10 ことばから観た文化の歴史 / 目 次 はじめに 第 1 章キリスト教の伝来と浸透・ 1 アングロ・サクソン到来前のプリテン島・ 2 プリトン人とキリスト教・ 3 アングロ・サクソン人とキリスト教 ( 1 ) キリスト教導人の初期 26 ( 2 ) イングランド北部一一人と活動 28 ( 3 ) ヨークのキリスト教と学校 3 5 ( 4 ) カンタベリ - ー一人と活動 第 2 章命名法と地名の由来・・ 1 頭韻と命名法 2 名前の意味 3 叙事詩『べーオウルフ』の人名・・ 4 lng の意味と伝説のイング い ) lng の意味 61 ( 2 ) 伝説の lng 6 3 5 地名の lng ・ 6 地名の特徴と語源 — 2 2 ・・ 52 2 ・ 6 8 — ・・ 64
80 第 3 章ことばの諸相 学問に対応すべく英語を十分に駆使してさまざな表現を生み出す 方法を確立していたのである。 3 キリスト教用語の導入と古英語の転用 キリスト教の導人とともに、ラテン語が古英語にもたらされた。 すでに触れたように今日の church 、 martyr 「殉教者」、 monk 「修道 僧」、 abott 「修道院長」、 apostle 「使徒」などは皆ラテン語からの借 用語である。とくにキリスト教関連のことばはそのまま借用した ほうが手つ取り早いが、かなり重要な用語が英語によって置き換 えられている。この転用の問題だけを取り上げてもかなりのス ペースを要するので、 こではもともとキリスト教とは無縁な古 英語の単語が、転用された結果キリスト教の重要な概念を表すよ うになるごく一般的な語彙を取り上げて述べる。 Gospel 「福音」は古英語では godspel と表記された。 good と spell ( 「知らせ」の意味 ) との複合語で「良い知らせ」が文字通りの意味だ が、やがて g は「神」と誤解される場合が生じた。だが、中英語 の時代にこの語の d が発音されなくなり今日の語形となった。 の両者は古英語で形態上は同じだが「良い」は長音の g / ゴード / と 発音され God と区別されていた。ついでだが、 God は元来ゲルマ ン語で異教神を指すことばだった ( 語源は不明 ) が、キリスト教が 普及してから今日の意味で用いられるようになった。なお、「福 音書」は go ホ pel 防。 c と書かれるが (boc>book) 、実際には 0 な Boc 「キリストの書」として表されるのが一般的だった。 次に Easter 「復活祭」だが、この祭りはゲルマンの春祭りの女神
28 第 1 章キリスト教の伝来と浸透 の人物が輩出することになった。以下では、聖オーガスチンによ るキリスト教の導人以後、アングロ・サクソン人が借用したラテ ン語で現在まで残っている語を示す。 教会関連語 : mynster, bishop, priest, Mass, abbot, abbess, devil, monk, archbishop, nun, hymn ,angel, prophet, altar, shrine, pope, temple その他 : verse, paper, laurel, pen, procession, rule, offer, school, master, meter, etC. 上記のラテン語は全体のごく一部に過ぎぬが、ラテン文化とと もにその根底となることばが借用され、それがアングロ・サクソ ン人の語彙を豊かにしただけではなく、キリスト教文化を受け人 れる素地を与えた。なお、語彙関連の問題については第 3 章で改 めて述べることにする。 ②イングランド北部一一人と活動 キリスト教の導入後、各地に修道院や教会が設立された。現在、 聖堂の数はカンタベリ、ヨーク、リンカン、工クセター い ) ジ、ウインチェスター、ピータバラ、ソールズベリなどを含めて、 30 ぐらいある。聖堂の多くはアングロ・サクソン時代の修道院の教 会あるいは礼拝堂に端を発し、今日の聖堂へと発展してきたもの だが、聖堂が設立された場所を中心に町や都市が発達し、イギリ ス社会初期における文化の形成に大きな役割を果たした。修道院 の創立は後に歴史的重要人物の輩出に繋がったが、キリスト教伝 道の初期、すなわち 7 世紀から 8 世紀前半にかけてイングランド マンクウィアマス ( たん 北部のリンディスファーン、ジャロー
26 第 1 章キリスト教の伝来と浸透 3 アングロ・サクソン人とキリスト教 (1) キリスト教導入の初期 イングランド北部におけるキリスト教の布教は南部に比べて一 足早く進められていた。アイルランドの貴族出身の修道院長コロ ンバ ( c521 ー 97 年 ) は 563 年頃、スコットランド北西部にあるイン ナー・ヘブリディス諸島のなかのアイオウナ (lona) 島に上陸し修 道院を建設した。のちに、 この地がアイルランド北部におけるキ リスト教の中心地となり、そこからスコットランド及びイングラ ンド北部への布教活動の出発点となった。この地域の布教につい てはビードが伝えてくれる以外に史料はないが、工イダンという アイルランドの修道僧がノーサンプリア王ォズワルドのもとに派 遣されてきた。彼がイングランドに到着したのは 635 年と言われ、 王は工イダンにリンディスファーン島 ( 現在のホリー・アイランド ) を与えた。当時ノーサンプリアはバーニシアとディーラの二つに 分裂していたが、工イダンの活動は主としてオズワルドの君臨す るノーサンプリア北部のバーニシアに限られていたようだ。一方 ョークと南部のディーラではカンタベリから派遣されたパウリヌ スが布教に従事していた。イングランドのキリスト教化はこのよ うに北と南の双方から進行していた。 教皇グレゴリによってローマから派遣された聖オーガスチン が、ケントに到来したのは 597 年とされている。すでにケントに は王国が形成されゲルマン民族の一部族、ジュート族がカンタベ リに定住し、イングランド南部のゲルマン人としては初めてキリ
36 第 1 章キリスト教の伝来と浸透 によると、エドウイン王とケント王工ゼルベルトの王女工ゼルべ ルガとの婚姻が契機となってパウリヌスがヨークまで王女に同行 してきたと述べている ( 『教会史巻ⅱ、 9 章』 ) 。これがエドウイン王 の改宗した理由の一つかも知れない。このノーサンプリア王の改 宗はビードによって詳細に語られ、とくに王はキリスト教の受け 人れの是非を賢人たちと協議し、その席で司祭長コイフィは以下 のように述べたと言われる。次は有名な一節で、古英語訳が趣旨 を簡潔に要約しているからそれに従って訳す。 一羽の雀が一方の扉から飛来しさっと広間を飛び抜けて、他 方の扉から、瞬時にして出て行くのです。人の一生は ( これに似 て ) ほんのつかの間に過ぎないように思われます ( 『教会史巻ⅱ、 13 章』 ) 。 ェドウイン王はさらに熟慮してキリスト教を受け人れたのであ る。この背景には、彼が東アングリア王、ラドワルドの宮廷で追 放の憂き身をかこっている時に、神の啓示に触れた体験が改宗へ の動機として存在していたのだろう ( 『教会史巻ⅱ、 1 2 章』 ) 。上記 のコイフィは偶像を祭る寺院を破壊し、仲間に火をかけるように 命じたと記されているが ( 『教会史巻ⅱ、 13 章』 ) 、この年は 627 年で ビード ( 673 ー 735 年 ) 生誕前の半世紀にも満たない時代のことで、 それを考えると、イングランド北部においてキリスト教化が速い 速度で進行していたことが推察される。 633 年ェドウイン王と息 子のオズフリッスが戦死すると、パウリヌスは未亡人となった工 ゼルベルガとその遺児たちを連れてケントへ戻った。オーガスチ
3 8 第 1 章キリスト教の伝来と浸透 写本を求めて彼と同行したこともあった。アルベルトはその有名 な図書館の収書委員長ならびに管理者でもあった。彼は絶えず ローマや修道院のある中心地と文通し、ヨークはキリスト王国全 般に起きている事柄を残らず知っていたと言われる。 741 年ョー クの聖堂は焼けたが、アルベルトは再建に貢献し、 780 年に職務 を離れ、 782 年死去した。ョークの学校は 8 世紀後半の 50 年間イ ギリスの学問が大陸に大きく羽ばたく礎を築くことになったので ある。この隆盛に最も貢献したのがこのアルベルトであった。ゴー ル、アイルランド、遠くはイタリーからも、学者たちはヨークを 目指して集まり、ヨークはローマ時代におけるプリテン島の首都 の感があったと言われる。 ビードの誕生よりもはるか以前、ノーサンプリア人はヨークを 彼らの首都とし、やがてエドウインはこの地で洗礼を受け、ノー サンプリアにおいて初代のキリスト教徒の王となった。工ドウィ ンとパウリヌスは木造の小さな礼拝堂を建設し、これが後の大聖 堂に発達する礎となったのだが、この地でキリスト教が発展する 過程でパウリヌスや他の聖職者たちが示したキリスト教への深い 信仰心が、大きな支えとなっていたことは明らかである。 アルクインの詩には、アルベルトが収集した書物をョークの教 会に遺贈したと語られている。著者の名前は列挙されているが、 残念ながら具体的な作品名はない ( 1541 ー 56 行 ) ので、アルクイン がどれだけ多くの作品に接することができたかは不明である。 の詩の創作年代については議論もあるが、アルクインがヨークを 後にして大陸に出発する前の 781 ー 82 年に書かれたと考えられて いる 28 ) 。アルベルトに寄せるアルクインの称賛は、彼が育てた最
4 はじめに いはなく、この名称は 5 世紀初期、大陸からプリテン島に渡来し、 Ⅱ世紀後半 ( 1066 年 ) にノルマン人によって征服されるまでのイギ リス人の先祖を指している。 本書は主として以下の点に配慮して書かれている。まずアング ロ・サクソン人が異教徒からキリスト教徒へ転じる過程で、どの ような人たちが改宗の流れをプリテン島に導人したか。次にイギ リス人聖職者がどのようにしてキリスト教の伝導に貢献し、それ がアングロ・サクソン社会に定着したか。さらにキリスト教がイ ングランドにおいてどのように大きく飛躍したか、これらの諸点 を第 1 章で取り上げる。第 2 章以降ではさまざまな分野のことば に関連する問題を取り上げて論じる。ある場合には改宗前のゲル マン的特徴を留める問題に言及する。 アングロ・サクソン人は大陸から隔絶された新しい島国で独自 の文化を創造したが、中世を経て現代に至るイギリス人の歴史と 文化を深く理解するには、出発点としてアングロ・サクソン社会 の歴史と文化の形成及びその発展を知ることが不可欠と思われ る。この発展は今日的に言えば、壮大な異文化交流の成果であり、 とりわけ、この時代の初期には、アングロ・サクソン人は異文化、 とりわけキリスト教を中心とした西洋文化の摂取に終始したが、 この受容の成果は 8 世紀から 9 世紀にかけて、国内及び大陸で伝 導に従事した学者、聖職者の輩出につながる。とくに 8 世紀前半 にはビードが傑出し、イギリスはヨーロッパでも比類ない学問を 築き上げ、後半に至ってアルクインによってこの伝統が確立する。 他のヨーロッパ諸国と同様に、キリスト教文化圏との交流が、今 日のイギリスの形成に計り知れない大きな貢献を果たしたことは
3 アングロ・サクソン人とキリスト教 27 スト教と接触することになった。当時のケント王工ゼルベルトは ローマからの一行に滞在を許可し、キリスト教の布教活動も認め た。イングランド南部のイギリス人が、ローマからのキリスト教 に触れた第一歩である。ビードによるとケント王工ゼルベルトは フランク族の貴族出のキリスト教徒ベルサを娶っていたので、彼 はキリスト教についてある程度の知識を得ていたと推測される ( 『教会史巻 i 、 25 章』 ) 。このためケント王はオーガスチンとその 一行に寛大な態度をとることができたのである。オーガスチンは ローマ教皇から司教座を得て、やがて初代のカンタベリ大司教と なったが、ビードの『教会史巻 i 、 29 章』には、教皇が、メリトゥ ス、ジュストウスを初めとして著名な伝道者を派遣し、教会運営 に必要な品々とそれに劣らぬ多くの写本をオーガスチンのもとに 送ったと記されている。この写本のなかに聖書や祈祷書なども当 然含まれていたと思われる。オーガスチンは派遣された当時、ロ ンドンとヨークの二つの都市に大司教を配置して、イングランド を二つの地域に組織化するように指示を受けていたが、当初から ロンドンはカンタベリの管轄下に置かれ、オーガスチンは司教の 座を受け、やがて初代の大司教となった。カンタベリと並んでロ チェスター及びロンドンの教会の成立は 7 世紀初頭であったこと が、ビードの記述から推測される ( 『教会史巻ⅱ、 2 ー 3 章』 ) 。 オーガスチンはラテン文化の文物だけではなくことばもまた導 人し、とりわけ教会関係の用語が増大した。このような文化の流 によってアングロ・サクソン人は知的、精神的に大きな影響を受 け、その結果として後に、ベネディクト・ビショップ、ビード、 アルクイン、アルドへルム、ポニフェイス、ウィリプロルドなど
3 アングロ・サクソン人とキリスト教 29 にウィアマスとも言う ) およびヨークで、どのような人物が布教と 学問の発展に寄与したか、この点を概観する。 工イダンとリンディスファーン アイルランドの修道僧コロンバはアイオウナの修道院長を 32 年 間勤めた (1) 。彼のアイオウナでの布教活動についてはすでに簡単 に触れた。彼の活動は、 597 年にオーガスチンがケントへ到来す る三十数年前のことである。ともに 6 世紀後半の出来事だが、 の二つのキリスト教の布教活動はイギリス人の将来の宗教的方向 のみならず文化の方向をも決定する歴史的重大事件であった。布 教の中心的役割を果たす教会や修道院が数多く設立されたのは 7 世紀になってからである。 635 年アイオウナから修道士工イダンがノーサンプリア王ォズ ワルドの要請で、リンディスファーン ( 現在、ホリー・アイランド ) に派遣されたきた。この間のいきさつについては『オックスフォー ド聖人辞典』に詳しい。この派遣の背後には、オズワルドが国王 となる以前、政争に巻き込まれた結果アイオウナに逃れていたと いう事情があった。ォズワルド王はパウリヌスが果たした伝道の ェイダンによる継承を意図して招聘したのである 22 ) これがリン ディスファーンの修道院の設立に繋がり、キリスト教がプリテン 島の西北部から東北部に導人され、やがてこの地が伝道の中心地 となった。この結果、エディンバラからハンバー川以南に至るイ ングランド北部では、多くの教会が設立され、チャド、チェッド、 エグベルト、ウイルフリッドなど、優れた聖職者が輩出したので ある。後に彼らが布教活動で果たした役割は大きく、とくにチャ
知第一章キリスト教の伝来と浸透 ドは将来のキリスト教指導者の育成に努力し、ェイダンは彼の薫 陶を受けた一人だった。 このように、キリスト教はアイルランドからスコットランド西 北部に伝えられ、そこからェイダンによって東北部のノーサンプ リアへと伝播されたが、初期の聖職者の移動によってやがてキリ スト教が大きく開花するきっかけになったことは重要な意味を もっている。 ベネディクト・ビショップとウィアマスージャロー 双子の修道院といわれるウィアマスージャローは、タイン川と ウィア川との間にあるベネディクト派の修道院であった。ウィア マスは 674 年、ジャローは 682 年、ベネディクト・ビショップ ( 628 ー 89 年、本来の姓は Baducing ) によって創立され、まもなく学問の 中心地となった。現在この修道院の一部は教区教会によって占め られている。ビードは「石作りのウィアマスとジャローの教会は メルローズ、コールディンガム、リンディスファーン、ウィット ビーの質素な木造の建物よりも、たぶんあらゆる面で進んでいた」 と述べている 23 ) ウィアマスの初代修道院長ベネディクト・ビ ショップはノーサンプリアの貴族の出で、 653 年までノーサンプ リア王ォズウイウに仕えていたが、修道士となる決心をした。彼 はウイルフリッドのローマ詣でに同行し、やがて帰国後、国王の 子息アルチフリス (A1cfrith) と共に第 2 回目のローマ詣でをした が、王子は国王の説得でローマ行きを断念した。ベネディクトは ローマからの帰国途中、地中海のカンヌ沖にあるレラン島 ( 今日 の st. Honorat) で修道士となり、このときベネディクトの名を得た