ければ問題外だが、もし成績良好の場合にただ三高でスト処分されたというだけの理由で忌避 しないように、と懇願してまわられたのである。京都一中時代の教え子に各大学の教授が多か ったことも先生の仕事に好都合だった。私は寒々とした冬の大学の構内を、六十五歳の老人が とぼとぼ歩いておられる姿をよく見かけて感動を覚えた。処分学生の大多数はこうして大学に 進なことができ、いまはそれそれ立派に社会で活動している。 こうした工作が一わたりすんだ翌昭和六年の一月十日、森校長は三高を去った。引責辞職と いうのである。文部当局も、また友人、同僚も、その必要なしと引きとめたが、先生は一顧も しなかった。退官の日、職員、生徒を講堂に集めて、あいさっされた。自分は三高に半生をお り、実はいつまでもいたいつもりであった。しかし、不徳の故にあのような大事件を起し、 世間をさわがせ父兄を悩まし、ことに多くの犠牲者を出したことは三高の光輝ある歴史をけが すもので、何とも申訳がない。私がやめたところでその汚点は消えるものではないが、私とし てはその責任を取らずにはすませない。事件落着直後やめるべきであったが、やめさせた学生 のこと , も、いにかか りぐずぐず今日に及んだことは、まことにお恥しいが許して頂きたい。教 官ならびに生徒諸君は一そう勉学につとめ、三高の精神を守り名誉を回復してもらいたい。私 は退いて静かにそれを見ていたい、 という趣旨で、さらに語をつぎ、自分は三高へきたのは明 治二十七年で、一生をここにささげるつもりだった : : というあたりから言葉がとぎれとぎれ になり、あとは全く沈黙してしまわれた。居ならぶ教授たちも壇上へたすけに行くわけにもい
森外三郎先生のこと かず、水を打ったような講堂に、先生が ( ンカチを出して鼻をかむ音のみが聞えた。二、三分、 そのまま降壇、退場される先生を送って、泣き声のまじった校歌が歌い出された。先生はその 後、京都郊外の向日町に悠々自適されたが、昭和十一年三月六日、七十二歳で亡くなられた。 よき時代のよき教育者、それを今日において再現せよとは誰もいうまい。できないことであ る。しかし、そこから汲み取るべきものはあろう。敗戦後、学生運動が高潮に達し、さまざま の事件が起り、多くの処分が行なわれた。その処分は己むを得ざるものであった。しかし、 かに乱暴を働いたにせよ、年若い青年を多数処分した当事者側からの自己反省の言をきくこと は極めて稀れである。つねに学生の本分を説くものは、同時に教育者の本分を自省せねばなる まい。私はやはり森校長を思い出さずにはおれない。 ( 一九五六年十二月、「文藝春秋」 )
高の先輩かっ旧職員として調停に入りたい。諸君はすぐストを解く、学生側は処分なし、校長 の進退は自分を信じて委せろ、という条件だが、委員長との橋渡しをしてくれといわれる。私 はすぐ中村君をたすねて薄暮同道して坂口邸に行った。そして夏体み中に校長は転任し、学生 側は一人の処分もなかった。こんな一方的勝利は学生スト史に空前絶後であろう。そして新学 期に現われた新校長が他ならぬ森外三郎先生だったのである。 森先生は慶応元年 ( 一八六五年 ) 金沢に生まれ、一高をへて東大の数学科を卒業、三高の教 授を十六年っとめた。坂口博士や私の父はその頃の同僚である。やがて学習院に転任されたが、 一年で辞職してイギリスに留学した。学習院では学生ができぬといってクラスの半分以上を落 第させたが、そのうちに貴顕の子弟が多く、院長と口論して破裂したのだと聞いている。この 頃の著書『新主義数学』は遊戯的な数学を排し、最初から解析の方法によって図形の観念を教 えこもうという新主義であって、日本がこの戦後に採用した方向の先駆をなす名著であった。 帰国して一中にジ = ントルマン教育をしたこと十二年、五十七歳で三高の旧職場に戻ったので とあった。しかし別に新方針ということもなく、自山放任、無為にして化す、というのであった のらしい。式はなるべくやらず、やっても訓辞が短く、教育勅語を読なときは、きっと読みそこ ね、明治二十三年十月三十日というところを必す大正二十三年と間違うのを、私たちは面白く 思っていただけであった。 たた一つ新しい試みといえば、校長が新入の全学生の一人一人に面接することであった。授
始業のベルがなると先生方は悠々とタバコに火をつけ、それを一本すませて腰をあげる。教室 の授業は学的水準は高かったらしいが、それは三十分くらいで切上げ、「こちとらの若い頃は」 といったメートルをあげる。学生の人気絶大なので、一緒に校長にたてつくといったふうであ った。そうした内情はともかく、学生は「恩師のために」という儒教倫理的なスローガンを掲 げて立ったので、世間の同情は集まり、新聞も応援した。まだ左翼というものがない頃だから ( 三高で社会間題研究会ができたのはこの翌年 ) 、集団行動に対する特別の嫌悪感はとぼしく、 先輩の学者たちも多く生徒に同情したので文部省も弱った。 二、三年生がストするには理山もあったが、私たち新人生は「恩師」の顔を一度も見たこと がない。それに全員参加したのだから付和雷同のそしりは免れがたい。私は三好達治などと共 にクラス委員に選ばれ、機嫌よく活動していたのだからさらにおかしい。スト委員長は今は日 立製作所の重役をしている中村隆一君。彼に率いられて全校八百人が長蛇の陣をつくり、「そ れ頑迷は鉄拳の血汐ふらしてくだくべく : : : 」などという校歌を合唱して校長官舎に押しよせ た。遙かに見ると、委員長は一言二言タンカを切ったと思うと、手にもった排斥決議文を校長 の玄関の床に。ヒシャリと叩きつけた。一流の演技だった。そのうち全学生が「不心得につき二 週間の停学」に処せられたが、折りから行楽の好季節で楽しみこそすれ反省するはすはない。 ある日、私に京大文学部の西洋史の教授坂口昻博士から、ちょっと来てくれという電話がか かった。坂口さんは父の親友で、私はまた令息の親友だから、よく知っていたのだ。先生は三
です。それを相当手きびしい調子でやったわけです。これが俳句からさらに短歌にまで及びま して、反駁する人と支持する人があらわれて、たいへんにぎやかなことになったわけです。 どうしてそういうことを考えついたかというと、イギリス生まれの学者で、いまアメリカの ーヴァード大学にいらっしゃいますが、 —・ < ・リチャーズという文学研究家がありまして ' べ 1 シック・イングリッシュ ( 基礎英語 ) を考えついた人として英語学界ではっとに知られて いた人です。この人が『文学批評の原理』という本を書いているが、そのなかに、いろいろな 詩を見せて、学生がどのようにそれに反応するかということを実験的にやった仕事があるわけ です。たとえば、ここに大詩人の作品がある。学生が読んだら、みなおもしろがるだろうとひ とりぎめにしているけれども、さて読ませて感想を書かしてみると、てんでわかっていない。 そういうことがいろいろあるわけです。私は戦中。戦後の俳句にひどく不満だったものですか ら、素人の俳句と有名俳人の俳句とをいくつか選び出して、そのころ私は仙台の東北大学にお ったのですけれども、学生や同僚の先生方にそれらの俳句を読んでもらって、感想をきいてみ ると、一流の俳人と素人との区別のつかぬ人が多かったり、いろいろのことがわかったわけで す。それが『第二芸術』というものを書いた動機です。 道 この評論の価値は皆さんのお考えになることで、自分からいうべきことではありませんが、 2 私の勉強の仕方と多少関係があるかも知れません。私は本を読みます。しかし本を読む率は小 私 . 学、中学のときがいちばん多く、あとになると、本を数多く読むよりか、読んだことを実際に 259
夏服を着てきました、と組長が答える。仕方がないから型のごとく「軍事教練の目的如何」と きくと、学生たちは「団結精神の高揚、それ以外にありません」と一様に答え、中には軍事教 練の批判をあえてする者まで出て、メチャメチャになった。軍事教官は学生の前でひどく面罵 され、査閲官閣下は、このような醜態をもう一年つづけるなら本校の査閲の廃止を上申する、 と怒号して帰った。これには学校も大分弱ったらしい。私は講師で教授会には出ないから、ど ういういきさつがあったか知らないが、ともかく生徒の処分は何もなかった。 この夏服組が卒業した翌年の春、私が教室へ行くと生徒が、先生のいた頃のストライキの話 をして下さい、とせがむ。教科書の進度を食いとめるために、こういう作戦を弄するのは当時 普通のことだった。二十五歳の私はいい気になって思い出話を一席やり、どうして処分なしで すんだかという質間にまで答えて、クラス全員が連判状をつくって結東し、クラス委員が処分 されたら、全員が同一処分を要求し、総退学を辞せず、と声明した事情まで話した。 その翌朝、登校すると、校門は厳重にとざされ、校舎の屋根には至るところ赤旗がヘンポン とひるがえっている。 ( 三高の応援団の旗は赤で倉庫に山と積んである。 ) 中へ入ろうとすると、 衛兵が阻止する。一夜のうちに学生が学校を占領し、ストに入ったのである。そのころイタリ アで工場占領というのが流行していたが、それをモデルにしたのに違いない。私は学校に入用 な本やノート がおいてあるから是非入れてくれというと衛兵が、それしや本部へ行って聞いて くるという。やがて戻ってきて「桑原さんなら通してもよかろう」ということですから本だけ
たから大丈夫だろう。戦争中、創元社で名著の再刊をやるというので、私が紹介状を書いて編 集者をお宅へ行かせたが玄関ばらいだった。戦争中にあんな本を出してほしがる方が無理だっ こ。戦後、同社から出たが書評されたことはない。 日本の書評とはそういうものである。 榊亮三郎 ( 一八七二ー一九四六 ) の略伝は、その復刊本の巻末に愛弟子の足利惇氏君が書いて ーソナリティが出ていない。それ いる。正確だが少しうやうやしすぎて先生の勇壮で淋しい。 ( は大切なことなのである。日本では、文学者については作品とともにその。ハ ーソナリティが盛 んに論じられるが、学者については著作しか間題にされない。おかしいことだ。本当にその学 間に傾倒するなら、それがいかなる人柄によって、いかなる条件の下に生産されたかを知りた くなるはすである。榊さんが碩学シルヴァン・レヴィ ( 今の駐日フランス大使のお父さん ) にもふ かく尊敬された明治以後の日本における最高の梵文学者だったという事実と、子供つぼく乱暴 と見えるような豪傑性とは相即していたのである。他に語る人もなかろうと思うので逸事の二、 三をしるしておこう。 はさんと西洋史の坂口昻博士と私の父とは三高の学生時代からの親友で、榊さんは私の家へ のはよく、とくに坂口さんが亡くなられてからはしばしば見えた。私たちがツイタテと仇名した 跣そのイカック、四角いお顔は幼時から知っていたが、お話をしたのは大学人学後、そのころ先 生は五十を過ぎておられた。しかし気は若く、教官と学生の懇親会などがあると欠かさす出席 し、教官のテーブルには決して坐らず、学生たちとくに私たちャンチャ・グループの間に割込
という方針である。諸君も紳士として行動してもら、こ、 し / し」という一一 = ロ葉であった。 ( 令息の手 記によると、先生は家庭でも子供をつねに「あんた」と呼び、決して「お前」とはいわなかっ た由じそのころ中学生は、みな白いボタンどめのゲートルをつけさせられており、私たちは それを別に何とも思っていなかったのだが、小倉服ゲートルの十三歳の子供を紳士とは面白い 木造の校舎はボロポロで、床板には穴があき、壁は落ちかけていた。壁穴から隣の教室の試 験間題を写しとった生徒があった。校長は在職中一度も修理費予算など要求しなかったものと 見える。図書館も建物は見すぼらしかったが、「静思館」という扁額は、命名者である内藤湖 南の名筆であった。図書費だけは一応のものがあって、本の買入れは委員の生徒に全くまかさ れていた。書庫へは出入り自由で、好きな本を出してよみ、持って帰りたければ自分で記帳し ておけばよい。河上肇の『貧乏物語』はポロポロになっていた。事務員は一人もいず、整理か ら掃除まですべて生徒の自治である。学校図書館とはそういうものかと思っていたが、よそは そうでないと知って誇りを感じた。私は委員になり、濫読と新刊図書購入を楽しんだが、掃除 とをよく怠けて上級の下村寅太郎君にたびたび叱られた。 の子供に学風などわかるはすもなかったが、あとで考えると、あれが自由放任主義だったのた 先 と気がつく。数学や作文の題を生徒に考案させることがよくあったが、『合理的教師排斥論』 外などというのが出ても教師は叱らなかった。雄弁大会で後に学生連動の皮切りをやった栗原佑 君が「貴婦人の指に光るダイヤは女工の涙であります ! 」などと叫んでも、列席の校長さんは
雲祥之助、彫刻の菊池一雄くらいしかあげられないが、同級ないし後輩の学者には、無電学の 難波捷吾、医学の島薗順雄、植物の芦田譲治、薬学の川崎近太郎、セックスについて新見解を 出す朝山新一、人文系では真下信一 ( 名大 ) 、谷口知平 ( 大阪市大 ) 、新村猛 ( 名大 ) 、出口勇蔵、 松井清 ( 京大 ) などがあり、町医者をして独立自営、インテリの誇りを失わぬ特異の思想家松 田道雄もこの辺におり、学者系譜は辻清明 ( 東大 ) 、梅棹忠夫にまでつづくのだ。退屈な連名は 打切ることにしよう。ただ、これらの人々は戦闘性には乏しいが、戦争中軍に便乗したものは 皆無で、大よそ進歩的リべラリズムの線を守っていることは、やはり校風の影響といえるかも しれない。私などは中学在学中、校長の存在をほとんど意識しなかったので、そのまま忘れて しまう率もあったのだ。ところが先生は私が三高へ進むと、またそこの校長になられた。それ にはわけがある。 私は三高でも入学式でまた驚かされた。金子という校長が壇に上って、式辞をのべ出したと 思うと、上級生が一斉にやじり、足ぶみをし、何も聞きとれない。そして、その日から校長排 と斥のストライキが始まった。この校長は官僚的というほかは今から考えると特に悪い人でもな の かったようだが、三高の自由主義を引きしめるという意図をもって、文部省が送り込んだふし 生 がある。ともかく学生の気受けがひどく悪かったが、その春休み中に長老教授を七人一挙に首 外切って、学生に絶好の口実をあたえた。漢文の山内晋郷をはしめとして、この先生方は学力す ぐれ、長年三高のために尽した人々だが、官僚のⅡから見れば、不満な点が多かったであろう。
教え子が警保局にいなかったら危なかったこともあったのである。しかし先生は社会主義者に 同情はもちながら、つねに冷徹な眼で見ておられた。河上肇先生との深い関係は周知である。 このことだけでなく、専門の学問についてもお元気のうちによく承っておかねばならぬと思 った。狩野直喜先生についても聞きとりの計画を立てたが、実現せぬうちにおなくなりになっ たことを口惜しく思い出したからである。 そこで私は先生の後学にあたる筑摩書房の竹之内静雄君にはかり、同君から先生のお許しを えたのが昨年 ( 一九六六年 ) 十月十二日、先生が学士院の例会出席のため東上されたときであっ た。その帰途京都に立寄られたさい、楽友会館から電話をいただいたので参上すると、大変お 元気な声で、吉川や貝塚や竹之内と一緒にくるんじゃなかろうね、今度は君だけだね、四人も そろってきて酒をのむと筑摩に大変な負担をかけることになるからね、といわれた。私は、筑 摩小なりといえどもそれしきのことでは大丈夫、お心を労せられるにあたりません、しかし今 回は編集の岡山君というのと二人だけです、とお答えした。 のそして十一月一日と三日と弘岡のお宅で楽しい対談が行なわれた。テープレコーダーを復元 をすると原稿紙二百枚、それを編集部で三分の一以下にちちめた。先生が京大生のころ、修学年 驍限延長案に反対して学生代表として、牧野伸顕文相に会いに行き、同時に三宅雪嶺を京大総長 島に推挙しかけた話、京大文学部の創立事情など興深い話題も多かったが、それは他日の発表を 期し割愛された。