桑原 - みる会図書館


検索対象: 人間素描
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1. 人間素描

桑原武夫 ( くわばらたけお ) 1904 年福井県に生まれる 評論家 京都大学名誉教授 著書「桑原武夫全集」全 8 巻 ( 朝日新聞社 ) 近著に「論語」「文明感想集」 ( 筑摩書房 ) がある。 人間素描 1976 年 6 月 30 日 筑摩叢書 227 初版第 1 刷発行 著者 発行者 発行所 桑原武 井上達 筑摩書 夫 ◎ 1976 T Kuwabara. Printed in Japan 1095 ー 01227 ー 4604 東京都千代田区神田小川町 2 の 8 電話東京 ( 291 ) 7651 ( 代表 ) 振替東京 6 ー 4 1 2 3 郵便番号 1 0 ] ー 9 1 三松堂印刷・永興舎製本

2. 人間素描

私の家には、清末の翰林院侍読学士、文廷式が曹植の『洛神賦』の一節を行書でかいた掛軸 がある。それは桑原先生正と「ため書き」になっているが、父は生前一度もそれを床の間にか けたことがなかった。死後、内藤湖南先生がこれをご覧になって、そのいわれを教えてくださ った。文廷式が来日のさい、東洋史の代表的学者に紹介をたのまれたので、那珂通世、白鳥庫 じっぞう 吉と父を招くようにすすめ、五人で会食したその記念の揮毫だというのである。桑原隲蔵は、 日本における東洋史学の樹立者の一人であった。 しかし、「おやし」という以上、求められているのは、実証史学者の客観像ではなく、私と の関係における肉親の父のことであろう。しかしその父も、すでに昨年 ( 一九六三年 ) が三十三 回忌、思い出ははるかになり、肉親という語感も枯れてきたようだ。彼の没年に私もほどなく じ や達しようとしている。 お おやじと私、父子二代を知っていてくださる人もある。桑原隲蔵とはどんな人たったかとき おやし 239

3. 人間素描

筑摩叢書 227 人間素描 桑原武夫 筑摩書房

4. 人間素描

人間素描桑原武夫 人間素描 筑摩書房 筑摩書房

5. 人間素描

人間素描 人間素描 桑原武夫 筑摩書房 筑摩叢書 227 原武夫 227 は分類 ) 1095 ( 製品 ) 01221 ( 出版社 ) 4604 ↓定価 1000 円

6. 人間素描

湖南先生 私の家のがオリジナルであることは箱書きに明らかである。 「余帰」自 = 欧洲一一歳夏。書 = 此便面一自携。桑原博士覧」之。就坐見」奪。日。余甚愛一此詩一 オクラル 宜 = 以見 , 貽耳。囚大笑。今博士墓木将」拱。令嗣武夫君装満為」軸。属以」題」匣。此悽然。癸 酉正月虎又記。」 ( 大意。欧洲から帰って一年後の夏、この扇面を書いてみずから携えていた。桑原博士が 冫しった。もらっ これをみて、その場でいきなり奪いとって言われた。この詩はとても気こ、 ておきますよ。そこで大いに笑ったが、博士の墓に植えた木も今は大きくなった。令息武 夫君が表装して掛けものとし箱書を求める。ここに悽然たる思いをもって、みすのととり ( 一九三三年 ) の正月、虎次郎ふたたびしるす。 ) 以上、巨樹にとまって徒らにかまびすしい蝉にも似た雑文、識者の顰蹙をかうであろうこと を知らぬではないが、後世先生の断簡零墨にも心を惹かれる人の輩出すべきことをより一そう ( 「四季」一九三七年四月号 ) 知るが故に、あえて自家を語ることをも憚らずに筆を走らせた。 ウバワル

7. 人間素描

℃いながら醜悪なことが絶えない。それ たたえながら発言した。いつの選挙も公明選挙などと、 は日本語がなっかしすぎるからではないか。候補者は自分にもよくわからないむつかしげな言 葉をならべたてて国民をだまそうとするし、また選挙人の方にも、むつかしい言葉を使う人を 偉いと思うような考えが残っている。そこに禍根がある。日本語はもっとやさしくしなければ ならない。二、三の実例は添えられたが、おおよそそういう趣旨である。 ぼんやり聞いているといきなり「みなさんはどう思われますか。阿部知二君などはどうです か。」阿部君の答えは忘れたが、私もあてられることを免れなかった。言語と社会生活とはも ちろん関係がある。しかし表記法のむつかしさと選挙の不正とを、直接因果関係とするのはい かがであろうか。関係なしとしないが、それには中間項がいくつかあって間接の関係である、 などという私の頼りない回答に対して、先生は「学者の意見というものは、いつもそんなもの です。関係はあるが直接でないなどとおっしやる」とご不満気であった。 そのほか数人にあてられたが、全面的支持者はほとんどないので、「みなさんはあまりご 心ではないが、私はこれは重要なことだと考えています。帰りに前田 ( 多門・公明選挙連盟理事 長 ) 君のところへ寄って相談してみます」と結ばれた。そのとき私は先生の中に、明治の愛国 者を直観した。 またある評議会で、必要な審議が終って自山討論の時刻がくると、座長がいきなり言った。 「ああ、そこに桑原君が来ている。桑原君はちかごろめったに評議会に出ない。珍らしい人が

8. 人間素描

来たわけだから、まず今日は桑原君の意見をきくことからはじめたいと思います。ご異議あり ませんか。」 やや高圧的である。私は突然あてられて弱ったが、思いつくままに、中国ではちかごろわか ち書きの研究を盛んにやっている。わが国も次第に漢字を制限してカナを多く使うようになれ ば、わかち書きの間題は必然的におこってくるはずだ。国立の国語研究所としては、わかち書 きを採用せよ、とまでいうのはどうかと思うが、国民からわかち書きについて質間をうけたと きに、すぐ答えられるくらいの用意はなければなるまい。ところがこの研究所の研究題目には、・ わかち書きのことはまったくない。 これはやはり考えておかなければならない問題ではないか、 という意味のことをいった。すると国語学専門のある評議員から、桑原君は研究所の最近の研 究態勢を十分知らずに、いきなり注文をつけられるが、重要な研究テーマがたくさんあるので、 そこまで要求するのは無理であろう、という意味の発言があった。 すると、柳田会長はやや不満の調子でいきなり反間した。自分はわかち書きの研究は必要だ と思う。私などはもちろん素人だが、長年本を読んできているが恥しいことにカナの多い本の 而文章をどこで切ってよいのかわからぬことがいまだにある。たとえば、といって『義経記』の の一節 ( それがどういう文章か私はすっかり忘れたが ) をすらすらと暗誦した上で、「 * * さん、 田これはどこで切りますか。」「さあ」という声を聞くと、さらにもう一つ古い本の中から ( これ は書名まで私はもう思い出せない ) 一節をまた暗誦して、これはどうですか。答えがない。そ

9. 人間素描

『人間素描』は一九六五年八月三十日、文藝春秋新社から刊行されたものだが、今回、筑摩書 房から文藝春秋の諒解をえた上で、「筑摩叢書」の一冊に加えたいという中し出があった。私 はこれを快諾するとともに、新版のために若干の増補をこころみた。すなわち、 一その後に書いたポルトレのたぐい六篇を新たに追加した。矢野、小島、川端、米川、三 上、今西の六氏についての文章がそうである。ただし近刊の『文明感想集』 ( 一九七五、筑摩書 房 ) に収めたものは採用してない。 二全般に辞句の訂正を少しこころみた。 三これらの文章は将来ここに登場する人々の伝記資料ともなりうることを考慮し、人名、 地名、年月などを思い出せるかぎり補人し、さらに新事実を若干付記した。 一九七六年晩春 増補新版はしがき 桑原武夫

10. 人間素描

折にふれて書いたポルトレのたぐいは、 いくつかの評論感想集に少しすつおさめたが、その 若干はすでに絶版にな 0 ている。そこでそうした種類の文章たけをまとめて一冊の本を作「て みてはどうか、という文藝春秋新社のすすめに従 0 て、新旧、長短、精粗を問わずすべて集め てみると二十五篇、ちょうど適当な量であった。すなわち本書である。 すべて無用の閑文字だが、京都大学の文科大学 ( のちの文学部 ) の創設期の学者たちについて は、西田先生をのそき、ほとんど書かれていないので、こうした素描も将来この偉大な博士た ちを研究するさいの資料になりうるかも知れない。外的瑣末事と見えることが、学問や芸術の 本質と深くかかわりうるというのが私の考えである。 私は中江兆民、サンⅡジ「一ストなど、過去の人間についても若干の文章を書いたが、ここで は対象を、私自身が直接会 0 て話をしたことのある人々のみにかぎった。いま校正刷を読みか えしつつ、昔の人をなっかしむ情とともに、これに親炙しえた幸福の実感の禁しえないものが ある。 一九六五年初夏 桑原武夫