などそのものすばり、日本を背負って立つようなテーマば かりで、僕が入る頃まではそのつど豪華図録をつくるとい 企画展は国を背負ってたっテーマで う、そういう発想が求められていたんですね。まだ戦後の 流れを引きすっていたような感じでした。 東博はいわゆる一般の美術館とは違ったイメージがありますが ただ、僕がいた 5 年半は、ちょうど変革の嵐のはじまり 古田当時で学芸員 ( 研究職 ) が約人いて、国内でも断にぶつかったんです。独立行政法人への移行をにらみつつ、 トツの大所帯。今とは違ってそれぞれの収蔵庫、すなわち過去のやり方が新しいやり方に変わっていく時期。一番の 彫刻や書蹟などモノと直結して分けられている「室制」の 問題は、それまでの「学芸部」から、「企画部」をつくる 時代で、中でも僕が配属されたのは一番人数が多い「絵画ということでした。それぞれモノと直結して、僕のいた美 室」。それに「学芸員」という呼び方はなく研究官といっ術課であれば、管理も貸出しも展示もすべて専門的に行な ていましたね。職員は事務か研究官 ( 文部技官 ) に分類さっていたものが、「企画部」構想というのは展覧会をどん れていたんです。展覧会を企画する仕事をしていたのは幻 どんやりましよう、一方で所蔵品はシステム化して、それ 5 人くらいだったでしようか ぞれ組織として管理すればいし 、といった方向でした。僕は なにしろ組織が非常に大きく、それぞれに与えられる公それにすごく抵抗を感じ、つまり学芸員というのはそうじ 務員的な仕事があって、一般にイメージされる展覧会の企 ゃない、モノがあって初めて発想ができるし、その前提と 画については、縦組織ですから、絵画室の上部組織であるして受け継がなくてはならない膨大なモノがある、その糸 美術課の打ち合わせの際に「こんなことをやったらどうが切れてしまうという危機感もあって、同じ考えの学芸員 か」というアイデアは出しました。ただ、個人差がありま が集まって反対運動をしたんです。派閥もありましたね。 すけれど、主に「自分は何をやりたいのか」ではなく、 今は反対派はほとんど東博には残っていません ( 笑 ) 。 「東博として何をやらなくてはいけないか」という発想が そんな中で、ご自分がやりたくて実現できた企画展は : 重視されていました。 古田一つだけ、自分のアイデアが実現した企画がありま 具体的にどんな展覧会を企画されていたのでしよう。 す。「シカゴ万博」を再現した展覧会です ( 「海を渡った明 古田大型展としては、「花展」「国宝展」「やまと絵展」治の美術再見 ! シカゴ・コロンプス世界博覧会」 19 「海を渡った明治の美術再見ー シカゴ・コロンブス世界博覧会」 展カタログ 19 9 7 年 塰を渡った明治の美術
( し力ないイ あとは現場ですね、どうしても図面通りこ、、 古田美術館によって、また個人によって違うでしようね。 僕は、細かいところまで自分で書きます。どういう順番でメージがどうも違う、と次々に変更していきます。それも お客さんの目に入っていくかをシミュレーションしながら、僕にはとても面白い作品だけ選んであとは専門のデザイ どの位置にどの作品を置くか、かなり細かいイメージまでナーや業者に委託する学芸員もいますがーーアメリカには 図面に落としていくんです。今はパソコンでもできるのでそういった分業のやり方があります。キュレーターは作品 すが、ああだこうだと手で書いては消し、書いては消してを選ぶ人であり、展示はデザイナーに任せる。キュレータ ーの意思よりもデザイナーの意思が優先される美術館は少 いるほうか僕には早いんですよ 日本でもそういうケースは出てきていて、それ 最初は、何もない空白の展示部屋の図面です。そこに壁なくない を設置するところ、重要な作品を展示する位置などを書きでも展覧会は成立しますけどね。 そんな中で図録も作るとなると、たいへんですね。 込んでいく。 次に、グループ分けをした時に、ここには何 と何を入れる、あっちには何と何を : : : と全体の順序を考古田図面を書き直しているうちに、展示の構成もどんど えながら作品を分けていく。このへんで展覧会全体の構成ん変わっていきますから、当然、図録の章立ても最後まで がかなり見えてきます。そして今度はやや具体的にこの位固まらない。作品の順番もぎりぎりまで動いていますから、 どうにもならない状態に陥りますね ( 笑 ) 。 置にはこの作品を展示する、と個々の作品を割り付けてい く。それを何十回と繰り返すうちに、展示候補としてリス トアップされている作品が半分くらいに絞られていく。も ちろん、図面に落とした作品が実際は借りられないとわか展覧〈を「やりつばなし」にしない って、代わりの作品を加えなければならないケースも出て 東博と近美とでは、同じ国立でも異なりましたか。 きます。ここまでは机上の作業ですが、まあ一番楽しい段 階かもしれません、他人にはやらせたくありませんから古田東博は単純に規模が大きい。ひとつのことを決める ( 笑 ) 。要するに自分の頭の中でかなり空想的に作っていたのにやたら時間がかかって、その割に誰が決めたのかわか 、殳万のような、いわば「顔の見えない」大組織で 展覧会が、この後いろんな条件が見えてきて、どんどん現らない彳戸 した。でもそれを変えようとしても無駄ですから、その中 実的になっていくわけです。
の両方をつないでいける貴重な仕事場でもある。ある程度、 現場で仕事をしてから管理職になったり大学に移るケース もありますが、僕は動いている現場が面白いし、そこから 離れたくない。辛いことも含め、大学では味わえないリア ルという醍醐味を大切にしたいんです。 学芸員という仕事に加えて、川崎市市民ミュージアムへのこだ わりもあるのでしょ一つか ? 深川実は他館からのお誘いなどあったこともありますが、 僕はまだまだここでやりたいこと、やらなければならない ことがたくさんありますから、それがなくなるまではここ でやるつもりです。展覧会にもよりますが、企画が実現す るまで構想から 3 年はほしいところ。ただ館の事業として どんどん展開しなくてはならない事情もあり、長くて 2 年、 短ければ 1 年ということもあります。 1 年では最初から作 品が揃っていない限りかなり厳しいですが。海外で発表し たものをネタに展覧会をするということも最近多いですし、 写真に関しては今、今年 ( 2007 年 ) 出版しました『光 のプロジェクト』に書いた「写真ゲーム」というタイトル の展覧会をやりたいと考えているんですよ。まだ長居しそ うですね ( 笑 ) 。 039 038 The Sun Lecture Book 007 Working at a Museum Lecture 01 : Masafumi Fukagawa
072 079 095 ◆コラム取材・文Ⅱ暮沢剛巳 展示をデザインする。ーー空間デザインで増す展示の魅力 美術館を建築するーー、作品を引き立てる。箱。づくり インターンシップーーー学芸員への登竜門 保存修復に携わる・ーー作品が輝きを取り戻す喜び 四クーリエという仕事・・ーー・展覧会設営に立ち会う。条件。とは ◆ガイド篇 * ・学芸員への道ーー「資格」はなぜ必要か 学芸員資格を取るには Ⅱ・〈フからでも遅くない ◆ルボ・学芸員の日々ーーー企画展覧会はこうしてつくられる 〈ブリヂストン美術館「セザンヌ 4 つの魅力」展が開かれるまで〉 ◇レクチャー g 古田亮 ( 東京藝術大学大学美術館 ) 〔既成の概念を覆す企画展の発想〕 「あるモノをどう見せるか、常に切り口を探していますね」 ◇レクチャー建畠晢 ( 国立国際美術館 ) 〔美術館は。何でもあり。〕 「学究肌から現場人問まで、いろんな学芸員がほしい」 ◇レクチャー南條史生 ( 森美術館 ) 〔フリ ! キュレーターから都市大型美術館館長へ〕 「キ、レーションは表現です。自己実現できるところに意義がある」
んが。ただ当初はもたなかったコレクションを始めたこと本木クロッシング 2007 〕未来への脈動」があります。 は一つの大きな変化ですね。アジアの現代美術と言っては日本の現代美術を 3 年毎にきちんとまとめて見せていくシ いますが、今のところ半分は日本のもの、あとの半分が東 丿ーズの 2 回目です。これは海外への発信という意味もあ 南アジアや東アジア、中国の作品です。催した展覧会の中ります。美術館の役割は常に、国内に向けての啓蒙と、海 から買ったものも少なくありません。 外に対する情報発信という意味も含めて開催しています。 また今年 ( 2007 年 ) の仕事としては、生誕 120 年だから日本の人たちに、自分の国にこういう現代美術があ を迎えたル・コルビュジェの展覧会。森社長があれだけコりますよと見せるのと同時に、海外に対しても同じ内容の レクションしているのですから当然「いっかは」という話強い発信をする必要があります。 はありました。 2008 年にはコルビュジェ作品が世界遺次に「アートは心のためにある〕 ( ュニオン・ 産に登録されるという話もありましたし。館長になると、 ンク・オプ・スイス ) コレクションより」です。企業コレ キュレ 1 ションにあまり手を出すなとも言われているのでクションをもってくる初めての企画で、具体的にはジャス すが、建築に詳しいキュレーターがいない僕も専門家で ノ ジョーンズ、アンドレアス・グルスキー : など、 はありませんが、以前パプリック・アートに関して建築雑年代以降の重要な作家たちの作品。これは内容をへビー 誌に書いていたこともあって建築界とのつながりも長く、 にキュレーションするとい、つのではなく、むしろコレクシ なんとなく勘どころがわかっていましたので、僕が担当しョン紹介というものです。その際、コレクションとは何か ました。社長のコレクションを使うので成功させなきや、 企業がアートを収集するとはどういうことか、などいろん という気持ちもありましたし ( 笑 ) 。 なパプリック・プログラムを行なって、日本の企業やコレ ・コルビュジェのアトリエを実物と同じスケールで再現する クターへの啓蒙になればと考えています。 など、日本ではこのスへースでしかできない展示方法でしたね。次に、テートと組んで、「英国美術の現在史ターナー 南條それがこの美術館の一つの方向性だと思うんです。賞の歩み」として歴代の受賞者幻人の作品を展示します。 きちんとした展覧会をやるのと同時に、おもしろい展覧会 この幻年間のイギリス美術の流れを見ようという企画です。 ☆田 をやりたい。一般の人にも、面白かったという印象が残る さらにフランスの大御所、アネット・メサジェを日本向 展示をしていきたい。ル・コルビュジェの次の企画に「六けに少しアレンジした展一小。これはポンピドウー・センタ 19 4 3 ー。拾い集めたオ ブジェや動物のぬいぐるみを使っ たユニークな作品で知られるフラ ンスのアーティスト。 19 3 0 ー・。アメリカのネ オダダやポップ・アートの代表的 アーティスト。国旗、数字、標的 などを題材にした絵画で知られる。 1955 ー・。現代ドイツを 代表する写真家。べッヒャー夫妻 に師事した。画像をデジタル処理 した作品などで有名。 「ル・コルビュジェ展〕建築とアー ト、その創造の軌跡」チラシ 2 0 第第氈 え・ルし / 工第
残業になりました。作品の貸出し申請がかなり多い館なの画の意図や作品についての質問にも答えやすいですし、何 し面も よりカを入れて思いを伝えられるというのは逆にい、 で書類作りやら雑務も多いですが、研究時間もそれなりに たくさんあると思います。大規模な美術館で分業がうまく とれます。本を読んだり収蔵庫で作品を確認したり。また いっているケースはもちろんいいのですが、すべての美術 資料調査に他の美術館や施設へ行くこともあります。気に なる他館の企画展には、展示の技を盗むことも兼ねて足を館で無理をして同じようにすることはないだろうと。 なにやらすべてが楽しそうですが、△スあるとすればどんな悩 運びますね。また、上司も「街に出ていろいろ学びなさ みか ? と勧めるので、なるだけ外を回るように心がけていま す。銀座や六本木の画廊回りも勉強になりますし、休日に弘中あまりないのですが、しいて一言えば、美術館の業務 なので、役所の入札制度に見合わないことがあり、それを ショッピングなどで見たディスプレイが企画に役立っこと もあります。記録やメモが大好きなので、デパートのキャどう進めていくかは悩んでいます。たとえば、展覧会のポ スタ 1 やチラシを作る時にも、役所の決まりでは価格を優 ッチコピ 1 が気に入るとメモしたり。 館内のチームワークもよいということですが 先して決めなければならないのですが、価格だけを優先し 弘中女性スタッフがほとんどです。現在、学芸員が 6 人、てしまうと展覧会のイメ 1 ジとは合わないものが出来上が 事務職が 5 人の合計人。私が一「ロうのもなんですが、とてったりするのです。価格など数値化できないもの、デザイ も仲がよくて、おかげで楽しく仕事ができます。上司であンだとか技術のようなものについての業者選定では、学芸 り館長の安村敏信がよく言うのですが、やっている人が楽員ではない、会計などの担当者を説得しなければゴーサイ しくないと、見る人も楽しくない、 とにかく楽しくやってンが出ませんね。 くれと。 ただ、私の経験が浅いせいもあり、業者さんも含め親切 あと、うちには教育普及の専任スタッフがいないのですな人に学ぶことはたくさんあってもまだ苦労らしい苦労は が、私はそれが必すしも悪いことだとは思いません。人手していないというか。展覧会オ 1 プンの前日は、展示がう か多いのに越したことはないかもしれませんが、たとえばまくいかなかったという悪夢を見ましたけれど。その場で やれる限りのことはやっているので今のところ悔いもない 池袋モンパルナスの展覧会なら、役割分担するのでなく、 企画の立案者が小学生の鑑賞授業もできるというのは、企し、とりたてて失敗もまだないのですが、もしかして気づ 069 068 The Sun Lecture BOOk 007 Working at a Museum Lecture 03: Satoko Hironaka
大学の助手を終えた後、照明デザイン会社で働いてい た木下さんは、 1998 年に現在の職場へと移った。東 展示をデザインする 博の組織が大幅に改編され、その結果新設された展示デ 空間デザインで増す展示の魅力 ザイン室の職員に応募したのがきっかけだった。「日常 の仕事は、常設展の空間のデザインが中心です。企画展 展覧会は美術品を見せるイベントである。とはいえ、 のように新聞社やテレビ局からお金が出るわけじゃない ただ多くの美術品をひとつの会場に集めただけではどう ので、通常の予算でやりくりしないといけないから大変 にもならず、見やすい展示で作品の素晴らしさを引き出 です」。 2 0 0 4 年秋の本館リニューアルオープンに際 すためには、作品の配置や什器、照明、ヾ、、レ ノイ丿やキャプ しては、重要文化財に指定されている関係上制約の多い ションなどに様々に工夫して会場を造作しないとならな 建物で、魅力ある展示を実現すべく様々な知恵を絞った 木下史青「博物館へ行 い。このように、展覧会が開かれる空間をデザインするこう」岩波ジュニア新そうだ。 書 20 0 7 年 人を展示デサイナーという。東京国立博物館 ( 東博 ) の 着任時、木下さん 1 人しかいなかった東博の展示デサ しせい 展示デザイン室に勤務する木下史青さん ( 1965 年生 イン室は現在でも 3 人の小所帯。また他館でも、専属の まれ ) は、日本ではまだ少ない館専属の展示デザイナー 展示デザイナーを抱えているのは森美術館くらいのもの である。 で、多くの館では民間のディスプレイ業者に丸投げして 木下さんは年に『博物館へ行こう』という著 いるのが実情だ。「展示デザイナーの知名度は、日本で 書を出版したばかり。展示デザイナーになるまでの経緯 はまだまだ低いですね。専門職として認知されている欧 や仕事の詳細については、この本にまとめられている。 米に比べたら、当然水準も低いですが、最近では国際交 同書によると、東京藝術大学でデザインを専攻していた 流セミナーなどを実施して、水準の向上に努めています。 木下さんは、旅行先のドイツで訪れた博物館の美しい展 そもそも作品を理解していなければ魅力ある展示などで 示に心打たれて、モノではなく空間をデザインする仕事 きないし、学芸員との密接なコミュニケーションも必要 に強い関心を持ったとのこと。その後大学院に進み、環 なこの仕事には研究職としての側面もある。展示デザイ 境デザインや美術解剖学などを学ぶ過程で、作品展示に ンという仕事の重要性を、もっと多くの人に知ってほし は照明か決定的に重要なことを知ったという。 いですね」。 ・コラム 取材・文ⅱ暮沢剛巳
. 。印刷所一つとっても好き のデザインや印刷の段取り : しですし。 が、自然に恵まれていて環境はい、、 に選べるわけではなく、見積もりを取って決めるとか、一 いよいよ学芸員になって、どんな仕事を手がけられましたか ? からやりました。といっても、苦労した印象より、困りか 弘中まだ期間が短いのでいくつもないのですが、 2 00 6 年肥月 1 日に着任して、最初に担当したのは 2007 年けた時には周囲の先輩たちが親切に指導してくれましたし、 3 月から 5 月に開催した「池袋モンパルナスの作家たち」新鮮な経験が多かったですね。 仕事を通じて一番嬉しかったことは ? です。この展覧会は私が来た時にはすでに決まっていた企 画でした。ですから、あらかじめ頂いたお題で試行錯誤し弘中池袋モンパルナスの展覧会の時、出品画家の中には 画集や本が出ていない人がいるので、「情報をお待ちして ながら中身をつくっていったかたちです。 います」と展示のパネルに書いておいたんです。すると何 ます改めて池袋モンパルナスとは何だろうという勉強か ら始めました。宇佐美承さんの本 ( 『池袋モンパルナス』 ) 人かの作家さんの奥さまやお子さんが声をかけてくださっ を読み直して時代背景などをつかんだり。また館蔵品だけて、思い出話を非常に面白くうかがいました。 また、ふつうは硬くなりがちな作家の解説を、たとえば で構成するという制約がありましたので、どういった作家 がヒットするかを研究したうえ、倉庫で館蔵品を直接に見「寺田政明さんはお酒の好きな人で、仲間の画家たちを集 ながら、実際に展一小する作品を選んでいきました。全権をめては熱く語り合いました」といったふうにエピソードを 任せてもらいましたが、 300 点前後ある該当作から実際交えてできるだけ親しみやすい文章にしたところ、ひょっ としたらクレームが来るかもと思っていたのに、来館者に に展示できるのは 100 点未満だったので。 続いて「古沢岩美」展 ( 2007 年 557 月 ) を担当し「コピ 1 を欲しい」と言われたり好評だったので、励みに なりました。そういえば、展覧会の取材を受けて、新聞に ました。ご遺族から 108 件の作品を寄贈していただいた のをもとにした展覧会です。この時は寄贈作品すべてを展大きく載せてもらったことも。やはりマスコミの反応は嬉 示したのですが、単に並べるだけでなく、見る人が楽しく、しいものです。 池袋モンパルナス展では、講演会も盛況だったとか。 わかりやすいように配列などをかなり考えましたね。 そんなふうに、就職してすぐに実作業に入ったので、わ弘中講演会は 2 回までと決められていました。他のスタ ッフと相談しながらあれこれ考えて、今回は寺田政明さん からないことが多かった。業者さんへの電話から、チラシ 「池袋モンパルナスの作家たち」 展のチラシ 2 0 0 7 年 美 5 / 12 フ 1 展 モンバ ) けスー 3 , 17 , 56 0 ) の作をたら・・ チ フ 新品によ 5 ー・・を当」 古沢岩美展 ~ 乱すると線朝 065 064 The Sun Lecture BOOk 007 Working at a Museum Lecture 03: Satoko Hironaka 板橋区立美術館
97 年 ) 。東博の所蔵品だけで構成したので、絵画だけで創立 100 周年記念特別展近代日本美術の軌跡」 199 なくエ芸部門とも組んだり、アイデア、発想、組み合わせ 8 年 ) 、近代美術専攻といえば僕だし、しかも学生時代に を駆使してかなり自山にやれました。内容が面白いという取り組んでいましたから、中心となってやらせてもらった ことで図録もっくり、コレクションの特集としては異例のんです。それがきっかけで近美へと声がかかったのですが、 意図せす僕の東博の卒業展になったわけです。 宣伝もできました。 その頃、近美では前任者が亡くなられたりして、日本画 あの時代って、海外で屏風や掛け軸などの日本の美術を 持って行った時、「調度品でしよう」とか「これは絵じやを担当するのが今の尾崎副館長一人になったんです、それ ないでしよう」とかいった反応がある中で、認められるかで「手伝ってほしい」と言われまして。そこで日本画につ いて任されるようになり、尾崎さんと一緒に、鏑木清方、 否かのス リリングな駆け引きがあった時代なんですね。東 博ではやはり近代美術の分野はマイナーだったせいか、当小倉遊亀、小林古径などの展覧会を手がけました。日本画 時の出品作が大量に東博に保存されていることをそれまでの大家の個展というと、安定した集客が見込めますし、も 誰も気にもしなかったんですよ。僕は入った頃からこれはちろん近美としてこの作家の展覧会はいすれ必すといった 宝の山だなあと狙いをつけていたんですが、たまたまそれものも含め、年 1 回程度はやっていたんです。 ただ、いすれも切り口を工夫しないとただ作品を並べた を生かす機会が得られたんですね。 だけになってしまう。そこが一番苦労するところであり、 もっと長くいれば別のアイデアをもう少し実現できたか 一番面白いところでもあります。回顧展となると代表作が もしれませんが : 集まっていたとしても、どうしても同じものに見えてしま いますから。たとえば小林古径展であれば、芸大に資料と してたくさん残っているスケッチを引っ張り出してきて、 本画との関係性を突っ込んで展示してみたり。展示の順番 もかなり考えて、図面を書いて考えました。 展示の図面も自分で書くんですか。今はすべて専門の業者やデ ザイナーに丸投げするケースも少なくないようですが。 図面づくりのたのしみ その後、東京国立近代美術館へ移ることになるんですね。 古田年でした。その直前、東博でたまたま日本美術院 100 周年の記念展覧会をやることになり ( 「日本美術院 085 084 The Sun Lectu re Book 007 Working at a Museum Lecture 04: 日 YO Furuta
・コラム クーリエとい一つ仕事 展覧会設営に立ち会うク条件 % とは 展覧会の設営現場には、クーリエ (Cou 「 ie 「 ) とよば れる人が立ち会う習慣がある。もともとこれは王や貴族 の親書を届けるメッセンジャーをさす一言葉なのだが、今 ではそれが転じて、美術品の輸送に同行して、展覧会の 設営に立ち会う責任者という意味で用いられるようにな った。海外から有名な美術品がやってくる場合には、必 ず所蔵先の美術館から担当クーリエが派遣されてくる。 作品の輸送中や貸出し中、絶えずその安全を確認して調 書を作成し、また万一の事態か起こった場合には速やか に作品の修復にあたるのがその任務。豊富な専門知識を 持ち、作品の扱いに長けた学芸員でないと、まず務まら ない仕事である。 さて、決して本格的なものではないけれど、実は私も 縁あってクーリエ業務をこなしたことがある。参考まで にそのときの体験を紹介しておこう。年 9 月上 旬、ところは関西のある美術館。館に到着した私は、ま ず館の学芸員や運送業者の担当者に挨拶して、それから 現場で白衣に着替え、マスクや手袋を装着した。作品の 展示は清潔第一なので、衛生管理には十分に気をつけな 取材・文Ⅱ暮沢剛巳 展覧会設営は過酷な肉 体労働だ ( 川崎市市民 ミュージアム ) いとならない荷が到着したらいよいよ仕事開始。指定 の場所まで荷が運び込まれてきたら段ボール箱を開梱し、 作業台の上に作品を並べて状態を確認する。ちょっとし た汚れはタオルや綿棒、消毒用アルコールを使って拭き 取り、破損の疑いがある場合は、作品の状態を記録した 調書と細かく照合して問題の有無を確かめる。この展覧 会にそれほど高価なモノは出品されていなかったが、万 一のことがあったらと思うとやはり緊張する。また貸出 し側の責任者である以上は、美術館や運送業者側の対応 、、。乍ロロの安全を確認 にも十分目を光らせないとならなしイロ したら、図面に従って作品を設置して写真を撮影し、調 書に必要事項を記入し、受け渡しの手続きを済ませて作 ー」、「い一業終了である。 以上のように、クーリエの作業は展覧会の現場だけで もかなり煩雑である。ましてや、外国から高価な美術品 がやってくる場合には、一連の作業にも一層の精密さを 要求されるだろうし、輸送中の長い移動時間も絶えず作 品の安全に気を配っていないとならないのだから、神経 の休まる暇などありそうにない。ある経験豊富な学芸員 は、クーリエの条件として「どこでも寝られる」ことと 「何でも食べられる」ことを挙げている。頭脳労働のイ メージが強い学芸業務にも、かなり過酷な肉体労働の側 面があるようだ。 129 128 The Sun Lecture BOOk 007 Working at a Museum Lecture 06: FumiO NanjO