大町四つ角から小坪路を南下すると魚町橋が さかさがわ 逆川に架っている。この辺りが魚町で、下流に 架かる十橋のひとっ乱橋付近までの辻町と共に大た 力し 繁華な区域であった。魚町橋から少し下って左方て 先し に入ると、やはり十橋のひとっ逆川橋がある。 る交 この小坪路をゆるやかに下って行くと、横須 しカ て路 賀線の踏切りにかかる。その手前右側に辻の薬 え大 見車 師堂がポツンと建っている。 辻の薬師もと長善寺という寺だったが、鉄方辺 後の 道敷設で本堂は失われ、薬師堂だけ少し場所が左こ 変わったが残された。辻の薬師の辻とは小坪路線甌 賀木 と車大路 ( 頁参照 ) と交差する辻のことで、そ かげかど の角には加藤景廉の邸があったようだ。 が方 本興寺辻の薬師と反対側にある日蓮宗の寺。堂後 日蓮の弟子天目が、日蓮が辻説法をした跡に当角 のつ 寺を建てたと伝えるが、 小町の辻説法跡やこの辻四 場所が、いかに賑やかな通りだったかというこ とを物っている。
至天園い と華の橋がある。右方の宅間ヶ谷に、かって 寺 華頂の宮家の別邸があったのでこの名がつい 大 た。建物は今も健在である。 橋を渡って谷奧へ向えば報国寺に至る。 ( 町 頁参照 ) その向かいの山中に、坂東観音札所 巡りの路があり、路傍には庚申塔が並び、地 蔵菩薩の磨崖仏がある。この路は、杉本寺か ら逗子の岩殿寺につづいていたが、大部分は その先の大型宅地造成で失われた。 跡 寺跡 華の橋から浄妙寺はもう近い。ここから先 は表の街道をなるべく避けて、住宅街の裏路、ノ を拾い歩きすると泉水橋付近までは車に気を つかわずに行ける。途中、もと大楽寺のあっ くるみがやっ た胡桃谷、鎌倉御所 ( 足利氏館 ) などがある。 明王院、大慈寺跡、光触寺などを巡ったあと、 光 十二所からバスを利用して鎌倉か横浜の金沢 \ 八景に出るか、さらに足を延ばして朝比奈旧 道を歩くのがすばらしい。 こうそく コ ス 梶原景時邸跡 伝大江広元墓 大慈寺跡 能満寺跡 0 ロ凵 堂 階 日熊野神社 卍浄妙寺 ( 旧極楽寺 ) 杉本城跡 杉本寺卍′ 杉本観音 大懸橋ーー 浄明寺 浄明寺局 / ノ ' 7 の 上杉朝宗 ( 褝秀 ) 邸跡橋 報国寺卍 明王院 卍 7 足 公 方 寺 川・越重頼邸跡 西泉水市営住宅 、、青砥橋 ・大江広元邸跡 至衣張山 浄
葛原岡から浄智寺へ 葛原岡神社前から北方への山路を下ると岐路 うりがやっ があり、左へ下れば瓜ヶ谷、右へ下るとき注意 して見ると、路は大堀割と交叉しているのに気 付く。堀割の右方に海蔵寺が望見できる。路の点第ン、、 前後は明らかに人工の深い切岸が向かいあい 今ではその間を埋めてハイキングコースが通っ 立 ている。私は、ここがかっての立体交叉点だっ たと考える。つまり、山の内から瓜ヶ谷を経て 扇ヶ谷奧の梅ヶ谷にすぐ入れる近路と、浄智寺 脇から葛原岡へ登る山路がここで交叉し、山路の の方には橋を架け、必要に応じ橋を引いて交通裏 を遮断する仕掛けの軍事施設だった所だと思う。 つ、うした橋を引橋という ) 。 この路をさらに進むと、浄智寺裏山の高所に てんれゆうほう 出る。ここを天柱峯という。建武元年 ( 一三三四 ) 、浄 ちくせんばんせん 智寺の住持になった竺仙梵遷の記念塔があり、 ここを過ぎると浄智寺脇に至る。 を、のお第
二階堂界隈を歩いた あと、ふたたび街道に もどり、東へ歩を進め よう。途中に滑川の支 流に架かる十橋のひと つ「歌の橋」がある。 将軍実朝の頃、渋川 刑部六郎兼守が罪を得 / て処刑されようとした とき、和歌十首をよん〕 で荏柄天神にし情を訴 D 「Ⅱ〔〕 えたところ、歌人実朝 ゆる は歌に免じて赦したと い一フ。・に兼宀寸か報思 のために架けた橋なの でこの名がある。 二階堂から街道に出 わか るには、岐れ路の途、 かわもり 至朝比奈 倉霊園 鎌 橫浜市 尊月い、 日羆野神社 0 中から、第二小学校前を通ると近い。 また、岐れ路から東へ向かうには、 車の多い街道を避け、大御堂橋から田 楽小路を歩くのがよい ( Ⅲ頁参照 ) 。 ぜんしゅう 途中、上杉褝秀邸跡前の十字路を左 折し、犬懸橋を渡ると、その前が鎌倉 公最古の仏跡杉本寺。 この辺りから街道は滑川に沿ってい 常果 広至る。杉本寺をあとに、やや東行する \ 太刀洗水 月輪寺跡 神社前 いめかけ 十 卍光触寺 4
み子どう すみうり 鎌倉が経済成長を始めた建長の頃、幕府は政夷堂川 この下流浜の大鳥居近くを炭売川、新 令で、こうした繁華街では、道路に軒先をつき居の閻魔堂近くを閻魔川と、場所によって呼び 出してはいけない、側 溝の上に建物を出しては名がちがっていた。またこの辺りから下流にか いけないとか、牛を路傍に繋いではいけないと けて、中世の頃はずっと東の方を蛇行していた。 おうけっ いった、現代の駐車禁止のようなことまで、こ 浄明寺辺の川床には、甌穴という渦流によっ まごまとした規制を出しているが、当時の様相てできた穴が随所にあり、川の古さをはっきり が想像できる。 示している。今では市が試みに放った鯉が成長 ふ \ - どうばし 夷堂橋と滑川十橋のひとつ。滑川に架かり、 し、路行くひとの眼を楽しませている。 小町大路が通っている。本覚寺と妙本寺の中間 にあり、本覚寺の所で述べた夷堂の前に当たる。 たりがわ 滑川は鎌倉で唯一の川らしい流れだ。鎌倉は 軟質な第三紀の凝灰岩ででき、川床はたいてい 岩盤が露出し、水で磨かれて滑るような感じに なっているのでこんな名がついたのか。 そそ 朝比奈旧道脇から流れ流れて由比ケ浜に注 ) でいるこの川は、今では川全体を滑川といって ( るみ 浄明寺辺から坐 いるが、もとは上流が胡桃川 ぜん 褝川、東勝寺橋付近が滑川、そしてこの辺りを つな すべ 滑川にかかる夷堂橋 第前「リ 1 朝 - 朝に弸第物い・」肥増川
源平池八幡宮の入口に石でできた 太鼓橋がある。もとは朱塗の板で作ら れていたので赤橋といった。 ひょったん この橋を中心に瓢箪のようにひろが っているのが源平池。もと水田だった ところを、寿永元年 ( 一一八一 I) 四月、頼朝 おおばかげよし 夫人政子は大庭景義等に命じ、三町歩 池ほどの池を作らせたという。社殿に向 かって右 ( 東側 ) には島を三つ設けて白 ハスを植え、西側は島が四つで紅ハス を植えた。白紅はもちろん源平をあら わし、三は産で栄えること、四は死で 平家の滅亡を祈ったものだといわれる。 また、さきの太鼓橋の両側に、普通 の橋が架っているか、もとは西側にし かなかった。平家を踏みつけて渡ろう A 」い、フこ A 」一らー ) 、 0 現在の池は大正の始め頃に造りなお
風畑駐車場ご う大変な回り道だったので、山の内に本拠があ った北条氏にとって、巨福呂坂の開発は、切実 な必要があったことがわかる。 さて、『吾妻鏡』などに辻子という表現がある。 歴史家は、交差点の辻ではなく、大路と大路を 結び、通り抜けのできる小路のことだと説いて いる。さすれば、この岩窟小路は、まさしく辻 子といった性格の小路ともいえそうだ。 横大路つき当たりに見える屋根は宝戒寺。 かって北条高時の邸跡。左側は八幡宮。『鎌倉市 史』によると、横大路とは八幡宮赤橋 ( 今の太 鼓橋 ) 前から宝戒寺までとしているが、山の内 から入り、鉄の井から左折して、赤橋に至る区 間も一本の直線コースだから、その全部を横大 路といってもさしつかえないだろう。右側角は 有料駐車場。かって和田義盛の邸だった。八幡 さむらいど一べっとう 宮前の大切な場所に、侍所別当の義盛を住まわ せたことで頼朝の信頼のほどがうかがえる。 ′がね
至化粧坂至巨福呂坂 亀ヶ谷坂 / 八幡宮 幻の車大路 この年は、頼朝が初めて鎌倉に入ってから二 鎌倉の歴史を語る重要な史料『吾妻鏡』に、い 年足らずの時だから、この路はすでに他の大路 くつもの路の名が出てくるが、そのひとつに車とともに、まっ先に設けられていたことがわかる。 おおじ 大路というのがある。 車大路が実際にどこを通っていたかというこ 一番初めの記述は寿永元年 ( 一一八一 I) 六月八日、 いくつかの理由で上図の場所と考えられ かげかど 頼朝が車大路の加藤景廉の邸に病気見舞に行っているが、現実には跡形もない。 たとい - っ件である。 治承四年 ( 一一八 0 ) から始まる発展途上の鎌倉で / 橋 は、おびただしい建設資材を必要とし、それ等 ぎっしゃ 北条高時邸跡 筋 を搬ぶ牛車の交通が急増したことは当然だ。 卍邸港 南北に走る各大路を横に結び、海岸に最も近 く、そうした車を専ら通行させるために設けら 小坪路 \ れたのがこの路だと思う。車大路の名もそのた めではなかろ - フか 今の流路 この路の名は、建長 ( 鎌倉中期 ) 以後はすべて の記録や文書に出てこない。鎌倉が安定期に入 り、さらに衰退期になると、かっての産業道路 として大切だった路も不要になり、名実ともに 消え失せてしまった幻の路なのである。 車大路と 他の大路の関係 いわや小路 鉄の井 居 夷堂橋 国 命辻の八幡論 寺 ( 元八幡 ) 寺 大町四角日 閻魔橋辻の薬師ぉ 石 - 屋 下馬四角 大 ( 古東 ) 、 六地蔵 塔の辻 / 現在第 1 小学校 129
雪ノ下局 ) の 跡、東勝寺橋 跡 北条高時腹切やぐら み 東勝寺跡′ ノ 杉本寺卍 杉本観音 運動広場一 7 田 楽 上杉朝宗邸跡 卍 妙隆寺 寺新 浄 北条泰時の 釈迦堂跡 ・日蓮辻説法跡 北条朝直邸跡 琴弾橋 ィ雪ノ下 第ニの岐路 第一の岐路 寺 宝卍 大」佐竹屋敷跡 園 安養院 \ 寺 申寺、、 常雲日卍、上行寺 2 / 、、釈迦堂ロ隧道 卍妙本寺 山王堂跡 伝北条時政邸跡 衣張山 汐 / 造成団地 △ 木東寺跡 ・慈恩寺跡 7 ら堂面 黄法衣張山界隈 台・ 日 衣張山を項点とし、釈迦堂谷 一フー ノ越 の奧、大御堂谷の奧、妙本寺裏 \ \ 山、佐竹山、祇園山と、一連の 山なみが大町方面につき出てい る。その南端先を走る大町大路 八ロいはすでに写真頁で紹介した ので、ここではこの山なみの南 則の谷に進んでみよう。 大宝寺前をすぎ、第一の岐路 を左折、さらに第二の岐路を左 寺 法 へ行くと、トンネルを抜けて東 妙 卍 勝寺橋前へ出る。第二の岐路を 一′」一直進すれば山王谷。鎌倉時代に は山王堂があった谷である。 さきの第一の岐路を右折する スと、右方一帯はかって鎌倉で一 番美しい寺だったと伝えられる \ 名越四つ角 きぬばりやま 136
の電の線路に沿って南下すれば、右手の谷が、 かって阿仏尼が住んだという月影ヶ谷。やがて 一りし」、 十橋のひとっ針磨またははりすり橋がある。昔、 みが 針を磨く職業の人が住んだところという。路傍 に日蓮袈裟掛けの松があり、さらに行けば十一 人塚の史蹟。元弘三年 ( 一 = 一 = = I) 、新田義貞の鎌 倉攻めのとき、寄手の大館宗氏主従十一人が戦 死、それを供養したところ。こ「、をすぎれば七 里ケ浜に出、左手に稲村ヶ崎の海辺公園がある。 山項にレストハウスがあり、ここの風景を愛 したドイツの細菌学者コッホと北里柴三郎博士 の記念碑がある。 こゆるぎ 七里ケ浜稲村ヶ崎と小動崎の間、約三キロの 浜で、由比ケ浜と共に中世の歴史の舞台だが、 鎌倉時代は名無しの浜。この美しい名がついた のは室町時代のこと。六町を一里とした関東式 の計算だという。 さて、京都鎌倉の往還を考えると、最もわか ト第を第「ー当」