釈迦堂トンネル分岐コースになるが、田楽は、現在東京目黒の大円寺本尊として遺ってい しやかんどうがやっ 小路に沿った谷のひとっ釈迦堂谷へ入ってみよる。谷奧へ進むと巨大なトンネルが路に立ちは う。ここには元仁元年 ( 一一三四 ) 、北条泰時が父義だかり、抜ければ大町方面に至る。この左手一 時追善に建てた釈迦堂があった。ここのご本尊帯が北条時政の館跡といわれ ( 出頁参照 ) 、そう すると、この路は 時政邸から、中枢 部の大倉と、南下 すれば大町、名越 の下町方面へ通じ る間道的な道だ。 トンネルの周辺 堂にはやぐらか多い 一、岩肌は永い年月 の風化により、美 しい自然の造形を 見せている。鎌倉 らしいひと齣だ。 落石危険のため通 り抜けは要注意。
だいどう この新道を右折してしばらく行くと大道中学 鼻欠け地蔵 朝比奈路が終わると、金沢と大船とを結ぶ交校前というバス停がある。ここにつき出ている 通の激しい新道に出る。今まで歩いてきた旧道山すその崖に、今では風化して、それといわれ のつづきが、新道と付かず離れず下方に残ってないとわからぬような大きな地蔵が浮き彫りさ さしえ いるのが見える。 れている。江戸名所図絵などにも挿絵入りで紹 さかいじぞう 介されている堺地蔵で、またの名を鼻欠け 地蔵という。ここが相模と武蔵の国境だか むつら かわさわ らで、この先が六浦、金沢となる。 鎌倉とい、フ地域は、時代により、考え方 により、いろんな見方ができる。そのひと し ~ 一うまつり つに四境祭がある。鎌倉時代に鎌倉の四方 蔵に隣接した所で、府内の疫病退散を祈る神 事だが、東方は六浦で行われた。ちなみに 欠北は山の内、南は小坪、西は稲村または片 瀬であった。六浦の手前にあるこの地蔵の 内側を通る朝比奈は鎌倉内という訳だ。新 道工事で拡幅するとき、地蔵様の膝が削ら れてしまって、今は痛々しいお姿である。 はなか 、第ま確第を
大船 鉄道唱歌の、六番目の歌詞をみてみよう。 「、横須賀ゆきは乗替と 呼ばれておりる、大船の つぎは鎌倉鶴が岡 源氏の古跡や尋ね見ん 横須賀線は、大船からの分岐として、明治十九 駅年 ( 一公六 ) に計画され、二十二年六月に開通。地 大形的にも当時としては工事が困難だったようだ 道が、軍用として強行された。円覚寺境内通過な ども、今だったら考えられない 鎌倉への主な人口は、当時も今も大船である。 大船は昭和一一十一一年鎌倉市に合併された。鎌倉 の経済的な基盤となっている生産地帯だ。 上の写真は東海道本線と別かれ、横須賀線が 」鎌倉へ向かう情景。左上方に、昭和四年に着 手し二十九年に完成した白衣観音の巨像が、大 船の象徴のように建っている。
瀬戸小路 ( 小町通り ) 山の内から巨福呂坂を下り、「鉄の井」前をす ぎ、直進すれば横須賀線の鎌倉駅に出る。 今ではこの路のことを小町通りというが、路 の途中に瀬戸橋があるので、もとは瀬戸小路と よんでいた。ほんとうの小町通り ( 小町大路 ) は の左に並行して走る若宮大路の、もうひとっ東側 に並んでいる路のことだ。 近頃は、鎌倉駅から八幡宮境内の近代美術館 へ行くのに便利な路なので「美術館通り」などと 新しい名もできた。 」鎌倉を出て、褝寺巡りをしながらこの辺り まで来ると、そろそろひと休みしたくなる。 そんな訳で、最近は飲食店やおみやげ ( とい っても鎌倉独持のものではないが ) を売る趣味 の店がやたらに増えた。そして、どうした訳か 若者がやたらに多く、新しい鎌倉の一断面が作 られてきた。
池の脇から山路を登ると、すぐ 西御門の造成団地に出る。 参道の途中「河村瑞賢墓」の標柱か ら左に入れば、今は亡い華厳塔の跡、 さらに、江戸中期の豪商で、海運や 治水の功で知られる河村瑞賢父子の 墓や不老水という井戸がある。 墓所手前から右方の山路を登れば 半僧坊への近道。 ハイキングコース半僧坊からさ らに登れば北尾根に出る。左に進め ばさきの明月院のある谷奧へ通じ、 右に進めば十王岩を経由して天園方 面に結ばれる鎌倉最良のハイキング コース。十王岩から南方を眺めると、 鎌倉の街、由比ケ浜などが展望され、 若宮大路が鎌倉の街を貫通している 様子がよくわかる。 ( 5 鵬頁参照 ) にしみかど ずいけん てんえん
幡宮の参道、あるいは鎌倉山の並本に見物の人う。これは鎌倉だけの持っ持権なのではないだ恥 の眼は奪われがちだが、近々と寄っていって見ろうか。 上げるのではなく、 一つの大きな景色の中にあ このごろはお花見というと、「菖蒲園」とか、 る桜を遠望するのも、別の「お花見」だと思う。 「バラ園」とか、人工的に花を集中させたところ に興味が深まりがちである。もちろんそれもけ 樹々の緑にしてもそうだ。桜が終ったころ、 町をとりかこむ山肌は、い っせいに若緑に彩ど っこうだが、鎌倉には、もう一つの味わい方が られる。その緑にも濃淡があって、まぶしいくある。桜にしろ緑にしろ、大きな自然の中に置 いのち らいに光り輝くのだ。そんなとき、五月の風が いてみて、自然に噴きあげて米る生命のすなお 山肌を撫でてゆくと、まるで緑のなだれに襲わさ、すばらしさを味わうこと、それが簡単にで れるような感じさえ受ける。 きるのは、鎌倉なのである。 人々は「お花見」には熱心だが、どういうわけ もちろん鎌倉の緑は、落葉樹によって占めら か「若葉見」はめったにしない。が、鎌倉が最もれているわけでもないし、その美しさは、新緑 美しいのは、この若葉の李節なのである。 の季節とは限らない。その意味で、浄智寺の脇 小さな町をとりかこむ三方の山、その広さが から葛原岡神社へ上るコースや、葛原岡から大 手ごろであることが幸いして、人々は日のあた 仏坂へ廻る道は、緑との対話を楽しむ道だ。 るところに新緑の燃えるのを見ることができる 鎌倉に多い山椿の葉が、冬でもどんなに深 ) のだ。これが平坦な町だったり、あまりにだだ色に照り輝いているか。こんもり繁った本立ち っ広かったら、こういうわけにはゆかないだろの下で、俗塵に触れない羊歯の群落が、どんな
やすださろう ながいみち やまだきみお 安田三郎 永井路子 山田言喜巳男 1919 年東京神田に生まれる。 1925 年東京に生まれる。 1934 年東京に生まれる。 写真科学を専攻し , 富士写 鎌倉を舞台とした歴史小説 原色製版印刷株式会社のカ 真フィルムなどに勤務。 『炎環』で 52 回直木賞受賞。メラマンを経てフリーにな 1950 年より 1980 年まで鎌倉 く著書 > 「永井路子歴史 り , 全国各地風景の撮影に 国宝館で文化財の調査 , 資 小説全集』ほか。 あたる。現在鎌倉の四季を 料整備に従事。 く現住所 > 鎌倉市鎌倉山 メインテーマにする。日本 く著書 > アサヒ写真ブッ 写真家協会会員。朝日カル ク『鎌倉江の島』カラープ チャーセンター湘南「カメ ックス「文化財のみかた」 ラ行脚・鎌倉の花」講師。 『仏像』 ( みずうみ書店 ) 。 < 著書 > 『鎌倉の花』 ( 文 く現住所 > 神奈川県三浦郡 化出版局 ) 。 葉山町堀内 1189 く現住所 > 茅ヶ崎市柳島海 岸 13 ー 3 カラーブックス 36D 鎌倉歴史散策 昭和 51 年 6 月 5 日初版発行平成 9 年 10 月 1 日重版発行 著者安田三郎・永井路子・山田巳男発行者今井悠紀発行所株式会社保育社 538 ・大阪市鶴見区鶴見 4 丁目 8-6 電話 ( 06 ) 932-6601 東京支社 / 1 71 ・東京都豊島区南池袋 3 丁目 13 ー 16 電話 ( 03 ) 3590 ー 1981 印刷 / 凸版印刷株式会社 / 用紙 / 日本加工製紙株式会社 0 安田三郎・永井路子・山田譓巳男 1976 万一落丁・乱丁のときはお取り替えいたします。 (NDC 213.7 ) 旧 BN4 ー 586 ー 50361 ー 0 C0126 PRINTED JAPAN
中には公園としか一言いようのないお寺もある。 急坂で、決してらくな道ではない。「鎌倉入り大 歓迎」というよりも、一々眉を寄せて検問して人が来て、有名になり、拝観料も入るからとい って満足しておられるのなら話は別だが、少な いるような感じである。例の鎌倉攻めのときも、 くともお寺本来のあり方と思っておられるはず ここでは悽烈な攻防戦が行われており、この不 機嫌な坂道には、何百、何千人の血を吸った過はないと思う。日本はもともと都会に公園が少 ノ。、こキび、 , 公 なすぎるのだ。アメリカやヨーロ 去が刻まれているのだ。 園の間にところどころ街があるといった感じの しったいどこに公 都会か多いのに、日本では、ゝ 寺との対話 園かあるのか、と田 5 うくらいだし、またそれじ を一い - フか たしか、あまり美しくない 。しぜんそんな所へ 人工の自然より、天然の緑を ら頭にうかべるのは、鎌倉の寺々のことである。ゆくよりも、花の美しい鎌倉の寺へということ になるので、いわば、寺は日本の公園行政の貧 いま、人々の眼をひきつけているのは、鎌倉の い。極端に自然困さの肩代りをつとめているような趣きがある。 寺々の花のみごとさであるらし げんぜい が乏しくなっている都会での生活に閉ロして、 もっとも、お寺さんの方にも、寺の庭は現世 鎌倉の寺にそれを求めようとする方々の気持は浄土だという考え方がある。美しくして人に見 わからないではないが、しのいこいの場所としてもらって、それが何らかの仏縁になればとい うわけで、こうした「方便」はお釈迦さま以来の てそれを引受けているお寺さんには、少々お気 伝統だから、それも結構であろう。が、現状で の毒な感じもしないではない。
鎌倉を紹介する出版物は、多くの諸先学によって出されつくした観がある。 はドレめ - 」に そんななかで、再び、鎌倉ものをまとめねばならなくなって困った。なんと か目先を変えねばな一らない そこで、この本は歩いて鎌倉を観る方に役立つような内容に構 ーズの 成してみた。鎌倉のことだから、どうしても寺院が多くなるが、その詳細はこのシリ 『鎌倉の寺』にゆだね、文化財関係も他書にゆずり、この本では《路》に重点をおいた。 私は、みち、ということばの響きから、そこはかとない情緒を感じる。路は、遠い祖先か ら今の人たちまでが、生活し、行動した軌跡で、様々な思いが残されている場であるからだ。 本書の地図に、今は亡い武家邸や廃寺の跡をたくさん入れたのも、中世を偲ぶよすがにと思 ったからである。 本書は鎌倉を大体四方向に分け、前半の写真頁でその主コースと分岐を追い、後文でそれ を補っているので、平行してご覧いただきたい。なお、地図の道路上の白丸はバス停である。 カラーブックスは名の如く写真が主であるから、写真担当の新進力メラマン山田譓巳男氏 の写真集といった方がよい。私のやっかいな注文をよくきいて下さり、おびただしい作品の なかから選ばせて項いたものである。また、日頃、深く敬愛している永井路子さんが玉稿を 寄せて下さり、花を添えて頂いた。なお、内容のうえで、元神奈川県立博物館学芸員の阿部 正道氏のご教示に負うところが大で、お三方をはじめ、取材の際ご協力下さった各社寺のご 厚亠思に心から御礼申しあげる。 安田三郎
4 も城郭を思わせる堀切りのあとがあったという。 幻の鎌倉 また、これもごく最近のことだが、北条氏の もう一つの本邸 小町館の裏手にある東勝寺 この大仏坂の登り口に、ヒ 」条政村邸址がある。址が発掘された。ここは『太平記』に出てくる北 今でも御所内などという地名が残っているか、 条滅亡の地として有名だが、発掘してみると、 山裾の本立ちの中にあるそれは、鎌倉では貴重その人口には、石垣のようなものを築いて、城 な武家の館の遺跡である。市街化されてしまっ 享的な機能を持たせてあることがたしかめられ た現在では、その昔立並んでいたであろう武家た。すなわちここは、北条氏の寺であるととも の館の址をたしかめることは、不可能に近い。 に、詰の城でもあったのである。従って北条氏 その中で政村館址は、まだ発掘はされていない が、ここに立籠ったのは、ただ菩提寺に引籠っ けれども、当時の武家館を地下に蔵している楽て死を侍ったのではなく、最後の拠点での抵抗 しみな遺跡である。 を決亠思したことにほかならない 北条氏は、こうした鎌倉の出人り口のそれぞ そう思ってみると、総帥の北条高時が切腹し れに、一族の館を構えた。鎌倉に出人りする人たときに折り重なるようにして数十人が切腹し、 人の動きをそこで捉えようとする用心の現われそれに火をかけて全滅する彼らの死は、『平家 であろう。過日名越の釈迦堂の址と思われると物語』に見られるような諦めの死、浄土欣求の ころの発掘調査が行われたが、名越は中でも時死ではない。敵に首を取らせまいための、抵抗 政以来の北条の本拠だけあって、そのあたりに の死なのだ。敵に首をあげられることは、相手 こしょのうち