浄土宗 - みる会図書館


検索対象: 鎌倉歴史散策
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1. 鎌倉歴史散策

つねとき 総門左にもと寺僧寮だった千手院、右にもと 光明寺北条経時 ( 時頼の兄、四代執権 ) が仁 治元年 ( 三四 0 ) に良忠上人 ( 記主褝師 ) を開山とし真言宗の蓮乗院がある。今は共に浄土の寺だ。 本堂脇の庭園は小堀遠州の作と伝え、池の蓮 て佐助谷に開いた浄土宗の蓮華寺が前身。 その後、寛元元年 ( 一一西 = l) 経時は夢のお告げでが見事である。大賀博士が発見された一一千年前 寺名を光明寺と改め、場所もこの材木座に移しの実から発芽したという蓮も植えられている。 裏山の第一中学校脇に開山開基の墓がある。 たという。そして、当寺は浄土宗が関東に進出 学校の南側の路が小坪坂を経て住吉城跡 ( 頁 する拠占、となり、やがて、京都と関東の浄土宗 六派の総本山となる。明応四年 ( 一四九五 ) 後土御門参照 ) の裏を通り、姥ヶ谷を下って小坪の常盤 べんがやっ じゅうやねんぶつ 天皇が勅願寺として十夜念仏法要が勅許された。橋に出る古道である。光明寺の北に弁が谷 ( 紅 後に、徳川幕府は、浄土宗の学問所として関ヶ谷 ) があり、その入口に最宝寺という寺があ 東十八檀林の第一位とした。こうした格式にふったが、今は横須賀市の野比に移った。その脇 たかみくら さわしく、境内は広く、伽藍の大きいことで鎌 に《浜の高御倉》の小字名が残っている。由比ケ 倉有数の寺である。 浜に陸あげされた物資を貯蔵したところらしい。 光明寺の大きな唐様三門。右後方は蓮乗院

2. 鎌倉歴史散策

九品寺の反対側に真言宗の感応寺があったが ふだらく その南が低い砂丘で補陀落寺という 今はない。 真言宗の寺がある。頼朝が文覚上人を開山とし 養和元年 ( 一一八一 ) に創建したという古刹。当寺の 優れた吊鐘が東慶寺に現存する。 九品寺は新田義貞が創建した浄土の寺。そこ から一一百ほど進むと海岸の路に出る。その西 に川尻という所があり、元の滑川河口だった。 地形の変化で、今は五百ほど西に移った。 海辺の路を右折し、豆腐川を渡れば浄土宗の家 大本山光明寺 ( 次頁参照 ) 。寺前を進むと岐路が内 あり、右は海沿の路で和賀江島に至り、左の路華 は光明寺の裏山に登る。その左下に内藤家の墓 ひゅうがのべおか だんな 地がある。内藤家は光明寺の大檀那。日向延岡 れいがんじ の城主。もと江戸霊厳寺にあった歴代の墓所を 内藤忠興の時ここに移した。三に及ぶ宝篋印 塔など五十八基の石塔がならび、江戸初期の大 名家の墓所として貴重な史蹟だ。

3. 鎌倉歴史散策

た北条政子の建てた律宗の長楽寺が移り、政子 安養院当寺の成立は複雑だ。ここは当初、 善導寺という浄土宗名越派の寺で、北条朝時のの法名から寺名も安養院と改め、宗旨ももとの そんかん 次男、尊観上人が住持した。上人の墓という徳浄土宗になってくる。時代は下り江戸の延宝八 ほみ′・っ 年 ( 一六八 0 ) に大火で焼失後、比企ヶ谷にあった末 治三年 ( 一三 00 銘の優れた宝篋印塔が今もある。 ささめ その後、善導寺が廃された跡に、佐々目にあっ寺の田代観音も当所に合併して再建した。つま り、善導寺、長楽寺、 田代観音が一緒になっ て安養院になったのだ。 この田代観音は坂東 観音札所の第三番だっ もたから、今は当寺がそ の札所になっている。 ッ尊観上人の石塔脇に キ政子の墓という石塔が なあるが、後世の室町時 当寺はお灸の名所と 堂しても有名だ。 ぜんどう

4. 鎌倉歴史散策

鎌倉駅東口から南東方へ ふたたび鎌倉駅東口を起点に、南東部一帯、 つまり、大町、材本座、名越などの地区をめぐ ろう。中世の頃、主として庶民が生活した下町 観で、今でも住宅の密度が高い。自然探勝を目的 面とするなら祇園山か、名越旧道、海の自然とし わかえじま 一越て材木座海岸 0 和賀江島くらだ。 町日蓮宗、浄土宗系の寺々が多い。これらの宗派 は庶民の層に結ばれていった。真言や天台の貴 族的な仏教とか、褝という厳しい教えとちがっ とな て《南無妙法蓮華経》とか《南無阿弥陀仏》と唱え れば救われるという簡潔な教えのひろまってい ったところ。 小町大路が南北に走り、大町大路と今はない 車大路が東西に走って交差し、生々しい大衆の 臭いがみなぎっていたであろうところである。

5. 鎌倉歴史散策

塾 3. また、もとの路に戻り南 8 下すると右に啓運寺、左に 妙長寺と、共に日蓮宗の寺 がある。さ、らに一丁けば , 卞橋 みだればし のひとっ乱橋、そして左に 八時宗の向福寺、浄土宗の九 ほんじ 品寺など、軒なみ日蓮と浄 土系の寺院が連なり、地域 の持徴がよく出ている。 この路に平行し、東側を 通る小路がやはり古い。そ の路傍には、東側の山すそ に同系統の社寺が並ぶ。 能蔵寺という廃寺跡の時宗来迎寺は三浦義明 踏切を渡り、最初の右折する路を少し行くと 右側に元八幡がある。さきの辻の薬師堂と線路の守り仏が本尊、その南の五所神社には元感応 寺にあった優れた不動明王の板碑がある。さら をへだてて背なか合せのような位置である。 ここも別名を辻の八幡といった。創建の由緒にその南にある日蓮宗の実相寺はもとの妙法華 くどうすけつね 寺。この辺りが工藤祐経の邸跡だといわれる。 は頁に記してある

6. 鎌倉歴史散策

浄光明寺 山を背にした浄光明寺は覚園 泉ヶ谷の北伺、 寺と同じく京都泉涌寺末の古義真言宗の名刹 建長三年 ( 三五一 ) 、北条長時が真阿上人 ( 真聖国 師 ) を開山として創建した寺で、はじめは浄土 宗であった。 宋風の優れた阿弥陀三尊をはじめ文化財が豊の かで、裏山にはやぐらが多く、そのひとつに網泉 引地蔵という正和元年 ( 一三一一 I) 作の石仏があり、 れいぜいためすけ その上には冷泉為相の墓という宝篋印塔、さらひ に北東に隣接する多宝寺跡のやぐら群、巨大な井 かくけん 多宝寺長老覚賢の墓という石造五輪塔、などと 尾根路がつづき、見るべきものが実に多いが、 残念ながら一般には公開されていない 最近、春の数日、鎌倉の社寺で文化財の特別 公開日を設けることが試みられたか、こうした ことが巨例となれば、そうした機ムムを逃さずに 見学するのがよい。門前先左に泉の井戸がある。 ひき

7. 鎌倉歴史散策

中には公園としか一言いようのないお寺もある。 急坂で、決してらくな道ではない。「鎌倉入り大 歓迎」というよりも、一々眉を寄せて検問して人が来て、有名になり、拝観料も入るからとい って満足しておられるのなら話は別だが、少な いるような感じである。例の鎌倉攻めのときも、 くともお寺本来のあり方と思っておられるはず ここでは悽烈な攻防戦が行われており、この不 機嫌な坂道には、何百、何千人の血を吸った過はないと思う。日本はもともと都会に公園が少 ノ。、こキび、 , 公 なすぎるのだ。アメリカやヨーロ 去が刻まれているのだ。 園の間にところどころ街があるといった感じの しったいどこに公 都会か多いのに、日本では、ゝ 寺との対話 園かあるのか、と田 5 うくらいだし、またそれじ を一い - フか たしか、あまり美しくない 。しぜんそんな所へ 人工の自然より、天然の緑を ら頭にうかべるのは、鎌倉の寺々のことである。ゆくよりも、花の美しい鎌倉の寺へということ になるので、いわば、寺は日本の公園行政の貧 いま、人々の眼をひきつけているのは、鎌倉の い。極端に自然困さの肩代りをつとめているような趣きがある。 寺々の花のみごとさであるらし げんぜい が乏しくなっている都会での生活に閉ロして、 もっとも、お寺さんの方にも、寺の庭は現世 鎌倉の寺にそれを求めようとする方々の気持は浄土だという考え方がある。美しくして人に見 わからないではないが、しのいこいの場所としてもらって、それが何らかの仏縁になればとい うわけで、こうした「方便」はお釈迦さま以来の てそれを引受けているお寺さんには、少々お気 伝統だから、それも結構であろう。が、現状で の毒な感じもしないではない。

8. 鎌倉歴史散策

4 も城郭を思わせる堀切りのあとがあったという。 幻の鎌倉 また、これもごく最近のことだが、北条氏の もう一つの本邸 小町館の裏手にある東勝寺 この大仏坂の登り口に、ヒ 」条政村邸址がある。址が発掘された。ここは『太平記』に出てくる北 今でも御所内などという地名が残っているか、 条滅亡の地として有名だが、発掘してみると、 山裾の本立ちの中にあるそれは、鎌倉では貴重その人口には、石垣のようなものを築いて、城 な武家の館の遺跡である。市街化されてしまっ 享的な機能を持たせてあることがたしかめられ た現在では、その昔立並んでいたであろう武家た。すなわちここは、北条氏の寺であるととも の館の址をたしかめることは、不可能に近い。 に、詰の城でもあったのである。従って北条氏 その中で政村館址は、まだ発掘はされていない が、ここに立籠ったのは、ただ菩提寺に引籠っ けれども、当時の武家館を地下に蔵している楽て死を侍ったのではなく、最後の拠点での抵抗 しみな遺跡である。 を決亠思したことにほかならない 北条氏は、こうした鎌倉の出人り口のそれぞ そう思ってみると、総帥の北条高時が切腹し れに、一族の館を構えた。鎌倉に出人りする人たときに折り重なるようにして数十人が切腹し、 人の動きをそこで捉えようとする用心の現われそれに火をかけて全滅する彼らの死は、『平家 であろう。過日名越の釈迦堂の址と思われると物語』に見られるような諦めの死、浄土欣求の ころの発掘調査が行われたが、名越は中でも時死ではない。敵に首を取らせまいための、抵抗 政以来の北条の本拠だけあって、そのあたりに の死なのだ。敵に首をあげられることは、相手 こしょのうち