ィを : ~ 豸な 紫陽花の名所明月院 明月院この近くに北条時頼の邸と その坐褝堂だった最明寺があった。弘 長三年 ( 三六三 ) 時頼が三十七才で逝去す ると最明寺は廃されたが、その子時宗 により褝興寺として再興された。 褝興寺は関東十刹の一つとして栄え、 塔頭も順次建てられた。明月院は上杉 のりかたみつしっしゅげん 憲方が密室守巌のために建てた塔頭。 現存の古図を見ると、永徳三年 ( 一三 <lll) 創建当時の盛況がよくわかる。 褝興寺はその後衰退して明月院の付 属のようになり、明治初年廃絶、他の 塔頭もすべて今はない。 本堂脇の優れたやぐら ( 中世の横穴 は・つき事ついんーこう 墳墓 ) に憲方墓と伝える宝篋印塔があ り、公開されている。近年は紫陽花の 名所として知られ、初夏の人出はすさ まじい。 ( 頁参照 )
北条時頼墓明月院の一隅にある粗末な寄せ あつめの石塔。時頼は最強のライバル三浦氏を 亡ぼし、北条氏の専制時代を開いて最高権力者 になった。三十才で出家、三十七才で逝去。後 に最明寺入道として『鉢の木』で知られるが、彼 を理想化した作り話。障子の切り張りで有名な 鎌倉は、江戸時代には観光のため訪れる人が 松下褝尼を母とし、鎌倉武士として質実だった多くなり、橋、井戸、泉などを名数をそろえて らしいが、その業績をみると巧知に長けた冷酷名所として宣伝した。この井戸は明月院内にあ な人柄のようだったが、仏教信仰は篤かった。 り十井のひとつ。今でもよい水が汲める。 北条時頼の墓 十井のひとっ , 明月院の瓶の井戸 つるべ
宮下 / ト路 六国見山 山の内から鎌倉内へ 局前 小坂局 ・舎利殿 妙香池 / 円覚寺 仏殿 - ク / ク 北鎌倉 ( - 、・大鐘 、白鷺池卍帰源院 山ノ内 、 0 北鎌倉 北鎌倉学園 最明寺跡 ( 神興寺跡 ) 0 上杉氏邸跡 ( 管領屋敷跡 ) ・瓶の井 卍明月院 東慶寺卍 明月院前 甘露ノ井 東瓜ヶ谷 午前十時頃、横須賀線の北鎌倉駅で下車し、 宮鎌倉へ向かう路順は大体次の路がある。見学の 程度にもよるが、おおむね一日コースになる。 至 まず、駅前の円覚寺見学が振り出しだ。 次に路の反対側の、縁切寺として知られる東 慶寺を訪ねよう。そして次は同じならびの浄智 綯寺へと、北条一門の建てた褝寺めぐりがつづく。 の踏切を渡って明月院、そしてバスの通 至 っている街道沿いに長寿寺、建長寺、円応寺を 後にして八幡宮裏に出る。 時間があれば、八幡宮参拝と、境内の博物館 や美術館見学もよく、あとは小町通りで趣味の 店や古美術店をのぞいたり、喫茶店で休むなど してタ暮れの鎌倉駅から帰るのが一般的だ。 このコースの分岐として次の数例がある。 まず、浄智寺脇から山路を登り、葛原岡に出 て、その周辺を散策し、英勝寺や寿福寺などを 経て鎌倉駅西口 ( 裏口 ) へ出る順路である。
源平池のハス今あるハスが政子が植えさせ したもので、源氏側の島のひとつに旗上弁天が た当時のものか否かわからぬが、何という種類 祀られ、橋を渡ってお参り出来る。 写真は、その弁天島から対岸を見たもの。池か専門家も決めかねている。ともあれ、源平に のふちには柳が多い。とくに、向こう岸に見え分かれていたはずの紅白のハスは、今では仲よ く盛夏には妍を競う。やや紅が優勢だ ているのはシロシダレという種類の見事な株。 四月の下旬、その実が白い綿をつけて風に乗り、 雪が舞うように散る光景は壮観だ。これを中国 りゅうじよ ) い、詩や文にしばしばあらわれる。 で柳絮とし ゃぶさめ 卯の向こうに流鏑馬の馬場がある。クスの並 木が美しい。毎年四月の鎌倉祭りと九月十六日、 走る馬上から矢を射る古式の行事が展開される。 そこをつっ切ると正面に頼朝と実朝を祀った 白旗宮の落ちついた社殿がある。明治まで薬師 堂があった場所で、取り払われた跡に、上宮脇 から移築したもの。 白旗宮手前右側にコンクリートで正倉院風に 建てた博物館がある。鎌倉市立国宝館で鎌倉見 学のとき欠かせぬ所。 はたあげ 源平池のハス
池の脇から山路を登ると、すぐ 西御門の造成団地に出る。 参道の途中「河村瑞賢墓」の標柱か ら左に入れば、今は亡い華厳塔の跡、 さらに、江戸中期の豪商で、海運や 治水の功で知られる河村瑞賢父子の 墓や不老水という井戸がある。 墓所手前から右方の山路を登れば 半僧坊への近道。 ハイキングコース半僧坊からさ らに登れば北尾根に出る。左に進め ばさきの明月院のある谷奧へ通じ、 右に進めば十王岩を経由して天園方 面に結ばれる鎌倉最良のハイキング コース。十王岩から南方を眺めると、 鎌倉の街、由比ケ浜などが展望され、 若宮大路が鎌倉の街を貫通している 様子がよくわかる。 ( 5 鵬頁参照 ) にしみかど ずいけん てんえん
たつれゆう 帰源院円覚寺の塔頭のひとつ。第三十八世が今でも健在。そのうえ、偶然だが、帰源院の けつおうぜえい 先代住職富沢珪堂老師がまだ若い雲水の頃、漱 住職傑翁是英 ( 仏恵褝師 ) が祀られている。 明治一一十七年暮から翌年にかけ約十日間・では石と親交があったという縁で、漱石文学愛好者 が当寺を「漱石ゆかりの寺」として、彼の旬《仏 あったが、夏目漱石が円覚寺に参褝したときこ ・、 1 こに止宿した。性は白き桔梗にこそあらめ》の碑を建て、毎年 しの 彼が二十八二回、漱石を偲ぶ集りが開かれている。 才で胸を患い ノイローゼ気 味になった時 である。麦に、 日、、イ あれ ~ 石三月から六月 1 ッ一迄朝日新聞に 寺 " ナ 連載した小説当掲 石がを 、、ゞ ( 院『門』に円覚寺漱額、 ) 日」」 帰の情景をよく の = 、 描写している が、当寺の門源
さくいん あ朝比奈旧道・・ 甘縄神明社・・・ 安養院・・ 稲村ヶ崎・・ 岩窟小路・・ 英勝寺・・ 夷堂橋・・ 円覚寺三門・・ 扇ヶ谷・・ 大倉幕府跡・・・ か覚園寺・・ 鎌倉駅・・ 鎌倉宮・・ 亀ヶ谷坂・・ 管領屋敷跡・・ 帰源院・・ 北鎌倉駅・・ 葛原岡・・ 化粧坂・・ 源氏山公園・・ 浄智寺・・ 正續院・・ 成就院・・ 寿福寺・・・ 釈迦堂ト 七里ケ浜・・ さ佐助稲荷・・・ 巨福呂坂・・ 極楽寺坂・・ 極楽寺・・・ 光明寺・・ 光則寺・・ 光触寺・・ 源平池・・ 建長寺・・ ン不 ・・ 50 ・・ 79 ・・ 93 ・・ 24 ・・ 58 ・・ 83 ・・ 52 ・・ 36 ・・ 40 ・・ 26 ・・ 37 ・・ 15 ・・ 63 ・・ 61 ・・ 16 ・・ 32 ・・ 49 ・・ 76 ・・・ 88 ・・ 68 ・・ 74 ・・ 22 ・・ 64 ・・ 70 ・・ 56 ・・ 75 ・ 5 ・・ 12 ル・・・ 46 た ま 浄妙寺・・ 瑞泉寺・・ 杉本寺・・・ 銭洗弁天・・ 大巧寺・・ 大仏・・・ 大仏坂旧道・・ 段かずら・・ 長寿寺・・・ 辻の薬師・・・ 東慶寺・・ な名越旧道・・・ 二十五坊跡・・ 日蓮辻説法の跡・・・ 35 忍性菩薩の墓・・・・・ 69 は長谷観音・・・ 八幡宮・・ 腹切りやぐら・・ 半僧坊・・ 日野俊基の墓・・・・・ 63 仏日庵・・ 別願寺・・ 宝成寺・・ 報国寺・・ 本覚寺・・・ 本興寺・・ まんだら堂跡・・ 妙法寺・・ 妙本寺・・・ 明月院・・ 元八幡・・ や永福寺跡・・ 大路・・ わ和賀江島・・ 若宮大路・・ ・・ 45 ・・ 44 ・・ 64 ・・ 78 ・・ 66 ・・ 28 ・・ 15 ・・ 85 ・・ 95 ・・ 23 ・・ 77 ・・ 34 ・・ 20 ・・ 92 ・・ 34 ・・ 47 ・・ 85 ・・ 96 ・・ 92 ・・ 84 ・・ 10 ・・・ 86 ・・ 39 ・・ 25 ・・ 90 ・・ 28
み、リ ! わたる ! 3 は むす ! まって ! なを、 た・しいりてくだ 0 ー 円覚寺の直前に北鎌倉駅がある。横須賀軍港に通じる鉄道として , 強引に境内を横切って敷設された。橋の両側に広がる池は白鷺池。 八幡宮の神が白鷺に変じてここに来たという。 また、建長寺手前、長寿寺脇の亀 ヶ谷古道を抜け、扇ヶ谷界隈を巡っ て鎌倉駅西口へ出るのもよく、寿福 寺前から岩窟小路を経てさきの小町 通りに入るのも面白い いずれも、雨天の時や雨あがりに は、山路や坂があるので不適だ 季節のよい頃なら、健脚向として 北尾根ハイキングをおすすめしたい。 明月院脇か、建長寺内を通り抜け、 半僧坊から裏の尾根路に出て東に向 かう ( 頁地図参照 ) 。下る路は二階 堂、十二所、金沢などがあるから好 きなコースを選べばよい。もちろん、 天候に大きく左右される。 最近は、方々に飲食店が出来てき たか、どこでも昼食がとれるように 弁当持参が安心である。 いわや
極楽寺坂鎌倉七ロのひとつ。建長四年 ( 三坂の下に病馬の舎屋を建てたと史書に見える。 むわたか 五 (l) 宗尊親王が鎌倉に人ったときは稲村ヶ崎か坂の下とは極楽寺坂の下ということだから、こ ら入ったというから、この路はまだなかったよの時はもう路か開かれていた訳だ にんしよう うだ。その後、極楽寺の開山忍性律師がこの路 元弘一二年 ( 一三三一一 l) の戦いの時、ここの守将は大 らさだなお を開いたという。律師はまた、永仁六年 ( 一一一九八 ) 仏貞直で、十万余騎の攻撃に耐えたという。こ れは、『太平記』の少々過大な 言込かも知れないか、激戦の 場であったことは間違いない この路の . ヒ則には、かって ささめがやっ イ第 ( をだ頼朝が佐々目谷に建てたとい 、→、、「道う西方寺が移「て来ていた。 が相当大きな寺だったようだが、 ル又 石後に極楽寺の支院になり、室 を坂町時代後期に横浜の新羽に移 り、今も盛んである。 極今、西方寺跡はすべて民家 で、無断で入れないが、山す そに大きな五輪塔群や、明月 ふ義一 おさ
ゴルフ場 ・焼却所 横浜霊園 コルフハウス 大平山 公衆トイレ 、アキン為ーグ / ー 新立 この辺りの カエテ・林が美しい ( 獅子舞の谷 ) 五林山 この路傍の岩塊に 員の化石のあった 跡が明らかだ 朝比奈・金沢文庫方面 ち - ・じよっ 北尾根ハイは重畳たる山 キングコースなみで、春は 明月院前をウグイスが啼 左へ、さらに き、スハマソ 谷奧に進み、 ウの可憐な花王 が見られたが十 ハイキングコ ース標示にし今は昔。その % 簽 3 一たが「て右手一隅に散在ケ の山路を辿る池 ( 鎌倉湖 ) と と、北尾艮に いう幽邃な池 出て視界は一があり、今も 挙に展がる。残されている 建長寺が右に、が、造成池に 前方は海、足囲まれ、コースから切断された。建長寺の半僧 寺跡方面下から北方一坊裏まで、山路は造成の時切り離されたので、 0 一らに ~ 果一何 帯は大きな造 一度下り、また登らねばならない 成団地。吉沢すると展望台があり、脇に十王岩がある。ここ -k ) い - フ、、も A ) はかってやぐらで、壁面に閻魔王など三尊が浮 ひろ ゅうすい えんま