教官会議の行なわれる部屋の床下にもぐり込んだ「決死隊」もいたが、実はそんなことをする 必要はなかった。教官の大部分が反校長だったから。しかし今度はみな校長を支持していたの だが、ただ一人例外があった。湯朝廉孫という老漢学者、夏目漱石の五高時代の愛弟子で全集 の書簡によく名が出てくる。私も習ったが、芸術、芸妓、文芸、すべて芸の字のつくものは大 嫌いだ、と口癖にいう豪傑だった。学力は抜群で、講読は『尚書』だとか明清各家の文集とか 大学程度のものをやり、できぬとかみつくように叱咤した。 ( この先生が辞職したとき、狩野 直喜先生はあれだけよくできる学者は見当らぬ、といって後任の推薦をことわられた。 ) 生徒 のクラス会には必す出席して、必ず酩酊し、お前たちは平生おれに叱られて腹が立っているた ろう。今晩はおれを殴ってもよい。さあ、殴れ。誰も手が出んのか、弱虫ばかりだ、とからむ 癖があった。教師の会でも同じで、私はあまりウルサイので一ペん殴ってみたことがある。先 生は大へんに喜んで握手を求めた。左翼など好きなはずはないのたが、何か意気に感したもの とみえ、ストを全面的に支持すると公言し、教官会議の内容は全部もらしてしまう。さすが温 厚の森校長もやむなく辞職を要求すると、湯浅教授は学校を非難する数枚つづきの辞職願を出 した。文部省が突き返したことはいうまでもない。そこで先生は「形而上ノ理由ニョリ」とい う一句に書き改めた。月給が安いなどという物質的理由ではなく、自山を弾圧するところには 止まれぬという意味を含蓄させたのだ、と私に後でもらされた。 一月たち、しびれを切らせた強便派の教授たちの主導で、警官が人り、学生を解散させ、校
ようにならなければ発展しないという考えをもっておられたようで、自分が慶応大学と長年 関係を保つことに努めたのは松本信広君をその教授にしたいからだったが、松本君は東洋史 の教授にされてしまい残念だったともらされたことがある。京大人文科学研究所で助教授の ポストが一つあいたとき、日本民俗学の人を採用してはどうかと、貝塚茂樹、今西錦司など と相談したことがある。柳田さんが私を訪問されたのはその頃ではなかったろうか。もっと も、その問題について柳田さんと話したことは一度もない。 3 国語研究所の国語学専門の評議員というのは、時枝誠記教授のことである。
夏服を着てきました、と組長が答える。仕方がないから型のごとく「軍事教練の目的如何」と きくと、学生たちは「団結精神の高揚、それ以外にありません」と一様に答え、中には軍事教 練の批判をあえてする者まで出て、メチャメチャになった。軍事教官は学生の前でひどく面罵 され、査閲官閣下は、このような醜態をもう一年つづけるなら本校の査閲の廃止を上申する、 と怒号して帰った。これには学校も大分弱ったらしい。私は講師で教授会には出ないから、ど ういういきさつがあったか知らないが、ともかく生徒の処分は何もなかった。 この夏服組が卒業した翌年の春、私が教室へ行くと生徒が、先生のいた頃のストライキの話 をして下さい、とせがむ。教科書の進度を食いとめるために、こういう作戦を弄するのは当時 普通のことだった。二十五歳の私はいい気になって思い出話を一席やり、どうして処分なしで すんだかという質間にまで答えて、クラス全員が連判状をつくって結東し、クラス委員が処分 されたら、全員が同一処分を要求し、総退学を辞せず、と声明した事情まで話した。 その翌朝、登校すると、校門は厳重にとざされ、校舎の屋根には至るところ赤旗がヘンポン とひるがえっている。 ( 三高の応援団の旗は赤で倉庫に山と積んである。 ) 中へ入ろうとすると、 衛兵が阻止する。一夜のうちに学生が学校を占領し、ストに入ったのである。そのころイタリ アで工場占領というのが流行していたが、それをモデルにしたのに違いない。私は学校に入用 な本やノート がおいてあるから是非入れてくれというと衛兵が、それしや本部へ行って聞いて くるという。やがて戻ってきて「桑原さんなら通してもよかろう」ということですから本だけ
西堀が文部省へゆく。すると若い役人が、名誉教授級の学者に南極観測のことでうるさく質 間している。西堀はいきなり「君は頭がおかしいんじゃないか、しろうとの君がいくらきいた ってわかりはせん、やめたまえ」とガナる。これは西堀が悪い。そしてプラグマチックでもな い。効果が悪いことはいうまでもない。監督官庁である文部省の役人にたいしては、、 とんな偉 い大学の先生でも丁重に応対するのが常識になっている。また、若い役人としては上司に報告 するために、わかってもわからなくても、一応くわしく説明を求める義務があるのだ。しかし、 セッカチの西堀は、小官僚が専門学者に質問して、貴重な時間をつぶしたところで何の効果も あがらないのに、と腹を立てるのだ。「宗谷」を改装するさいも、彼はそのプランを私に見せ て憤慨した。そのプランには船室を、教授室、助教授室、講師室、助手室と分類記入してあっ たからだ。「君、南極はユニヾ ェクステンションとちがうで。あほらしい。 大学の - 職階制を南極へもちこんでたまるか。官僚はこれやから嫌いや。」彼は直ちにこの名称を改め させたが、しかられた役人がどれだけ納得したかは疑問である。彼には官僚制というものがど うしてもわからぬ面がある。そして不必要なマサツを起したことも少なくない。私は彼の野人 性を奨励もしなければ、ほめもしない。大事の前だ、もう少し俗物的になれ、と何べんもすす めたくらいだ。しかし、実は日本には実力のある野人が乏しすぎる。そして、彼の野人性のゆ えに、彼のすばらしい技術的実践性を評価できないのは、デカルトが朝寝坊だといって、彼の 哲学を無視するようなものであろう。 15S
話は好まなかった。私たちは何の話をしていたのか。 戦後、私が仙台から京都へもどると、また時々会い、本を出すと必ず彼は「ミカミ・ア」と 署名して送ってくれた。私たちの研究所の講演会にきてくれたこともあり、梅棹忠夫、鶴見俊 輔などという若手の俊才が彼の学説を高く評価していることを知って、京都に象の子や孫がで きてうれしい、という意味の ( ガキをよこしたりした。 彼はフランス語もよくできた。一度進々堂で雑談していたとき、スタンダールの私の訳文に ついて原文をあげて質間され、私は研究室へテキストをとりに行かねばならなかった。それは 何とか切りぬけたが、このごろギリシャ語でホメロスを読んでいるけれど、日本訳には不満な ところがある、と言い出され、これは退却した。彼に衒学趣味は少しもなかった。私が当然ギ リシャ語ぐらい知っていると思って雑談をしかけたのだった。 高校教師生活についてグチをこぼしたことは一度もなかったが、女子大学の国語学教授にな ったのは嬉しかったらしい。あの淋しい顔をほころばせて、これからは勉強できるんでね。大 学教授というのは楽な、いい職業だね、と率直にいわれて、三十年もその職にあ「た私は恥す むかしい気がした。あの闘志を内に秘めた温顔をもう一度見たい。 昔 ( 一九七一年一月、「展望」 ) 彼の全集を企画してほしい。 章 上 付記この一文が機縁となって令妹三上茂子さんの訪間をうけた。三上は一九四三年のあ 225
は守成がはるかにむつかしい。みんな守成がきらいで下手なのだ。そこでどこでも草創の英雄 たちのみが尊重されすぎる。そんなふうに反省し、そういう学者たちを私はできるだけ批判 的に見ようと努めてみたが、やはり偉いのである。そのことは戦争中によくわかった。私は戦 争に抵抗などという立派なことは何一つしなかったが、便乗はせすにすんだ。せずにすんだな どと変な言い方をするのは、私が無名で相手にされなかったことをさすが、同時に、京都の老 先生たちの感化もあると思うからだ。よくお目にかかったのは、ロをひらけば中国文化の偉大 さを説かれる狩野直喜先生くらいだが、原勝郎、内藤湖南、内田銀蔵、喜田貞吉などという人 々の本を戦争のころ楽しみによく読んだ。紀元二千六百年などというのは全くのうそで、桓武 天皇の祖母は朝鮮人、伊勢神宮は大小便の神様、というようなことが頭にのこっていては、あ の時勢の風潮には乗りかねるのだった。専門の学問領域ではその後どういうことになっている か知らないが、たとえこれらの先生たちの説が打破されたにしても、ああいう大胆な問題の立 て方と精密な推し進め方、それのできた明治の学者は大したものだ、と私は少年時代の印象を と再確認した。 の * 湯川秀樹『本の中の世界』 ( 岩波新書 ) 一一八ページ参照。 先 草創期の京都文科大学の教官室はつねに談論風発、廊下を通っていても室内の笑声喚声がき 亮こえたくらいだ、と当時の少壮教授浜田耕作さんがどこかに書いていたと思うが、勢いあまっ て同僚教授の学会発表をきいて、「それで学術講演ですか」と食いさがったり、事務官をぶん
彼は東大の工学部建築科を出て台湾総督府につとめたが、すぐやめ、朝鮮羅南中学の数学教 師となり、やがて内地にもどり、八尾中学の教師になった。数年前に大阪の大谷女子大学の国 語学教授に迎えられるまで ( 敗戦後は高校 ) 、ずっとその職にあった。妻君をもらう代りに。ヒ アノを買い、勉強に疲れるとビアノをひき、一生妹さんと二人で質素な生活をしていたことは、 今度おかの・あつのぶさんの追悼文を読むまで知らなかった。 三高を出てからも、私は三上という逸才の存在を忘れはしなかったが、とくに交際もなかっ た。彼が私の家へ遊びに来だしたのは、いつごろで、どういうきっかけであったのか、もう思 い出せない。 ともかく彼の方から大阪高校の教師をしていた私にハガキをくれて、会いたいと 言ってきた ( 彼の通信は晩年まで、いつもハガキに限った ) 。昭和十年以後のような気がする。 それから私が東北大学へ転勤するまで、ときどき現れた。 再会して私は三上がおだやかで謙虚になったのに驚いた。私の家内などは、三高時代の反抗 の逸話など信じられないという顔をした。しかし気性のはげしさは消えたのではなかった。包 みこまれただけで、このどこか諦めたような風貌の中学教師の内部に学間の情熱として燃えて 佐久間鼎の名を口にしたが、ま いたのにちがいない。彼は日本文法の勉強をしているとい℃ だ主語廃止論はとなえていなかったと思う。私は基本的に、しかし観念的に彼を激励する態度 はとっていたが、立ち入って文法論について議論するだけの素養がなかった。それなのに、な ぜ彼は時折りすうっと私の家に入ってきたのだろう。彼は私生活の話はしなかったし、政治の 224
榊亮三郎先生のこと に妙な叱られ方をした。 「このあいだ卒業生名簿を見たら、君は勤めとして大阪高校教授兼京大講師と書いてあるじゃ ないか。あれはいかん。京大講師をさきにして、逆に書きなさい。」 今の日本で学間するためには大学でなければダメであって、お前は志が低いが努力すれば大 学へ戻れぬこともない。高校教師で満足しているようではいかん。勉強と同時に人に嫌われぬ ように心がけ、つまらぬ人間にも不必要に反感をかってはならぬ等々、慈父のような細々した 注意をややくどくされたのであった。私は竹林の七賢の一人、尖鋭、奔放でついに権力者に殺 けいこう された詩人利山康が、子供への遺訓では俗界処世の心得を説いているのを思いあわせ、榊先生に してこのことあるかと驚きにたえなかった。先生にはその後不幸が重なった。私は先生の最後 の訓戒にも従わず、やがて京大を去った。今はまた舞い もどって来て、遣訓戒を実行している ともいえないが、先生の旧宅のうしろに起居し、時折りあのときの温顔を思い出す。 ( 一九五四年四月、「文藝眷秋」 )
しかし、南極にいかに持続的な情熱をもっていても、それだけでは副隊長の任務はっとまら ない。設営の仕事を一手に引受けねばならない役割だから。西堀は無機化学をまなび、助教授 時代、佐々木中二教授がノーベル賞圏内の仕事をされるのをたすけたが、大学を飛び出して東 芝へ移ってからは、その行動領域をうんと広めた。戦後、技術部次長としての彼を訪間すると、 部星の入口には巻紙をたてに使って「技術に関するよろず相談所」と大書したのがはってある。 こきている。彼はその隘路の一 そして、そこには高級技師から職工まで、あらゆる社員が相談冫 一に打開策をさすけるが、話がややこしくなると飛出して現場へゆく。機械の修理は職工より うまい。彼は日本のプリッチャードになろうとしていたのである。 ノは戦前渡米のさい、東芝に関係のふかい・に行った。ノーベル賞のラングミーア専士 をたよったのだが、しばらくすると西堀は変な人物の存在に気がついた。いつもパイ。フをくわ えて工場内をブラつくだけで、何一つきまった仕事をもたない老人たが、皆が尊敬して礼をす る。あれは誰か、と西堀がきくと、・にきてあれを知らぬのか、。フリッチャードしゃない 長 隊 か、といわれた。 冬 彼の青年時代の野心は・ @打倒にあった。彼は小 。フリ , チャードは天才的な技術者だが、 , 圸資本をもって工場をつくり、・と同じ製品を作り出した。工場は厚生設備を重視し、工員 西 を大切にしたので、その勤労意欲は高く、その上彼の技術的着想がすばらしいので、生産数量 こ 0 153
始業のベルがなると先生方は悠々とタバコに火をつけ、それを一本すませて腰をあげる。教室 の授業は学的水準は高かったらしいが、それは三十分くらいで切上げ、「こちとらの若い頃は」 といったメートルをあげる。学生の人気絶大なので、一緒に校長にたてつくといったふうであ った。そうした内情はともかく、学生は「恩師のために」という儒教倫理的なスローガンを掲 げて立ったので、世間の同情は集まり、新聞も応援した。まだ左翼というものがない頃だから ( 三高で社会間題研究会ができたのはこの翌年 ) 、集団行動に対する特別の嫌悪感はとぼしく、 先輩の学者たちも多く生徒に同情したので文部省も弱った。 二、三年生がストするには理山もあったが、私たち新人生は「恩師」の顔を一度も見たこと がない。それに全員参加したのだから付和雷同のそしりは免れがたい。私は三好達治などと共 にクラス委員に選ばれ、機嫌よく活動していたのだからさらにおかしい。スト委員長は今は日 立製作所の重役をしている中村隆一君。彼に率いられて全校八百人が長蛇の陣をつくり、「そ れ頑迷は鉄拳の血汐ふらしてくだくべく : : : 」などという校歌を合唱して校長官舎に押しよせ た。遙かに見ると、委員長は一言二言タンカを切ったと思うと、手にもった排斥決議文を校長 の玄関の床に。ヒシャリと叩きつけた。一流の演技だった。そのうち全学生が「不心得につき二 週間の停学」に処せられたが、折りから行楽の好季節で楽しみこそすれ反省するはすはない。 ある日、私に京大文学部の西洋史の教授坂口昻博士から、ちょっと来てくれという電話がか かった。坂口さんは父の親友で、私はまた令息の親友だから、よく知っていたのだ。先生は三