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検索対象: 太陽レクチャー・ブック 007 ミュージアムの仕事
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1. 太陽レクチャー・ブック 007 ミュージアムの仕事

( し力ないイ あとは現場ですね、どうしても図面通りこ、、 古田美術館によって、また個人によって違うでしようね。 僕は、細かいところまで自分で書きます。どういう順番でメージがどうも違う、と次々に変更していきます。それも お客さんの目に入っていくかをシミュレーションしながら、僕にはとても面白い作品だけ選んであとは専門のデザイ どの位置にどの作品を置くか、かなり細かいイメージまでナーや業者に委託する学芸員もいますがーーアメリカには 図面に落としていくんです。今はパソコンでもできるのでそういった分業のやり方があります。キュレーターは作品 すが、ああだこうだと手で書いては消し、書いては消してを選ぶ人であり、展示はデザイナーに任せる。キュレータ ーの意思よりもデザイナーの意思が優先される美術館は少 いるほうか僕には早いんですよ 日本でもそういうケースは出てきていて、それ 最初は、何もない空白の展示部屋の図面です。そこに壁なくない を設置するところ、重要な作品を展示する位置などを書きでも展覧会は成立しますけどね。 そんな中で図録も作るとなると、たいへんですね。 込んでいく。 次に、グループ分けをした時に、ここには何 と何を入れる、あっちには何と何を : : : と全体の順序を考古田図面を書き直しているうちに、展示の構成もどんど えながら作品を分けていく。このへんで展覧会全体の構成ん変わっていきますから、当然、図録の章立ても最後まで がかなり見えてきます。そして今度はやや具体的にこの位固まらない。作品の順番もぎりぎりまで動いていますから、 どうにもならない状態に陥りますね ( 笑 ) 。 置にはこの作品を展示する、と個々の作品を割り付けてい く。それを何十回と繰り返すうちに、展示候補としてリス トアップされている作品が半分くらいに絞られていく。も ちろん、図面に落とした作品が実際は借りられないとわか展覧〈を「やりつばなし」にしない って、代わりの作品を加えなければならないケースも出て 東博と近美とでは、同じ国立でも異なりましたか。 きます。ここまでは机上の作業ですが、まあ一番楽しい段 階かもしれません、他人にはやらせたくありませんから古田東博は単純に規模が大きい。ひとつのことを決める ( 笑 ) 。要するに自分の頭の中でかなり空想的に作っていたのにやたら時間がかかって、その割に誰が決めたのかわか 、殳万のような、いわば「顔の見えない」大組織で 展覧会が、この後いろんな条件が見えてきて、どんどん現らない彳戸 した。でもそれを変えようとしても無駄ですから、その中 実的になっていくわけです。

2. 太陽レクチャー・ブック 007 ミュージアムの仕事

その後は社会的な関係、「信頼」しかありません。今回で 何も見えてこないと思います。 大学教育では、資格を取るために学芸員実習といった授きれば後はいいや、と強引に押し切ってしまったために、 業はありますが、実作業は何も教えられていません。つま信頼を失うこともあります。次からやりたいことができな り、資格を取ったから何ができるというわけではない。じくなるばかりか、美術館の信頼も損ねることになります。 ゃあ自分が学芸員としてやっていくために何をもっていなそういう非常に危険な作業が日常茶飯事だし、「今回は諦 めますが、次回はよろしくお願いします」ということもし くてはいけないか、ます基礎学力、その上での専門知識、 よっちゅ、つです。 これがないと帰るところがなくなります。 また実際、だれもがやりたいことをやれる機会に恵まれ国立、公立、私立と、所蔵先によってそれぞれの基準が るわけではありませんし、現実的にそういう企画が実現でありますし、個人蔵になるとますます事情が複雑になって いくら情熱があっても、作品を借りられなければ きる可能性は本当に少ないと思います。お給料をもらってきます。 勤める限り、置かれた場所、環境、条件のなかで、できる展示そのものが不可能になる。モノだけでなく、人を相手 にした仕事ですから、信頼関係をきちんと築けるか、その 範囲で最高の仕事をしようとする、それに自分がどこまで 情熱をもって取り組めるか、その積み重ねじゃないでしょ積み重ねがまた仕事に生きてくるわけです。 マルチな仕事ぶりが要求される ? 夢を見るのは構いませんが、「私はこんな企画、やりた古田展覧会への関わり方は一つ一つ違います。新聞や雑 くない 、もっとすごいことを考えているんだ」みたいなこ誌などの報道を外から見ている人は、すべて僕 1 人がやっ とを言っていても、一生何もできません。一生自分探しでているように思われるかもしれません。そのへんは誤解が あるといけないんですが、ゼロからすべて 1 人が立ち上げ 終わるかもしれません。 学芸員になってから大切なことは ? て作り上げた展覧会なんていうのはめったにない。共同作 古田いくらいい展覧会をやりたいと思っても、基本的に業でしかありえません。変にキュレーターといってその人 は相手次第というところがあります。モノが出てくるかど だけがすべてを仕切っているといったイメージは現実問題 、つ 1 刀、カイー , 、可こよって決まるのか、すごく微妙なところで仕事としてはまったく違うと思いますよ ーといった感覚は、 僕は、今よく言われるクキュレーター をすることになります。お金で解決するレベルもあれば、 093 092 The Sun Lecture Book 007 Working at a Museum Lecture 04 : 日 YO Furuta

3. 太陽レクチャー・ブック 007 ミュージアムの仕事

学芸員資格の形骸化はすいぶん以前から指摘されてきた。そもそも現行の法規では、「博物館ーの条件を満たしているの は僅か 2 割程度に過ぎす、多くはそれに準じる「相当施設」という区分に属している。驚くなかれ、日本最古最大の博物館 である東京国立博物館でさえ、現行法の下では諸々の条件を満たしていない「相当施設」に過ぎない。だが逆に、「博物館」 の埒外にある多くの施設では、法の制約を逆手にとって、資格こそ持たないものの他の能力に秀でた人材を学芸員として採 用してきたし、また地方の美術館では、採用にあたって資格や専門の研究能力よりは公務員試験の成績を重視した人事がし ばしばまかり通ってきた。実務経験を重視するという発想自体が、採用にあたって一律の国家資格を要求している現実と矛 盾するものだし、上級資格を設けたとしても、格下げされた大量の学芸員 ( 補 ) の有資格者の就職難は何も変わらない。学 芸員資格の敷居を上げたところで、解決されない問題は多いのである。 いずれにせよ、半世紀前に施行された博物館法の条文が現実に見合っていないことは間違いない近い将来改正されるこ とは確実だし、それに伴って学芸員資格の取得要件も改められるだろう。変更の内容や実施の時期など詳しいことはまだ分 からないが、資格取得の難易度が上がることと、法律の改正後も就職難という現実が変わらないことははっきりしている。 多くの美術館では作品購入の予算がっかないなどコレクションの整備に苦労しているし、また館の管理業務を民間業者に委 託する指定管理者制度が導入されるなど、美術館を取り巻く経営環境も年々厳しさを増している。早急に就職難が解消され ることはないのだから、とりあえすここでは、「一刻も早く資格を取って次のチャンスに備えましよう」というよりほかに 学芸員資格を取るには Ⅱ・△フからでも遅くない 学芸員志望者にとって、どうしても必要なのが学芸員資格。公立の美術館や博物館の学芸員になるためには学芸員資格が 必須だし、制度上は不要な国立や私立の施設でも、大半の学芸員は資格を所有している。資格を持っていないばかりにせつ かくの採用試験を門前払いされてしまうのはもったいないし、第一、持っていて損をするわけではないので、将来的な職業 として学芸員を考えている場合は、是非とも取得しておきたいところ。 133 132 The Sun Lecture BOOk 007 Working at a Museum lnformation & Manual

4. 太陽レクチャー・ブック 007 ミュージアムの仕事

では学芸員資各は + いかにして取得するのか。学芸員資格を取得するために定められているもっとも一般的な条件は、 4 年 制大学を卒業していることと、資格関連科目の単位を取得していることの 2 つである。このうち、資格関連科目は全国約 2 の大学で「美術館学」「博物館学」「ミュゼオロジー」等の名称によって開講されている。美術大学や文学部のある総合 大学であれば大抵は開講されているし、短期大学や専門学校でも開講しているところがある ( 無論その場合は、後で 4 年制 大学の卒業資格を得る必要があるが ) 。教職科目など他の資格関連科目と負担を比べても、単位の取得要件は決して厳しく はないので、関心のある人は是非とも在学中に資格の取得を済ませておきたいところである。 そうはいっても、自分の通っている大学には学芸員資格の講座が開講されていない、既に卒業してしまったのでもう遅い 外国の大学に留学していたので日本の資格を取得する機会がなかった、等々の理由で未だに取得できすにいる人も少なくな いだろう。そういう人が今からでも学芸員資格を取得したい場合には、以下の 4 通りの方法が考えられる。要する時間や経 費、難易度等は様々だが、取得した方法の如何を問わす資格そのものの価値は同じである。学芸員へのスタートラインに立 っために、ます資格を取得することから始めよう。 ①大学院や学士入学で取得する方法 学芸員志望を見越して学士入学や大学院進学をする場合は、学芸員講座が開講されている大学・大学院に進学して、そこ で新たに資格を取得する方法がある。一橋大学のように大学院でのみ学芸員講座が開講されている大学もあるので、受験先 の講座の有無を事前に調査しておこう。 ②科目等履修生として取得する方法 多くの大学では、科目等履修生や聴講生という制度を設けている。これは、正規の在学生でなくても、特定の科目を履修 して単位を取得することが可能な制度であり、授業料も遥かに安いので、多くの社会人が資格の取得などで重宝している。 講座の情報は入学案内やホームページ等で簡単に入手できるので、自分の母校でもいいし、自宅や職場近くの大学でもいし から、学芸員資格向けの講座が開講されているかどうかを調べてみよう。なおこの制度は、一般市民を対象とした課外講座 とは別物なので、その点は注意する必要がある。

5. 太陽レクチャー・ブック 007 ミュージアムの仕事

歴書を集めるとそれくらいありましたから ( 笑 ) 。もっと 受けている人もざらにいるそうですけど : 。受験勉強と して全国各地の美術館へ行き、講演会やワークショップに 念願の学芸員に 積極的に参加し、そこでそれぞれの美術館の良い点や問題 点、そしてこの館に対して私ならどんな仕事や提案ができ それでめでたく板橋区立美術館に採用された。 るのかを考えました。 弘中実は、ここがだめだったら人生を考え直そうと思っ 小さい頃に美術館をよく訪れたというのは。 ていたところでした ( 笑 ) 。履歴書が何通も返ってくると 弘中山口県出身なのですが、両親が絵を見るのが好きだ気もしょげますし。面接試験も「これで最後だ、直球勝負 ったので山口県立美術館によく行っていたんです。その影 だ」という気持ちで受けたのがかえって効果があったのか 響は、かなり大きいと思います。一番古い記憶は幼稚園のもしれません。何十人も受けて採用枠は 1 人でした。 頃にピカソ展が開催された時のことで、美術館の中の長い それまでジャコメッティについて論文を書いたり、フラ スロ 1 プを少しすつ上っていくと、正面に飾られた青い母ンス美術史を勉強しましたが、日本ではやはり西洋美術を 子像がだんだん見えてきて、とても感動的でした。高校生専門的に扱える美術館は少ないですし、ボランティア経験 になってからも学校帰りに香月泰男さんの作品を一人でよを通して私たちに身近な日本の近現代美術を伝えていくこ く見に行きました。 との面白さも感じていたので、その時点では日本近現代美 山口では最近になってアートが盛り上がっているようで、術をやっていける所を探していました。ですからあの時、 ( ワイカム ) が開館するなど、自分が離れた後だ板橋区美が学芸員を募集したのは幸運だったんです。 からちょっと悔しい気もします ( 笑 ) 。ただ、学芸員の試 ここは 1979 年開館ですから都内の区立美術館では一 験を受ける時は、いろいろなアートシーンが見られること番古く、コレクションとして江戸狩野派、戦前から池袋モ もあって首都圏の美術館を希望しました。 ンパルナスと呼ばれた地域に暮らした作家、草間彌生など、 いろいろな作品を合計 1000 点近く持っています。つま りよい意味で「遊び甲斐」があるんです。学生時代から何 度か来ていて、交通アクセスはあまりよいとはいえません ☆ 1 20 0 3 年にオープンした 図書館・ホール ・美術館などの複 合施設、山口情報芸術センターの 通称。コンビュータや映像を使っ たメディアアートの企画展などを 行なっている。

6. 太陽レクチャー・ブック 007 ミュージアムの仕事

などそのものすばり、日本を背負って立つようなテーマば かりで、僕が入る頃まではそのつど豪華図録をつくるとい 企画展は国を背負ってたっテーマで う、そういう発想が求められていたんですね。まだ戦後の 流れを引きすっていたような感じでした。 東博はいわゆる一般の美術館とは違ったイメージがありますが ただ、僕がいた 5 年半は、ちょうど変革の嵐のはじまり 古田当時で学芸員 ( 研究職 ) が約人いて、国内でも断にぶつかったんです。独立行政法人への移行をにらみつつ、 トツの大所帯。今とは違ってそれぞれの収蔵庫、すなわち過去のやり方が新しいやり方に変わっていく時期。一番の 彫刻や書蹟などモノと直結して分けられている「室制」の 問題は、それまでの「学芸部」から、「企画部」をつくる 時代で、中でも僕が配属されたのは一番人数が多い「絵画ということでした。それぞれモノと直結して、僕のいた美 室」。それに「学芸員」という呼び方はなく研究官といっ術課であれば、管理も貸出しも展示もすべて専門的に行な ていましたね。職員は事務か研究官 ( 文部技官 ) に分類さっていたものが、「企画部」構想というのは展覧会をどん れていたんです。展覧会を企画する仕事をしていたのは幻 どんやりましよう、一方で所蔵品はシステム化して、それ 5 人くらいだったでしようか ぞれ組織として管理すればいし 、といった方向でした。僕は なにしろ組織が非常に大きく、それぞれに与えられる公それにすごく抵抗を感じ、つまり学芸員というのはそうじ 務員的な仕事があって、一般にイメージされる展覧会の企 ゃない、モノがあって初めて発想ができるし、その前提と 画については、縦組織ですから、絵画室の上部組織であるして受け継がなくてはならない膨大なモノがある、その糸 美術課の打ち合わせの際に「こんなことをやったらどうが切れてしまうという危機感もあって、同じ考えの学芸員 か」というアイデアは出しました。ただ、個人差がありま が集まって反対運動をしたんです。派閥もありましたね。 すけれど、主に「自分は何をやりたいのか」ではなく、 今は反対派はほとんど東博には残っていません ( 笑 ) 。 「東博として何をやらなくてはいけないか」という発想が そんな中で、ご自分がやりたくて実現できた企画展は : 重視されていました。 古田一つだけ、自分のアイデアが実現した企画がありま 具体的にどんな展覧会を企画されていたのでしよう。 す。「シカゴ万博」を再現した展覧会です ( 「海を渡った明 古田大型展としては、「花展」「国宝展」「やまと絵展」治の美術再見 ! シカゴ・コロンプス世界博覧会」 19 「海を渡った明治の美術再見ー シカゴ・コロンブス世界博覧会」 展カタログ 19 9 7 年 塰を渡った明治の美術

7. 太陽レクチャー・ブック 007 ミュージアムの仕事

97 年 ) 。東博の所蔵品だけで構成したので、絵画だけで創立 100 周年記念特別展近代日本美術の軌跡」 199 なくエ芸部門とも組んだり、アイデア、発想、組み合わせ 8 年 ) 、近代美術専攻といえば僕だし、しかも学生時代に を駆使してかなり自山にやれました。内容が面白いという取り組んでいましたから、中心となってやらせてもらった ことで図録もっくり、コレクションの特集としては異例のんです。それがきっかけで近美へと声がかかったのですが、 意図せす僕の東博の卒業展になったわけです。 宣伝もできました。 その頃、近美では前任者が亡くなられたりして、日本画 あの時代って、海外で屏風や掛け軸などの日本の美術を 持って行った時、「調度品でしよう」とか「これは絵じやを担当するのが今の尾崎副館長一人になったんです、それ ないでしよう」とかいった反応がある中で、認められるかで「手伝ってほしい」と言われまして。そこで日本画につ いて任されるようになり、尾崎さんと一緒に、鏑木清方、 否かのス リリングな駆け引きがあった時代なんですね。東 博ではやはり近代美術の分野はマイナーだったせいか、当小倉遊亀、小林古径などの展覧会を手がけました。日本画 時の出品作が大量に東博に保存されていることをそれまでの大家の個展というと、安定した集客が見込めますし、も 誰も気にもしなかったんですよ。僕は入った頃からこれはちろん近美としてこの作家の展覧会はいすれ必すといった 宝の山だなあと狙いをつけていたんですが、たまたまそれものも含め、年 1 回程度はやっていたんです。 ただ、いすれも切り口を工夫しないとただ作品を並べた を生かす機会が得られたんですね。 だけになってしまう。そこが一番苦労するところであり、 もっと長くいれば別のアイデアをもう少し実現できたか 一番面白いところでもあります。回顧展となると代表作が もしれませんが : 集まっていたとしても、どうしても同じものに見えてしま いますから。たとえば小林古径展であれば、芸大に資料と してたくさん残っているスケッチを引っ張り出してきて、 本画との関係性を突っ込んで展示してみたり。展示の順番 もかなり考えて、図面を書いて考えました。 展示の図面も自分で書くんですか。今はすべて専門の業者やデ ザイナーに丸投げするケースも少なくないようですが。 図面づくりのたのしみ その後、東京国立近代美術館へ移ることになるんですね。 古田年でした。その直前、東博でたまたま日本美術院 100 周年の記念展覧会をやることになり ( 「日本美術院 085 084 The Sun Lectu re Book 007 Working at a Museum Lecture 04: 日 YO Furuta

8. 太陽レクチャー・ブック 007 ミュージアムの仕事

で自分が何ができるか、やりたいことをするにはどうすれ派」や「〇〇琳派」があってもおかしくない。ではいわゆ ( しいか、当然そういう発想になってきます。一方、近美る琳派といわれているもの自体の中心は何か、何が琳派な 肥 5 人と、組織が小さい分、皆が言いたいこのか、逆に定義できなくなってくる。 は学芸員も ジャンルを分けることにそもそも抵抗があるんですね。 とを言っているとまとまらない面もありましたね ( 笑 ) 。 「こんどの琳派はちがう」、と銘打った琳派展 ( 「琳派「琳派とはこういうものだ」というより、「琳派って何だろ う」と考えたほうが面白い。そうした時、ウィーンに行っ < 」年 85m 月 ) が反響を呼びました。 古田結果的に、今までと違う琳派のイメージを打ち出してクリムトを見れば、何だこれは、日本人がやろうとして いることと変わらないじゃないか、と。そんなふうに一度 たことになります。 ( 共催の ) 東京新聞では、当初はオー ソドックスな琳派の展覧会をやろうという企画でした。近見えてしまえば、これを是非持って来たいと思うわけです。 クリムトが実際に琳派を知っていたかはかなり微妙のようです 美では、原則的に、東博との住み分けもあって第一回文展 ・カ・ の開催年にあたる 1907 年以降の作品を扱、つことになっ ていますが、展覧会に関してはその制限はありません。開古田展覧会の成果と言えるんですが、その際にやったシ ンポジウムで、ウィーン工芸博物館のヴィーニンガーさん 館当時から、「今の目から見た」という条件つきですが、 近世以前のものも取り扱っています。それをもう一度やっという学芸員の方に発表してもらったところ、どうもクリ ムトが、琳派に関する、 ( 軸や屏風ではありませんが ) 冊 た、ということに過ぎないんです。 でも近世以前の美術である琳派展を近美で普通にやって子本の豪華版木版画集を見ていたのは確実だということが も面白くないわけです。それならあちこちで何度も開かれわかったんです。展覧会がきっかけで研究が一歩進んだか てきましたし。ひとつ、近代以降の琳派がど、つなっているなと。シンポジウムではヴィーニンガーさんが、かなり具 のか、は見せられる。しかし近代以降になると、「琳派」体的にクリムトと琳派の関係を指摘されましたが、他にも という言葉ではどの作家をとってもうまくはまらなくなっ村重先生、玉蟲先生など琳派を専門とする研究者の方々か てくる。下村観山の非常に琳派的な絵も、単純に「琳派らも、展覧会の意図に沿った新しい見解を発表していただ だ」と言えるかとなると、やはり「近代琳派」という言葉きました ( 『琳派ー、ー国際シムボジウム報告 を使わざるを得ない。そういう眼で見ていくと、「西洋琳書』 2005 年 3 月、プリュッケ ) 。

9. 太陽レクチャー・ブック 007 ミュージアムの仕事

2 1923 ・ー、 97 。アメリ・カ 最初のクライアントが、まだ予算を持っている新宿アイ やらないと、本当にい、 し仕事を長く続けることはできない のポップ・アートの先駆者。 6 0 ということです。調べてみると、外国の美術館は建前と本ランドだったのは幸運でした。最初、そこの建築家が様子年代、漫画の 1 コマを拡大した作 品などで独自の境地を確立。 を見に事務所にやって来て、話をしたり飲んだりするうち 音を使い分けていることもわかりました。バブルが弾け、 19 2 8 ー。アメリカのポ に、じゃあそろそろ一緒に仕事をしましよ、つとい、つことに。 美術館の予算がどんどん減っているなか、自分の事務所が ップ・アートの作家。「 0 > u 」 「 LD<}—」などの文字を巨大な立 果たしてうまくやっていけるかを考えた時に、美術館と組結局、ポップ・アート系のリキテンシュタイン、ロハ 体物にしたりキャンバスに描いた ト・インディアナ、ダニエル・ビュランなどコンセプチュ りする。 んでキュレーションをしていく可能性はますないだろうと 感じました。そこで辺りを眺めると、まだアート関係でおアル系、また日本人では長澤英俊、西川勝人と、年代の 1960 ( ) 70 ←平伴一にかけ - て流行った世界的な前衛芸術運動。 金が回っていたのはパプリック・ア 1 トの分野だったんで大物作家の展覧会になりました。 1995 年のプロジェク 作品の物質的側面よりも、文字や 記号による非物質的な表現など観 す。当時パプリック・アートではあまりいい作家が仕事しトなんですが、今でも最大級の日本のパプリック・アート 念的側面を重視する。アイデア・ ていなかった。そこで建築雑誌 ( 「」 ) にそういった意です。その後もいくつか手掛けましたが、同規模のものは アートとも呼ばれる。 ないですね。だいたい最近は予算も半減してます。 見を発表しはじめたんです。 バブリック・アート批判ですか 新宿は、年代の大物を集めているという批判を受けた 南條批判するだけじゃなくて、国際交流基金にいた時かのですが、僕に言わせると、そういう作家を常設で見せて いる美術館はその頃なかった。日本のどこへ行っても大物 ら僕はそうでしたが、必す代替案を出すんです。こういう ふうにすればもっとよくなる、という案を出せば、人が相の現代美術家の作品が見られないのだから、パプリック・ 談に来ます。それでパプリック・ア 1 トのディレクションアートで常設展示にしようというのが僕の考えでした。そ を始めることになったんです。でも実際やったことなんてれをキュレーションする、つまりパプリック・アートでも キュレーションができることを証明しよ、つとい、つ意欲もあ ありませんから、見よう見まねでした。当時パプリック・ アートはそれを専門にやっている作家ばかりで、美術界でりました。 フリーの立場だからこそできた仕事ですね。 評価されている作家か参加していないという思いがあった。 だからたとえばヴェネッィア・ビエンナーレやドクメンタ南條美術館と組んでもできない仕事です。次に手がけた に出るアーティストにパプリック・アートをやらせるべき京浜急行の上大岡 ( 1997 年完成 ) では、「大物ばかり という批判を新宿で受けたことに対して、まったく逆に、 だと考えたんです。

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クションや美術梱包の話もあり、かなり実践的な内容です。し。しかし逆に美術館に入ったので「がっかりした」と言 著作権の話は弁護十、梱包については日通やヤマト運輸のう人もいました。僕自身としては、なぜ決心したかという 人に講師を頼む。半分くらいの授業は各ジャンルの専門家と、日本にこれだけ大きな現代美術の美術館ができるので あれば、それがいい方向にいくようにもっていくのが日本 を呼んで話してもらい、我々は司会者を務めました。 それをひとつのエボックにしてアート関係の講座が増え始めるの美術界に対するひとつのミッション ( 使命 ) だと思った んですね。 のです。 オープニング展覧会「ハピネス」が万人の動員を記録しまし 南條慶應義塾大学ではこれを母体にアート・センターが 1 ド式のケース・スタ でき、さらに次の段階としてハ ディ・メソッドによるア 1 ト・マネジメント講座が大学院南條これはサプタイトルの「アートにみる幸福への鍵 モネ、若冲、そしてジェフ・ク 1 ンズへ」が示すように、 生レベルに向けて開講しました。 現代美術と伝統美術を組み合わせたもので、デヴィッド ( ・エリオットⅡ初代館長 ) の提案した企画ですが、僕も こういうことをやりたいとすっと思っていたんです。準備 フリー・キュレーターから美術館館長へ を進める中で、古美術を扱えるキュレ 1 ターだとか、少し その頃から、フリーのキュレーターも増え始めたように思いますっスタッフの補強もしていきました。その後、ファッシ すが、逆に森美術館の開館で、ご自分から副館長として美術館ョンをテーマにした「 O C *-a O ()n 〕ファッションと色 の中へ入られた。フリーの立場へのこだわりはなかったのでし 彩」展、きわめてラディカルな彫刻のような建築の展覧会 よ一つか 「アーキラボ」、また日本人の大物をやろうというので「草 間彌生展」などを企画しました。 南條うーん。ある時期から、森ビルが美術館をつくるに そうするうちに館長になられた。変化はありますか あたって、勉強会のようなかたちでいろんな人を招いたん です。僕も呼ばれて話をするうちに、 1 年ぐらい続けてほ南條 2006 年Ⅱ月 1 日からです。肩書が変わっても、 それまでアメリカ人今のところ仕事が大きく変わったというわけではありませ しいといったよ、つな話になって : の友人たちに「そろそろ落ち着いたら」とも言われていたん。これからじわーっ、と変わるということかもしれませ “→。 0 5 都森 5 0 市美 年一、術 2 ア館 0 ー編 5 のア 1 23 122 たキ こ第、平なラ 凡実ポ The Sun Lecture Book 007 社験 Working at a Museum 2 1 建 0 9 築 Lecture 06: FumiO NanjO 行・し H け