瀬戸内海 - みる会図書館


検索対象: 日本の風土と文化
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1. 日本の風土と文化

雑多といえるほど豊かな関西の風土の背景なしには考えられないのである。 関西の自然は。せいたくで浪費的である。花やかさと豊かさと多彩さ、しかもそれらは持続性を もたず、人びとの心をだしぬくほどの速さで移り変わってゆく。そのあわただしさとはかなさ、 うつろいという言葉が適切なような世界に私たちは住んでいるのである。 私たち関西人、いや広くいえば瀬戸内海人が、関東の人びとから指摘される雑多性、あくどさ、 濃厚さ、不安定さ、気分主義、そういったものはこの風土とけっして無縁ではない。洗練度は、 特殊な教養階級のものであって、西日本的一般感覚に直結しない。極言すると、なにしろ私たち は桜でさえ、多数のなかの一つの花にしかすぎぬ多様性のなかに住んでいるのである。 の 瀬戸内海と商業瀬戸内海は西に向かって開いている。中国地方と九州西北部は、朝鮮半島と 本 大陸と向かいあっている。この地域は、大陸の鼓動をまさにそのまま皮膚感覚として受けとるの 冫たいへん だ。朝鮮は壱岐、対馬を仲介に小舟でも自由に航行できる距離にある。現在のようこ、 無理をした人工的な政治の壁が隔てぬかぎり、この地域はきわめて強い親近感をもって大陸や朝 鮮に結合するはずである。その感覚感情は西日本といちじるしい共通性をもつ。かれらと実際上 の 具体的なそして直接的接触関係にある日本人は、かれらに対してほとんど外国人意識をもたない 戮のである。ただその反面、対立するときは極端な憎悪となって現われるのは、いわば親類間の憎 悪が、他人間との憎悪より複雑で深刻な結果をもたらすのと似ている。 瀬戸内海の日本史上の意義は、しかし、このような対外関係にあるのではない。それは原始時

2. 日本の風土と文化

108 端的な立場しか占めることができなかった。それに対し大阪は、紀州や岡山などの瀬戸内海沿岸 や徳島、高松など四国の対岸からの移住民を主体とし、遠く北と東九州と直結している。京都は、 西日本における北陸・山陰の出店である。逆にいえば、一部の江州商人は別として、北陸や山陰 人は瀬戸内海人に圧倒されて京都より西部へ進出できなかったのである。気候的にも京都はむし ろ北陸的である。神戸へ通っていた私は、秋に京都を雨支度で出かけ、からりと晴れた神戸でよ く恥をかいた思い出をもっている。 京都と大阪をつなぐものは、風土的条件ではなく、まったく淀川という大動脈にほかならない。 ここで京都を「西日本」の特殊地域としてとりあげたことを、記憶しておいていただきたい。 「東日本」にも「西日本」にもこういう特殊地域があり、それが大きい役割を果たすことはあと でとりあげる。 「東日本」は、この瀬戸内海のような、東を一帯化し、関東へ求心する自然的要素をもたない。 私は「東日本」が一体になったのは、攻撃的な「西日本」に対する受身としての共通性であると 考える。しかも、その受身は、小さな日本本土の東・北という、まとまりやすいというより、ど うしてもまとまらねばならぬ一体をなしている。こういう条件下では、ある程度の政治力ができ れば、それが大きい求心的作用を果たす。鎌倉時代では湘南から伊豆が、江戸時代では江戸とい うまったくの人為的集団地域が「東日本」を統一する中心になり得たのである。統一の中心への 自然の交通路は存在しない。それはむしろあとから人為的に構成された。物資の交換の必要のな

3. 日本の風土と文化

106 西の中心地帯は瀬戸内海沿岸と関西である。西世界の辺境ないしは周辺部というのは、北陸の 一部、山陰、西九州、南九州、南四国である。 東の中心地帯は関東である。準中心または中心周域というのが中部の甲府地方、東海道沿岸、 福島などの地域で、周辺が東北、北陸の一部、長野などの地帯である。なぜ東日本だけ三区分に なるかというと、東日本を一つの統一体にしているのはたいへん政治的な要素が強いからだとい えよう。北海道は歴史的にはほとんど作用しないので考察から除外したい。 ここで問題になるの は、東と西との境界であり、中心部への求心性が何であるかという点であろう。 西側の東限はふつう鈴鹿山脈であり、琵琶湖北端だと考えられる。東の西限は長野であり、三 河までであろう。伊勢湾沿岸は中間地域である。しかし、距離の関係上歴史的には関西圏と一体 をなしてきたことが多い。はっきり関西圏から区別されるのは、三河からである。 北陸は区分しがたいところだが、しかし、歴史的には実に新潟付近まで関西圏に属している。 富山までが、東京色にそめられたのはまったく第二次大戦後のことである。 西側を統一しているものは実に瀬戸内海という自然条件である。瀬戸内海は、近代まで日本の 帆船が危険にさらされることなく、しかも常時就航できた唯一の海である。三千八百余といわれ る日本の島の八割、三千余がこの海に集中している。島を絶えす視界に入れながら航海できると いうことは、最も原始的な技術の時代でも遠距離の航行をも可能とすることである。地中海の多 島海とともに温帯では世界にただ二つの珍しい例をつくっているのが瀬戸内海なのだ。この天然

4. 日本の風土と文化

理山は比較的簡単に解明されよう。主として地理上の条件からである。 日本の中心は古くから西日本、つまり近畿以西にあった。この西日本は瀬戸内海という自然の 通路で結ばれ商業が営まれ生き生きと動いていた。近代以前は船でなければ、商品を多量に運ぶ ことはほとんど不可能だった。しかし、その船も航海に安全な海がなければならない。瀬戸内海 が絶好の航路で、冬季以外の日本海沿岸がそれにつぐ。東日本や北日本はこの条件に乏しく、徳 川時代まで繁栄からとり残されていた。東北にいたっては明治まで、あるいは現在まで、太古以 来あまり変化のないみじめな生活に呻吟をつづけていたといえる。 立国境地に発達した忍法瀬戸内海の東端は大阪になる。しかし、そこには淀川という水量が豊 」かで、水源として琵琶湖をもつので、流水量の変化の少ない天然の大運河がある。ここを経て、 本 西琵琶湖にいたり、深く切りこんた敦賀湾へ出て、裏日本と連絡する商業路は自然に開かれる。京 都・大津間、賤ヶ岳などわすかの山地で切断されるにすぎないからである。しかし、濃尾の方へ 本 出るには、それにくらべはるかに困難である。関ヶ原、鈴鹿を越えても、中心地である名古屋に 東 到達する道は遠く、河川にめぐまれない。海からではどうかというと、紀伊半島がはるか南に突 の きだし、熊野灘の大波が航行をはばみがちである。どうしても、鈴鹿山脈が国境にならざるを得 の 哽ないのである。 こうして鈴鹿以東は、西日本から離れる可能性がある。生活条件、たとえば、住なら西日本の たたみ割り式の部屋区分から柱わり式になる。言葉も京都式アクセントでない。『万葉集』でい

5. 日本の風土と文化

雑色混色の世界 ( 一一 0 瀬戸内海と商業 ( 一一九 ) 海と取引のもたらすもの = 商人精神 ( 三 0 ) 「東日本」をつくるもの 純粋農業社会のもたらすもの ( 一き 閉鎖的社会 ( 三 0 貧しき農民たち ( 一三 0 ) 下士官的精神世界 (llllll) 東西の対立抗争としての日本史 徳川時代までに「東」と「西」は二度ずつ覇権をとった ( 一三五 ) 江戸幕府ーー鎖閉自立とマゾヒズム ( 一三 0 明治には「西日本」の精神が生きかえった ( 一巴 ) 戦後日本の「東日本性」 一億総農民化時代 ( 臨 ) 歴史のなかの「裏日本」 古い日本を継承 ( 一四七 ) 農業の合理化問題 ( 一哭 )

6. 日本の風土と文化

「西日本」をつくるもの 「西」の四季とあわたたしさ前章で松茸を食べ物の話の最後にもってきたのは、単なる思いっ きからではない。それは西日本風土の象徴たからだ。 松茸ほど徴妙な秋ロの変化によって、極端な豊凶と味わい 正確にいえば香りーーの差を生 竝ずるものはない。それが繁殖するためには、九月の気温が高くなければならぬ。南方から流れき 」たって、九州に当たって二つに分かれ、日本海岸と本州南方を北上する黒潮が、九月に入ってな 酩お暑さをもたらす根源である。そののち、たえす西日本をおびやかす台風が、多くの雨をもたら す。そのときには上層気流はすでにつめたい大陸の風を送って秋晴れの原因となっている。十月、 日台風が南方へ遠ざかるとそのあとへ秋が足早に訪れてくる。この三者が見事な順序で到来しない のかぎり松茸は不作になるのである。秋が早く訪れる東北地方、台風の襲来がもたらす雨の少ない 東部東海道、冷たい西風を幾重もの山脈でさえぎられ、秋の訪れのおそい南方地帯には、西日本 の 歴でも松茸は生じる余地がないのだ。 瀬戸内海沿岸と近畿に住む人間にとって、とくに強く感じられるのは、四季の変化のあわただ しさであり、多彩さである。八月の中旬にはもう思いがけぬ冷雨が訪れてくる。かと思うときび

7. 日本の風土と文化

120 代から西日本を交換経済のなかにまきこまずにはおかないような強大な交通路である。地中海に 突き出したイタリアや、さらにそれより比重ははるかに軽いにせよ、ライン河がその中央を流れ るということと、ヨーロッパの中心に位置したという二つの地理的条件によってドイツは、一個 の通路国家としての運命を担いつづけてきたといわれる。この両者が分裂をつづけ近代的統一国 家になるのがおくれたのは、これが大きい原囚だとも考えられている。この地ではたえず物資が 流動した。経済史家。ヒレンヌの言葉によれば、「最初に商業ありき」である。 西日本、瀬戸内海沿岸は、この言葉を借りれば「通路地域」である。流れる物資、その交換の 担い手は時代によって変化する。いや、いかなる民族、いかなる社会層が、それの担い手になる かが時代を決定するものであったろう。しかし私は、この地域は絶えず物が流れていたこと、 つの時代のいかなる生産も、直接間接に商品生産と関係することなしに営まれることはあり得な かったことだけを指摘しておこう。 面倒だからきわめて簡単に概括すればこうである。西日本は船による商業の世界である。それ を握ったものが覇者となる。神功皇后、平清盛、足利尊氏、義満、信長、太閤秀吉、それらの名 は、すべて水運、それも海運とともにあることを思い出していただきたい。 海と取引のもたらすもの = 商人精神商業の発達は偶然的な取引から、恒常的な取引へ、略奪か ら詐欺へ、詐欺から合理的取引へと発展することは、だれでもが指摘するとおりである。ただ私 は船によるかなり遠方との取引というものが、それに従事する人間にどのような性格を与えるか

8. 日本の風土と文化

しかし、私たちはこの考え方をさらに進めることができるだろう。 武士は、京都の荘園所有の貴族たちとちがって、その武力で農民を直接的に把握し、支配して いた。だからその武力の性格は、その地の農民のあり方と直接的な関係をもつにちがいない。っ まり、その武力の性格は、その地域の社会の構造と密接な関係をもつはずである。武力の性格に 東型と西型があるのは、当時の日本の社会に西型と東型があることを示すものでなければならな いであろう。 このような考察をさらに深めてゆくと、日本の全歴史時代を東と西の交渉、戦い、覇権の交代 竝の歴史として見ることができよう。それが私の意図である。 の あとで、やや詳しく問題にするが、ここで簡単に私の日本史の構造について述べておこう。 本 じようもんしき 繩文式土器の時代は、東日本が人口、生産力ともに西日本を圧していた時代であり、「東日本 時代」である。そこへ西方からの新しい政治と文化の勢力が侵入してくる。その一つが近畿に根 日をおろし、やがて大和朝廷となって、ほぼ日本全土を支配するにいたる。奈良平安朝はその続き としての西日本時代である。 の 鎌倉時代は、ようやく開発された東国に根をおろした武士団が、京都の支配に反撃を成功させ の 歴た時代である。統一された世界としての日本最初の東方的なものの支配の時代である。同じよう な武家の支配である平家の支配は、まったく西日本的であった。根拠地も瀬戸内海沿岸であった。 南北朝は、この東方支配に対する西の反撃時代である。室町幕府への移行は、西側どうしの争い

9. 日本の風土と文化

114 ともび「たりしない。西日本人は東日本人にくらべて風呂に入る回数が少ないといわれる。小原 庄助のように朝湯のため身上ー・・、・西日本なら身代であるーーをつぶす人間は西日本にはいないと いうことになろう。 関西の風呂は蒸し風呂の伝統をもつ。長州風呂のように釜で下からたく。風呂場全体をあたた めるのである。風呂桶ーー、湯舟ーーは決して独立に考えられない。風呂桶の中で身体を洗い、あ とはあがり湯で流し、風呂場から出て休息する。風呂桶の中で身体を洗う慣習は、関西的な公衆 道徳の低さだなどという非難は、この伝統を知らないところから来るものであろう。行水はこの あがり湯をかぶるだけの、つまり蒸し風呂を省略した夏季用のものである。江戸の湯は、江戸城 内でも湯舟の中〈熱い湯を上からそそぎ入れるものであ 0 た。東日本の浴場は広くて寒い。蒸し 風呂の伝統をま 0 たく欠いているものといえよう。 関西風で、あるいは西日本風の「たたみわり」と「柱わり」という部屋の設計の差も見事な対 照を示す例である。柱の中心から、中心までを計算の基礎にするのと、一定した大きさのたたみ で何畳というふうに数えるのとの相違である。たたみの大きさには関西風の六尺というのと、も 「と大きいのやいろいろある。要は方式の相違である。この相違は、西日本のたたみ、東日本の 茣座、という住み方の相違である。苧の敷物は東北、関東、北陸特産であり、「たたみ」にはな りにくい。「たたみ」用の草は瀬戸内海沿岸の特産である。 「東」と「西」の家族制度「西日本」は、母系制的ないしは母権制的である。その婚姻形式は ぐさ

10. 日本の風土と文化

を把握してきた下賤なその供奉人の武士が実権を握る。平家の政権である。平家が源氏など一般 武士層を圧倒するだけの力をもち得た基盤は、宋との取引とそれにつらなる瀬戸内海の海上貿易 をおさえたことによって得られた。古くからこの交通による利益は、貴族や僧侶のものだった。 その地位を、商業とより密接な関係にあった武士、すなわち平家が専有するにいたったのは当然 だといえよう。それはいわば海賊だったり商人の護衛者であったものが、支配者、統率者になっ たという進化である。 清盛が音戸の瀬戸の開鑿や巌島神社の修築に異常とも見える努力を集中したのは、この交通の 直接把握を目的としたものであったことはいうまでもない。しかし、それは商人化の前進である とともに、同時に自分自身を貴族化し僧侶化する道に自然つらなっていた。平家は商人の保護者 で搾取者である武士であり、統率者で寄生虫である貴族・僧侶の三者の性格をおびるものとなっ て、あの繁栄を誇るにいたったのだといえよう。 関東の源氏の反撃は、「商人」武士に対する「農民」武士の戦いである。その勝利は、「東日 本」の勝利だった。鎌倉幕府の性格は「東日本」の性格である。「東日本」の閉鎖性は家長制的 げんこう 団結であり、元寇の役や、あらゆる面に現われた防御的性格であり、貧困さは簡素の気風として 現われている。文学や芸術などに見られる空想性の欠如も、「東日本」の主導性の文化であるこ との現われである。閉鎖的な農民と農民的武士の精神を反映した芸術は、現実的で、写実的で、 装飾性や空想性に反発するのは、どこの国でも同じことである。彫刻も、古代から「西日本」に