美術館冬の時代ーー日本の美術館を取り巻く現状 本書をお読みになっている読者の皆さんは、ミュージアム、とりわけ美術館への就職を真剣に考えていて、 学芸員になりたいと強く願っていることと思います。そういう読者のために、ます美術館とはどういう施設 なのか、美術館で働くとはどういうことなのかを簡単に紹介していきましよう。 博物館法によると、博物館とは「歴史、芸術、民俗、産業、自然科学等に関する資料を収集し、保管し、 展示して教育的配慮の下に一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーション等に資するため に要な事業を行い、 あわせてこれらの資料に関する調査研究をすることを目的とする機関」として規定さ れています。また、日本をはじめとする多くの国々が加盟している国際博物館会議 (—00>) の憲章でも、 ミュージアムに対してほば同様の定義が与えられています。美術館とは、これらのミュージアムのなかでも 美術作品に特化した施設のことを指します。美術館というと、一般には展覧会が開催されるイヴェント会場 暮沢剛巳「美術館はどこへ ? という印象が強いかと思いますが、実際には調査研究や教育普及といった役割も合わせ持っている文化施設 ミュージアムの過去・現在・未 2 0 来」廣済堂ライブラリー であり、また学芸員もそうした地味な業務に携わる職業であることがわかるでしよう。ますはこの 2 点を最 年 初の前提として念頭においてください。 次いで、皆さんが就職先として考えている日本の美術館の現状について考えてみましよう。新聞や雑誌で 時おり「美術館冬の時代」という記事を見かけるように、現在日本の美術館は、多くの館が大変苦しい状況。何、一 に直面しています。バブル景気に沸いた 1980 年代後半には多くの自治体や企業が美術館に高い関心を示 幻世紀のミュージアム人とは ? 沢 巳 暮沢剛に
だいて : 。それで一橋大学大学院に進学しました。 職業として学芸員を考え始めたのは大学院の頃ですか ? 弘中その少し前です。ちょうど大学院に入る 2 年前の 2 学芸員を目指すまで 002 年、東京国立近代美術館のボランティアガイド募集 大学では最初から美術史や博物館学を専攻していたわけではなを知って、とにかく美術作品に近づいてみたい、あとは美 いそうですね。 術館ボランティアってどんなことをするのだろう、という 弘中最初は美術系大学で制作をしていました。映像専攻興味もあって応募しました。教育普及という視点で作品に 触れることで、美術の歴史だけでなく、絵を読み解くこと で特にコマーシャルの勉強をしていたんです。 本格的に美術について勉強するようになったのは : の面白さを学ぶことができたように思います。大学院では 弘中制作の合間に美術史の講義を聞くようになって、制美術史の研究をしながらボランティアで教育普及の勉強を 作よりも研究に関心が移りました。すばらしい美術史の先続け、そのバランスをとるなかで、やはり学芸員の仕事に 就きたいと考えるようになりました。 生がいらしたので、授業以外にもお話を聞いているうちに、 といっても直接には、近美に素敵な学芸員の方がたくさ 美術史の研究も面白いなあ、と。 その後は先生のアドバイスもあってフランス語と哲学にんいたのが大きかったですね。こういうふうになりたい、 ついて基礎的な力をつけるために他大学の文学部へ学士入と思えるような。たとえば一番お世話になった一條彰子さ 学しました。研究をしていくうえで日本語、英語ともう一んは、「美術館でのガイドには、おもてなしの心が大切だ」 ということでしたし、美とおっしやっていて、とても共感しました。単に絵が並ん っ言語を極めておいた方かいい ししとい、つのではな 術史の中でフランスの作家や評論家の動きは基礎知識としでいて、それを順番に全部見られれば、 ておさえておくべきだと考えていましたし。 一つ一つの作品と見る人との距離をどのようにして近 その後大学院に進まれたそうですね。 づけていくか、という視点に目覚めたんです。こんなふう 弘中大学 4 年生の頃から大学院選びを始めました。いろに美術を人に伝えていく学芸員になれたら、と。 それで学芸員の資格を取得した修士課程 2 年の頃から学 いろな大学院の先生に連絡をとってゼミを見学させていた だいたり、そこで知り合った院生の方にアドバイスをいた芸員の採用試験をカ所以上受けました。返されてきた履 063 062 The Sun Lecture Book 007 Working at a Museum Lecture 03: Satoko Hironaka
ように田 5 われます。 最初に触れたように、学芸員は研究職であり、自らの研究成果を展覧会としてまとめるのが仕事です。時 代や作家は問わないので、多くの本を読んで、自分の専門とする領域を確立してください。勉強嫌いな人は 論外です。またそのこととも関連するのですが、実際に美術館に勤務すると、自分の専門とは違う領域の展 覧会を担当する機会も少なくありません。そのため、幅広い領域に関して積極的に興味の持てる好奇心旺盛 な性格であることが望まれます。 次に、詳しくは後で触れますが、学芸員の日々の業務は多岐にわたり、そのため様々な職種の人々と会い やりとりする必要があります。研究職といっても、象牙の塔に籠もっていられるわけではありません。ロ八 丁手八丁とは言わすとも、人並みの社交性は持っていたいものです。そして、日々のコミュニケーションの 相手には多くの外国人も含まれますので、外国語の専門書を読みこなす一方、会話や手紙など、仕事上のコ ミュニケーションに不自由しない程度の語学力を身につけておきたいところです。専門領域の如何を問わず グロ ーバル・ランゲージとしての英語は必須であるし、可能であれば、さらにもう 1 カ国語くらいはマスタ ーしたいものですね。 また学芸員の仕事は残業や出張が多く、しばしば生活が不規則になりがちですし、また現場ではカ仕事を しなければならないこともあります。日々の健康管理に気を配り、年齢相応の基礎体力を維持しておきたい ものです。そして何より、日常的に美術と接する仕事なのだから、美術が好きであることは言わすもがなの 前提でしよう。 時代とともに美術館の性格も変化していますが、これらの資質は絶えず求められるものと言えます。この ように書くと、例えば語学の苦手な人には随分と敷居が高く感じられるかもしれませんが、それですぐにめ げてしまうようでは最初から学芸員を目指す資格などありません。今は不得手でも、きっと上達してみせる という気概をもって勉強に励んでください 015 014 The Sun Lecture BcN OC)7 Working at a Museum Foreword
古田亮 撮影 : 河野利彦 東京藝術大学大学美術館准教授 ふるたりよう。 1964 年東京生まれ。東京藝術大学美術学部 芸術学科卒業、同大学博士課程中退。東京国立博物館絵画室 研究官、東京国立近代美術館企画課主任研究官を経て、 2006 年 4 月から東京藝術大学大学美術館准教授。近代日本 美術史専攻。担当した企画展は「海を渡った明治の美術再 見 ! シカゴ・コロンブス世界博覧会」 ( 1997 年 ) 、「日本美術 院創立 IOO 周年記念特別展近代日本美術の軌跡」 ( 1998 年 ) 、「横山大観展」 ( 2002 年 ) 、「琳派 RIMPA 」 ( 2004 年 ) 、 「揺らぐ近代」 ( 2006 年 ) 、「金刀比羅宮書院の美」展、「岡 倉天心」展 ( 共に 2007 年 ) など多数。また著書に「狩野芳 崖・高橋由ー 日本画も西洋画も帰する処は同一の処』 ( ミネルヴァ書房、 2006 年 ) がある。
は少ないんです。学芸員の突出したイニシアチヴで、たとある、そのへんが学芸員の非常に面白いところです。 向いていたんですね。 えば「北欧モダン展」をやるとか、まだそういったレベル です。ただ、同様の関心をもった学芸員が若い世代も含め深川僕は以前書いたことがあるんです。学芸員の適性は 「モノ好き」「言葉好き」「人好き」「祭り好き」であると て出てきていますから先がたのしみです。 ( 『学芸員になるには』 ) 。まあ学芸員にもいろんなタイプの 人がいますけれど。ちなみに言葉というのは考えることで もあります。 学芸員の醍醐味 第一に必要なのは、コミュニケーション能力でしようか 「写真について考える仕事」をしたかったわけですが、たとえモノや人とのコミュニケーションがちゃんとできないと展 覧会もうまくやれないし、そのためにはいろんなレベルの ば研究者や評論家でなく学芸員になられてよかったのは ? 深川もともと僕は病気にならなかったら、大学に残って言葉づかいも必要です。アメリカなどでは職場での機能分 教える立場になっていたと思います。そこである意味で挫イがかなり進んでいますが、日本では 1 人でいろんなこと 折したのは、現実と自分がどういうふうに関わっていくのをやらなければなりませんから。 展覧会への出品交渉にもコミュニケーション能力がもの かを考えた場合、アカデミックな環境の中では難しいとい うことがわかったためです。もちろんそういうことがちやを言いますが、自戒もこめて言わせていただきますと、最 んとできている人もいるでしようが、やはり美術館の環境近はそのへんが若干雑になってきているように思います。 とは決定的に違うんです。美術館にはモノがあって、人がそれぞれの美術館・博物館の現場の仕事がきつくなってき いて、もちろん見に来るお客さんもいる。そういうナマのていることもあって、端折ることがあるんですね。昔は手 材料がある。リアルな現実と向き合いながら考えていける。紙から始まった交渉がいきなりメ 1 ルで送られてくるとい もちろん学芸員は研究者の側面もありますが、決定的なのうのはともかく、出品依頼をするのに、主たる企画者が最 後まで顔を見せないといったケースもあります。そのうえ は常に現実の資料や作品、そして作家との接触があるとい う点ですね。研究者にも当然会いますし、海外とのコミュモノの扱いをきちんとできない学芸員が作品を借りに来て トラブルになったり : : : 大っぴらにできないけれど、結構 ニケ 1 ションもあって、そこからまた広がっていくものが ☆ 5 ☆ 5 世紀デザイン史で高く評 価されてきた北欧モダンのデザイ ンとクラフトの世界を、家具、食 器、玩具、テキスタイルなど多方 面にわたって紹介した展覧会。長 崎県美術館、宇都宮美術館、京都 市美術館、東京オペラシティアー トギャラリーを巡回した。 深川雅文「学芸員になるには」 べりかん社 2 00 2 年 % 110 子ム貝 になるコよ
た。ちょうど今展覧会をしている金刀比羅宮にある高橋由 が定まってきたんです。 一館にも、まだ野ざらしといってもいいような時期に行き 学生時代は何を研究されたんですか。 古田最初は近世など、やや古い時代を勉強していました。ました。 最初は学芸員でなく研究者になろうと考えていた ? それがちょうど日本美術院が 100 年を迎え、アルバイト でしたが、 『百年史』の編纂作業にかなりつつこんで参加古田当時は何も考えていませんでしたねえ。学芸員にな したんです。史料を集め、読んだりするうちに、勉強のほったのは、東京国立博物館 ( 東博 ) に入ったからなんです。 うも近代美術へと移り、結局卒論は岡倉天心について書ききっかけは、公募での試験ではなく、僕が最後の例かもし ました。だから時代でいうと明治のはじめーーー・近代はどうれませんが、僕の先生のところに東博で人を探していると いう話があって、「面接に来い」と。博士課程の 1 年だっ して近代になったのか、近世的な美術から近代的な美術へ た 1993 年のことです。でもそういえば修士課程を終え の変わり目に何が起きたのだろうーーーといったことが中心 的なテーマになっていきました。 る頃、博士課程に進むか美術館に行こうかと迷いもあって、 高橋由一や狩野芳崖について本をお書きになっていますが、そ今思い出すと神奈川県立近代美術館の採用試験も受けまし の辺りに突っ込んでいくようになったのは ? た ! ( 笑 ) ただその頃は、募集があると応募者が殺到する 今と違って、希望者が少なかったんです。でもそれ以前に、 古田修士論文で高橋由一を書きました。というのも、芸 システム的に試験前から採用される人がだいたい決まって 大に「由一史料」という根本資料がありまして、青木茂さ いた。その後はどんどん公募制になり、公平に試験を実施 んという大家が既にやられたのですが、自分なりに調べ直 すというか、追体験をしたかったんです。明治 5 年 ( 18 するようになりましたが。だから僕は古い世代の最後かも 72 ) に由一が東海道を旅して小さなスケッチ帖を残してしれません。実はその時受けた美術館も、もう採用者が決 いて、そこから汕絵ができていたりする。彼がどういう場まっていると知りながら、試験がどういったものか興味も 所で何を見たのかを追ってみた、それが由一研究の始まりあったんです。 でした。理論も大事ですが、僕はその画家が何をしようと したのか、置かれている環境はどうだったのか、どういう きっかけで描いたのか : : : それを自分なりに理解したかっ 古田亮「狩野芳崖・高橋由一 日本画も西洋画も帰する処は同一 の処」ミネルヴァ書房 2 0 0 6 年 狩野芳崖嵩橋山一高 083 082 The Sun Lecture BOOk 007 Working at a Museum Lecture 04: RYO Furuta
などそのものすばり、日本を背負って立つようなテーマば かりで、僕が入る頃まではそのつど豪華図録をつくるとい 企画展は国を背負ってたっテーマで う、そういう発想が求められていたんですね。まだ戦後の 流れを引きすっていたような感じでした。 東博はいわゆる一般の美術館とは違ったイメージがありますが ただ、僕がいた 5 年半は、ちょうど変革の嵐のはじまり 古田当時で学芸員 ( 研究職 ) が約人いて、国内でも断にぶつかったんです。独立行政法人への移行をにらみつつ、 トツの大所帯。今とは違ってそれぞれの収蔵庫、すなわち過去のやり方が新しいやり方に変わっていく時期。一番の 彫刻や書蹟などモノと直結して分けられている「室制」の 問題は、それまでの「学芸部」から、「企画部」をつくる 時代で、中でも僕が配属されたのは一番人数が多い「絵画ということでした。それぞれモノと直結して、僕のいた美 室」。それに「学芸員」という呼び方はなく研究官といっ術課であれば、管理も貸出しも展示もすべて専門的に行な ていましたね。職員は事務か研究官 ( 文部技官 ) に分類さっていたものが、「企画部」構想というのは展覧会をどん れていたんです。展覧会を企画する仕事をしていたのは幻 どんやりましよう、一方で所蔵品はシステム化して、それ 5 人くらいだったでしようか ぞれ組織として管理すればいし 、といった方向でした。僕は なにしろ組織が非常に大きく、それぞれに与えられる公それにすごく抵抗を感じ、つまり学芸員というのはそうじ 務員的な仕事があって、一般にイメージされる展覧会の企 ゃない、モノがあって初めて発想ができるし、その前提と 画については、縦組織ですから、絵画室の上部組織であるして受け継がなくてはならない膨大なモノがある、その糸 美術課の打ち合わせの際に「こんなことをやったらどうが切れてしまうという危機感もあって、同じ考えの学芸員 か」というアイデアは出しました。ただ、個人差がありま が集まって反対運動をしたんです。派閥もありましたね。 すけれど、主に「自分は何をやりたいのか」ではなく、 今は反対派はほとんど東博には残っていません ( 笑 ) 。 「東博として何をやらなくてはいけないか」という発想が そんな中で、ご自分がやりたくて実現できた企画展は : 重視されていました。 古田一つだけ、自分のアイデアが実現した企画がありま 具体的にどんな展覧会を企画されていたのでしよう。 す。「シカゴ万博」を再現した展覧会です ( 「海を渡った明 古田大型展としては、「花展」「国宝展」「やまと絵展」治の美術再見 ! シカゴ・コロンプス世界博覧会」 19 「海を渡った明治の美術再見ー シカゴ・コロンブス世界博覧会」 展カタログ 19 9 7 年 塰を渡った明治の美術
こともあって、かっての半分以下でしよう。書いていけな キュレーターの仕事の醍醐味、面白さはその辺にあるのでしょ 一つか くはないのですが、画廊の原稿などは意識的に書かないよ うにしています。もちろん断筆宣言したわけじゃないです建畠キュレーターの仕事は、研究的な側面、批評的な側 面、作家との関係でいえば接客的な側面、そして初発的な 調査かできるという側面、また展示という一種の空間デザ : といった イン的側面、そしてカタログという本づくり : 美術館の仕事の 2 つの柱ーーー企画会とコレクションように、いろんな要素が集まっている非常に珍しい職業で す。「雑芸員」といわれるように、さまざまなものが集合 近年では「もの派・再考」展 ( 2005 年 952 1 月 ) が話題に状態になってはじめて成立する、そういう意味で面白い仕 なりましたね。 事ですね。展覧会ひとっとっても、他館との協力や他人と 建畠もの派の原点をとらえなおそうという企画です。トのコラボレーションなど多くの要素を同時にこなしていか リッキーなアイディア・アートを否定することによって直なくてはならなし豸窯。 . 、。孟リ、こにしくて神経も使いながら、そ 接的・思弁的な存在感を示したといわれていたもの派ですの中で一つの事業を練り上げていく。当然、修羅場になり が、そういう考え方も最近変わってきていて、トリッキー ます。研究論文はふつうなら専心して書くものですが、学 なアートによる世界観のズレがもの派を喚起したというの芸員が書くカタログのテキストは修羅場での産物です。で が今や定説となりつつある。 3 章だての展示のなかでももたとえば僕がより参考になると感じるのは、時間のかか 「高松次郎とトリックス・アンド・ヴィジョン」は、ものった研究論文よりかえってそういったカタログのテキスト 派の契機としては否定的に捉えられていたものを直線的に なんですね。あらゆる情報が集中した高揚感があって、火 つなげようとした意味では野心的な企画だったでしよう。事場で書き上げられたものだけがもっ圧倒的な迫力。展覧 このコンセプトは僕が着任する前にすでに決まっていたの会というのはあらゆる情報が集まる場であり、それらをが ですが、担当の学芸員 ( 中井康之氏 ) と話してみたらまつむしやらに取り入れていますから。そういう意味でも学芸 たく同じことを考えていたので、ああク時代の読みかえク員にはやりがいがあるでしよう。 ってこういうことなんだなと思いましたね 展覧会以外の仕事に関しては ? 0 1968570 年代前半の 日本の芸術運動。石や木、鉄板な どをほとんど加工せず、単体や組 み合わせで作品とし、ものへの還 元による芸術の再創造を目指した。 105 104 The Sun Lecture Book 007 Working at a Museum Lecture 05 : Akira Tatehata
・コラム インターンシップーーー学芸員への登竜門 ポストが限られている以上仕方ないこととはいえ、学 芸員への門は狭い。だが是非とも現場で働き、経験を積 みたいという希望者は後を絶たない。そうした要望に応 えるべく、国立美術館各館では、美術館業務に強い関心 を持つ大学院生等を対象とした期限付きの研修制度を設 け、一定数のインターン ( 研修生 ) を受け入れている。 沼下桂子さんは、昨年開館したばかりの国立新美術館 ( 新美 ) でインターンを務めている。女子美術大学の大 学院で美術館と作家の関係について研究している沼下さ んは、修士論文の提出が 1 年延びた結果できた自由時間 を有効に活用しようと思い、大学の先生からの勧めもあ一「を ってインターン応募を思い立った。選考は書類審査と面 接のみで、筆記試験などは行なわれなかったそうだ。 「新美のインターンは展覧会事業、教育普及事業、情 報関連事業、情報収集提供事業の 4 部門に分かれていま す。私は情報収集提供事業を希望しました。東京国立近 代美術館でも募集があったんですけど、時期の早かった 新美を選びました」。インターンの任期は最長で 2 年。 現在 8 人いるメンバーは全員女性で、うち 1 人が外国人 とのこと。 取材・文ⅱ暮沢剛巳 4 万冊以上のカタログ を蔵する国立新美術館 のアートライブラリー 取材を申し込んだ当日は、「安齊重男の私・写・録 ( パーソナルフォトアーカイブス ) 197 0 ー・ 2 0 06 」 展の真っ最中。沼下さんも安齊氏の写真作品と関連する 新聞や雑誌の記事を探し出す作業、ワークショップや展 覧会解説の補助を通じて美術館の実務を学んでいた。 「展覧会が忙しくなると、展覧会に直接関わる業務の体 験が主になります。でも情報収集提供事業の担当だと月 に 1 度、室長のレクチャーや書誌作成の指導が受けられ るので楽しみにしています」。 ちなみに最近は、インターンを務めた大学院生が、そ の経験を買われて各地の美術館で学芸員に採用されるケ ースが増えている。無給にもかかわらず、この制度か高 い人気を誇っているのは、インターンが学芸員への登竜 門として注目を集めている背景もあるよ一つだ。もっとも 沼下さんは、そのことを特に意識しているそぶりは見せ よい。「私はもともと学芸員よりは資料室の方に関心が ありましたし、その意味でも 4 万冊以上のカタログを収 蔵している新美の資料室は魅力的でした。修了後の就職 も、そのことを視野に入れて決めたいと思っています」。 彼女の進路が決まるのはしばらく先の話になりそうだが、 情報アーカイブ化の進む昨今、書誌作成などの経験は将 来の貴重な糧となるだろう。
のでしよう。ではここでは、学芸員という仕事に就く上での資格や資質について考えてみましよう。 学芸員になりたければ、各美術館で実施している採用試験に合格しなければなりませんが、その際に条件 として要求されるのが学芸員資格です。この資格は公立美術館の場合なら必須要件だし、必須ではない国立 や私立の美術館でも資格を所持している受験者、合格者が大半です。そのため、学芸員を志望する人にとっ ては、まず資格を取得することがその第一歩ということになります。 ちなみに、そうした制度上の要請に従って、多くの大学では「博物館学ー「美術館学」等の名称で資格取 得のための講座が開講されており、美術館の歴史や法規などの基礎的な知識を学ぶことができます。幸い 教職科目等と比べればずっと科目負担が軽く、単位取得も決して難しくはないので、学芸員を志望される人 は大学在学中に資格の取得を済ませてしまってください。自分の在籍する大学に関連講座が開講されていな い場合や取得しないまま卒業してしまった場合にも、通信教育課程での単位取得などの道が残されています からご心配なく。現在の博物館法は半世紀以上も前に制定された古い法律ということもあって改正が検討さ れているのですが、それが素案の通りに施行されると、一年間の学芸研修が義務付けられたり、上級資格が 制定されたりと、今よりも学芸員資格の取得が難しくなることが予測されるので、できるだけ早い段階での 資格取得をお勧めしておきます ( 「ガイド篇」参照 ) 。 もちろん、資格を取得しただけで学芸員になれるわけではありません。学芸員の職に就けるのは資格取得 者のなかでもほんの一握りですし、それに近年では、国公立美術館の学芸員採用者の大半が、大学卒業後も 大学院に進学したり海外に留学したりして研究を続け、高度な専門知識を身につけた人によって占められて います。残念ながら、学部卒業後すぐに学芸員として就職できる可能性は極めて低いと言わざるを得ないの で、志望者にはある程度長期的な展望に立っての準備が求められるでしよう。 ではます学芸員資格が必須だとして、それ以外には何が必要なのでしよう。野球好きな人がみなプロ野球 選手になれるわけではないのと同様に、確かに学芸員にもその仕事に向いた資質や適性といったものがある