サクソン - みる会図書館


検索対象: ことばから観た文化の歴史
106件見つかりました。

1. ことばから観た文化の歴史

5 言うまでもない。この意味で、キリスト教が、さらにまたラテン 文化の諸相を表すどのようなことばが借用されイギリス社会に浸 透したか、さまざまな文献、あるいは専門家の研究成果を手がか りにしてアングロ・サクソン文化の発展の軌跡を描き出せればと 考えている。 こで、アングロ・サクソン、イングランド、イングリシュ、 プリテン、プリティシュなどの用語について簡単に触れておく。 アングロ・サクソンはゲルマンの部族名アングル族とサクソン族 との合成語だが、『オックスフォード英語辞典』 ( 以後 OED と略記 ) によると、 Anglo-Saxons という用語自体は 17 世紀からの用法であ ることが分かる * このことばは大陸からプリテン島に移住した 部族を総称として指すためにしばしば用いられる。『アングロ・サ クソン年代記』 ( 以後、『年代記』と略す ) によると彼らは紀元 449 年、 プリテン島に渡来した主要な部族で、アングル族は今日のイング ランド中部からハンバー川以北、ファース・オプ・フォース人江 までのノーサンプリア地方に定着した人々を指し、彼らの土地は 当時の言葉で g 「アングル族の土地」と称され、この両語 が一つになって現代英語の EngIand となった。 タキトウスは ( 『ゲルマーニア 40 章』 ) 、アングル族を図れ g - ( 通常 のラテン語複数形 0 〃 g のと称しているが、これは彼らの故郷が今 日のドイツ北部、北海沿岸の都市シュレスヴィヒとの関連を示唆 している。すなわち、ラテン名図〃 g / はゲルマン語の想定形図〃 g ″ - * アングロ・サクソン時代、 AngIo-Saxons の意味は大陸のサクソン人と区別 してイギリスのサクソン人、イングランドのサクソン人を指して用いられ た。詳しくは OED を参昭

2. ことばから観た文化の歴史

6 はじめに からの借用で、この語源は angle 「釣針」の意味である。語源辞典 によると、シュレスヴィヒ地方が地形的に釣針状の形をしている ことから、その地域がれ g ( 今日のドイツ語名は gel 司と言われ、 さらにこの土地の人々が / れ g ″と呼ばれるようになったのである。 この想定形翫 g 〃 - から古英語 Engle が生じ、折尾辞 -isc (>ish) と結 びつき今日の English が形成された。いずれにしても、言語的には、 アングル族の故郷はシュレスヴィヒ地方と関係のあることを示し ている。 一方、サクソン族の故郷を明確に特定することはできないが、 プトレマイオスは彼らの出身地を今日のホルシュタイン地方と位 置付けている l)o このように、アングロ・サクソン人の出身地が 北海沿岸のドイツとデンマークとの国境地帯周辺であることはほ ぼ間違いないと思われる。彼らはそこから北海を越えてプリテン 島に渡来したのである。サクソン族はイングランドの南西部地方 に移住した後、南及び西サクソン王国を形成し、アルフレッド大 王の時代にイギリスを統一してサクソン王朝の礎を築いた。この 時点で英語は統一国家の言語として、ウェスト・サクソン語ある いはサクソン語と呼ばれても不思議ではなかったが、プリテン島 のサクソン方言、アングリアン方言、ケント方言を総称して、「イ ングランド ( の住民 ) の」、あるいは「アングル族の」という形容詞 English( 古英語。″、。 ) が名詞「英語」に転用された。この理由は、 形容詞 e 〃 g 広 c には集合的に「ゲルマン民族の」という意味を表す用 法が、初期に存在していたことに基づく。「アングル族」もまた「ゲ ルマン民族の集合体」の意味で総称的に用いられた。歴史的に言え ば、イングランドはウ工ールズ、スコットランドと同様にプリテ

3. ことばから観た文化の歴史

2 プリトン人とキリスト教 23 ギルダス、サムソン、ヴィニアンの名を挙げているが、アイルラ ンドからプリテン島に渡来した修道僧も多かったに違いない。セ ント・オールバンズは当時プリトン人の町だが、この地で 304 年 アルバヌスは自らをキリスト教に開眼させてくれた司祭アンフィ かくま バルス ( Amphiba1us ) を匿ったかどで告訴され、同年 6 月 22 日殉教 したとされる。この司祭の名は後にジョフリ・オプ・マンモスが ギルダスの作品の言葉を誤読した結果、与えられた名前らしい同 聖アルバヌスの経歴については不明の点も多く、ビードは彼につ いて次のように記している。 祝福を受けたアルバヌスはヴェルラミウムの町の近くで 6 月 22 日死を受けた。この町に平和な時代が再来すると、素晴らし い出来栄えの教会が建てられ、彼の殉教の立派な記念物となっ た。今日まで病める人々はこの場所で救われ、奇跡が繁く起こり その町に名声をもたらし続けているのである ( 『教会史巻 i 、 7 章』 ) 。 初期アイルランド教会がアングロ・サクソンの侵略後、プリテ ン島北部で果たした役割は決して無視できぬが、初期の聖職者が 具体的にどのような足跡を残したかは判然としない。紀元 304 年 にアルバヌスは殉教したが、この事件はコンスタンチン皇帝に よって 313 年、キリスト教が公認される直前の時代であるから、 アルバヌスの殉教がローマからの指示に従ったキリスト教徒迫害 の一環として行われたのかどうか、ギルダスは彼の著述のなかで は、「暴君ディオクレチウスの 9 年間の迫害」と明言している。だ が、これは議論が分かれる問題である。ローマとの交易により、

4. ことばから観た文化の歴史

2 ウェスト・サクソンの法律 107 ビードの『教会史』やⅡ世紀初め頃のウルフスタンの説教にも、奴 隷売買の記述があるので、アングロ・サクソン社会は、かなり後 の時代までこの問題を抱えていたようである。なお、我が国では すでにこの問題についての詳細な研究がある 5 ) 。 以上のように、 7 世紀初頭のこの法典から、聖職者を除くと、 王を頂点として、次に貴族、明確な定義はできぬが「自由民」と「農 民」、さらに「奴隷」という階級の存在が、おぼろげではあるが浮 かんでくる。 2 ウ工スト・サクソンの法律 (I) イネ ( 688 ー 94 年 ) の法典 イネの法典は、アルフレッドの時代に書き写され、同王が典拠 とした法典として今日に至るまで伝えられている。したがって 7 世紀末の法典そのものがすべて書き伝えられたかどうかは定かで ない。しかし、サクソン王朝の基礎となる法典が残されているこ とはきわめて重要な意味がある。ウイヒトレッドの法典とほぼ同 時代に、ウェスト・サクソンではイネの法典の存在が知られてい る。条項によっては酷似する文言があり、二つの王国の法律には 何らかの繋がりがあったと推測される。例えば前者の 28 条と後者 の 20 条は、一部の語句の違いを除くとまったく同一である。 3 条 の「奴隷が主人の命令で日曜日に働けば、彼を自由の身とすべき であり、主人は罰金として 30 シリング払わねばならない」という 条文は、罰則内容はケントのウイヒトレッドの法律とは異なるが、 安息日を重視する教会の方針が同じように反映されている。イネ

5. ことばから観た文化の歴史

164 あとがき で研究をする機会に恵まれ、日本では直接に見ることのできな かった写本や文献に接することができたのは望外の喜びであっ た。帰国後およそ二十数年間、研究テーマの中心は古英詩、とく に『出エジプト記』のテキスト解釈に関する多くの疑問の解明に取 り組み、また叙事詩『べーオウルフ』では、この詩に見られる独特 なことばの反復問題などを研究の主題としてきた。留学中ケンプ リッジの図書館では、自らの専門分野以外にアングロ・サクソン 時代の文化の諸相を扱ったさまざまな研究論文や著作を読むこと にもかなりの時間を費やした。これまではテキスト中心の研究の 枠を超えられなかったが、多くの文献を読み、アングロ・サクソ ンの時代背景に触れたことはその後の関心の拡大に繋がった。結 果的に文化史的な面の著作や論文にも気を配るようになり、この 書物を書く糧となった。 この二十数年間、アングロ・サクソン研究は目を見張るばかり の発展を示し、その成果が相次いで発表されてきた。とくに『ア ングロ・サクソン・イングランド』のシリーズは二十数巻に及び、 また『ケンプリッジ・アングロ・サクソン研究』も同じように十数 巻出版されている。その他海外の多くの研究誌に成果が掲載され ている。同時に我が国の研究も海外で評価を得る事例も増えてき ている。前掲の二つの叢書に掲載された論文には語学的問題と言 うよりはむしろアングロ・サクソン文化全体に及ぶテーマが扱わ れている。このような著作に折に触れ書き留められたものが今回 のおもな情報源となった。また本書には紀要及び論叢で書いた論 文、「イギリス社会初期の復活祭と食の年代と月名について」 ( 『横 浜市立大学紀要』 1994 年、人文科学系列第 I 号「アングロ・サクソンの月

6. ことばから観た文化の歴史

0 」レことばから観た文化の歴史 定価本体 15 ①①円 ( 税別 ) 【シーガルブックス 001 】 ことばから観た文化の歴史 アングロ・サクソンの到来からノルマンの徒服まで 東信堂 9 7 8 4 8 8 71 5 3 8 7 7 ⅧⅢⅧ馴 III 引ⅧⅢ 1 9 2 1 ろ 2 2 0 1 5 0 0 0 工 S B N 4 ー 8 8 7 1 3 ー 3 8 7 ー 1 C 1 5 2 2 \ 1 5 0 0 E S ″ 88 “ ことばから観た文化の歴史 アングロ・サクソンの到来からノルマンの征服まで 宮崎忠克 001 Seagu 〃 B00ks アングロ・サクソンの到来 からノルマンの征服まで 宮崎忠克ä東信堂 堂 信 東 1 COVER DESIGN BY KATOH SHINOBU

7. ことばから観た文化の歴史

4 はじめに いはなく、この名称は 5 世紀初期、大陸からプリテン島に渡来し、 Ⅱ世紀後半 ( 1066 年 ) にノルマン人によって征服されるまでのイギ リス人の先祖を指している。 本書は主として以下の点に配慮して書かれている。まずアング ロ・サクソン人が異教徒からキリスト教徒へ転じる過程で、どの ような人たちが改宗の流れをプリテン島に導人したか。次にイギ リス人聖職者がどのようにしてキリスト教の伝導に貢献し、それ がアングロ・サクソン社会に定着したか。さらにキリスト教がイ ングランドにおいてどのように大きく飛躍したか、これらの諸点 を第 1 章で取り上げる。第 2 章以降ではさまざまな分野のことば に関連する問題を取り上げて論じる。ある場合には改宗前のゲル マン的特徴を留める問題に言及する。 アングロ・サクソン人は大陸から隔絶された新しい島国で独自 の文化を創造したが、中世を経て現代に至るイギリス人の歴史と 文化を深く理解するには、出発点としてアングロ・サクソン社会 の歴史と文化の形成及びその発展を知ることが不可欠と思われ る。この発展は今日的に言えば、壮大な異文化交流の成果であり、 とりわけ、この時代の初期には、アングロ・サクソン人は異文化、 とりわけキリスト教を中心とした西洋文化の摂取に終始したが、 この受容の成果は 8 世紀から 9 世紀にかけて、国内及び大陸で伝 導に従事した学者、聖職者の輩出につながる。とくに 8 世紀前半 にはビードが傑出し、イギリスはヨーロッパでも比類ない学問を 築き上げ、後半に至ってアルクインによってこの伝統が確立する。 他のヨーロッパ諸国と同様に、キリスト教文化圏との交流が、今 日のイギリスの形成に計り知れない大きな貢献を果たしたことは

8. ことばから観た文化の歴史

4 色彩を表すことば て、その類義語あるいは近接した色名が増加していった」と指摘 されている 5 ) 。だが、古英語を読むと基本的色彩語は今日のそれ と大差ないことに気付く。さらに巧みな複合語形成によってかな り多様な用法があるのが分かる。古英語から発達した現代語の色 彩名を現代英語訳とともに ( ) に示す。アングロ・サクソン時代 から現代にまで残る英語の色彩名をまず取り上げてみよう。 bruneleode(brownpeople) 「褐色の人々」 ( 『出エジプト記』 ) : この句 は皮膚の色が褐色のエチオピア人を指すと解釈されている。 geolwelinde(yellowshield) 「黄色い盾」 ( 『べーオウルフ』 ) : 盾はシナ の木で作られていた ( 参照 linden)o fealwestræte(fallowstreet) 「薄茶色の道」 ( 『べーオウルフ』 ) : 現代英 語に残るこの形容詞の意味は「淡黄色の」、あるいは「赤黄色 の」と説明されている 6 ) g 尾れ eg 翔〃面 s (green grounds) 「緑の大地」 ( 『アンドレアス』 ) æscholtgræg(speargrey) 「 ( 先端が ) 灰色の長槍」 ( 『べーオウルフ』 ) : 「長槍」はトネリコ ( ash ) の木で作られた。 readclæfre(redclover) 「赤つめくさ」 ( 『アングロ・サクソン辞書』 ) ægeshwit(whiteofegg) 「卵の白味」 ( 『アングロ・サクソン辞書』 ) ~ わ ca ( blackraven ) 「黒いワタリガラス」 ( 『べーオウルフ』 ) pruprenhrægl(purplevestment) 「紫色の衣装」 ( 『アングロ・サクソン ぼ出そろっていると言えるだろう。 以上のように「白い、黒い」を含めてだが、基本的な色彩名はほ 辞書』 )

9. ことばから観た文化の歴史

2 プリトン人とキリスト教 25 ても正確なことは、ほとんど知られていない。だが、 12 世紀以来 ウェールズの守護聖人として崇められ、Ⅱ世紀末の伝記によると、 彼は 12 の修道院を建設し、その一つにグラストンべリが含まれて いたと言われる アングロ・サクソンの侵人後、プリトン人との戦闘を記録した 『年代記 ( A ) 』 457 年の記述は、さながら旧約聖書の『列王伝』を思 わせるように、プリトン人の戦死者数を 4000 人と記録している。 ケルトの伝説に基づくアーサー王物語は、アングロ・サクソン人 とプリトン人との戦闘で活躍した英雄、例えばプリトン人の指揮 官アンプロシャス・アウレリウスのような人物に因んで生まれた ものだろう。だが 5 世紀のプリテン島の実態を示す資料は乏しく、 同上のギルダスの作品が、アングロ・サクソン人の襲撃を受けた、 当時の暗い社会の一面をわずかにかいま見せてくれる。ギルダス の作品にはアーサー王の名前は記されてはいない。ギルダスは ローマの支配を称賛し、ラテン語を「我々の言語」と称しているが、 彼が時の権力者にきわめて批判的であったことが、次の一文から も推察できる。「すべての顧問たちは、プリトン人の王、傲慢な 暴君グルスリゲルン ( ヴォーティジャーンのこと ) とともに、あまり にも先見の明がなかったので、神と人の両者にとって、憎むべき 民族、凶暴にして神を恐れぬサクソン人を彼らの国を守るために 招いて、国の運命を定めてしまったのである」期。ギルダスのこ のことばから彼の信仰の一端を窺い知ることができるだろう。さ らにプリトン人の運命について、「哀れにも残された人々のなか には、山中に連れ去られ、殺害された人もかなりの数だった」 20 ) と記されている。

10. ことばから観た文化の歴史

56 第 2 章命名法と地名の由来 よる伝統的命名法が一貫して数百年間続けられてきたが、この方 法では適切な新しい名が得られにくくなったのかも知れない。ど うやらこのような理由から 7 世紀の後半に至って伝統が大きく崩 れ、初めてアッシュウィネ ( 674 ー 76 年 ) という母音で始まる王名 が採用されるのである。この母音による頭韻は十数年を経てイネ に引き継がれてからは、ウェスト・サクソン王家はこの母音によ る命名法を継承するのである。いずれにせよ、結果的にケンレッ ドを最後として、以後母音の国王名が誕生したことになる。 以上のように、子音、母音に係わりなく頭韻による命名法は他 の王家についても原則的に当てはまるのは明らかである。 2 名前の意味 これまでは主として名前と頭韻構成について述べたが、 はウェスト・サクソンの国王名を初めとして、名前の由来が比較 的分かりやすい例を取り上げてその意味を考える。キリスト教化 する以前も以後も命名の基本はゲルマン古来の習慣に基づいてい ると言えるだろう。アルフレッドの時代に人って記録され始めた 年代記には聖書に由来するアングロ・サクソンの国王名は見られ ない。上記の系図から省略したイネとインゲルドの父の名は cenred だが、その第一要素 ce 〃 - ( > 現代英語 keen ) は「勇敢な」、第二 要素 - 尾 d は「忠告 ( 者 ) 」と「支配 ( 者 ) 」の意があり、この場合は後者、 「勇敢な支配者」の意味と考えられる。この王家には他にこの「勇 敢な」を第一要素にとる王も数名いるが、このことばはウ工スト・ サクソン王家に独特な用法である。