ープンまでは川カ月しかない。企画書 ( 開催要項 ) 作りに始ま 0 て、作品の出品依頼用の書類づく り、苦手な数字ともにらめつこしながら細かい予算の計算など、事務的な作業もぬかりなくこなし ていかなければならない : : 怒濤の日々が待っていた。 ◆必死でセザンヌを勉強 田所さんは、もともと都内の大学で西洋美術史を学んでいた。入学した時点で専攻を決めていた ほどで、学芸員資格も取るつもりだ 0 た。しかし競争率の高い学芸員に実際はとてもなれないと思 っていたし、 4 年生の前期には一般企業への就職が決まった。ところがその夏、千葉県内の美術館 で受けた博物館実習の授業で、「現場の魅力にとりつかれてしまったんです」。やはり美術館で働き たい。その気持ちが大きくなり、就職を断って大学院に進んだ。修士 1 年の時、プリヂストン美術 館が教育普及スタッフのインターンシップを募集しているのを知り、応募して採用された。ギャラ リートークや親子を募って作品鑑賞をするファミリープログラムを手がけ、ますます現場の仕事に 面白さを感じていた 1 年後、ちょうど欠員があ「て同館が学芸員を募集することにな 0 た。経験の つもりで試験を受けてみると、運よく採用が決まり、修士 2 年に進む春に就職した。面接試験を突 破できたのも「人前で話すのが苦にはならないので」、と本人は言うが、実際、田所さんのギャラ リートークを見た同僚は「すごく向いてるなあと感じます」と評する。が、もちろん、人前で話す のは学芸員の仕事のほんの一部。ます美術の知識がなければ何も始まらない。大学では片世紀オラ ンダ絵画を研究し、卒論はレンプラントについてだったから、プリヂストン美術館の作品傾向には 馴染みが薄い。就職してから日本の近代絵画について意識して勉強を始めた。そして今回、「セザ ンヌについては、担当に決まってから必死で勉強しました」。 ◆思わぬ発見 会場は、館内で一番広い展一小室と決まっていた。まずやるべきは、企画の趣旨に沿う作品のリス トアップ。並行して、どの作品をどの順番でどんなふうに並べるか、立て込み ( 間仕切りの仮設 壁 ) をどこに設置すれば、 しいか、図面を起こしながら考えていく これをずばり「ドリームプラ ロ巨 ] 0 ロコ亘 「セサンヌ 4 つの魅力」展の会場風 景。《サントヴィクトワール山と ・ノワール》 ( 左 ) と、明 らかに影響を受けた林倭衛の作品を 隣同士に並べるなど、名画鑑賞、プ ラスアルフアの面白さを味わえる 073 072 The Sun Lecture Book 007 Working at a Museum 日 epo
問題提起を含んだ展覧会では、シンポジウムを開き、いろんな は、そのこと自体を改めて問題化したかったのです。その 研究者の意見を募って記録を残していく : ためにも積極的に両者の「はざまに位置する」作品や作家 古田そうですね。特に僕が中心になった企画展は、できを紹介することを考えました。 るだけ「やりつばなし」にしたくないんです。展覧会はど 当初のアイデアは壮大で、同じテーマで江戸時代編、近 うしてもお祭的なところがあって、自己満足で終わってし代編、現代編と各時代の日本画と洋画のはざまを取り上げ まいかねない。それではいけないと思うんです。批判を含ようというものでしたが、一番中心となる第 2 部の近代編 めていろんな人の意見を聞いたほうがいい これは東博でが実現にいたったといういきさつもあります。ですからひ 個人の主張が優先されにくい立場にいた時から考えていた とつの展覧会としてはちょっと詰め込みすぎの感もありま ことですし、できるだけ実践してきました。やった後に、 す。それから予算的にも無理をしてポストン美術館から借 こちらがやりたかった、訴えたかったことと、見た人がど用しました。ポスターにも使われた小林永濯の《道真天拝 うふうに感じたかを整理することで何かが生まれる、次へ山祈疇の図》 ( 1874586 年 ) がどうしても必要だっ のきっかけがっかめるとしたら、それは大事にしたい。 たからです。永濯というマイナーな作家をこれだけがんば 近美の最後に担当されたのが「揺らぐ近代」 ( cvooc.o 年物 って紹介する機会は二度とないでしようね。近代美術のも 月、京都国立近代美術館に巡回 ) ですね。 っている知られざるエネルギーみたいなものを、とにかく 古田構想川年、自分の研究の集大成的な意味をもってい見てわかってもらいたかった。結局、展覧会の開催が事情 て、東博に入ってから、何か展覧会ができるかもしれない、 で 1 年遅れたために芸大に移ってから始まったので、ご迷 と感じた時から考えていたものです。 2005 年の初めに惑もかけたかもしれませんが、やりたいことはやらせても は、近美に企画書を出していました。「日本画と洋画のはらいました。上野と竹橋を行ったり来たりして僕は非常に ざまに , というタイトル案に加えて「相克の近代絵画」と大変でしたが ( 笑 ) 。ただ、これを芸大に移ってから無事 か「伏流・近代日本絵画史」といった言葉で内容を説明しにやりとげられたのは幸運でした。 ていました。日本画と洋画というジャンル分けに置れてし まっている僕たちは、そもそも日本画とは何か、洋画とは 何かという問いかけすらしなくなっています。この展覧会 089 088 The Sun Lecture Book 007 Working at a Museum Lecture 04: 日 yo Furuta
んが。ただ当初はもたなかったコレクションを始めたこと本木クロッシング 2007 〕未来への脈動」があります。 は一つの大きな変化ですね。アジアの現代美術と言っては日本の現代美術を 3 年毎にきちんとまとめて見せていくシ いますが、今のところ半分は日本のもの、あとの半分が東 丿ーズの 2 回目です。これは海外への発信という意味もあ 南アジアや東アジア、中国の作品です。催した展覧会の中ります。美術館の役割は常に、国内に向けての啓蒙と、海 から買ったものも少なくありません。 外に対する情報発信という意味も含めて開催しています。 また今年 ( 2007 年 ) の仕事としては、生誕 120 年だから日本の人たちに、自分の国にこういう現代美術があ を迎えたル・コルビュジェの展覧会。森社長があれだけコりますよと見せるのと同時に、海外に対しても同じ内容の レクションしているのですから当然「いっかは」という話強い発信をする必要があります。 はありました。 2008 年にはコルビュジェ作品が世界遺次に「アートは心のためにある〕 ( ュニオン・ 産に登録されるという話もありましたし。館長になると、 ンク・オプ・スイス ) コレクションより」です。企業コレ キュレ 1 ションにあまり手を出すなとも言われているのでクションをもってくる初めての企画で、具体的にはジャス すが、建築に詳しいキュレーターがいない僕も専門家で ノ ジョーンズ、アンドレアス・グルスキー : など、 はありませんが、以前パプリック・アートに関して建築雑年代以降の重要な作家たちの作品。これは内容をへビー 誌に書いていたこともあって建築界とのつながりも長く、 にキュレーションするとい、つのではなく、むしろコレクシ なんとなく勘どころがわかっていましたので、僕が担当しョン紹介というものです。その際、コレクションとは何か ました。社長のコレクションを使うので成功させなきや、 企業がアートを収集するとはどういうことか、などいろん という気持ちもありましたし ( 笑 ) 。 なパプリック・プログラムを行なって、日本の企業やコレ ・コルビュジェのアトリエを実物と同じスケールで再現する クターへの啓蒙になればと考えています。 など、日本ではこのスへースでしかできない展示方法でしたね。次に、テートと組んで、「英国美術の現在史ターナー 南條それがこの美術館の一つの方向性だと思うんです。賞の歩み」として歴代の受賞者幻人の作品を展示します。 きちんとした展覧会をやるのと同時に、おもしろい展覧会 この幻年間のイギリス美術の流れを見ようという企画です。 ☆田 をやりたい。一般の人にも、面白かったという印象が残る さらにフランスの大御所、アネット・メサジェを日本向 展示をしていきたい。ル・コルビュジェの次の企画に「六けに少しアレンジした展一小。これはポンピドウー・センタ 19 4 3 ー。拾い集めたオ ブジェや動物のぬいぐるみを使っ たユニークな作品で知られるフラ ンスのアーティスト。 19 3 0 ー・。アメリカのネ オダダやポップ・アートの代表的 アーティスト。国旗、数字、標的 などを題材にした絵画で知られる。 1955 ー・。現代ドイツを 代表する写真家。べッヒャー夫妻 に師事した。画像をデジタル処理 した作品などで有名。 「ル・コルビュジェ展〕建築とアー ト、その創造の軌跡」チラシ 2 0 第第氈 え・ルし / 工第
などそのものすばり、日本を背負って立つようなテーマば かりで、僕が入る頃まではそのつど豪華図録をつくるとい 企画展は国を背負ってたっテーマで う、そういう発想が求められていたんですね。まだ戦後の 流れを引きすっていたような感じでした。 東博はいわゆる一般の美術館とは違ったイメージがありますが ただ、僕がいた 5 年半は、ちょうど変革の嵐のはじまり 古田当時で学芸員 ( 研究職 ) が約人いて、国内でも断にぶつかったんです。独立行政法人への移行をにらみつつ、 トツの大所帯。今とは違ってそれぞれの収蔵庫、すなわち過去のやり方が新しいやり方に変わっていく時期。一番の 彫刻や書蹟などモノと直結して分けられている「室制」の 問題は、それまでの「学芸部」から、「企画部」をつくる 時代で、中でも僕が配属されたのは一番人数が多い「絵画ということでした。それぞれモノと直結して、僕のいた美 室」。それに「学芸員」という呼び方はなく研究官といっ術課であれば、管理も貸出しも展示もすべて専門的に行な ていましたね。職員は事務か研究官 ( 文部技官 ) に分類さっていたものが、「企画部」構想というのは展覧会をどん れていたんです。展覧会を企画する仕事をしていたのは幻 どんやりましよう、一方で所蔵品はシステム化して、それ 5 人くらいだったでしようか ぞれ組織として管理すればいし 、といった方向でした。僕は なにしろ組織が非常に大きく、それぞれに与えられる公それにすごく抵抗を感じ、つまり学芸員というのはそうじ 務員的な仕事があって、一般にイメージされる展覧会の企 ゃない、モノがあって初めて発想ができるし、その前提と 画については、縦組織ですから、絵画室の上部組織であるして受け継がなくてはならない膨大なモノがある、その糸 美術課の打ち合わせの際に「こんなことをやったらどうが切れてしまうという危機感もあって、同じ考えの学芸員 か」というアイデアは出しました。ただ、個人差がありま が集まって反対運動をしたんです。派閥もありましたね。 すけれど、主に「自分は何をやりたいのか」ではなく、 今は反対派はほとんど東博には残っていません ( 笑 ) 。 「東博として何をやらなくてはいけないか」という発想が そんな中で、ご自分がやりたくて実現できた企画展は : 重視されていました。 古田一つだけ、自分のアイデアが実現した企画がありま 具体的にどんな展覧会を企画されていたのでしよう。 す。「シカゴ万博」を再現した展覧会です ( 「海を渡った明 古田大型展としては、「花展」「国宝展」「やまと絵展」治の美術再見 ! シカゴ・コロンプス世界博覧会」 19 「海を渡った明治の美術再見ー シカゴ・コロンブス世界博覧会」 展カタログ 19 9 7 年 塰を渡った明治の美術
以前も今もまったくないんです。逆に皆さんがその肩書か覧会に人が集まるということはますありません。その意味 らどんなイメージをもつのか聞いてみたい。かっこいい職では、学芸員の仕事が映画監督並みに認知されているとは 業だというイメージがあるのなら、どこが ? と ( 笑 ) 。 思いません。ただ、やりようによっては、「この人が作っ 。キュレーター。という横文字が、アーティストのようなイメた展覧会だから見に行きたい」ということがあってもいし ジに繋がるのかもしれませんね。 と思います。 古田インデイベンデント・キュレーターという人もいる もちろん、仕事はとても面白いですよ。でも僕の場合 ようですが、それが仕事として成り立っているのかも僕は「何かを仕掛けてやろう」といった面白さではなく、あく 疑問なんです。企画会社というのがあってその種の仕事はまで普通の仕事として、まだ企画展にかかわることがなか 成立するんでしようが、それはキュレーターの仕事とは少 ったかけ出しの頃、たとえば博物館で特集陳列をする場合、 し違うと思う。海外でキュレーターといえば、聞く人のイ何をどうすれば今までにないことができるのか、そのアイ メ 1 ジは部長や館長クラスであって、それ以外はそれぞれデアを考えて出すということ、それだけで十分面白かった。 の専門での分業制ですから、そうでない人との区別の意味その後もすっと、常に「あるものをどういうふうに見せる でキュレ 1 ターとい、つんでしよう。 か」という姿勢で臨んでいます。それまでにやり尽くされ では古田さんにとっての学芸員のイメージは ? たことを焼き直しても、やる側も見る側も面白くないから 古田映画監督にたとえられるかどうかわかりませんが、 です。じゃあ、やる側も見る側も面白いことは何だろうと 企画展もいろんな人と一緒になって作り上げていきます。 いう、非常に素朴な発想の元があって、常に切り口を探し 映画監督は、決して自分で何でもかんでもするわけではなているところはありますね。 いけれど、あらゆることに責任をもち、自分のイメージを まあ、一生続けるかどうかはわかりません。自分の発想 できるだけ人に伝えて完成にもっていく。で、公開されれがあるうちは続けていきたいし、自分だけが考えているの ば手出しはできない、 もう次の作品のことを考えている、 でなく、いろんな人との話のなかで、次こんなのどう ? そういう点は学芸員とも似ているかもしれません。一方で、といったケースがありますし、そういう場があって、かっ 映画の場合は、その監督の作品とみなされますし、監督の環境がよければ続けていきたいですね。 名前で人が集まるケースはありますが、学芸員の名前で展
建畠美術館には企画展とコレクションという 2 つの柱が ] を押さえるーー・この 3 本柱ですね。中心は現代のもっと あります。僕はどちらかといえば企画展本位のキュレータも重要なアーティストと最新の動向を押さえる点です。も ーで興味もそちらの方にいってしまうのですが、コレクシちろん地道な作業ですが、美術館にとっては不可欠ですし、 ョンはもちろんその美術館の存在意義であって、美術館のしかもコレクションは企画展にゆるやかに連動していきま 柱の中核にあります。それぞれの館の収集方針に沿って、 す。さらに館の存在自体を示していく意味もたいへん大き ある価値の体系を長い年月をかけてつくりあげていくもの です。今、美術品は暴騰しているので豊富とはいえません結果として、企画展とコレクションという 2 つの活動を が、国でいえば年間約 2 億円の予算が確保されています。支える調査・研究、とくに調査は非常に大切なので、スタ ただマーケットには恣意的に作品が現れるので、その都度、ツフにもなるべく外に出ていくように話しています。 即決を迫られる。だから一見ポリシーのない買い方をせざ るを得ない時もあるのですが、志のある館ならそれが川年、 年、何十年と続くうちにある体系が見えてくるわけです。実現したい 4 つの企画 東京国立近代美術館がいい例だと思います。批判もいろい ろあるでしようが。でも志のある美術館と単に衝動的に反 館長となると、やはり現場での展覧会のキュレーションはやり 応している美術館との違いは、 1 年や 2 年では見えなくて も、ある年数の蓄積の中で必す見えてくる、だからコレク建畠それが難しい問題で、キュレ 1 ターがいますのでね。 ションも重要な仕事だと思いますね。 僕が逆の立場だったら、館長はお金を集めて条件を整えて 国立国際美術館はどのような方針でコレクションをしているのくれてあとは自由にやらせてくれるのが理想なんだけど でーレよ一つ ? ・ ( 笑 ) 、ただの館長職だけではやつばり面白くない。実は今、 建畠まず、①ジャスト・コンテンボラリーの動向を国際 4 つほどの企画を、それぞれに担当者をたててここ 2 年間 的に押さえながら、同時に②メジャーな作家たちの作品をくらいで実現させていきたいと思っているんです。 押さえる、まあ予算的には非常に大変ですができる範囲で。 1 つめは、川年来考えていた「スティール / モーショ ☆ 4 さらに③ピカソなど近代美術の原点であるモダン・マスタ ン」 ( 2 0 0 8 年春 5 ) というもので、ドウルーズの『シ ☆フランスの哲学者、ジル・ に . ウルー、ス ( 1925 ーー 95 ) が 著した映画論。 「運動イメー ジ」は年、 2 「時間イメージ」 は年刊、 2 の邦訳が 2006 年 にようやく刊行された。
いう国の制度があるので ( 「ガイド篇」参照 ) 。それまでは ンターに持ち込んだことがあるんです。会場のあても何も 「無免許」で「暴走」してきたことになります ( 笑 ) 。ただ ないまま日本では当時ほとんど知られていませんでした 市民ミュージアムとしては、漫画や映像についてもそうでが、実際ヨーロッパに行ってみると、ドイツの現代写真は すが、新しい分野を扱っていこうというわけですから、資世界のトップランナーでしたから。その企画は通りません 格を問えば逆に人材が限られてきますし、採用にあたってでしたが、後に市民ミュージアムでドイツ文化センタ 1 と 資格を限定せすに公募したので、その点でも幸運でした。 やった初企画が年の「女性のまなざし」展だったので、 つまり僕は学芸員になりたくてなったというより、写真新年のことを覚えていたスタッフの方に「あら、帰ってき について考える仕事をしたいというモチベ 1 ションがまずたのね」と言われました ( 笑 ) 。 あって、その具体的なかたちとして学芸員というポストに それ以後もドイツ現代写真についての企画が多いですね。 たどり着いたわけです。市民ミュージアムの開館を皮切り深川確かに僕はドイツ系の学芸員と見られがちですが、 にその後、横浜美術館、国立近代美術館の写真部門、恵比まず哲学を通してドイツの言葉に親しんだというのは大き 寿の東京都写真美術館の開館など、写真の文化的位置づけ い。さらに語学力によって、ドイツの世界に入りやすく、 をきちんとしようという流れが社会で広がっていきました仕事がしやすかった面は確かにあります。でもなによりド から、僕はその流れに出くわしたということでしよう。 ィッの写真がとにかく面白かったんですよ。日本ではずつ 学芸員の実際の仕事はやりながら覚えていった ? とアメリカの影響が非常に強くて、写真の情報にしてもア 深川準備室のリーダーのひとりだった平木収さん ( 写真メリカのものは入ってくるのにヨーロッパに関しては非常 評論家 ) について多く学びました。美術館には好きでよく に希薄でしたし、そういう状況に僕は出会ってしまった。 足を運んでいましたし、もともと「ものを大切に扱う」感 それに日本では、写真家の名前はわりに知られていても、 覚がわかっていたのがよかったかもしれない。ただ肝心な実際にその人の作品を見られる機会は少なかった。ならば のは企画を立ててそれを実現にもっていくということ。実そういう人の写真を紹介すべきだということも意識してき は突拍子もない話なんですが、僕は新年頃すでに、ドイツました。たとえばルイス・ポルツもそうです。 企画には個人的な好みもかなり影響するのでしようか。 の現代写真は面白いと感じていて、それをなんとか日本で 紹介したい一念で、展覧会の企画書を書いてドイツ文化セ深川「自分が見たいものを企画する」ということはあり すテみツー道真☆ クマ具家 1 。プわスにと なせと 1 社 uPALTZ ど、カモて 9 さ C ラノの 4 ま D ークテを 5 ざーポロクコー 羸 ut ま日ジ写ノン。 な 0 フ真ロトア ーリ。 e 00P れ 媒 M ィ ジロメ 体やルラー をビムイルカ 活デのトをすの 用オ組ポテる写 「ルイス・ポルツーー法則」展カ タログ 19 9 2 年 029 028 The Sun Lecture BOOk 0()7 Working at a Museum Lecture OI : Masafumi Fukagawa
やっていたことなど、美術教育の基礎をつくった天心をク ローズアップするというもの。僕が移ってきた時にはすで 大学美術館の可能性 に決まっていた企画ですが、芸大としては「担当者が来た 来た」といった感じで ( 笑 ) 任せてもらいました。大変な そして芸大美術館へ。 のは、あくまで「大学の展覧会」という点。自分の天心像 古田一応、公募なんです。とい 0 ても微妙で ( 笑 ) 。やを展覧会で表現すればよいというのでなく、芸大が創立 1 たらに条件が細かい公募だ 0 たんですが、これまでの仕事 20 周年記念として天心展を行なう意義を代弁する立場で を評価してくれて「受けないか」という声がかか 0 たんですから、なかなか大変です。チックも入りますし ( 笑 ) 。 す。芸大美術館はまだ若い ( 1999 年開館 ) ですし、こ ではご自身で今、あたためている企画は。 れからの美術館として、また教育機関として、さらに展一小古田実現の可能性が極めて少ない構想はたくさんあるん 場のサイズなども考えると、もう少し自分の仕事がゆっくです ( 笑 ) 。口にするとますます可能性が遠のいていくよ りできるだろうと思って決めました。ただ、今はそれどこ うな気もしますが ( 笑 ) ろじゃありませんが ( 笑 ) 。 ひとつは、南画の展覧会です。装飾的、造形的、。 テザイ というのもちょうど、もうすぐ始まる岡倉天心展の準備ン的な琳派と対照的に、南画は精神性や文人趣味と、両極 が佳境で : 等身大の作品はこれくらいの高さに展示を端の面がありますが、南画も見ようによっては印象派とそ するのでこういった台を設置するとか、一つ一つ決めてい う変わらない面白さがある。さらに日本の南画は捉えどこ く段階です。今回は、人物の紹介というより、天心の周辺ろがない分、琳派と同様、近代も含めて定義がないんです。 でつくられた作品をできるだけ見せようという趣旨です。 そこが非常に日本的であり、きっと西洋にも南画はあるだ 東京美術学校にいたころを中、いに、天心がやろうとしたころうという発想もできるんじゃないか。ただ、 = 調査も大変 とを、言葉ではなくて作品を通して見せようとしている。 ですが、失敗の可能性が高いのは、借りたい作品が借りら 天心が最近ややプ ] ムというか、興味をもたれる範囲が広れすに中途半端な展示にな 0 てしまうこと。それならやら が 0 ているようですが、逆に今回は『茶の本』でも『東洋ないほうがいいんです。また、琳派とは違 0 て地味で集客 の理想』でもない、それ以前に天心がやりたかったこと、 が見込めないので、おそらくスポンサーがっかないタイプ 「岡倉天心ーー・芸術教育の歩み」 展のチラシ 2007 年
古田亮 撮影 : 河野利彦 東京藝術大学大学美術館准教授 ふるたりよう。 1964 年東京生まれ。東京藝術大学美術学部 芸術学科卒業、同大学博士課程中退。東京国立博物館絵画室 研究官、東京国立近代美術館企画課主任研究官を経て、 2006 年 4 月から東京藝術大学大学美術館准教授。近代日本 美術史専攻。担当した企画展は「海を渡った明治の美術再 見 ! シカゴ・コロンブス世界博覧会」 ( 1997 年 ) 、「日本美術 院創立 IOO 周年記念特別展近代日本美術の軌跡」 ( 1998 年 ) 、「横山大観展」 ( 2002 年 ) 、「琳派 RIMPA 」 ( 2004 年 ) 、 「揺らぐ近代」 ( 2006 年 ) 、「金刀比羅宮書院の美」展、「岡 倉天心」展 ( 共に 2007 年 ) など多数。また著書に「狩野芳 崖・高橋由ー 日本画も西洋画も帰する処は同一の処』 ( ミネルヴァ書房、 2006 年 ) がある。
ロジーの時代に、芸術と技術がどのように絡ま 0 ていくのなバウウス展として組み立ててい 0 たのです。 か、統合されていくのか、その一つの原点としてバウハウ この企画を通じて、向井周太郎さん ( デザイナー、武蔵 スとは何かを見せられたらと考えたんです。 野美術大学教授 ) や高見堅志郎さん ( 字都宮美術館初代館 いろんな切り口が考えられるなかで、バウハウスの全体像を見長予定者 ) ら、戦後の造形教育の中心に立 0 ていた人たち せる展覧会になったのは ? に出会えました。今度は写真とはまた異なった人のつなが 深川最初は「バウウスの写真、というテーマを考えてりができ、広が 0 てい 0 たわけです。 いました。それは ( 5 ) 年に実現することになります 写真とデザインは、深川さんのなかでどういうつながりが ? が、ますは総体としてバウウスをとらえなければ意味が深川写真をつきつめて考えていくうちに、僕のなかでデ ないと。ちょうど、バブル期に多くの企業がアートのコレザインと密接に関わ 0 ていることが確認されてい 0 たんで クションをしていた頃、ミサワホームさんが国内では最大すね。ともに基本的には「造形」であり「企て」であると 規模のバウハウスのコレクションを購入していたのですが、 いうこと、さしずめ、写真は「光学を用いた企て」である それがまだちゃんとお披露目されないうちにバブルが崩壊ということでしようか してしま 0 た。当初はミサワさんもどこかに自社ビルを建そこには哲学で学んだことが効いていて、とりわけイ ててその一角にバウハウスのミ、ージアムをつくれたらとデガーの「存在と時間」ですね。ハイデガーは「配慮」と いった構想もあったようですが、それがポシャってコレク いう一言葉でデザインについて語っているんです。モノの存 ションも宙に浮いたかたちにな 0 たんです。この重要なコ在は人間の存在に関する「配慮」のもとにつくられている レクションを見せない手はない、と調査を始めたらなかな とか。たとえば雨を凌ぐために庇がある、これは人間が生 か面白い。人によ 0 てはマイスターの作品が少なく些末な活・に対してもたらした一つの配慮であり「企て」であると。 作品群だという声もありましたが、 それは違う。学生の作そういった考え方が近年になってもう一度とりあげられて 品が多くても、カンディンスキーやグロピウスの教育を受くる。フル〉サーも同じで、彼もある意味でデザイン論を けたうえでの習作ですから、そこにはマイスターたちの思進めていますし。そうい 0 た意味で、写真とデザインは、 想や感覚が反映されているわけです。これは「芸術教育の哲学を媒介にして僕のなかで一体化したものとして存在し 革命と実験」というかたちで見せられると気づき、総合的はじめたのです。 / 2 「バウハウスーー芸術教育の革命 と実験」展カタログ、組み立てれ ば立体になるチラシ 1994 年 バウハウス