2 プリトン人とキリスト教 25 ても正確なことは、ほとんど知られていない。だが、 12 世紀以来 ウェールズの守護聖人として崇められ、Ⅱ世紀末の伝記によると、 彼は 12 の修道院を建設し、その一つにグラストンべリが含まれて いたと言われる アングロ・サクソンの侵人後、プリトン人との戦闘を記録した 『年代記 ( A ) 』 457 年の記述は、さながら旧約聖書の『列王伝』を思 わせるように、プリトン人の戦死者数を 4000 人と記録している。 ケルトの伝説に基づくアーサー王物語は、アングロ・サクソン人 とプリトン人との戦闘で活躍した英雄、例えばプリトン人の指揮 官アンプロシャス・アウレリウスのような人物に因んで生まれた ものだろう。だが 5 世紀のプリテン島の実態を示す資料は乏しく、 同上のギルダスの作品が、アングロ・サクソン人の襲撃を受けた、 当時の暗い社会の一面をわずかにかいま見せてくれる。ギルダス の作品にはアーサー王の名前は記されてはいない。ギルダスは ローマの支配を称賛し、ラテン語を「我々の言語」と称しているが、 彼が時の権力者にきわめて批判的であったことが、次の一文から も推察できる。「すべての顧問たちは、プリトン人の王、傲慢な 暴君グルスリゲルン ( ヴォーティジャーンのこと ) とともに、あまり にも先見の明がなかったので、神と人の両者にとって、憎むべき 民族、凶暴にして神を恐れぬサクソン人を彼らの国を守るために 招いて、国の運命を定めてしまったのである」期。ギルダスのこ のことばから彼の信仰の一端を窺い知ることができるだろう。さ らにプリトン人の運命について、「哀れにも残された人々のなか には、山中に連れ去られ、殺害された人もかなりの数だった」 20 ) と記されている。
2 曜日と地名の由来 125 王であることが『年代記』の 640 年に記載されている。ウイヒトレッ ド王の法律 12 条で「夫が妻の知らぬうちに悪魔に生け贄を捧げる と、彼は全財産ないしは「重罪の代わりに規定された罰金」 ( ん〃 g ) を支払う義務を有す」とあるので、この時代には安息日 としての日曜日と異教崇拝が併存していた可能性を暗示する条文 と考えられる。 文献では 700 年頃から記録されていると言っても、この日曜日 という言葉はもともと太陽神を祭る日であり、ラテン語の市凾 なの翻訳に基づき、ゲルマンの共通語となっている。キリスト の復活を記念する日となったのはずっと後のことであろう。今日 60 以上の異教崇拝を示す場所が確認されているが、このような場 所はしばしば山腹や古くからの村、あるいは異教徒の埋葬塚の近 辺に限られていると言われる。寺院、丘の聖地、偶像などを表す 言葉を除くと、太陽神崇拝を地名として示す場所はないようだ。 日曜日以外の名が文献で確認されるのは時代がかなり下ってか らである。 Monday の初出年代は川世紀半ば頃の福音書のなかに 見られ、ラテン語 / 血“市「月の日」の翻訳で、もともとはギリ シャ語のなぞりとされる。 ゲルマン起源の神の名が曜日に反映されるのは火曜、水曜、木 曜、金曜だが、金曜は地名にその名を留めてはいないようだ。 Tuesday()E Ti ⅲ g ) が文献に初めて記録されるのはⅡ世紀の半 ばに書かれたビュルフトノースの手引書のなかだが、異教神を祭 る場所の名がキリスト教化した後で付けられることはあり得ない と思われるから、地名の由来は大陸からの移住時代以降に基づく かも知れない。火曜日「チュウ神を祭る日」の Tiw はゲルマンの戦
150 第 6 章世俗の詩 と解釈し、奇跡を行うものが司教や司祭などの聖職者に限られて いないことをビードは紹介しておきたかったのかも知れない。 古英詩「ウイドシース』は架空ではあるが吟遊詩人の名前が記さ れている数少ない作品の一つである。ウイド ( cf. wide ) は「広い」、 シースは「旅」の意味だから、固有名詞として「遠く旅する人」と訳 せる。この詩の内容から判断して、実在の詩人が実際に体験した ことを記録したのではないことは明らかである。この詩の製作年 代が 8 世紀と推定されているが、これが正しいとすればイギリス 最古の詩の一つと考えられる。実際には、古い伝承を数多く記憶 し、かっ遠く旅路に足を運び、その詩を吟誦することを無上に愛 した詩人が、時空を越えて旅をするウイドシースの原型として存 「私はいつも工オルマンリッチ ( 王 ) 在していたのかも知れない。 と共にいた」と彼は語っているが、この王は 4 世紀の 60 ー 70 年代 に栄えたオストロゴッスの王で、 375 年に没したとされる ( ローレ ンス、 45 頁 ) 。この詩人は自分をこの宮廷に身を寄せている人物と位 置付けているが、彼の直接の主はロンバルド人の王アルポインと 語られている。彼は 6 世紀後半に栄えた王である。このような背 景の設定にはむしろおおらかなユーモアさえ感じさせるのである。 彼が紹介する部族と場所のほぼすべてが、北海やバルト海との 係わりがあり、『べーオウルフ』のなかで語られている内容を補完 する意味で重要な作品と評価されている。詩の文章構造はきわめ て単純で、いわば記憶に便利な形式を取っているが、その典型的 ・・と共にいた」である。これには「・・・・・・のもとにいた」、 な形式は「・・ 「・・・・・・のところへ行ったことがある」という含みをもたせている。 例えば我々になじみのあるゲルマンの部族を挙げると、「私はア
2 曜日と地名の由来 127 WednesfieId 「ウォーデンの野原」が見られる。同州には Wednesbury 「ウォーデンの土塁」があり、さらにウイルトシャー州の Wansdyke 「ウォーデンの盛り土」、さらにダービーシャー州の WensIey 「ウ オーデンの林」、などの地名が現存しているに Thursday ()E 加 g 、加血 g ) は「聖木曜日」として 901 年頃の アルフレッドの法典に見られる。スノール (Thnor) はゲルマン神 話の雷神を指すから、木曜日は「雷神を祭る日」の意味である。北 欧神話ではトール神として知られる。イギリスの地名としては工 セックス州の ThunderIey 「雷神の林」、同州には Thundersley と所有 格の s が残されている所もある。他にサリー州には Thunderfield 、 Thursley も存在する。古英語の加れは現代英語では /d/ が挿人さ れて thunder に変化しているが、これは 13 世紀半ばから記録され ている ( 比較オランダ語 donder 、ドイツ語 Donner)0 なお、記録に残 されている地名の一部を記しておく。〃。尾訪 w 「雷神の塚」 ( ケ ント州 ) 、〃 0 ge 「雷神の林」 ( サセックス州 ) 、Ⅷ尾ゞ角「雷神 の野原」 ( ウイルトシャー州 ) などがある。 Friday の Fri - はウォーデンの妻である igg に由来すると言われ るが、ラテン語市凾「ヴィーナスの日」、つまり「美と愛の 女神の日」である。このラテン語はギリシャ語「アフロディテの日」 のなぞりとされている。英語での初例は工ゼルレッド王の法典に 記録され、古英語の語形は Frigg の所有格に g 「日」を伴う な e イ g である。 D. ウイルソンによれば、 Freef01k( ハンプシャー 州 ) 、 Frethern ( グロスタシャー州 ) などが 12 世紀末に最初に記録され ているが、だがこれらの地名がこの豊穣の女神を崇拝する場所で ある確証はないと述べているロ。この二つの地名の第二要素は
2 プリトン人とキリスト教 21 あるいは「敵は我々同胞を羊のように屠殺した」Ⅲと伝えている。 一方、年代記作者は「プリトン人は燎原の火から逃げるように、 イギリス人から逃げのびた」と記している ( 『年代記 ( A ) 』 473 年 ) 。 なお、ピクト人は、『年代記』にもしばしば登場するが、 7 ー 8 世紀にはノーサンプリアのアングル人と共存していた時代もあ る。スコット人はケルト系の人種でゲーリック語 ( Gae ⅱ c ) を話し、 今日ではスコットランドの高地地方の住民を指してゲール人と呼 ばれている。このゲーリックという語はまた人名にも用いられる が、その語源は未詳である。 上で述べたゲルマン人の来住は記録に基づくものだが、今日で は、彼らのプリテン島への到来は、記録に現れる以前からすでに 散発的に行われていたことが指摘されている。墓地の発掘による 出土品の研究によってこの間の事情がさらに明らかになると期待 されるが、とりわけ、 4 世紀中頃のアングロ・サクソン人の墳墓 跡と定住地の分布は、当時すでに彼らが地域的にある程度の共同 体を形成し、ローマ軍の傭兵として存在していたことを示すと考 このような事実を考えると、記録に示される以 えられているに 上に、彼らの渡来の過程は複雑な面を宿しているようだ。 2 プリトン人とキリスト教 アングロ・サクソン人が到来する以前、プリテン島のキリスト 教化はどのように進められていたのだろうか。ローマ占領時代は ローマ人とプリトン人との闘争が繰り返された。当時、セント・ オールバンズの町はヴェルラミウム ( verulamium ) と呼ばれていた。
124 第 5 章アングロ・サクソンの月名、及び曜日と地名 12 月一田な ageo 地名については一部を第 2 章で触れたが、 2 曜日と地名の由来 こでは曜日と地名 December の関連を取り上げる。この理由はとくにゲルマンの神々の名がわ ずかながら異教の痕跡を留めているからである、 OED によると、 曜日のなかで最も早く記録されているのは、 700 年頃に制定され たイネの法律 ( 実際には 688 ー 94 年 ) 第 3 条の日曜日である。「もし 奴隷が主人の命令を受け日曜日に働けば、彼を自由の身とすべし。 かっ主人は罰金として 30 シリングを支払うものとする」と記され ている。ほぼ同時代の、ケント王ウイヒトレッド ( 695 年 ) の法律 第 9 条には「日曜の夕方」という言葉もあるので、記録では 7 世紀 末からということになる。ところで日曜日に労働することは明ら かに安息日を犯す行為であり、聖オーガスチンのケント上陸後お よそ 1 世紀しか経過していないことを考えると、キリスト教がウ ェスト・サクソン地方に広く浸透していたことが理解できる。歴 史的に見て奴隷の存在も興味深いが、奴隷はサクソン人によって 征服されたプリトン人を指しているかも知れない。この問題はさ ておくとして、この時代に安息日の遵守が法律で厳しく義務づけ られていることは、イネ王のキリスト教への帰依が並々ならぬも のであったことを証明している。記録によると同王はプリトン人 の時代から存在したグラストンべリの修道院に手厚い保護を与え ている。キリスト教化が最も早く進められたケントでは、工オル コンベルト王が偶像破壊を命じ、復活祭の断食を初めて実施した
1 頭韻と命名法 5 3 人名に対するこの頭韻使用の習慣は現存する資料から明らかで あるが、以下では、ウェスト・サクソン王家の国王名について具 体的に見てみよう。『年代記 (A) 』 855 年の項にはウェスト・サク ソン王家の王の名が列挙され、アルフレッドの父、工ゼルウルフ の逝去から系図を溯る形で記されている。 855 年の記述から一部 を抜粋して示すと以下の通りである。頭韻の部分だけ太字で示す が、頭韻が変わる場合は国王名を太字で示す。 工ゼルウルフは工ッジプレヒトの息子、工ッジプレヒトは工ア ルハムンドの息子、工アルハムンドは工アフアの息子、工アファ は工オッパの息子、工オッパはインゲルドの息子、インゲルド は、ウェスト・サクソン王、イネの弟、彼ら ( イネとインゲルド ) はケンレッドの息子、 ・・ケアウリンはキュンリッチの息子、 キュンリッチはケルディチの息子、ケルテイチはエレサの息子、 エレサはエスラの息子、 ・・ウイイはフレアウィネの息子、フ レアウィネはフリゾガールの息子、フリゾガールはプロンドの 息子、プロンドはバルダイの息子、バルダイはウォーテンの息 この記述の後にウォーデンの先祖についても記述があり、さら にその先は聖書の人名と結び付けられているので省略した。 この項の特徴を述べると、「エゼルウルフは工ッジプレヒトの 息子、工ッジプレヒトは工アルハムンドの息子」と記され、以下 同様の記載法が採られ、イネ王までは母音が頭韻を形成している。 さらにその先を辿ると、ケンレッド (cenred) ・・ ケアウリン
44 第 1 章キリスト教の伝来と浸透 ④カンタベリー一人と活動 ケントの語源はケルト語の c - 「縁」、「国境」、つまり「国境 の土地」、あるいは「沿岸地域」の意味におそらく由来すると考え られる。アングロ・サクソン時代には朝〃加訪 4 ヴと記録されて いるので、カンタベリは「ケント人の要塞 ( 都市 ) 」と解される 32 ) 。 シーザーがプリテン島の制圧に乗り出した西暦 54 年当時、カンタ べリ周辺には大陸から英仏海峡を渡ってきたベルガ工族が住み、 1 世紀後クローディアス皇帝が本格的に侵略に乗り出したころまで には、彼らはカンタベリに住み着いていたと言われる。この町を 手中に収めたローマ人は、この地方をカンテイウム (Cantium) と 称した。第 2 次世界大戦中、カンタベリの中心部にあった建築物 の 3 分の 1 は爆撃により一掃されたと言われるが、この結果、ロ ンドンの場合と同じようにローマ統治時代の遺跡が発見されるこ とになった。発掘者たちはプリテン島でこれまでに発見されたこ とがない大劇場と 2 つの浴場家屋を確認したと言われる。 ビードによると、聖オーガスチンはローマ人が建設したいくっ かのキリスト教の教会を復興し、「カンタベリの町近くの東に聖 マーチンを記念して古い時代から建てられた教会があった」と記 しているが、「その教会でケント王の后ベルサが祈りを捧げるの が習慣だった」 ( 『教会史巻 i 、 26 節』 ) という。この記述によれば、 ローマ統治時代の後期、すでにカンタベリにはキリスト教の聖堂 (basilica) があり、この地にキリスト教信者の存在が示唆されてい るが、詳細は不明である。今日、ラテン語に由来する Ec 確い教 会」が地名に残る町は多くないが、この語はマンチェスター市西 方の町ェクレス ( EccIes ) 、ランカシャ州のェクレストン (Eccleston) 、
126 第 5 章アングロ・サクソンの月名、及び曜日と地名 の神だがあまり一般的でなかったようで、サリー州の Tuesley 、 ウォーリクシャー州の Tysoe 「チュウ神の懸崖」にだけ残る。前者 は E . 工クウォールの地名辞典に記載されているが、 D . ウイルソ ンは現存が確認される例としては、後者のみを引用している。な お、ハンプシャー州の Tislea 、ウスタシャー州の Tyesmere 「チュ ウ神の小池」はすでに過去の地名として記録されているに過ぎな い。古英語ん「森の中の空き地 ( 開墾地 ) 」、「森、森林」は今日 -ley として地名の第二要素に残る。この地名の数は多いので省略する。 なお、 Tysoe の古英語形は石 ge 朝。ん「チュウ神を祭る崖」の意味で ある。 Wednesday()E Ⅲ靃 s g ) はゲルマンの最高神ウォーデン (woden) を祭る日だから、ウ工スト・サクソン王家あるいはケン ト、東アングリア、マーシャ、バーニシア、ディーラなどの各王 家がその先祖をこの神に求めているのは興味深い。だが、ェセッ クスの王家はその系図の初代を Seaxneat として、大陸時代の神を そのまま踏襲している。セアクスネェートはウォーデンとチュウ 神の息子と目される神である。ウォーデンの属性については後の 古北欧語の文献から明らかで、彼はさまざまに姿を変え、あるい はいくつかの綽名をもっ神として紹介されているⅡ 「水曜日」の 初例はリンディスファーンの福音書であるが、タキトウスは『ゲ ルマーニア』 ( 9 章 ) で、この日を Mercury の日と同一視している。 ケント州の Wodnesborough はウォーデンが崇拝されていたことを 示しているが、東サクソン人のなかで、同様にウォーデン崇拝が 存在した証拠は現在では失わた野原の名 Wodnesfeld 、 Wodnysfeld に記録されている。だが、今日でもスタフォードシャー州には
122 第 5 章アングロ・サクソンの月名、及び曜日と地名 とんど同じであるが、 9 月を「聖なる月」と呼び区別をしている点 だけが異なる。 12 月は「前半のユール」と呼ばれ、すでに述べた通 りである。『殉教者伝』は「太陽が昼間の時間を延ばす前を前者の ユール、その後を後者のユールと記している。これは今日の言葉 で言い換えれば、冬至を挟んで前後を区別していたことになる。 今日、クリスマスという言葉は誰でも知っているが、イギリス の歴史では、ノルマン人の征服後かなりの年数を経て、この言葉 が文献に現れる。 OED によると通称『ピータバラ年代記』の 1 123 年が初例であるから、意外と遅いのに驚く。この時代までクリス マスの代わりに用いられていた言葉があり、その一つが先に述べ たユールだが、他の一つが midwinter である。この初例もまた、 900 年頃に書かれたと推定される年代記 827 年の記録に見られるので、 該当部分のみ古英語で記す。「この年、クリスマス・イプ 0 売 s wintres 川 e ⅲん ) に月食があった」。ミッドウインターは 12 月 21 日、 つまり「冬至」を意味する言葉でミッドサマー「夏至」に対応する。 だがこの 827 年のこの文脈では、「冬至頃の時期」を表している。 それは襯ハ ( 現代英語 Mass) から判断して、明らかにクリスマス を指し、れ ( 現代英語 night ) は Eve を表しているからである。 イングランドに持ち込まれたゲルマン民族の生活習慣は、キリ スト教が導人された後に大きく変貌したり、ときには失われたも のもあり、あるときは軋轢を生じながらも、やがてゲルマン文化 とキリスト教文化は混然一体化し調和を保ちながら存続した。現 代英語の月名はすべてラテン語に由来するが、生活習慣を反映す るアングロ・サクソン人の名称は、日本語の古い月名と比較する と興味深い一面がある。数字を使って順序を表す今日の表記法は