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検索対象: 鎌倉歴史散策
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1. 鎌倉歴史散策

光則寺関東の豪族に宿屋とい う一族があった。源平合戦の頃は 源氏側で功をあげた。後に、一族 みつのり の宿屋光則は北条時頼の重臣とな り幕府の要職についていた。文永 八年 ( 一毛一 ) 日蓮上人以下多くの信 徒が捕えられたとき、そのなかの 日朗上人ら数名は宿屋光則に預け られ、裏山の土牢に幽閉された。 この時、光則は囚人たちを密か に厚遇し、ついに日蓮宗に帰依し たうえ、その邸を寺にしたという。 寺名は光則の名からとり、今で もその土牢は残っている。 かいどう 当寺は樹齢百余年の海棠で名高 く、四月上旬、絢爛たる花が五 四方に展る。ここの梅も見事で、 光則寺は鎌倉有数の花の寺である。 ク長、ソ一弋

2. 鎌倉歴史散策

長谷観音寺伝によると、元正天皇の頃、大寺伝はともかく、この像は八を超す日本一 棠 和長谷寺の徳道上人が巨大な楠の木で一一体の十の木像で、坂東観音札所の第四番霊場である。海 おうげんじん 一面観音を刻み、一体は大和の長谷寺に、一体 本尊のほか、観音の変化した三十一二応現神を寺 かけばと , わにぐち はじめ、優れた板碑、銅鐘、懸仏、鰐ロ、等々唄 は縁のある所に票着してそこを救い給えと海に 流し、十六年後に三浦半島の長井に着き、それ文化財が多い。観音堂右脇には鎌倉 , ハ阿弥陀の やくよけ を藤原房前がこの地へ移し祀ったという。寺名ひとつ、丈六の厄除阿弥陀が祀られ、参道中腹 も大和の長谷寺の名を借り、新長谷寺とつけた。は地蔵信仰の場で、水子地蔵がユニークな光景 を展開している。 当寺はこの界隈の 要に位置し、この辺 象りの地名も当寺の名 をとって長谷という。 谷観音堂は山の中腹 のなので由比ケ浜を前 金景に、遠く三浦半島 が望見できる。 境内には文学者関 / レ、なタタい 0 いたび

3. 鎌倉歴史散策

浄智寺 十四名だという。これから推定すると五百名か 今、浄智寺は、仏殿と客殿、庫裡がひっそり らの集団がこの谷で活動していたらしし 、。仏殿 たた と本立のなかに佇ずんでいるが、当寺が創建さ背後の庭隅に亭々と聳えるコウヤマキの老本は、 れた頃は鎌倉の最盛期だったから、堂塔伽藍は きっと、その盛んな当時を見ていたにちがいな ) 0 谷奧まで建ちならんでいたようだ。当時の様子 また入口右にタチヒガンの名本二株がある。 げんこ・つ・ この庭には、沙羅と称している樹があって、 を語る史料として、元亨一二年 (一三 lllll) の北条貞 時十一二回忌法要の記録が円覚寺にあるが、それ近頃注目されている。この本が一一本あれば平家 によると、当寺から法要に出席した僧は二百一一物語に出てくる沙羅双樹ということになる。た だし、学問的にいえば、この本は ハクウンボクだそうで、五月の初 旬、仏殿横の渡廊越しに、白い可 憐な花が見られる。又、仏殿の左 キ マに裏庭を一巡する小路への人り口 ウがある。谷奧の、かって伽藍の並 のんでいたところは、今では静かな 一住宅に変わり、そこを通る小路を 倉辿って山へ登れば、約三十分で葛 はらおか 原岡に着く。 そび 105

4. 鎌倉歴史散策

さすけがやっ さすけいなり 佐助稲荷と佐助谷源氏山のち 南西に迫る谷は、今でも外界とと 切り離されたようにひっそりと した環境だが、もともと隠れの 里とも呼ばれた谷である。 ひそ ここには、福の神が潜んでいを て、その囁く声が聞こえたとい う。今、佐助谷というか、その 名の由来には諸説があり、左己で のような佐助稲荷の縁起による弁 のが一般的だ。 伊豆に流されていた頼朝は、 この稲荷の助力で成功したとい うことで、鎌倉に入った後、畠 銭洗弁天この谷の一隅に洞窟があり、洞内 山重忠にこの神を祀る社を建てさせた。頼朝は すけどの さひょうえのすけ 若い頃左兵衛佐に任官していたので、佐殿とよの湧水は五名水のひとつに数えられている。 みのひ ばれていた。ここの神は佐殿を助けたから佐助文治元年 ( 一一八五 ) 乙巳巳月巳日の夜半、ここ の福の神が頼朝の夢に現われ、湧水を汲んで神 と名付けたとし、谷の名にもなったという。

5. 鎌倉歴史散策

新訂京の名庭 ) 東京緑散策 大阪歴史散策城ーその美と構成ー ミドリ・日卉貞夫共著 中根金作著 大谷晃一著 藤岡通夫著 本 日比谷公園や六義園など 相阿弥、遠州などが作っ絶えず変化し発展を遂げ 日本の名城を訪ね、歴史 の四李折々の東京の庭・公た京の名庭三十五カ所をてきた大阪。その歴史の的・建築学的に考察を加 策園を、著者のみすみすしカラーで紹介し、その美舞台の跡を写真で紹介し、 え、日本文化の独創性を い感性でとらえご案内。 と作庭精神をさぐる。 大阪人の思想を綴る。 鮮明に描き上げる。 歴鎌倉歴史散策皿名庭のみかた大阪城ガイド 2 西洋館を訪ねて 永井路子・安田三郎他共著 中根金作著渡辺武・内田九州男・中村博司共著 中村哲夫著 学鎌倉には寺院が多い。が、①築山林泉式庭園②枯山大阪城内の櫓やその内部日本各地の明治・大正の 文その寺院や文化財関係は 水庭園③茶庭の代表的名と、展観物を余さす紹介西洋館一五〇余を紹介。 他書にゆすり、この書で庭を実例をあげて作庭上し、大阪城のみどころと見どころやアーチ・窓に は〈路〉に重点を置く。 の技術と思想を解説。 秘められた歴史の謎を。 関する豆知識も掲載。 新鎌倉文学散歩桂離宮 大阪城歴史散策新日本の祭 安宅夏夫・松尾順造共著 和田邦平著 渡辺武著 芳賀日出男著 漱石や芥川の作品をはし 昭和・平成の修復なった謎の石垣解明と太閤さん全国各地に伝わる有名な め、古くから現代まで多日本建築文化の手宝を、 の天守閣、徳川の大坂城祭・珍しい祭を各県から くの文学作品の舞台とな精緻な解説と写真で美の のことなど、大阪城の過一件以上とりあげ、迫力 った鎌倉の地を辿る。 極致に逍遥する。 去と現在を散策する。 ある写真とともに紹介。 郷土の伝統芸能 ッ金沢文学散歩 安宅夏夫著 芳賀日出男著 ・北の都の風上が生みだし 全国の伝統芸能を、美し た数々の文学作品の舞台 い写真と巧みな筆さはき をたすね、そこに生きる で臨場感豊かに展開。約 カ人々の心をさぐりだす。 一五〇件を紹介する。 森

6. 鎌倉歴史散策

至化粧坂至巨福呂坂 亀ヶ谷坂 / 八幡宮 幻の車大路 この年は、頼朝が初めて鎌倉に入ってから二 鎌倉の歴史を語る重要な史料『吾妻鏡』に、い 年足らずの時だから、この路はすでに他の大路 くつもの路の名が出てくるが、そのひとつに車とともに、まっ先に設けられていたことがわかる。 おおじ 大路というのがある。 車大路が実際にどこを通っていたかというこ 一番初めの記述は寿永元年 ( 一一八一 I) 六月八日、 いくつかの理由で上図の場所と考えられ かげかど 頼朝が車大路の加藤景廉の邸に病気見舞に行っているが、現実には跡形もない。 たとい - っ件である。 治承四年 ( 一一八 0 ) から始まる発展途上の鎌倉で / 橋 は、おびただしい建設資材を必要とし、それ等 ぎっしゃ 北条高時邸跡 筋 を搬ぶ牛車の交通が急増したことは当然だ。 卍邸港 南北に走る各大路を横に結び、海岸に最も近 く、そうした車を専ら通行させるために設けら 小坪路 \ れたのがこの路だと思う。車大路の名もそのた めではなかろ - フか 今の流路 この路の名は、建長 ( 鎌倉中期 ) 以後はすべて の記録や文書に出てこない。鎌倉が安定期に入 り、さらに衰退期になると、かっての産業道路 として大切だった路も不要になり、名実ともに 消え失せてしまった幻の路なのである。 車大路と 他の大路の関係 いわや小路 鉄の井 居 夷堂橋 国 命辻の八幡論 寺 ( 元八幡 ) 寺 大町四角日 閻魔橋辻の薬師ぉ 石 - 屋 下馬四角 大 ( 古東 ) 、 六地蔵 塔の辻 / 現在第 1 小学校 129

7. 鎌倉歴史散策

ほっしようじ お猿畠の法性寺 文応元年 ( 三六 0 ) 八月二十七日の夜、日蓮は名 越の草庵を焼き打ちされるという第一回の法難 をうけたが、白猿一二匹が現れて日蓮を導き、名 越旧道東の岩窟に避難させ、食料なども連んだ たいしゃ′、てん という。白猿は帝釈天のお使いだったともいわ れ、白衣を着けた土地の信者だったかも知れな 日蓮はその岩窟の場所に寺を建てることを 畠弟子に託したが、孫弟子に当たる朗慶により元 。お享元年 ( 一三一一一 ) 頃当寺が建てられたようである。 ゆいしょ ミ、・ 0 ばた朝 。・、 , 裏このような由緒から当寺の背後をお猿畠と称し、 性山号も猿畠山という。岩窟は今も残る。 名越旧道から崖沿いの小路を辿ってお猿畠に 至り、背後を振り向いてみると明らかに人工の 切り岸が屏風のようにめぐらされているのがわ かる。鎌倉と外界の間を、正規のコース以外は 厳に交通を遮断するための防衛施設であること がよく解る。 1 39

8. 鎌倉歴史散策

切り石を積んで高くし たので、段かずら、ま たは置石など、いろい ろな名で呼ばれている。 もとは浜辺の鳥居まで あったが、明治になっ て、横須賀線や江の電 などが敷設される時、 邪魔だとして現存区間 の他は取り除かれてし まった。 大正六年から植え継 がれたサクラが、花時 は延々と。ヒンクのトン ネルを作るほか、下植 えにサッキやツッジ、 キクなどが添えられて いて美しい 29

9. 鎌倉歴史散策

東慶寺の庭室町時代 , 今はない太平寺とこの東慶寺は共に 尼五山に列し , 住職が姉妺であった。そのゆかりで仏殿の名 は泰平殿。また , 太平寺旧蔵の聖観音立像も後に東慶寺に移 された。もとの仏殿は現在横浜の三渓園に移築されている。 背後の山上に松ケ岡文庫がある。庭内は梅をはじめ , 紫陽花 や花菖蒲が多く , 花時はとくに賑わう。 ( 102 ~ 103 頁参照 )

10. 鎌倉歴史散策

み子どう すみうり 鎌倉が経済成長を始めた建長の頃、幕府は政夷堂川 この下流浜の大鳥居近くを炭売川、新 令で、こうした繁華街では、道路に軒先をつき居の閻魔堂近くを閻魔川と、場所によって呼び 出してはいけない、側 溝の上に建物を出しては名がちがっていた。またこの辺りから下流にか いけないとか、牛を路傍に繋いではいけないと けて、中世の頃はずっと東の方を蛇行していた。 おうけっ いった、現代の駐車禁止のようなことまで、こ 浄明寺辺の川床には、甌穴という渦流によっ まごまとした規制を出しているが、当時の様相てできた穴が随所にあり、川の古さをはっきり が想像できる。 示している。今では市が試みに放った鯉が成長 ふ \ - どうばし 夷堂橋と滑川十橋のひとつ。滑川に架かり、 し、路行くひとの眼を楽しませている。 小町大路が通っている。本覚寺と妙本寺の中間 にあり、本覚寺の所で述べた夷堂の前に当たる。 たりがわ 滑川は鎌倉で唯一の川らしい流れだ。鎌倉は 軟質な第三紀の凝灰岩ででき、川床はたいてい 岩盤が露出し、水で磨かれて滑るような感じに なっているのでこんな名がついたのか。 そそ 朝比奈旧道脇から流れ流れて由比ケ浜に注 ) でいるこの川は、今では川全体を滑川といって ( るみ 浄明寺辺から坐 いるが、もとは上流が胡桃川 ぜん 褝川、東勝寺橋付近が滑川、そしてこの辺りを つな すべ 滑川にかかる夷堂橋 第前「リ 1 朝 - 朝に弸第物い・」肥増川