ほうでは、個人で孤立してやっているというのはむしろ少ない。けれども、人文科学、社会科 学のほうでは、孤立して勉強する風潮が多かったのです。私たちのグループは、戦後日本で共 同研究の方法を人文科学、社会科学の分野に応用した最も早いグルー。フの一つであった、と言 ってもうそにはならないだろうと思っています。 そういう方法で、どういう仕事をしたかと中しますと、ます、フランスのルソーの研究。 ソ 1 の『告白』や『社会契約論』は皆さんご承知だろうと思います。そのルソーという人は小 説家でもあり、哲学者でもあり、教育学者でもある。政治学もやり経済学もやる。音楽の作曲 もやる。たいへん幅の広い人です。そうすると、かりに私なら私がひとりでやりますと、ルソ 1 の文学者としての面はわかりますけれども、彼の政治思想とか経済思想とか、あるいは彼の 平和主義ということになると、どうも弱いのです。そこで経済学者に参加してもらう。それか ら『社会契約論』は、いまのデモクラシー、主権在民のもとになる本ですけれども、政治学あ るいは法律学の領域ですから、その方面の学者にはいってもらう。音楽についても、また専門 家の意見を聞く。ルソーについて、いままで一人でやった立派な仕事がないわけではないので すけれども、たいへん幅の広い人ですから、それそれの専門家に集まっていただいて、私は年 かさでもありますから、座長といいますか、まとめ役になる。そして一週間に一ペんずつ討論 のをかさねていく。こういうことをやってみたわけです。つまり、それそれの専門でいい仕事を している人を集めて、そして共同の目標をもってみんなで協力してやる。この方法は多角的な 261
っている。ところが日本は白瀬隊以来数十年、極地を踏んだ人間が一人もいない。それに氷雪 に無経験な科学者が二、三十人も本観測で越冬するのは、まさに無謀の極である。まず前年度 に少数の身体強壮で、登山に経験のある者が越冬して、資材や食料などの使用成績を刻々に通 報し、本観測の準備を完全にすることが不可欠だ。こんなことをいうと、常識だという人があ るだろうが、常識になったのは最近のことである。げんに一月二十九日、昭和基地に日章旗が あがったという = = ースをきいて、新聞紙上で天下の名士はことごとく「成功」という言葉を 使い、越冬基地ができぬかぎりまだ何とも中せませんといったのは、西堀美保子夫人一人だっ たのだ。私は成否未定と判断して、祝詞はさしひかえ、ひとり気をもんでいた。西堀栄三郎を 茅学術会議会長に推薦したのは私たちだからである。 西堀は最初から予備越冬の不可欠性を確信していた。しかし、彼の説が認められるまでに、 いかに大きな困難があったかを知る人は少ないだろう。第一に、越冬は当初の予算に計上され ていなかった。そしてお役人とは、目的とする事がら自体よりも、そのために組まれた予算そ のものを神聖視する人種である。次に、極地にわずか十人ばかりを置き去りにするのは危険た という反対が出た。そして西堀は冒険主義者扱いされた。実際はその反対で、小人数の方が危 険率の低いことは内地の冬山をみてもわかる。しかも、これは内地の話ではない、事業そのも のに危険がともなうのに、全く危険のない仕事のような顔をして進行することこそ、冒険主義 ではないか、と彼は反論するのである。そしてオーストラリアやアメリカへ行って、極地経験一
人を知る明というものは大切だ、と私は思っている。それは人と長年つきあってから判断す るのではなく、ある人の仕事と人物に短時間接しただけで、人物を見ぬく技術である。直観も 必要だが経験もものをいう。 役所とか会社とか組合とか、組織を動かしてゆく人間には、この人を知る明は不可欠であろ う。しかし、すぐれた芸術家や学者で、この能力はさつばりないが偉い人もある。 私は戦後十二年、ある研究所の一部門の主任のような地位にすわっていたので、この明がな 先かったということになると困るのである。鶴見俊輔に「先生は、どうして、分裂症的傾向のも のばかり集めたんですか、ぼくもその一人だが」といわれたのは、たしかに痛い指摘だったが、 の 明 学才を見るメガネに大した狂いはなかった、と思うことにしている。 る をところが文学者については、サンタンたる成績である。 人 三好達治、丸山薫の二詩人については、三高のクラス雑誌や学校文芸部誌にのった作品のこ 人を知る明のない先輩 185
は中井はアカだと言いふらした私の友人の言語学者江実が、ラチモワの推薦で (..D Ⅱにつと めていたので、私は江に中井の苦境をつたえた。その尽力で ()5 Ⅱは中井支持の態度を明確に し、リべラルな中井を党員などと中傷する者はやつつけるといった。事件がおさまったので、 三人で一タ酒をのむことになった。 私はあまり飲めぬのだが、二人は完全にいい気持になった。新宿の大通りへ出ると、二人は 自動車をつかまえるという。タクシーなどほとんどないころだ。手をあげて止める車はみなア メリカ兵が乗っている。そのうちに。ヒストルを振りまわしながら、ジープからおりてきたのが、 お前たちはカラな気か、などとすごみ出した。英語は得意なんたと威張る二人を、私は通りか かった市電におしこみ、やがてタクシ 1 にめぐり合い、河出書房社長の家にいった。赤坂の山 王の近くにあったその宏壮な邸宅の離れに、そのころ中井は住んでいたのだ。 洋風の応接間に通され、河出孝雄がジョニ 1 ウォーカーを一本さげて現われた。すると中井、 江の二人が声を合わせて「おれたちはプロレタリアだ。出版資本家はさがれ ! 」などとヤジる ので、主人はあきれて私に、どうそよろしく、といって姿を消した。朝の四時まで楽しんでい たのだから、その間、酔度にも昇降があったらしい。ともかく私は次のような場面を記憶して 「美・批評」「世界文化」の話が出て、私が「中井さん、あんたはヤラれる覚悟でやっていた の」と聞くと、 172
とらえ方ができるということと、もう一つは、これは私の好みもはいるのですけれども、仕事 のスビード・アップができる。日本では「十年一日のごとく」といって十年も同しようなこと をやることがほめことばになっている。これはしかし科学の時代からみると、停滞ということ になるかもわからない。そこで一人でルソーを十年かかって書くかわりに、十人のものが集ま って、鉢巻をしてがんばって、一年で書いてみよう。やつつけ仕事はよくないけれども、逆に、 時間をかけてやったことが必すしもいいわけではない。それで研究の協力体制とスビード・ア ップを考えたわけです。 そのとき、それではイデオロギーはどうなるか。単一イデオロギーでなければ共同研究はで きぬという人があるが、私はそうは思いません。つまり左と中間と右と、それそれの考えをも つ人々が、自分の思想を捨てるわけにはもちろんいかぬけれども、相互の立場を認め合いなが ら、対象を客観的にとらえるという点で、お互いに広い心をもってできるかぎり協力する。そ のまとめ役を私はやったわけです。山登りにはリーダ 1 がいる。音楽には指揮者がいる。ヴァ イオリンがうまい、ビアノがうまいというのも大切だが、そこにタクトを持っ指揮者がいなけ れば交響楽にはならない。 学問にもそういうものの価値がみとめられるとするならば、私がこ こ十五年ほど共同研究をやってきたことにも多少の意味があったかもわかりません。 ( 一九六四年一月六日から十一日まで、放送・一週間自叙伝 ) 262
桑原をやつつけたところ、それが河野さんが東北大学へつれてきた男とわかり、「失敗セリ」 いかに , も ~ 戊 と書いてある、ということを人に教えてもらった。「失敗セリ」というところは、 吉的で面白いのだが、茂吉論はよす。ただ、河野先生が三木清の追想の中で、「いつも三木の 話が出ると弁解に回りながら、相手に通じさせることの難しさを悟ったーと書いておられるの を最近よみなおして、三木清と私とでは大小、軽重の別はあっても、類型的な心配をおかけし たことが多かろう、とやっと気がついたのである。 しかし、私が河野先生の弟子だと気づかなかったのは、斎藤茂吉における不明でも何でもな そう思うのが当然なくらい違っているので、そもそも私が河野先生のことを書きはじめた のはおかしいと思っていられる読者も多かろうが、私は先生の最も古い生徒の一人なのである。 貝塚茂樹、三好達治、丸山薫、谷口孟 ( 日銀 ) などとともに私が、京都の第三高等学校の文科 丙類 ( フランス語を第一外国語とするクラス ) に入学したのと同時に、河野先生が東京から仏語教 官として着任された。主任の折竹錫先生がフランス留学中だったので、河野先生は弱冠二十七 歳をもって、いきなり仏語科の全責任をとられた。見事な成功だった。三年のクラスには杉捷 . 夫、河盛好蔵、水野亮、前川堅市、山田九朗、大坪一などの秀才がいたが、一年間デカルトを 習ううちに、河野先生にイカれ、多分 ( 以下、文中に多分の二字を用いない。厳密にいえばす べて多分になる ) その影響の下にみな、いやこの他に失名者が二人あって三十数人のクラスか ら八人まで、大学はフランス文学科に進学するという盛況を呈した。しかし、これらの諸君は 、 0
業中に小使が「 * * さん、校長室でお呼びです」といってくる。公然と授業を怠けられるので 皆たのしみにして待っていた。行くと茶を出し、将来の方針をきいて、あとは二十分も雑談で ある。実はこんなことは忘れていたのだが、昨年中国へ行って思い出した。広州で中国の学者 たちと討論会をすませ、宴会になったとき、一人の日本語のうまい物理学者がいた。三高の出 身で旧クラス担当の山本修二さんに手紙を託したりしたが、森校長のことを懐しんで語った。 例の面接のさい、夏休みに旅行するというと、先生は色々注意をあたえ、とくに駅売りの安ア イスクリームなど食っちゃいかん、といわれた。 ( そのころその中毒事件が頻発していた。 ) 校 長みすからが学生一人一人を親身になって考えてやる。新しい中国で自分はこの森校長の精神 をそのまま生かしたいと努力している、とその教授はいった。私は嬉しくも思い、また一個の 人間の一行為の影響ということを興味ふかく感じた。 しかし、それは後に顧みてのことで、在学中は何だかっかみどころのない先生だという印象 を免れなかった。私たちの二年生のとき山岳部ができ、その部屋をつくってくれと何べんも交 渉したが、話はいつも要領をえなかった。さきに京都一中は行動的人物を出さなかったと言っ たが例外もある。一中から三高へ入った仲間には、カラコラムへ行った今西錦司、南極観測の 副隊長西堀栄三郎、い ま京大教授の四手井綱彦などがいて、これらの諸君が三高山岳部を創り、 日本の登山界に特異な流派を生み出したのである。日本人の海外遠征は彼らが始めたのだが、 ツ。、 ヨーロ ・アル。フスを知らすに、朝鮮、満州、蒙古、南洋、ヒマラヤ、南極をめざし、その
使ってみたくなったのです。西洋の本に書いてあることをそのまま日本には使えませんけれど も、応用間題としてみればどうなるかということを考える。つまり本をありがたがって読むだ 2 けでは、冊数がどんなに多くても、頭のお蔵に納めたきりになって使えない。私は十冊の本を 読めば、十冊としてそれを使いたい。本もやはり一つの道具ではないか、そういう考えを比校 的若いときからもっていたのです。リチャ 1 ズをお読みになっている人は日本に以前からたく これは さんあるのですけれども、それを使って『第二芸術』のような仕事を試みた人はない。 本の読み方についての私のやり方の一つです。 私のいまの本業は、研究所で勉強することです。私は大したことはできませんでしたけれど も、本業でなにをやったかというおたずねをうけるとしますと、それは共同研究をやったこと である。共同研究と中しますのは、個人研究に対することばであって、一人の学者がひとりで 自分の書斎にとじこもって、本を読み、あるいは実験をし、学説をあみだし、また本を書くと いう個人研究、これはたいへんりつばなことでありますけれども、いま学間の対象が漸次大き くなり、一人で考えるよりみんなで討論をし、みんなの考えついたことをもちょって修正しあ い、たたきあい、そして進んでいくという共同研究、これは自然科学のほうではすっと前から 行なわれている。たとえば、日本のかがやかしい誇りであるところの素粒子論の研究、あるい は霊長類の研究、これらは共同で討論し、共同で観察をすることで業績をあげた。自然科学の
高の先輩かっ旧職員として調停に入りたい。諸君はすぐストを解く、学生側は処分なし、校長 の進退は自分を信じて委せろ、という条件だが、委員長との橋渡しをしてくれといわれる。私 はすぐ中村君をたすねて薄暮同道して坂口邸に行った。そして夏体み中に校長は転任し、学生 側は一人の処分もなかった。こんな一方的勝利は学生スト史に空前絶後であろう。そして新学 期に現われた新校長が他ならぬ森外三郎先生だったのである。 森先生は慶応元年 ( 一八六五年 ) 金沢に生まれ、一高をへて東大の数学科を卒業、三高の教 授を十六年っとめた。坂口博士や私の父はその頃の同僚である。やがて学習院に転任されたが、 一年で辞職してイギリスに留学した。学習院では学生ができぬといってクラスの半分以上を落 第させたが、そのうちに貴顕の子弟が多く、院長と口論して破裂したのだと聞いている。この 頃の著書『新主義数学』は遊戯的な数学を排し、最初から解析の方法によって図形の観念を教 えこもうという新主義であって、日本がこの戦後に採用した方向の先駆をなす名著であった。 帰国して一中にジ = ントルマン教育をしたこと十二年、五十七歳で三高の旧職場に戻ったので とあった。しかし別に新方針ということもなく、自山放任、無為にして化す、というのであった のらしい。式はなるべくやらず、やっても訓辞が短く、教育勅語を読なときは、きっと読みそこ ね、明治二十三年十月三十日というところを必す大正二十三年と間違うのを、私たちは面白く 思っていただけであった。 たた一つ新しい試みといえば、校長が新入の全学生の一人一人に面接することであった。授
きた私服に知らせておいた。一人一人別に、外套など着ないで、便所へでも行くようなふうに して、と指示した、そのオルグの私が定刻五分前くらいになると落着かないのだ。一ばんあざ やかに脱出したのが郭さんで、刑事が一ばんもたついた。郭さんは肥満していて、いつもは悠 悠と歩くが、いざとなると実に行動迅速なのに驚いた。国交未開だから、警察は保護ないし監 視の権利がある、ということは郭さんも諒解していて、刑事諸君冫 こ実に人間的につき合ってい たが、それは花をもたせているだけで、役者は段ちがいだった。私は『日本脱出』を思い出した。 料理屋では、お客を知って特別に濃厚なものを品多くならべた。もとより小食の私は参った が、郭さんはほとんど残さず、そのあと特に注文しておいた河道屋のザルソバを二つまで片づ けた。何というおなかだろう。 酒もまた強い。大阪へ着いた朝、中国見本市を見たあと、見本市側の招宴があり、日本側も 十人ほどお相伴した。私は令息郭和夫さんのお嫁さんのお父さんや、日本語の上手な数学者蘇 マオタイしゅ 歩青さんなどと卓をかこんだ。茅台酒という貴州の名酒が出ていて、蘇さんにすすめられて一 杯だけ試みたが、七五。 ( ーセントという、ウォトカなど足許にも及ばぬ強酒だから、ロざわり 面のよさにだまされては危いと思って、ブドウ酒でごまかしていたが、酒豪の蘇さんが酌するの の で、すでこ 冫いい気持になった終宴のころ、うしろから不意に私の背中をカづよくたたいて、 氏 沫「おい、クワパラ、一ばい飲め」 郭 という声がかかった。ああ、しまった、また日本人が酔っぱらった、これだから困る、これ 101