揚感を しかし次第に抽象Ⅱ架空のマジ 味わう。 ックは消え、気分は行き詰まり、結局共同体 は儚く立ち消えてしまうのだった。 要するに星野がいいたいのは、具体的なも のはすべて空しいということだ。抽象や理想 は生きるための輝かしい力だが、しかしそこ から意図的、ストレートに現実化・具体化さ れたものは断じて空しい。 現在は既製の共産主義など、抽象的な青写 真Ⅱ理想をそのまま現実化した運動が自滅し た時代である。そんな状況のなか星野は、相 変わらず理念の万能を過信するのでなく、何 やってもダメだと悲観的になるのでもなく、 また別の道を考えようとしている。 抽象の重要性と切実さ。これは疑えないだ ろう。実際、「私」は自らの性別を嫌悪する あまり想像妊娠に似た想像生理にすらなるの であって、こうした言葉や観念の力によって 高揚する瞬間は確かに本物だ。しかし抽象が 意図のとおり具体化すれば結果は絶対に裏目 に出てやはり空しい 結局星野は理念や理想か思いかしなし坦戸 2 2 9 「嫐嬲」

2. 文学再生計画

と現実的に関係づけながら生きている猫やウサギやフェレットにも劣るだろう。 Z が「自分」がプロレタリアートであることに無自覚だった、というのは、プロレタリア階級な るものの存在を知らなかった、同時に、「自分」がまさにそこに属している事実も知らなかった、 という知識の不足を指すのではなく、 z は「プロレタリアート」という抽象的な「意味 ( 内容 ) 」 だけ持っていて、それを具体的なレベルでは決して把握できなかった、「プロレタリアート」と 「自分」をリアルに関係づける作業ができなかった、という彼の「思考」や「理解」の去勢性、抽 象性を指しているのだ。 「自分のことしか考えられない」ほど「利己的」な人間が、現実には少しも自分に利するよう行動 オい。だが自滅とか できず、時には自滅さえしかねないのは全く間抜けなパラドックスという他はよ 馬鹿な行為をしでかすのは、実は「自分」すら抽象的にしか「認識」できていないからで、「思考」 や「内省」のこうした徹底的な去勢性、抽象性こそ永山が発見した「無知」の真の意味である。 Z は所謂「不良」、「ヤンキー」の類では決してない。勤め先に訪ねてきた過去の友人たちについ て、彼は「その三人の話ぶりは柄の悪さを示していた」と言っている。つまり z は「柄の悪い話ぶ ライターズスタディー 1 2 6

3. 文学再生計画

角田光代は、、 月説で「楽しさ」Ⅱ「共同体」を真っ向から取り上げない、という地点から出発する。 この選択は、「楽しさ」が変質させられるくらいならそれを無理に描かない、という彼女の「楽し 手を圧倒しようとする」と言っているが、「楽しさ / 幸福」とは、そこに権威が存在せず自由だか ら楽しいのであって、「楽しさ」の状態が自らひとつの権威になり、他を打ち負かすようになった ら、見習うべき規範になって他を抑圧するようになったら、それはもはや「楽しさ」ではない。 このよ、つこ、 しいくつかのレベルにわたって「楽しさ」と小説とは互、 しに相容れない。だから小説 は、ずっと内面とか情念とか絶望とか成長とか運命とか伝統とか言語とか、要するに大して価値の ないものに関わってきたし、また「楽しさ」Ⅱ「共同体」を扱おうとすれば、今度は小説的に先走っ て、例えば現在の社会を否定する理念を掲げ、それの実現を目的とするハードな集団を、そのため には家族とか現行の制度を頑なに拒む集団、文字通りの所謂共同体を構想したり、つまり大抵「楽 しさ」Ⅱ「共同体」の核心を変質させて描いたのだった。 つけ加えれば、小説におけるこの手の「失敗」は、やはり小説的に頭を働かせることに慣れてい る近現代人が、現実に「楽しさ」Ⅱ「共同体」を実現しようとするときに必ず犯す「失敗」でもある だろ、つ。 ライターズスタディー

4. 文学再生計画

角田光代の核心には、一貫して幸福な「共同体」への志向がある。 この志向は、彼女の場合、思想とか使命感とか哲学とか概念的なものでは全然なくて、単なる憧 れでは収まらない、もっと切実でダイレクトな欲求、もっと具体的で現実的な渇望だ。 角田は、 数々の小説をとおして、下らぬしがらみのないくつろいだ人間関係を、それで寂しさは埋められる が、決して依存してはいけない他人との関わり方を、人情と自由と盛り上がりに満ちた仲間たちの 場所を摸索している。 しかし、あくまで「摸索」である。面白いことに、その渇望の激しさにもかかわらす、こうした ハッピイな「共同体」を角田は真っ向から積極的に、完璧に描いたためしはない。 まったき理想の状態で堂々と提示したためしはないのであって、だが逆に、この点にこそ、幸福 小説と共同体 角田光代論 ライターズスタディー 1

5. 文学再生計画

全な人間のつくった不完全な哲学だ。 学なのだ。 哲学的な思弁はすべて言語を使って行われる。インディーズ哲学もまた例外ではないが、この 「哲学」は、音素でも単語でも文章Ⅱ散文でもなく、また文の集まりとしての論文、エッセイ、書 物でもなく、ひたすらフレイズ ( いいまわしⅡ語句 ) によって考える。 いわゆる言語以前の「音素」は赤ん坊や詩人や狂人のものだ。そして壮大な観念の体系を精密に かっ忍耐強く記述していく「文章、、そんな思想・観念を一点に圧縮した「単語」。これらはオーソ ドックスな哲学のものである。 フレイズⅡ語句とはすなわち現実だ。それは文や論文のレベルからすると中途半端な一一一〕語だが、 その「出来そこない性」ゆえに、実はコトバがかろうじて現実と触れ合う一瞬なのだ。現実に開か れた一瞬である。フレイズが「完成」され、一人前の文になってしまうと、逆に自らを一気に観念 のうちに閉じるだろう。 、まわしは、その短さ、不完全さのうちに、電撃のように現実の肝っ玉を鷲づかみ フレイズⅡいし にして、世界と渡り合う。「あたらしいバカをさがしても / 指導者にはしたがうな」「金はものをい わない。ただ決定する」「あんたがひとりばっちでいるとき、やつらは石でうつだろう / やつらは 石でうっておいて、あんたは勇敢だというだろう」。これらはポプ・デイランの詞Ⅱインディーズ 「いいかげんな人類がつくったいいかげんな」 ( 倉持陽一 ) 哲 1 0 3 インディーズ哲学

6. 文学再生計画

笙野頼子の作品は、幻想と現実が共存する不思議な作風のため、よく「魔術的リアリズム」と言 われてる。しかし、抑圧的な現実を幻視力で正確に拡大、普遍化したり、また既成の権力関係がド ップリ反映した既成の言葉を、やはり想像力で歪めて使うような闘争的な姿勢を考えれば、むしろ 「幻視的レジスタンス」と呼んだほうがいいかも知れない こも気付かれていない敵の存在を敏感に感じとる。だが、そいつはわれわれの一一一一〕 笙野は、まだ誰し 葉や体にしつかり根づいているので、ちゃんとえぐり出すには現実自体、言葉自体を変容させる必 要があるというわけだ。 黒人作家ジェイムズ・ポールドウインの次の言葉が、笙野が目指すものを多分正確に語っている。 「ばくたちは自分たちの定義をつくり出して行って、それにそって世界を治めていかなくちゃなら ない。白人にしても、黒人にしても、今まで与えられて来たものでは使いものにならないんだから」 笙野頼子 1 7 1 笙野頼子 / 藤沢周

7. 文学再生計画

◆ ( 文學界 1999 年 2 月号 ) だよ。「どくだみ荘」みたいなアパートに住むマスかき猿の安サラリ ンの話だけど、こいつには強烈な「歴史意識」がある。つまり、一方に世界や歴史があって、他方 一生が にろくでもない自分がいるって意識だ。「永遠に、誰にも知られることなく、虫のように、 : 非しいか 終わる。 / 彼は田 5 う。人に歴史あり。冗談言っちゃあいけない。俺に歴史はない らやめてくれよって感じなんだが、彼にとっては、暴力だけがこうした世界や歴史と自分の落差を 埋めてくれるんだ。 阿部の「トライアングルズ」の「先生」も随所で「歴史が、歴史が」ってうるせえしな。 ーマンは、バイオレンスを激しく求めつつ、しかし「今はやらないでやる。だが 〇で、安サラリ : 確かに幼児的な負け階しみつほいよ。けど いっか」と考えるだけで決して実行はしないわけ。 田 5 うに、今もっともリアルで本質的な「暴力」とはむしろこの「だがいっか」っていうギリギリで 切実な「考え」の方じゃないのか ? 現実にあるバイオレンスなんかは「暴力」ではなく、ただの犯罪だろう。 上川龍次のとはまた違うけど、「犯罪」ではあり得ない「暴力」といえばやつばり赤坂真理だ。 『ヴァイプレータ』 ( 講談社 ) で、彼女はヤクザ上がりのトラッカーの腕にこんなふうに美しく欲情 している。 ・「殴るって言葉に欲情していた。 / 人を殴ってきた腕に、欲情していた。殴って状 況を突破するだけで、人を殺したりはしない腕、その腕に寄り添いその腕に守られていたい。」今 ◆ フィクション・パトロール 0 6 0

8. 文学再生計画

哲学だ。 ちなみに小説もまたこの種の「哲学」で、あれは「文」に見えても本当は息の長いフ レイジングなのだ ( 逆に警句・アフォリズムの類は短さゆえまさに「哲学」っほいが、全然そうじ ゃなく、むしろ世界を見下すための手段というべきだ。特に芥川やニーチェが書いたやつなんか、 読んでいると無性に腹が立っ ) 。 このようにインディーズ哲学は観念的なレトリックとは無縁だから、実に身もフタもない。例え ばみんな神なんて信じてないのにレトリックのうえでだけ「信、い深」 。「現在においては物質や 貨幣が神なのではないか」とか何とか。これじゃ結局信じてるってことだ。その点、典型的なイン デベンデントな哲学者、『ナニワ金融道』の青木雄二は明央、非情、そして端的である。彼のフレ イズⅡ唯物論はこんな感じ。「神がいないって事実が徹底的に分かってないから貧乏するんちゃう か」「まず神がいないってことを教えてこその信仰の自由なんやないか」。 インディーズ哲学はマイ宗教と違う。新興宗教、キチガイの妄想じゃない。この類いは「文」に よって思考され、観念のうちに閉じた思想だが、そもそもの「文」が歪んでいるため偏狭なドグマ に成り下がってしまってる。いわばオーソドックスな哲学のまがいものだ。 逆にインディーズ哲学はあくまでフレイズであって、それは現実と切った張ったしようという意 識である。 ディシプリンや厳粛さなんか関係ない。勝手に考えよう。神秘主義にハマるな。世 界に風穴を開けてやろう。 ーキングメーターに気をつけろ。フレイズで考えろ。インディーズ哲 アナザーサイド 1 0 4

9. 文学再生計画

かって宗教は「もうひとつの世界」を提示 することで、この世を相対化する役割を果た 乂していた。だが近代以降、宗教が力を失い 世界が企業のシステムで一元化される中、ケ ルアックとかその周辺の連中がやろうとした のは、結局神なしでこの世を相対化する試み だった、といってよい。つまり「上」を目指 す宗教とは逆方向、世俗Ⅱカタギ世界の「下」 ハイトとかしながらフラフラ生きる「も うひとつの世界」、世俗からの「逃げ場ーを 確立しようとしたのだった。、、こが、 オ今やそん な試みは確かに失敗したことを本書はうんざ 秒速川センチの越冬 岡崎祥久 ・集英社 召 00 んルどル 安田裕二は一見好青年だが、他人を「この 人物は世界でまさに唯ひとりの存在だ」と実 感してから絞殺し、それに央感を覚える変態 だ。本書では彼の行状が詳細に語られるのだ が、「内面」のエンタティンメント化と呼ぶ べき操作が行われていて、忌まわしいとか深 りした口調で告げている。現実のバイト生活、 特こ ーいいトシをしてのそれはまったく「くそ ったれの日々」だし、労働Ⅱバイト自体も同 じく「くそったれ」だ。別の道を緊急に模索 しないと。でも、とにかくひとつの試みが挫 折した事実だけは覚えておくべきなんだろう。 死者の体温 大石圭 ・河出書房新社 ブックレヴュー 1 7 4

10. 文学再生計画

インディーズ哲学。ォルタナテイプな推論。もしくは思考のプートレグ。 何とでも言え。そ れは「勝手にモノを考える」ということだ。哲学・人文科学の正式なディシプリンなんて抜きで。 「ひとりでモノを考える」ということだ。アカデミズムの圏域からは遠く離れて。そして「泥臭く、 アーシーに、ソウルフルに考える」ということである。洗練された整合性だの厳密さだのにはこだ わらず。 要するに、「生活の真っ只中で考える」ということだ。ここでは大そうな真理、完全で非の打ち どころのない抽象的な真理とかはどうでもいい。 それよりも今の自分のスタンスにそって、自分が 巻き込まれている現実を相手どって考え、不完全ながら当座しのげるだけの「正しさ」程度のもの を見つけるほうが肝心だ。 とはいえ、必ず「正しさ」を見つけねばならぬ、というのじゃない。 「正しさ」などないほうがより現実的でリアルでしのぎやすいときはあるし、そもそもかったるく て何も考えてられないときだってある。 インディーズ哲学とは、その本性はとんでもなく不完 インディ 1 ズ哲学 アナザーサイド 1 0 2