鎌倉宮脇のニ階堂大路鎌倉では , 山すそや谷戸の小路がとり わけてよい。さまざまな歴史を秘めた所も , 今はほとんどが静 かな住宅や寺々で , サンゴジュなどの生垣が多い。 4 鎌倉史跡点景 : 大船 / 山の内四 / 円覚寺 / 東慶寺 北条時頼墓 / 浄智寺 / 建長寺燗 北尾根ハイキングコース 日本一の鉄観音 / 瀬戸小路川 / 大倉朧 永福寺Ⅲ / 覚園寺 / 瑞泉寺 田楽小路Ⅲ / 衣張山と北条時政邸跡 大慈寺と明王院悃 / 光触寺脚 鼻欠け地蔵 / 浄光明寺盟 / 海蔵寺沼 葛原岡から浄智寺へ / 大仏遠望 北条政村と義政 / 鎌倉山盟 御霊神社盟 / 大町大路 / 幻の車大路 若宮大路を海の方へ 鎌倉駅裏口界隈川 / 路傍の信仰 飯島から小坪へ / 住吉城 衣張山界隈 / 祗園山ハイキングコース 祗園山 / お猿畠の法性寺 鎌倉散策のたのしみ永井路子 : : 九八
岐れ路現在の岐れ路から左折すれば、つき 当たりが鎌倉宮。この路は明治二年 ( 一八六九 ) に鎌 倉宮ができたので明治二十六年に造られ、かっ ての大倉幕府の敷地を斜めに通っている。 えがら 荏柄天神鎌倉宮手前左側に日本三天神のひあ とっといわれる荏柄天神がある。幕府成立以前ロ からの社歴を持つ。頼朝館の鬼門 ( 東北 ) に当たの り、その鎮守ということでうやまわれた。鎌倉大 第二の大きなイチョウがある。また社前の紅白堂 梅は、鎌倉で一番早く咲きはじめる。 関取場跡岐れ路を右に少し進むとこの石碑て が建っている。戦国時代、鎌倉を支配した小田か 原北条氏が荏柄天神社殿造営費をつくるため、 ここに関所を設けて通行料を取ったという。 ニ階堂大路この関取場跡が、中世の岐れ路関 で、ここから左に今でも小道があるか、かって の二階堂大路 ( 頁参照 ) 。進めば荏柄天神の参 道と交叉し鎌倉宮脇を通り瑞泉寺方面に至る。 わか
さくいん あ朝比奈旧道・・ 甘縄神明社・・・ 安養院・・ 稲村ヶ崎・・ 岩窟小路・・ 英勝寺・・ 夷堂橋・・ 円覚寺三門・・ 扇ヶ谷・・ 大倉幕府跡・・・ か覚園寺・・ 鎌倉駅・・ 鎌倉宮・・ 亀ヶ谷坂・・ 管領屋敷跡・・ 帰源院・・ 北鎌倉駅・・ 葛原岡・・ 化粧坂・・ 源氏山公園・・ 浄智寺・・ 正續院・・ 成就院・・ 寿福寺・・・ 釈迦堂ト 七里ケ浜・・ さ佐助稲荷・・・ 巨福呂坂・・ 極楽寺坂・・ 極楽寺・・・ 光明寺・・ 光則寺・・ 光触寺・・ 源平池・・ 建長寺・・ ン不 ・・ 50 ・・ 79 ・・ 93 ・・ 24 ・・ 58 ・・ 83 ・・ 52 ・・ 36 ・・ 40 ・・ 26 ・・ 37 ・・ 15 ・・ 63 ・・ 61 ・・ 16 ・・ 32 ・・ 49 ・・ 76 ・・・ 88 ・・ 68 ・・ 74 ・・ 22 ・・ 64 ・・ 70 ・・ 56 ・・ 75 ・ 5 ・・ 12 ル・・・ 46 た ま 浄妙寺・・ 瑞泉寺・・ 杉本寺・・・ 銭洗弁天・・ 大巧寺・・ 大仏・・・ 大仏坂旧道・・ 段かずら・・ 長寿寺・・・ 辻の薬師・・・ 東慶寺・・ な名越旧道・・・ 二十五坊跡・・ 日蓮辻説法の跡・・・ 35 忍性菩薩の墓・・・・・ 69 は長谷観音・・・ 八幡宮・・ 腹切りやぐら・・ 半僧坊・・ 日野俊基の墓・・・・・ 63 仏日庵・・ 別願寺・・ 宝成寺・・ 報国寺・・ 本覚寺・・・ 本興寺・・ まんだら堂跡・・ 妙法寺・・ 妙本寺・・・ 明月院・・ 元八幡・・ や永福寺跡・・ 大路・・ わ和賀江島・・ 若宮大路・・ ・・ 45 ・・ 44 ・・ 64 ・・ 78 ・・ 66 ・・ 28 ・・ 15 ・・ 85 ・・ 95 ・・ 23 ・・ 77 ・・ 34 ・・ 20 ・・ 92 ・・ 34 ・・ 47 ・・ 85 ・・ 96 ・・ 92 ・・ 84 ・・ 10 ・・・ 86 ・・ 39 ・・ 25 ・・ 90 ・・ 28
」、伝大江広元墓ノ 伝北条義時墓宇佐美判官邸跡 永福寺跡 荏柄天神無料鎌倉宮 駐車場日東光寺 0 、 大塔の宮冫 二十五坊跡・ 当岡八幡宮 0 冫保寿院跡源頼朝墓 三氏邸跡 : ・ 白旗神社 目横浜国立 国宝館大学付属 / 西清泉女学院小 鎌倉中・小 / 大倉幕府跡 大与 : 前 政所跡 れ道 - 、 プ / 畠亠重忠邸跡Ⅱを 八田知家邸跡 宝成寺 文覚上人邸跡 名卍 葛西清重邸跡 北条高時腹切 やぐら 、、光堂 階杉 跡本 邸杉」 2 山 天神前 杉本観音 勝長寿院跡 釈迦堂跡 浄明寺局 華の 上杉朝宗邸跡 東勝寺跡′ 、中に巡礼路あリ 浄 明 雪ノ下′ 新 鎌倉駅から東への道 昭和五九年 ( 一九八四 ) にできた駅舎 は、それまでと同じくトンガリ帽 ロわ子の時計塔をつけた、古都にふさ わしい風格をもっている。 鎌倉駅東ロの駅前広場 26
すれば、源氏と鎌倉、とくにこの大倉とは縁が 深い。後に頼朝がここを館に決めたのも、そん な因縁からだったろ - フか 頼朝館のことを、後に大倉幕府、大倉御所な ととい - つ。この北則は山を北冂にし、その山。腹に 瀬頼朝の持仏堂があった。建久十年 ( 一一究 ) 一月十 三日、五十三才で亡くなると、そこに葬られた ほっけどう だろうということで、持仏堂 ( 後に法華堂 ) のあ った所にあとから建てられたのが、今、頼朝の 墓といわれる石造多層塔である。 ここはまた、宝治元年 ( 一一一四七 ) 北条時頼に攻め られた三浦泰村・光村ら五百余名の最期の所。 大倉 よりのぶ 長元三年 ( 一日 (0) 頼朝の六代祖に当たる源頼信右方山裾のやぐらには、誰が建てるのか、いま とその子頼義が、上総 ( 房総半島の中央部 ) で起でも三浦氏追善の塔婆が見られる。 頼朝墓の右奧岩場を登り、山の中腹の小路を こった平忠常の乱を鎮めるため出征、任を果し、 その功で頼義は相模守になり、この大倉に館をすすむと大江広元・島津忠久、さらにその先に 設け、平直方の娘と結婚したという。これは『保は北条義時らの墓があるが、いずれも奈良時代 暦間記』という史書の記述だが、これが本当との横穴古墳を利用したもので詳細不明。 かずさ
宮下 / ト路 六国見山 山の内から鎌倉内へ 局前 小坂局 ・舎利殿 妙香池 / 円覚寺 仏殿 - ク / ク 北鎌倉 ( - 、・大鐘 、白鷺池卍帰源院 山ノ内 、 0 北鎌倉 北鎌倉学園 最明寺跡 ( 神興寺跡 ) 0 上杉氏邸跡 ( 管領屋敷跡 ) ・瓶の井 卍明月院 東慶寺卍 明月院前 甘露ノ井 東瓜ヶ谷 午前十時頃、横須賀線の北鎌倉駅で下車し、 宮鎌倉へ向かう路順は大体次の路がある。見学の 程度にもよるが、おおむね一日コースになる。 至 まず、駅前の円覚寺見学が振り出しだ。 次に路の反対側の、縁切寺として知られる東 慶寺を訪ねよう。そして次は同じならびの浄智 綯寺へと、北条一門の建てた褝寺めぐりがつづく。 の踏切を渡って明月院、そしてバスの通 至 っている街道沿いに長寿寺、建長寺、円応寺を 後にして八幡宮裏に出る。 時間があれば、八幡宮参拝と、境内の博物館 や美術館見学もよく、あとは小町通りで趣味の 店や古美術店をのぞいたり、喫茶店で休むなど してタ暮れの鎌倉駅から帰るのが一般的だ。 このコースの分岐として次の数例がある。 まず、浄智寺脇から山路を登り、葛原岡に出 て、その周辺を散策し、英勝寺や寿福寺などを 経て鎌倉駅西口 ( 裏口 ) へ出る順路である。
さむらいど・ 山の内 頼朝から絶大な信頼をうけ、待所の別当 ( 長 北鎌倉一帯から建長寺周辺までは、山の内と官 ) という最重要なポストまで与えられた三浦 よばれる地域で、鎌倉の郊外だった。鎌倉市に 一族中の豪直な老将も、北条氏の策にかかって 編人されたのは昭和一一十二年。 それ迄、和田義盛の所領だった山の内を北条義 源頼朝が治承四年 ( 一一合 ) に鎌倉に入り、強力時 ( 時政の後継者 ) が手に入れ、以来、北条家 な関東の武士団が結束され、武家政治の町業はの本家が、代々ここに居住するようになった。 順調に進む。 伊豆の片田舎の北条氏は、ここで初めて鎌倉 しゅうと そうしたなかで、北条時政は頼朝の舅というの至近距離に足がかりができたのだった。 立場ではあったが、 実力の程は伊豆黽山近くの その北条氏は、後に仏教の主流として褝 ( 臨 北条というごく狭い土地の、豪族というのも気済 ) を特に奨励し、自身の所領内に建長、円覚 が引ける程の首長でしかなかった。その北条氏などの褝寺を次々と建立した。 が執権として、やがて専制政治を行い、 鎌倉の また、地理的にみれば、各地にある鎌倉街道、 黄金時代を迎えるまでには、北条氏の陰謀、挑つまり、「いざ鎌倉」のときに地方の武士団が駈 戦にひっかかった豪族たちが、ひとつ、またひけつける道のうち、東北、信越のコースが山の こぶ ( ろ とっと、血の粛清で消え去っていった。 内に入り、亀ヶ谷、巨福呂の切り通しで鎌倉に 建保元年 ( 一 = 一三 ) 和田義盛がその犠牲になった。通じている。関東武士の主な出入り口の要衝を、 ざねレ」も 時に、頼朝、頼家に次いで、源氏最後の実朝の 条氏の本家が、がっちりと掌握したことにな ときである。 : ・うやま
0 p 1 08, 1 09 P 38 , 39 覚園寺卍 猯泉寺 卍 , 岡八幡宮 卍 卍浄妙寺 明王院卍 寺 卍光虫寺 p. 42 , 43 報国寺 p. 26 , 寺 山の内から鎌倉内へ : 鎌倉駅から東への道 : 鎌倉駅西口から西方へ : 鎌倉駅東口から南東方へ : 鎌倉史跡点景 : ・ 鎌倉散策のたのしみ ( 永井路子 ) : Ⅷ 卍妙法寺 卍安国論寺 日蓮像 卍法咥寺
大仏《鎌倉や御仏 なれど釈迦牟尼は美男 に在す夏本立かな》と よさのあきこ 与謝野品子が詠んだ長 谷の大仏は、実はまぎ れもない阿弥陀如来。 だから後に : : : 御仏な れど大仏は : : と作り なおしている。 鎌倉の彫刻で唯一の 国宝。ただ大きいばか りでなく、巨像として の形態美学的な配慮が 随所に見られる優れた プロンズ像だ。この像が出来た建長四年 ( = 宝 = ) 済的に苦労はしたらしいが、とにかく、これだ は、鎌倉時代も中期に入り、北条時頼を項点と けの像を造れるだけの鎌倉になったことを示し して、鎌倉は政治的にも軍事的にも安定期に入ている。 り、この像が示すいろんな証拠から、かなり経 私がここでとくに取りあげたいことは、鎌倉 おわ 4
から安田さんについて歩けば、絶対見落しはな 4 いわけだが、それが単なる博哉に終らないのは、 何よりも鎌倉のすべてにあたたかい愛清を注い でおられるからであろう。それをまず感じさせ るのは、歩きはじめる前に言われる一言である。 「くれぐれも御注意しておきますが、途中にあ る草や本は、折ったり取ったりなさらぬこと」 安田さんとともに 鎌倉にも思いがけない珍しい木や草もある。 この巻を執筆された安田三郎さんは、鎌倉めまたそうでなくとも、鎌倉めぐりの記念に何か 一本摘んで帰りたくなるものだが、本や草にと ぐりをする方にとって、現在望み得る最高のパ ートナーである。私も何度かお供をしたが、安っては、生まれたところで生い育つのが一番幸 せなのだ。植物にも動物にも詳しい安田さんは、 田さんとの鎌倉めぐりは、実に楽しい。 すらりとした長身、軽やかな足取り、きびき不用意に折りとられる草や木に、自分の小指を びしたリーダーぶり。 いくつかのグループを主切られるような思いを味わわれるのだろう。 まは鎌倉めぐりがプームで、何百人、何千人が 宰されているか、そのほかにも多くのファンが いると伺っている。長い間鎌倉の国宝館におら押しかける。その人たちが一本の草をぬけば、 れただけあって、文化財には実にくわしい。 カ百本、千本の草は鎌倉から消えてゆくのだ。そ メラマンとしての鋭い眼も持っておられる。だのことを食いとめるためにも、この助言の意味 鎌倉散策のたのしみ 永井路子